mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

脳科学の刺激(2)記憶と空間と時間

2024-07-31 07:20:34 | 日記
 昨日のつづき、池谷祐二『夢を叶えるために脳はある――「私という現象」、高校生と脳を語り尽くす』(講談社、2024年)の前半3分の1から受けた刺激の二つ目。
 場所の記憶を宿す場所細胞があるという。ほお、面白い。その「場所」に立っていると反応している、と。視覚に頼っているのではないからどちらを向いていても、おなじ「場所細胞」が電子的反応を示す。

《場所は外部の環境にあるのではなく、心の中にあるってことなんだから、こうしたところに物理的な座標系と精神的な概念との、微妙な接点をみてとることができる》

 その「場所細胞」はひとつが一個所に対応しているのではなく、一つは何カ所にも対応し、一個所に複数の「場所細胞」が反応することによって、場所を数多く記憶することができる。と同時にこれは、ふだんは忘れていることができるってことも意味する。
 これをオモシロイとおもうのは、昔行ったことがある場所を通りかかったときに、あっ、ここだ、ここで(あの時は)道を間違えたのだと空間的に知っていたことが思い出されるから。あるいは、デジャヴと謂われるように、おやっ、ここは来たことがあるぞ、でもヘンだなあ、初めて訪れた土地なのに、と思うことがある。これも、何かの画像で見知っていたか、読んだものからイメージしたことが「場所細胞」の記憶から呼び起こされて、そう感じていると納得できるからだ。あるいは、一つの事象をさまざまなことに敷衍させてイメージとして取り込むヒトの思考の癖が作用しているともおもう。
 あとで触れるが池谷は、別の脳細胞の働きで記憶が薄れたり忘れられたりすることを、細胞の自然の働きとして話している。そうなんだよね。もし忘れるという作用がないと、(いろんな場所に行って、頭の中が)「満杯」になるというか、それよりも、そこに執着するほかなくなってしまう。ヘンな言い方だが、空間が固着すると、空間ごとの構造的な組立とか配置、遠近や大小、ワタシから見た濃淡、といった世界の空間的構成に関する文法が設えられていないと、わたしの心の空間世界はゴチャゴチャになってしまう。いまそうなっていないのは、間違いなく複数の場所細胞が、あれこれを適当に後景に押しやっていて、何かの拍子に(必要となったときに)ひょいと甦るようにしているからだ。時間とどう相関しているのかを考察すると、もっとオモシロイことがわかるかもしれない。
 その記憶だが、それが「時間」と深く関係していると、池谷の講義は展開する。

《心理的時間と物理的時間、どちらが先に生まれたか》
《なぜ時間は存在する? 時間はどこに向かって流れる?》

 と問う。
 そして簡略にいうと、「記憶が時間を生んでいる」と提示する。これも、オモシロイ。そうか、そう考えると、記憶というのは、未来のことを記憶しない。時間が不可逆的というのは、記憶を媒介にして時間を感知しているからと考えると、腑に落ちる。
 幼い頃と歳をとってからでは時間の過ぎゆき方が違うというのも、若い頃には記憶の繁多さが(無意識のうちにも)みられるが、歳をとると似たような日常に記憶も簡素になり、時間の感覚も疎となる。経験的には年齢を分母にして分子に過ぎゆく時間をおくと、速さ(の実感)が検出できると私は考えている。
 その延長で池谷は《曖昧な記憶》について話している。
 人の記憶は、「同調圧力で、見える色まで変わってしまう!?」「犯罪歴の偽記憶を脳内移植できる」とか、人の世界で起こる記憶の移ろいを取り上げた実験を紹介している。それによると、たとえば「犯罪歴」を誘導すると、おおよそ7割の人が3日程で、そうだったかもしれないと自らの記憶を(誘導に応じて)修正するという。これこそまさしく、冤罪の原形。いや、それだけではない。
 自分で(そう)思ったということが主体の起点ならば、記憶の修正も、圧力かどうかは別として周囲に同調してする思い込みもまた、主体的な(選び取った)振る舞い。それこそが何よりも重視される近代社会においては、他人の言動に影響されて(空っぽの)ワタシが振る舞っていることを、はたして「自律した個人」として重視していいのかとも、おもう。「私ってだれだ?」と疑念が生まれる。
 それと同時に、自身の主体的な振る舞い(の承認)こそが「生きている実感」でもある。では「生きている実感」はどこから生じているのか。池谷は、ヒトの胸中に生じる「リアル」の根拠に触れる脳科学を紹介する。
 一つは、ゲシュタルト崩壊とか離人症。現実感を喪失する感覚。これは、何気なくボーッとしているときに、普段見知っている漢字が、えっ? こうだったっけと思ったり、そんな風に考えている私ってだれ? とおもったりして戸惑うことがある。あるいは、「退屈するくらいなら痛みが欲しい」と振る舞う衝動の根っこに「生きている」という感覚を求めるおもいがある。それを《現実感を生み出す脳部位――島皮質のはたらき》に求め、人は《自分が「自分」を眺めている》という。池谷はその起点をこう言葉にする。

《僕らは生彩ある現実感からいつでも離脱することが可能だということ。僕は、この自由度こそが、謎を解く鍵だと考えている(なぜなら「生きている」という実感がない生物たちだって、立派に生きているからね)》

 これは、オモシロイ。「生きている(現実感)」を求める(人として)よりも、もっと根源に生物の一種としての「ありよう」に「生きている」感覚を据えている。これはつねづね、動物であることをうれしく感じているワタシの好みに合致する。
 では、「生きている」という実感の正体は何か?
 人は、自分から環境に働きかけてそれなりの応答を受けとり、その実感を「生きている」証左とする。つまり、外部との応答(環境との往還、フィードバック)が自身の存在証明となるメンドクサいメンタリティを持っている。さらにまた、環境との応答をそう受け止めていると自身の振る舞いを対象化してみるメタ言語世界(これを池谷は「知」としているようだ)を、癖にしている。その、《現実と脳内の往来。そのハブになっているのが島皮質だったね》と、「生きている実感」の交差点が島皮質であると見て取る。そして、こう言葉を紡ぐ。

《外部と内部を往来する能力をヒトは発達させてきた。これは必然的に「私」を意識させられる。/外から「私」をながめる機会を得ることで、私というものがだんだんと濃厚な存在になってくる》

 この濃厚な存在こそが、「生きている」実感につながっている、と。いや、見事な哲学的展開の脳科学的解析である。(つづく)

脳科学の刺激(1)実体験と世界

2024-07-30 08:29:57 | 日記
 昨日の話に続ける。池谷祐二『夢を叶えるために脳はある――「私という現象」、高校生と脳を語り尽くす』(講談社、2024年)を読みながら触発されたこと。彼の3日にわたる講義の3分の1、まだ第1日目しか読み終わっていないのに、あれやこれやワタシのおもいに刺激が入る。捨て置くよりは、それを拾い出して、何にインパクトを受けているのか、自問自答する。
 池谷祐二の脳科学の探求は、(私の好みに合わせていうと)ずいぶんテツガク的な思索と符節を合わせる。何しろ初っ端の問いが、心と脳は一体のものかどうか、なのだ。
 つまり、人の心の作用は、脳の反応の延長上におけるかどうか。もし置けるなら、脳の生理学的探求によって、心の動きを映し出すことができる。もし次元が異なることなら、それこそ魂と身体の二元論。死んでも魂は浮遊しているという論説につながる。
 池谷の脳科学は前者とみて、その最先端を紹介している。今日はその一つ、体験が世界を感得することとどうつながっているのかということを、考える。
 磁気チップを埋め込んだネズミが迷路を容易に記憶・探索することができるとか、バイオハッキングによって赤外線が見えるようになったという話しは、昨日も触れた。バイオハッキングというのは、遺伝子編集によって身体機能の不都合を取り除いたり、微生物の投与・摂取を通じて特定の腸内細菌の活動を促進したりする(マイクロバイオームの最適化)とか、サプリメントの摂取やフィジカル・トレーニングによって、身体的・生理的・心理的状況を最適化することだが、すでにいろんな分野で試行され、実用化されている。
 その(心と脳に関係する)原理的な研究の一つとして、他人の感覚を脳から直接受けとることができるかどうかを探求もしている。つまり、イメージを伝えるのに言葉はいるのかいらないのか。となると、その前提となるのは、人の五感を刺激する実体験がどう(その人の)世界観イメージをかたちづくっいぇいるか、そのメカニズムも明らかにされなければならない。
 私は、ワタシの中に生命体史と人類史のすべてが堆積されていると考えているが、進化的に受け継がれたものとワタシを包む環境の中で私が体験したことが積もり積もってそうなっていると考えている。もちろん、そのメカニズムはわからない。だが、この「積もり積もって」というのは、何が、どう、どこに積もるのか。
 池谷脳科学はそこに踏み込んでいる。思考が記憶の中で、その連鎖として行われていること、そこには物語りが底流していること、その物語の形成には「訓練の賜物」があることなどを話したあとで、《身体を使った経験がないと「見える」ようにならない》という衝撃的な、「ネコのゴンドラ実験」を紹介する。
 垂直に立てられた支柱の両サイドに水平棒が出ている。その竿の両端に視覚経験のおなじネコ二頭が繋がれている。そのうち一頭は床に足が付いていて、もう一方はカゴに乗せられている。床に足の付いたネコが歩くと支柱棒が回転して、カゴのネコも歩くネコとおなじだけ空間を移動する。ところが、《カゴに乗ったままのネコは、一向に目が「見える」ようにならない》という。自分で動き回らないかぎり、「見え」が生まれない。つまり、目さえあればものが見えるようになるわけではない。網膜から上がってくる電気信号を、《自分の身体を通した経験を通じて、手間暇掛けて吟味しながら、光情報の解釈の仕方を学習しなければ、「見える」ようにならない》。これは考える・意思するというよりも、身が直に世界を感知し構成する授受作用を(無意識に)しているってことでもある。
 これはワタシの経験的実感を証すだけでない。「遠くのものが小さく見える」という「事実」さえも、実は、(そう見えるという)訓練を受けていなければ、そのように感知できないという。遠近を映した画像も、「遠近」には見えず、平面の三角形と区別がつけられない。立体か平面かもわからないのだそうだ。つまり五官の感知した「情報」も、それ自体としてあるのではなく、ワタシの付随する世界の物語として構成されることによって、「みえている」のだ。「みえる」ということ自体に、すでに人の物語り構成が作用している。自然(しぜん)それ自体が鏡像的につくられている。私が「自然(じねん)」と呼んでいた(人の意志的な)ことが、その初発の起点に(人類史的に受け継いできた)世界構成の作法が埋め込まれているということだ。となると、はたして人の自由意志とか、主体というのは、いったい何なのであろうかと、私の胸中の自問自答はどんどん広がってゆく。
 ははは。最先端の脳科学ってすごい。と同時に、それらのことが経験的にホモ・サピエンスのワタシに受け継がれ、わずか十月十日の胎内と生まれ落ちてから小学校に入るまでの6年余の間に「せかい」をそれなりに(内心で)受け止めてかたちづくっている。直立二足歩行というヒトの自然さえも、セカイをみる目にしっかりと受け継がれ作用している。
 しかもその大部分は、ワタシの無意識として仕舞われていて、ワタシの意思に関係なく、次の世代に受け継がれている。その壮大な生命体史や人類史の(私が知らず受け渡ししている)「不思議」が、いまワタシの身の裡でぐるぐると渦巻いている。いや、とりあえずここでは人として受け止めていますが、ネズミやネコの実験をみると、哺乳類とか脊椎動物とか、視覚や聴覚や嗅覚や痛覚や味覚などの大きなバラツキにも、それなりの進化の合理があると思われ、ふ~ん、すごいと感嘆している。
 いや、すごいって終わっては、もうしわけない。つねづね歩くしか能がないとわが身のことをおもい、(山へと願うワタシの)直に山に入りたいおもいが、実は世界を感じとりたいという無意識につき動かされていたのか。何か不可思議な経験的集積の知恵を感じている。(つづく)

言葉を交わす次元が拓く新しい世界

2024-07-29 09:06:58 | 日記
 面白い本を読んでいる。池谷祐二『夢を叶えるために脳はある――「私という現象」、高校生と脳を語り尽くす』(講談社、2024年)。脳科学者の池谷祐二が十人の高校生に脳科学の研究状況を説明した三日間の講義と取り交わしたやりとりをベースにして、再構成した本。なにしろおおよそ700ページにもなる大著です。脳科学に関して、専門家と庶民大衆との橋渡しをする試みと、門前の小僧の私は(まず)おもいました。
 池谷自身もこれに大きな期待を掛けているような面持ちで「はじめに」を記していますが、何を期待しているのかは、明快な言葉になっていません。彼が口にしているのは、次の4点。
(1)講義に参加するからには、世界で一番、最先端の脳研究の知見に触れた高校生になってほしい。
(2)脳の不思議さと脳にまつわる論議の相対性を浮き彫りにする。
(3)人工知能と脳とを比較することで脳を研究することの意味と科学の本質について踏み込む。
(4)脳の挙動の探求を通じて、「私」という存在の真相に迫る。
 (1)は、研究を次世代に繋いで行こうという期待です。(2)~(4)は、脳研究をしている人間の(主体としての)「(尽きせぬ)おもい」です。
 (2)の「不思議」を自明のこととする科学者は、しばしば「相対性」を失念してしまいます。脳に限らず、自身の研究の「領域」が限定されたものであることは、言うまでもない自明のことです。ところが、専門家として世の中のいろんなことに言及するとき、自明であるが故に失念するのです。そう、無意識に限定領域を世界大に広げてしまうってことですね。いや何も専門家ならずとも、私たち市井の庶民は、しょっちゅうそういうことをして、笑い、嗤われています。
 (3)は、脳という領域に似せてデジタル機器のプログラミングから組み立ててきた人工知能が、脳科学を対照化してみせる世界を、脳科学の方からどう受け止めるかというテーマです。これも、他の専門分野というよりも、社会における両者の接点を、どう受け止めたらいいかと考えている姿です。所謂AIを、あたかも人の脳の代替のように受け止めていいのかと、世間ではデジタル時代の人の在り様を話題にしています。それを、脳科学者(池谷)はどう受け止めているのか、高校生との遣り取りで、それを広く市井の庶民と擦り合わせようとしているのでしょうね。
 (4)は、「脳」の研究が進んだ現段階で、脳の反応を可視化することによってどんな夢を見ているかを(外から)知ることができるとか、スマホの磁気機能をもったチップを脳に埋め込むことで磁気を探知して迷路を探ることができるマウスの研究とか、目に見えない紫外線をチップを埋め込んで視覚化できることを、どう位置づけるか。逆にそれは、いま私が感じているワタシ、つまり池谷のいう「私」の、オリジナリティ=内発性って何だという問いを、避けないで正面から受け止めようとする脳科学者の姿を指しています。もちろんここで、私のワタシと池谷の自問自答が重なるというわけです。
 まだ4分の1ほどを読み進めているに過ぎないので、本書についてあれこれ評価しているわけではありません。だが、ここまでで私は、この著者をすっかり信用しています。これは大事なことです。この信用があったればこそ、私はこの本を読み進める心持ちを保つことができますし、ここでの遣り取りを咀嚼してわが身の裡に取り込むことにも躊躇いをもたないのです。
 そうそう、これも高校生との遣り取りで話題に上がっていました。科学も(他の何か専門的な領域の仕事も)、とどのつまり、市井の庶民からすると「信じるか/信じないか」に尽きる。地動説も、相対性原理も、量子力学も、ふむふむ何か難しいことを研究して、何だ、そこまでわかっているのか。そりゃあ、すごい、と。信じていればこそ、すごいと感嘆することもできるのです。
 不思議というのは、知らない世界が向こうに広がっていると感知することだけれど、自分は知らないが(誰か専門家がその領域を摑んでいる)ということを感じただけで、さらにその向こうに不可知の世界がある感触をもつことができます。人の褌で相撲を取っているに過ぎないのですが、それを他人事と思えないのですね。これも「信じる」という心的作用なのかもしれません。知っている世界の限界があると感知することを不思議と呼ぶのだと、あらためておもいます。と同時に、そうだ、こんな話が交わされていました。
 池谷のことを知っている警備員が、にこやかに挨拶しながら、でもIDカードの提示を求めたことを話して、これって、人の認証にとって何だろうと語り合っていました。顔認証を警備員が認知しているのに、IDカードの提示をさらに求めるのは、何かヘンだというわけです。
 でも市井の八十爺は、すぐに、ああ、それって公的権威の保障だよと胸中で応答していました。警備に必要な「顔認証」を警備員が行うのでは、まだ公的に欠けるものがある。それに「権威付け」するのがIDカード。警備員という人が信用されていないってことですね。人っていい加減だから、と私は昔日のいい加減な時代を懐かしみながら、思い出しています。
 ところがこの「公的権威」をしばしば私たちは、無意識に追いやって暮らしています。これを、何かヘンだというのは、無意識世界に踏みとどまっているから。社会的な関係において、しばしばこうした「公的権威」が仲立ちして、関係の慥かさを「保障」しているのです。そう、この高校生講義に投げかけてやりたいとおもいましたね。
 まったく私たち人間は、人と人とのかかわりの不確かさをいくぶんかでも確かなものにするために、いろいろな手順と手続きとさまざまな言葉を創り出してきました。そもそも挨拶というのが、それです。IDカードとか、パスポートとか、住民票とか固定電話の番号までも、時と場合によって「保障」になっています。人の世界がメンドクサイのは、顔見知りの間柄だけで過ごすことができなくなっているからですね。その最大の保障システムが資本家社会的市場システムです。もちろん、それから外れる遣り取りもずいぶんたくさんありますから、資本主義的統計だけで世の中のすべてをみてとったと思うのは、間違いなのですが、ふだんTVなどで見受けるのは、そういう言説ばかりですね。
 この人間の創り出したメンドクサイものがすっかり私たちの無意識に定着しています。意識的に世界を語るときは、さらにいっそう、メンドクサイ考察を、まるで厚い表皮を剥ぐように一枚一枚剥がしていかなくてはならないのですね。
 ま、そうしたことを厭わず、高校生との遣り取りを通して、自身の脳科学の領野をさらに広げ、深めていこうとする池谷祐二の逞しさに惚れ惚れしていることろです。

どうして混むの?

2024-07-28 06:55:34 | 日記
 8月、お盆過ぎの山行を計画し、山小屋へ予約を入れた。ところが、まず第1日目の小屋が「満室」。仕方なくルートを変えたところ、第3日目の小屋が「満室」。じゃあ、ちょっと無理をして、その先の小屋まで歩こうと変更したが、その先の小屋も「満室」。えっ、じゃあ、裏銀座のルートは、ほぼ埋まってるじゃないか。まだ三週間も先の山小屋がこうして「満室」になるというのは、山ブームでも起きているのか。
 そんなことはないと、先の「お試し山行・黒部五郎岳」でも承知していたつもり。コロナ禍のせいで、「三密」にならないように山小屋が宿泊人数を制限している。これは小屋利用者としてはありがたいことだ。もうひとつは、スマホ・デジタル時代のせいで、「ともかく、まず予約しておこう」という方が多くなったのではないか。
 第1日目の小屋の方の話しでは、1週間くらい前になるとキャンセルが出始める。キャンセル料が発生する3日前の前日に、もう一度アクセスしてくれれば、空きが出ているかもしれないという。
 だが、入山すると最低5日、ゆったり歩くと一週間の行程の、一つだけ、あるいは二つだけ「予約」なしに計画して、4日前にOKとなったからといって、山へは入れるか。むろん入ることに不都合はないが、4日目にダメであったら、プラン全部がおじゃんになる。そういう山は、これまで計画したことがない。
 ふと思い付いて、変更したプランの2日目の小屋に、3日目にまた戻るというのは、どうだろう。歩行時間は約6時間。裏銀座の最奥の水晶岳もゲットできる。うん、これならいけそうだ。となると、4日目はさらに1日目の小屋に戻るか。槍ヶ岳の眺望がいいという展望台もある。温泉でもある。入山口へ4時間半ほどで帰り着ける。
 なんだ、往復おなじルートをとるのか。それはちょっと、つまらないじゃないか。それよりは、4日目に8時間余歩いて裏銀座の入山口に一気に下山するというのはどうだろう。8時間なら、「お試し山行・黒部五郎岳」の3日目にそれくらい歩いてなんとかなった。そうしようかと、一度は思った。
 ただ今回は、「お試し山行」と一つ条件が違う。八十路の私の単独行を不安に思ったカミサンが同行者をみつけ、息子と一緒に行くことになった。息子は遠く離れた地で勤め人をしているから、お盆明けのこの時期に、休みを取って付き添ってくれる。50代の息子は、毎日ジョギングをしているというし、山歩きも(仕事の一つとして)ネパールや***スタンという氷河でしている。たまたま今年は、海外へ出向くことができないというので、私につきそうことになった。私のペースに合わせる。
 思えば息子と二人連れの山歩きは三十数年ぶりになるか。彼が高校1年の冬に、八ヶ岳の赤岳へ行って以来。そうだね、せかせかと歩くよりも、八十路ペースでゆっくり歩いてワタシを息子に摑んでもらうってのが、今回山行テーマの一つでもある。交わす言葉がそうあるわけでもない。男は黙って**ビールってところだろう。たぶん、これが最後の同行二人になる。その時間を味わってくるか。
 山小屋の事情を知るとカミサンは、そりゃあ、8時間も無理して下山するよりも、温泉のある小屋に泊まって、ゆっくり復ってらっしゃいと、コースや日程よりもマイペースを大切にしなさいと、日頃の私の冒険主義的気質を宥めるように口にした。
 ま、いいか。山小屋の宿泊受け入れという枠が作用して、山もまた「密」を回避している。人とは、そこそこ距離を置きなさいと、自ずからが口にしているような気配を感じる。なるようになる、なるようにしかならない。ケ・セラ・セラがモットーのワタシ。どうして(山が)混むのかって思うなら、他人(ひと)に問わないで、自分に聞きなさいよと、おもいが湧いてきた。

異常気性と骨休め

2024-07-27 08:47:09 | 日記
 先週の「お試し山行・黒部五郎岳」5日間の骨休めで、奥日光へ行ってきた。この猛暑、「関東地方の天気は荒れる」と予報は囂しい。カミサンは、やはり私と同じ時期の「宮古島4日間・探鳥の旅」の骨休め。とはいえ、貧乏性の育ちもあって、どこかへいくとなると目一杯歩こうとなる。
 1日目は戦場ヶ原から小田代ヶ原を経巡って、約12kmを歩く。小学生の修学旅行と重なって、団体さんが群れて歩いてくる。
 2日目は、金精トンネルを抜けて群馬県に入り、丸沼高原のロープウェイで上がり、白根山への登山口から標高2000mを超える中腹の散策路を歩く。ここの座禅山は3年前、2021年7月に私のリハビリチェックのためにやってきて、4時間ほどの四苦八苦を愉しんだ。付き添ってくれたカミサンは、そのとき思わぬいろんな鳥の出現に悦んで、ここを探鳥地の一つに加えた。その後も折を見て、ここへ脚を運んでいる。
 3日目は、いろは坂を降り、日光植物園を見て回る。
 鳥と植物に目を配らないでは居られないカミサンに比して私は、何もかもぼんやりと向き合う門前の小僧。ただ歩くことだけが取り柄と心得て、それもぶらぶらと歩くでさえなく、ぶらつく。まさしく骨休め。
 この奥日光にいる間に、埼玉県はTVで大騒ぎをしていた。雷と竜巻と大雨に襲われ、屋根が飛ばされたりして、ニュースでは埼玉のそちこちの地名が飛び交っていた。普段は災害のない埼玉といわれ、人柄ものんびりボーッとしていると自嘲している風情だったのに、どうしたことだと、露天風呂上がりのビールを片手に私はニュースをたのしんでいる。
 えっ? これも骨休めなの?
 異常気象というより、これはワタシの異常気性ですね。いくらか時流に乗って八十余年、非日常を待ちわび、日常を軽んじてしまう気性が育って、いまやそれをヘンともおもわない。見回してみれば、周りは皆、異常気性ばかりが目につく。
 緑に身を浸し、野鳥や山野草に親しむという骨休めも、そうした異常気性の贖罪のような気分なのかもしれません。
 こうしていて、ふと思う。
 アメリカの元大統領トランプなどは、こうした「贖罪」をいつどのようにしているのだろう。自分のついた嘘八百の禊ぎは、いつどのようにして洗い清めているんだろうか。共和党のトランプ岩盤派の人の中には、トランプを「現代の予言者」として崇めている人もいると聞く。彼のふしだらも、悪罵を尽くして誹る言葉も、傍若無人な振る舞いも、ヒトとしての原初的な在り様を包み隠さずさらけ出して、苦難に苦しむ人びとの救済をしていると、理屈があるらしい。へえ、どんな理路があるのだろうか。
 鰯の頭も信心からっていうが、その人の胸中に結ぶイメージがその人の思う理にかなっていさえすれば、いいのか。なるほど、「理」とか「理路」そのものも、自家薬籠中のもの、外からの権威的保障はなに一つ必要ないのかもしれない。
 そういえば、いや、なんでもあれほどにはワタシはひどくない。日本から見ているせいか、トランプはヒトの反面教師である。ヒトが人としてどれほどに変貌を遂げてきたか、人類史的な文化規範の積み重ねをしてきたかを如実に教えてくれているようだ。その限界を示唆しているのかもしれない。
 ヒトの歩みも、円環を描いて、一巡りしてきたようだ。
「襤褸は着てても心は錦」なんて、どこのバカがほざいているのか。襤褸を着てるヤツはクズ、キンキラキンに着飾っていてこそ、錦に輝く。それを裸だというヤツは嘘つきのフェイク野郎だってね。
 そうだね、ギリシャのソフィストのイメージって、そういう口舌の悪さもあり、#me-firstでもあり、うん、今のトランプのイメージにそっくりだ。そこから2500年経って、ソクラテスやプラトンの着せてきたヒトの装いが剥ぎ取られ、ふたたびソフィストの桜花爛漫の時代がやってきたってことか。
 そういえば、ギリシャは都市戦争が絶えなかった。ウクライナもガザも、つまりプーチンもネタニエフも、状況的面子は揃っている。しばらくはこの混沌・戦乱の時代が続いて、そのうち新しいソクラテスが登場してくるだろうか。それとも、その軸の時代の同時代人であった釈迦やゾロアスターのような人物が、いまや新しいグローバル時代の背景をひっさげて立ち現れ、混迷の人類に新しい生き方の指針を、提示して見せてくれるだろうか。
 ははは、もうアナログじゃないぜ。デジタル時代の情報ツーカー時代。文字にするよりも、言葉で解いてお喋りしている。
 いや、ソクラテスは、説かなかった。問うていた。そうだ、問うことが「指針」だ。説くには、教説が必要だ。「指針」というのを、ついつい広大な「教説」と考えてしまうのは、人類史の学校体系的な専門権威に馴染みすぎた悪いクセだ。「教説」を説こうとすると、その始祖がついつい何もかも知り尽くした「絶対的権威」にならなければならない。ヒトはそれにすがり、始祖は「権威」になる。専門家と門前の小僧の群れ。
 デジタル時代はそういう時代ではない。誰もが短い言説を掲げ、あちらこちらから、ああでもないこうでもないと所見が殺到し、そのもみくちゃの中から、とりあえずベターとおもわれる道を選んで、そこへ踏み込んで見る。それで巧くいかなかったら、そのどこが、どうモンダイだったかをよくよく吟味して、修正を施してゆく。そこが、第一期軸の時代を言われるソクラテス時代との違いだ。
 試行錯誤なんだよ、ヒトの道は。だが同時に、ついついそれを忘れて、なにかこう、ガンとした鉄棒のような筋金入りの「指針」を求めてしまう。それがふらつくと、すぐに、それを提起したヒトのお粗末さの所為にして、人を代えようとする。それが門前の小僧と専門家に満ちあふれた時代の、社会的所作。だがそこには、主体であるワタシは登場していない。主体ならば、そのふらつきもまた、ワタシである。とりあえず選んだベターな「指針」も、その吟味も修正もまた、ワタシのなす業である。
 そうか、試行錯誤という方法的提起が「指針」には必要なんだね。それには、「教説ではなく、「問いかけ」が一番効果があるってことか。
 ふむ。ワタシの自問自答も、自問の方に重きをおくことが求められているってこと。答えなんかどうだっていいとはいわないまでも、それは歩きながら吟味するしかないってこと。そうおもえば、気も軽くなる。そうそう、そうやって骨休めになったってことですね。