今日の東洋経済onlineに《「大阪万博」で見えた日本の問題》と題して、レジス・アルノー(『フランス・ジャポン・エコー』編集長、仏フィガロ東京特派員)の記事が掲載されている。
千数百億円規模の大阪万博経費が倍増している。それとは別に日本館の建設費が350億円もかかると明らかになった。はたして間に合うのかとも心配されている。中止した方が賢明なのではないかと識者の意見も出されているが、そもそも誰に言っているのか、誰が聴く耳を持っているのかも、わからない。こうした報道を目にしながら、私は「失われた*十年」がはっきりと姿を現していると感じている。
責任の所在がわからない「無責任の体系」が露わになっている。仏フィガロ東京特派員の記事も、こう締めくくっている。
《日本は戦争に負けるとわかっていながら真珠湾を爆撃した。勝つためではなく、ベストを尽くすためだった、止めるべきだとわかっていても、誰も中止の責任を取る勇気がない》
「建設費の膨らみ」を私は円高の所為と思っていた。だがこの記事が示す事実からすると、どうもそれだけではなさそうだ。
どんな「事実」が示されているか。
千数百億円規模の大阪万博経費が倍増している。それとは別に日本館の建設費が350億円もかかると明らかになった。はたして間に合うのかとも心配されている。中止した方が賢明なのではないかと識者の意見も出されているが、そもそも誰に言っているのか、誰が聴く耳を持っているのかも、わからない。こうした報道を目にしながら、私は「失われた*十年」がはっきりと姿を現していると感じている。
責任の所在がわからない「無責任の体系」が露わになっている。仏フィガロ東京特派員の記事も、こう締めくくっている。
《日本は戦争に負けるとわかっていながら真珠湾を爆撃した。勝つためではなく、ベストを尽くすためだった、止めるべきだとわかっていても、誰も中止の責任を取る勇気がない》
「建設費の膨らみ」を私は円高の所為と思っていた。だがこの記事が示す事実からすると、どうもそれだけではなさそうだ。
どんな「事実」が示されているか。
タイプXという万博が終われば取り壊すパビリオンで、建設の業者を見つけられず、予算にも限りがある参加国へ万博主催者側が提案したものの価格について、以下のような事実が記されている。列挙する(アタマの数字は引用者)。
(1)ヨーロッパの倉庫より10倍も高い、(2)1平方メートルあたり80万円、(3)(日本の)リゾートホテルや高級車のショールームよりも高く、東京の総合病院の2倍もする。
上記(2)の価格が相当なのかどうか私にはわからないが、(1)や(3)をみると、建設業者が足元を見て吹っ掛けているように思える。万博バブルって訳だ。資本家社会的な最大限利潤の追求の論理からすると、足元を見る業者がいても不思議ではない。では、以前の万博ではそうでもなかったのに、今回の大阪万博でそれが剥き出しになっているのはなぜか。「万博」に関する理念的な求心力があるかないかによっていること、時代が違っていること、と私は考えていた。1970年の万博の時は、まさに先進国の仲間入りをする日本というネーション・ステートの国民が共有するイメージがあった。
2023-09-03のこの欄、「万博時代の終わり」で,時代が違うと指摘した。
ITの発展と世界的な普及によって「国民国家単位のイメージ宣伝」の時代は,途上国以外にとってはすっかり終わったというもの。ITの発展と普及によって興味関心領域が細分化され、それぞれの領野でネットワークを容易に形づくることができるから、ネイション・ステート単位で一つのイメージを世界規模で売り出したいという「需要」は、限られた途上国にしかみつからない。
実際、仏フィガロ東京特派員の記事は、大阪が万博開催を競った相手国について《2つの下位候補(ロシアのエカテリンブルグとアゼルバイジャンのバクー)に勝っただけのこと》と具体的な国と都市名を挙げている。そして《スマートフォンであらゆる発見がワンタッチでできる時代、ほとんどの大都市は万博にもう存在意義がないと考えている》と。
でもそのことを日本のメディアも取り上げて言及していない。開催市の大阪だけでなく政府もマスメディアも、1970年の「大阪万博」イメージにとらわれて、世界の情報流通事情と人々の興味関心領域の展開がすっかり様相を変えていることに気づいていないか、気づかないフリをしている。つまり、国民を情報操作するのに、古いイメージのままにやっていけると思っているのかも知れない。これは、ガラパゴス化しているという日本の統治センスの証左のような現象である。世界の動きに適用しようとすらしていない。
国民も相変わらずそうか、とっくにそうでないかは、今ここの本題ではない。それについて仏フィガロ東京特派員の記事は、愛知万博との比較を引き合いに出してこう指摘する。
《2005年に愛知で開催された「愛・地球博」との比較、愛知万博は「ローカル」な博覧会で、来場者の95%が日本人で、全体の53%が東海地方から、愛知万博は公園で開催され、テーマは環境だった。国家、企業、NGOが賛同した。今回は産業界が主導権を握っている》
つまりこういうことだ。愛知の(環境をテーマにした)それでさえ「ローカル」であった。今回は産業界が主導権を握っているという。つまり国民を「当てに」していないってことか。ということは、とどのつまり、税金から絞り出せるだけは出させて産業界が(それなりに)懐を潤うようにできれば御の字というのが,今回万博の本質ってわけ。責任当事者が誰かわからないのは、むしろ一番の狙いでさえあるといえる。つまり産業界が設けるチャンス、お祭りの一つとみていれば、どんな結果になろうと建設費用を「特需」として頂戴できれば、それ以上の用はないと考えているのかも知れない。
国際参加者の会議(IPM)について《(IPMは)われわれの最も深刻な問題である請負業者の確保と経費の抑制に取り組まなかった》という指摘がある。さらに《日本の官僚主義の非効率さ、建設許可を取るのに3カ月も4カ月もかかる》と、お役所対応の鈍さが国際参加者の憤懣になっている。それを仏フィガロ東京特派員の記事は《日本は例外に対応するのが苦手……日本人は計画が決まれば非常に正確で信頼できるが、例外的なケースに対応するのは苦手だ》とあきれ顔である。先ほどのガラパゴス化といい、「例外対応が苦手」といい、新奇なモノやコトを採り入れて時代の流れに対応することに、呆れるほど腰が重いという指摘は、役人ばかりでなく、行政や立法や司法に関して報じられるニューズを見ていると,そうその通りと痛感させられることばかりだ。
先ほど「産業界主導」といった。ところが、仏フィガロ東京特派員の記事は、「日本の建設会社の消極的な姿勢にも驚いている。大手ゼネコンは万博を真剣に捉えていないように見える」と、相反するようなことを記している。その一つとして準備段階に於ける日本(企業)からの要請が受け容れられないことが上がっている。
「参加国の傲慢さによってより難しくなっている。3年前、私は彼らに期限を守るよう明確なスケジュールを提示したが、彼らは聞く耳を持たなかった。今はもう時間がない」
と言っているそうだ。つまり日本流のルールに従わない国際参加者の流儀が諸悪の根源といっているようだ。だが、そうか。
(1)ヨーロッパの倉庫より10倍も高い、(2)1平方メートルあたり80万円、(3)(日本の)リゾートホテルや高級車のショールームよりも高く、東京の総合病院の2倍もする。
上記(2)の価格が相当なのかどうか私にはわからないが、(1)や(3)をみると、建設業者が足元を見て吹っ掛けているように思える。万博バブルって訳だ。資本家社会的な最大限利潤の追求の論理からすると、足元を見る業者がいても不思議ではない。では、以前の万博ではそうでもなかったのに、今回の大阪万博でそれが剥き出しになっているのはなぜか。「万博」に関する理念的な求心力があるかないかによっていること、時代が違っていること、と私は考えていた。1970年の万博の時は、まさに先進国の仲間入りをする日本というネーション・ステートの国民が共有するイメージがあった。
2023-09-03のこの欄、「万博時代の終わり」で,時代が違うと指摘した。
ITの発展と世界的な普及によって「国民国家単位のイメージ宣伝」の時代は,途上国以外にとってはすっかり終わったというもの。ITの発展と普及によって興味関心領域が細分化され、それぞれの領野でネットワークを容易に形づくることができるから、ネイション・ステート単位で一つのイメージを世界規模で売り出したいという「需要」は、限られた途上国にしかみつからない。
実際、仏フィガロ東京特派員の記事は、大阪が万博開催を競った相手国について《2つの下位候補(ロシアのエカテリンブルグとアゼルバイジャンのバクー)に勝っただけのこと》と具体的な国と都市名を挙げている。そして《スマートフォンであらゆる発見がワンタッチでできる時代、ほとんどの大都市は万博にもう存在意義がないと考えている》と。
でもそのことを日本のメディアも取り上げて言及していない。開催市の大阪だけでなく政府もマスメディアも、1970年の「大阪万博」イメージにとらわれて、世界の情報流通事情と人々の興味関心領域の展開がすっかり様相を変えていることに気づいていないか、気づかないフリをしている。つまり、国民を情報操作するのに、古いイメージのままにやっていけると思っているのかも知れない。これは、ガラパゴス化しているという日本の統治センスの証左のような現象である。世界の動きに適用しようとすらしていない。
国民も相変わらずそうか、とっくにそうでないかは、今ここの本題ではない。それについて仏フィガロ東京特派員の記事は、愛知万博との比較を引き合いに出してこう指摘する。
《2005年に愛知で開催された「愛・地球博」との比較、愛知万博は「ローカル」な博覧会で、来場者の95%が日本人で、全体の53%が東海地方から、愛知万博は公園で開催され、テーマは環境だった。国家、企業、NGOが賛同した。今回は産業界が主導権を握っている》
つまりこういうことだ。愛知の(環境をテーマにした)それでさえ「ローカル」であった。今回は産業界が主導権を握っているという。つまり国民を「当てに」していないってことか。ということは、とどのつまり、税金から絞り出せるだけは出させて産業界が(それなりに)懐を潤うようにできれば御の字というのが,今回万博の本質ってわけ。責任当事者が誰かわからないのは、むしろ一番の狙いでさえあるといえる。つまり産業界が設けるチャンス、お祭りの一つとみていれば、どんな結果になろうと建設費用を「特需」として頂戴できれば、それ以上の用はないと考えているのかも知れない。
国際参加者の会議(IPM)について《(IPMは)われわれの最も深刻な問題である請負業者の確保と経費の抑制に取り組まなかった》という指摘がある。さらに《日本の官僚主義の非効率さ、建設許可を取るのに3カ月も4カ月もかかる》と、お役所対応の鈍さが国際参加者の憤懣になっている。それを仏フィガロ東京特派員の記事は《日本は例外に対応するのが苦手……日本人は計画が決まれば非常に正確で信頼できるが、例外的なケースに対応するのは苦手だ》とあきれ顔である。先ほどのガラパゴス化といい、「例外対応が苦手」といい、新奇なモノやコトを採り入れて時代の流れに対応することに、呆れるほど腰が重いという指摘は、役人ばかりでなく、行政や立法や司法に関して報じられるニューズを見ていると,そうその通りと痛感させられることばかりだ。
先ほど「産業界主導」といった。ところが、仏フィガロ東京特派員の記事は、「日本の建設会社の消極的な姿勢にも驚いている。大手ゼネコンは万博を真剣に捉えていないように見える」と、相反するようなことを記している。その一つとして準備段階に於ける日本(企業)からの要請が受け容れられないことが上がっている。
「参加国の傲慢さによってより難しくなっている。3年前、私は彼らに期限を守るよう明確なスケジュールを提示したが、彼らは聞く耳を持たなかった。今はもう時間がない」
と言っているそうだ。つまり日本流のルールに従わない国際参加者の流儀が諸悪の根源といっているようだ。だが、そうか。
万博というのが、もし文化流儀の違いをひとところに置いて、開催国国民が自らを鏡に映すようにして「世界」を理解する役割を果たすものだとしたら、開催国が国際参加者の「いい加減さ」「最後の最後まで悪足掻きして、何とか滑り込みで間に合わせてしまう」文化を正面に置いて、それと向き合うことをしないで何の万博ぞと、岡目八目は思う。
まして、開催国日本の要請が「国際参加者会議」で訴えても通らなかったとすれば、それは、1970年の大阪万博の頃より、あるいは2005年の愛知花博の頃よりも、「日本」の威勢が衰えているということに外ならない。今ごろそれを「期日を守らない国際参加者たち」と言挙げするのは、言い訳がましい。
これもまた、「失われた*十年」の証しのように思えるのである。
仏フィガロ東京特派員の記事は《万博の主催者は状況を隠そうと必死》だという。《韓国・梨泰院(イテウォン)の群衆圧死事故や、安倍元首相への攻撃を引き合いに出して、「安全保障」が追加費用の理由だと主張している》ことに言及して、はっきりと《胡散臭い》という。さらに加えて「参加者のためのホテルの部屋不足、万博のためのスタッフ不足、夢洲への輸送の難しさ……」とさまざまな困難を挙げる主催者に、つまり日本の為政者の「言い訳がましい」振る舞いに、うんざりしていることを隠さない。
そして冒頭に掲げた「真珠湾を爆撃した」言明に至る。「誰も中止の責任を取る勇気がない」と。そう,そういう為政者ばかりを抱えて、私たち庶民は,ではどうすればいいだろうか。
まして、開催国日本の要請が「国際参加者会議」で訴えても通らなかったとすれば、それは、1970年の大阪万博の頃より、あるいは2005年の愛知花博の頃よりも、「日本」の威勢が衰えているということに外ならない。今ごろそれを「期日を守らない国際参加者たち」と言挙げするのは、言い訳がましい。
これもまた、「失われた*十年」の証しのように思えるのである。
仏フィガロ東京特派員の記事は《万博の主催者は状況を隠そうと必死》だという。《韓国・梨泰院(イテウォン)の群衆圧死事故や、安倍元首相への攻撃を引き合いに出して、「安全保障」が追加費用の理由だと主張している》ことに言及して、はっきりと《胡散臭い》という。さらに加えて「参加者のためのホテルの部屋不足、万博のためのスタッフ不足、夢洲への輸送の難しさ……」とさまざまな困難を挙げる主催者に、つまり日本の為政者の「言い訳がましい」振る舞いに、うんざりしていることを隠さない。
そして冒頭に掲げた「真珠湾を爆撃した」言明に至る。「誰も中止の責任を取る勇気がない」と。そう,そういう為政者ばかりを抱えて、私たち庶民は,ではどうすればいいだろうか。