mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「失われた*十年」の証し

2023-11-30 15:05:52 | 日記
 今日の東洋経済onlineに《「大阪万博」で見えた日本の問題》と題して、レジス・アルノー(『フランス・ジャポン・エコー』編集長、仏フィガロ東京特派員)の記事が掲載されている。
 千数百億円規模の大阪万博経費が倍増している。それとは別に日本館の建設費が350億円もかかると明らかになった。はたして間に合うのかとも心配されている。中止した方が賢明なのではないかと識者の意見も出されているが、そもそも誰に言っているのか、誰が聴く耳を持っているのかも、わからない。こうした報道を目にしながら、私は「失われた*十年」がはっきりと姿を現していると感じている。
 責任の所在がわからない「無責任の体系」が露わになっている。仏フィガロ東京特派員の記事も、こう締めくくっている。

《日本は戦争に負けるとわかっていながら真珠湾を爆撃した。勝つためではなく、ベストを尽くすためだった、止めるべきだとわかっていても、誰も中止の責任を取る勇気がない》

 「建設費の膨らみ」を私は円高の所為と思っていた。だがこの記事が示す事実からすると、どうもそれだけではなさそうだ。
 どんな「事実」が示されているか。
 タイプXという万博が終われば取り壊すパビリオンで、建設の業者を見つけられず、予算にも限りがある参加国へ万博主催者側が提案したものの価格について、以下のような事実が記されている。列挙する(アタマの数字は引用者)。
(1)ヨーロッパの倉庫より10倍も高い、(2)1平方メートルあたり80万円、(3)(日本の)リゾートホテルや高級車のショールームよりも高く、東京の総合病院の2倍もする。
 上記(2)の価格が相当なのかどうか私にはわからないが、(1)や(3)をみると、建設業者が足元を見て吹っ掛けているように思える。万博バブルって訳だ。資本家社会的な最大限利潤の追求の論理からすると、足元を見る業者がいても不思議ではない。では、以前の万博ではそうでもなかったのに、今回の大阪万博でそれが剥き出しになっているのはなぜか。「万博」に関する理念的な求心力があるかないかによっていること、時代が違っていること、と私は考えていた。1970年の万博の時は、まさに先進国の仲間入りをする日本というネーション・ステートの国民が共有するイメージがあった。
 2023-09-03のこの欄、「万博時代の終わり」で,時代が違うと指摘した。
 ITの発展と世界的な普及によって「国民国家単位のイメージ宣伝」の時代は,途上国以外にとってはすっかり終わったというもの。ITの発展と普及によって興味関心領域が細分化され、それぞれの領野でネットワークを容易に形づくることができるから、ネイション・ステート単位で一つのイメージを世界規模で売り出したいという「需要」は、限られた途上国にしかみつからない。
 実際、仏フィガロ東京特派員の記事は、大阪が万博開催を競った相手国について《2つの下位候補(ロシアのエカテリンブルグとアゼルバイジャンのバクー)に勝っただけのこと》と具体的な国と都市名を挙げている。そして《スマートフォンであらゆる発見がワンタッチでできる時代、ほとんどの大都市は万博にもう存在意義がないと考えている》と。
 でもそのことを日本のメディアも取り上げて言及していない。開催市の大阪だけでなく政府もマスメディアも、1970年の「大阪万博」イメージにとらわれて、世界の情報流通事情と人々の興味関心領域の展開がすっかり様相を変えていることに気づいていないか、気づかないフリをしている。つまり、国民を情報操作するのに、古いイメージのままにやっていけると思っているのかも知れない。これは、ガラパゴス化しているという日本の統治センスの証左のような現象である。世界の動きに適用しようとすらしていない。
 国民も相変わらずそうか、とっくにそうでないかは、今ここの本題ではない。それについて仏フィガロ東京特派員の記事は、愛知万博との比較を引き合いに出してこう指摘する。

《2005年に愛知で開催された「愛・地球博」との比較、愛知万博は「ローカル」な博覧会で、来場者の95%が日本人で、全体の53%が東海地方から、愛知万博は公園で開催され、テーマは環境だった。国家、企業、NGOが賛同した。今回は産業界が主導権を握っている》

 つまりこういうことだ。愛知の(環境をテーマにした)それでさえ「ローカル」であった。今回は産業界が主導権を握っているという。つまり国民を「当てに」していないってことか。ということは、とどのつまり、税金から絞り出せるだけは出させて産業界が(それなりに)懐を潤うようにできれば御の字というのが,今回万博の本質ってわけ。責任当事者が誰かわからないのは、むしろ一番の狙いでさえあるといえる。つまり産業界が設けるチャンス、お祭りの一つとみていれば、どんな結果になろうと建設費用を「特需」として頂戴できれば、それ以上の用はないと考えているのかも知れない。
 国際参加者の会議(IPM)について《(IPMは)われわれの最も深刻な問題である請負業者の確保と経費の抑制に取り組まなかった》という指摘がある。さらに《日本の官僚主義の非効率さ、建設許可を取るのに3カ月も4カ月もかかる》と、お役所対応の鈍さが国際参加者の憤懣になっている。それを仏フィガロ東京特派員の記事は《日本は例外に対応するのが苦手……日本人は計画が決まれば非常に正確で信頼できるが、例外的なケースに対応するのは苦手だ》とあきれ顔である。先ほどのガラパゴス化といい、「例外対応が苦手」といい、新奇なモノやコトを採り入れて時代の流れに対応することに、呆れるほど腰が重いという指摘は、役人ばかりでなく、行政や立法や司法に関して報じられるニューズを見ていると,そうその通りと痛感させられることばかりだ。
 先ほど「産業界主導」といった。ところが、仏フィガロ東京特派員の記事は、「日本の建設会社の消極的な姿勢にも驚いている。大手ゼネコンは万博を真剣に捉えていないように見える」と、相反するようなことを記している。その一つとして準備段階に於ける日本(企業)からの要請が受け容れられないことが上がっている。

「参加国の傲慢さによってより難しくなっている。3年前、私は彼らに期限を守るよう明確なスケジュールを提示したが、彼らは聞く耳を持たなかった。今はもう時間がない」

 と言っているそうだ。つまり日本流のルールに従わない国際参加者の流儀が諸悪の根源といっているようだ。だが、そうか。
 万博というのが、もし文化流儀の違いをひとところに置いて、開催国国民が自らを鏡に映すようにして「世界」を理解する役割を果たすものだとしたら、開催国が国際参加者の「いい加減さ」「最後の最後まで悪足掻きして、何とか滑り込みで間に合わせてしまう」文化を正面に置いて、それと向き合うことをしないで何の万博ぞと、岡目八目は思う。
 まして、開催国日本の要請が「国際参加者会議」で訴えても通らなかったとすれば、それは、1970年の大阪万博の頃より、あるいは2005年の愛知花博の頃よりも、「日本」の威勢が衰えているということに外ならない。今ごろそれを「期日を守らない国際参加者たち」と言挙げするのは、言い訳がましい。
 これもまた、「失われた*十年」の証しのように思えるのである。
 仏フィガロ東京特派員の記事は《万博の主催者は状況を隠そうと必死》だという。《韓国・梨泰院(イテウォン)の群衆圧死事故や、安倍元首相への攻撃を引き合いに出して、「安全保障」が追加費用の理由だと主張している》ことに言及して、はっきりと《胡散臭い》という。さらに加えて「参加者のためのホテルの部屋不足、万博のためのスタッフ不足、夢洲への輸送の難しさ……」とさまざまな困難を挙げる主催者に、つまり日本の為政者の「言い訳がましい」振る舞いに、うんざりしていることを隠さない。
 そして冒頭に掲げた「真珠湾を爆撃した」言明に至る。「誰も中止の責任を取る勇気がない」と。そう,そういう為政者ばかりを抱えて、私たち庶民は,ではどうすればいいだろうか。

お遍路最終章(3)疲れが滲み出してくる遍路道

2023-11-29 15:05:33 | 日記
 第2日目に歩いた距離は(私の歩数計では)28.1km。計画段階では21kmだったのに、なぜか多い。これは区切り打ちの第3回目の時に計画の2割方多くなるとわかっていたので驚きはしない。
 この日は61番札所より62番札所に近い所にある「ビジネス旅館小松」と銘打った宿。「小松」は平成の大合併前の町の名だ。次の日の行程と考え合わせると、翌日61番へ戻って歩く方が時間的にゆとりができる。
 この宿、ビジネスホテルのようなものと考えていたが,大違いであった。平屋のフロアに六畳間ほどの部屋をいくつも設えてある。「今日は16人(が泊まっている)」と耳にした。お二人さんで歩いている人は一部屋であろうから、16部屋ある訳じゃないだろうが、食事は広い部屋のテーブルで一斉にとる。お遍路さんたちが顔を合わせ,お喋りをしながら過ごす場がビジネスホテルの名にそぐわない。
 6人ひとテーブルの中にひとりでもコミュ力のある人がいると場が変わる。私の前に座ったアラコキの男はお遍路何回というベテラン。それがわかったのはやはり向かいに座るアラカンの女性が、いろいろと質問して言葉を交わしていたからであった。連泊しているこの方は二度目のお遍路。今度は通しで歩いている。私がリハビリお遍路で、山歩きの事故とわかるとあれこれと訊ねる。この方の父親が90歳で亡くなったというから、やはりそれぞれにお遍路をする事情を抱えているようだ。私のような「歩くリハビリお遍路」なんていうのは外国人観光客と同列なのかも知れない。
 そうそう、私を追い越して少し言葉を交わした(日本語の達者な)ガイジンも、この宿に泊まっていた。アメリカ人。若い頃、香川県志度の高校で3年間英語教師をしていた縁で、まとまった休暇が取れたので2度目のお遍路を通しでやろうとやってきたという。私はあと十日ほどかけるが、彼はその歩く速さからすると6日くらいで88番札所まで行けるかも知れない。
 そうだもう一人、三十代の女性。顔見知りのように私に挨拶するから,どこかであったことがあるかと考えていて、思い出した。初日の「しこくや」で会釈を交わした方だった。お遍路16回目とか。初めバスツアーのガイドとして経巡り、そのうち歩き遍路をするようになったそうだ。
 遍路宿のこうした出逢いが縁でメールを交換してもう十何年という知り合いになった人たちに,その後何人にも会った。「お四国病」と呼んでいるらしい。私にも「全部終わって、次の春が来たら、また、歩きたくなりますよ」と予言する人は、このあと3人も居た。
 いえいえ私は信仰心がありませんからと思いつつ、そうか、こうして歩くことがクセになってついに人生を歩くことに全部投入するようになると、永遠の循環遍路になる。ウォーキング・ハイになって山歩きがクセになるのと同じかも知れない。宿の予約をしているともうその段階からウキウキして・・・と話していた75歳の同宿者もいた。これは、山行計画を立て始めるときの気分と同じだ。
 さて第三日目、7時前に出発し、61番札所・香園寺へ向かう。コンクリート造りの大きな美術館のようなモダンな建物。「聖徳太子ゆかりの・・・」と紹介があるから、創建は6世紀後半か。とすると1400年以上昔になる。建物二階は大聖堂のように黄金色に輝く大日如来を正面に据えた祭壇に何百席かの固定席があって、大きな祭礼も行われるように見える。ここで、初日に頂いたお接待の500円で蝋燭を「献灯」して、一つお勤めを果たした。
 わずか1.5kmしか離れていない62番札所・宝寿寺は街中のこぢんまりしたお寺さん。8世紀前半に建立され、戦国時代の戦火に焼かれ、その後再建されたが、神仏分離令(1868年)で廃寺となり、明治十年(1877年)に再建されたというから、政治世界の有為転変に振り回され、なおかつしぶとく生き延びてきたということか。でもそういう苦難の蓄積を感じさせない簡素な境内であった。そうだ、ひとつ記し措くことがあった。
 境内に「一宮稲荷」があった。説明によると、なんでも京都の伏見稲荷、岡山の最上稲荷、愛知の豊川稲荷の三神を護法神として迎え・・・という。これだ、これ。ワタシの神と仏の神仏習合が、ここでも画然と姿を現している。明治初めの廃仏毀釈というのが、日本仏教の伝統を足蹴にして天皇教を打ちたてようとした薩長政府の迷妄だと、露わに示しているではないか。日本庶民の「信仰」の根柢に流れている「カミ信仰」をないがしろにしては仏教も根付かなかった証明でもあるし、逆に「カミ信仰」だけでは宗教的な心の支えにならず、仏教的なロゴスによる後ろ盾を必要としたとも言える証左である。そんなことを思いながら、63番札所へ向かった。
 街中の国道を歩いて20分ほどで83番札所・吉祥寺についた。ここには88ヶ所中唯一毘沙門天が祀られているとあった。毘沙門天て四天王のひとりだったかな? 七福神のひとりだったかな? 後で調べるとどちらも正解だった。四天王では多聞天と呼んだという。そうだ、聴く耳を持った福の神か。そうはそうだが、毘沙門天というと戦勝を祈る神というから、庶民の願う「福」とはちょっと違うんじゃないか。寺中の解説を読みながらそんなことを思っていた。
 64番札所・前神寺へは国道を避け、ほぼそれと並行して走る「四国のみち」を辿る。google-mapにガイドして貰うとメインの国道ばかり案内する。だが事前にgeographicaに記し置いたポイントを辿るようにすると、昔のへんろ道へ入ることができる。わずか3.2kmの間に9本の川を越える。古い町並みには住宅が建ち並び,しかし人影はない。昼間働きに出ていて留守ということもあろうし、年寄りだけが家に逼塞しているとも考えられる。しかし、お昼近い時刻なのに、買い物に出歩く姿も見えないというのは、どういうことなのだろうか。ときどき車は通り過ぎる。もう終わった町、そういう時代なのよ、と静謐が伝えているように感じた。
 またしても朱い大きな鳥居があった。そこから百メートルほどに前神寺の山門がある。長いアプローチを歩いて小高い丘の上に上がって納経所。本堂へはさらに上に向かい、もっと石段を上がったところに権現堂はあった。杉木立に囲まれ、町の通りからそう離れていないのに幽谷の風情が漂う。
 さてここから85番札所・三角寺までは45km以上ある。今日はその3分の1ほどのところに宿を取っている。国道11号線を辿るのが最短のようだが、「四国のみち」はそれとつかず離れず概ね並行して走っている。当然裏通りの道を選ぶ。途中でスーパーマーケットがあったので、お昼のサンドイッチを買い求め公園でも見つけて食べようと考えた。石鎚山のある山脈から流れ出る川を何本か横切る。そのうちの一本、大きな加茂川をわたるところでは自転車でお墓掃除に来ているというおばさんにへんろ道を教わる。「ここはね、季節になるとサクラがきれいなんですよ」と橋を渡りながら話してくれた。川の右岸にある武丈公園で休憩所を見つけ、お昼にした。SAINOHとマークを付けたジャージーでランニングする高校生が走る。西条農業高校の体育の授業なのであろう。初めの集団はリズム良く走っている。後からやってくるごとにリズムは崩れ、もはや走っているというよりは歩いているようになり、最後尾の方はシカタナイから少しは前に躰を動かしている風情。どこの高校生も同じだなあと可笑しい。
 途中に王至森寺というお寺さんがあった。私はトイレを借りようと立ち寄っただけであったが、風格があり、山門前参道の紅葉がきれいであった。中へ入ってみると、「日露忠死者碑」が石段とその上の権現堂とさらにその後背の針葉樹林を従えて、荘厳な雰囲気を醸し出していた。そうか、日露戦は謂わば初めての国民の戦争であったなあと,海軍で従軍していた祖父が繰り返し話していた旅順・大連攻略の犠牲者を思い起こしていた。
 草臥れてきた頃に道は国道11号線を車とともに進むこととなり、いやはや体が重い。途中のスーパーで,トイレを借りるとともに、今日の夕食と明日朝の食事を買い込む。歩いている途中で「あっ、ちょっと待ってて」と玄関から出て来た50代の男が柿を三つ抱えて「荷物になるけど、食べて」と手渡してくれた。これは夕食と朝食になった。
 ビジネスホテルMISORAは、素泊まり。到着してすぐに部屋の風呂に浸り洗濯機を使い乾燥機で乾かしてビールを開ける。大相撲を見終わる頃には夕食も終わっていた。歩数計を見ると30kmを越えている。計画では23.4kmであったのに、どこでこんなに増えたろうか。やはり「へんろ道」と「国道」との違いなのだろうか。
 明日の天気は晴れという。疲れがじんわりと身体にしみ出してくるように思えた。

お遍路最終章(2)神と仏

2023-11-28 13:55:11 | 日記
 待ちに待った「本」の下巻が届いたので、大急ぎで何十冊かを発送し、お遍路最終章の切符を買いに浦和駅まで足を運んだ。なにしろ「ジパング・クラブ」という高齢者割引の利く切符は「みどりの窓口」でしか買い求めることができない。加えてJRはデジタル化の推進と経費の節減で「みどりの窓口」をどんどん廃止して主要駅にしか置いていないから、そこまで歩いて行く。ま、高齢者の健康促進に貢献しているつもりなのかも知れない。
 出発したのは翌日。6時前の電車で家を出て、東京発7時3分の岡山行き「ひかり」に乗り込む。割引切符では「のぞみ」に乗れない。11時半頃岡山で松山行き特急に乗り換え、壬生川で降りたのは13時半頃であった。
 駅舎で白衣をまとい菅笠を被っていると、アラフォーの女性が近寄ってきて「お接待です」と500円玉を手渡そうとする。「いえいえ、とんでもない、そんな」と言って慌てる私に「ジュースでもどうぞ。お気を付けて」という。早速のプレッシャーだ。この500円は、壬生川駅に一番近い61番札所・香園寺の巨大な本堂で「献灯」と記した大きな蝋燭を祭壇に献げる費用に用いて、アラフォー女性の心遣いに感謝した。
 歩き始めると何だか力が湧いてくるようであった。天気は良い。今日は10km程度。「小町温泉しこくや」というから、温泉に違いない。街中を抜けると、歩く前方に石鎚山が少しばかりの白い雲を背負って14時の陽ざしに輝いて見える。遍路道を離れて中山川の右岸沿いに東へ向かっていると、通りがかりの軽トラが止まって、蜜柑を一個差し出す。
「どこへ行くん?」
「小町温泉の・・・」
「しこくややな。ほらっ、向こうの,そう、青い屋根の、あれや。もうすぐやな」
 と、刈り入れの終わった田圃の間を抜ける道を指さして、
「ここ通ると近いから。気いつけて」
 今日の空気のように爽やかに暖かい。
 しこくやは賑わうというほどではないが、お遍路が何人もいた。風呂に入り洗濯を済ませ,部屋のTVで大相撲を見てから夕食にゆくと、離れたテーブルにぽつりぽつりとそれらしい人が座っている。何人かと軽く会釈をしただけだが、同じ道筋を歩く人たちという雰囲気を感じた。
 翌日7時半頃に歩き始め、まず妙雲寺をgoogle-mapに入れて遍路道にのる。貴和社と石注に彫った神社がある。その先に石鉄神社とあり、これは「いしづちじんじゃ」と読ませている。妙之谷川に沿った国道か県道。147号線と道路番号がついている。車の通りはごく少なく、途中でお遍路姿のガイジンが「こんにちは」と声をかけて追い越していった。速い。舗装路が終わる湯波のお遍路休憩所で再び出逢ったとき、車できていたご夫婦と言葉を交わしていた。「あなたは歩くのが速いね」と私が声をかける。ガイジンはにこりと笑って「お先に」と挨拶をして,そこからの山道に入っていった。車のご亭主が「あの人、日本語が上手だよ」と発見したように私に告げたが、私はそれは褒め言葉じゃないよと思って、でも口には出さなかった。
 山道はなかなか手応えがあった。湯波の標高174mから60番札所・横峰寺の745mまで標高差570mを登る。杉や桧の森、下草のシダなどが広がり苔むしている。しかし人が歩いた踏み跡は、たしかに幾度も踏まれてしっかりとしている。ここ数年の台風や大雨で山は荒れている。沢筋には倒木が流れてきて引っかかっている。あるいは倒れかけて斜めに対岸の大木に寄りかかっているのもある。山道を歩くこと2時間、「第六十番札所石鎚山横峰寺」と大書した山門に出た。その脇に境内とは逆の方向に向けて「星が森遙拝所→540m」とある。ああ、これが、石鎚山を見ることのできる展望台への案内か。
 ちょうど山門をくぐってきたアラサーの若い男が、星が森の方へ行こうとしていた。僧侶だそうだ。友人がこの横峰寺にいて今週末に祭礼があるので手伝いに来ているという。その祭礼場所の下見にいくところだ、と。私とは体力が違う。先へ行って貰う。星が森遙拝所は幅十メートルほどの針葉樹を切り払ってかたちばかりの鉄の鳥居を設えたところであった。軽トラが一台入り、二人の男が週末にここで行われる護摩炊き祭礼の準備をしている。それとは別に二人の登山者らしいご婦人が石鎚山の方を見ながらお弁当を食べている。私に先行したアラサーの僧侶がお山を眺めている。お山は頭を雲に隠し、昨日の眺望は望むべくもなかった。
 へんろ道沿いにあった「石鉄神社」(いしづちじんじゃ)もそうだが、この星の森遙拝所も鳥居である。だが、横峰寺というお寺の祭礼という。神仏習合とはいうが、わが身の裡で「神」と「仏」はどういう関係になっているのだろうと自問することになった。ワタシの無意識に宿る自然感覚は「神」、理知的に世界を見渡し、わが身を位置づけて理路を見極めようとするのは「仏」というのが、目下の私のワタシなのだが、その両者を繋ぐ道筋が「こころ」に融けあっていて、ことばにならないというか意識化できていない。
 さてそこから山を下って14km先の宿に向かう。「四国のみち」という遍路道を案内する標識が所々にあるが、一つ見落とすと後が見つからないという「悲劇」をこれまでも何度か経験している。今回はgeographicaというアプリで全行程を読み込み、ポイントをマークして遍路道を外さないように準備はしてきた。だが地図には記されていない遍路道があったので、とても不安であった。しょっちゅうスマホを開いてGPSの現地点と地図のポイントとのズレがあるかどうかを気にしていた。ところが地元の人に聞くと、「この先舗装路を行くと《香園寺→》という標識があるから,そこから遍路道は一本」と事もなげに教えてくれる。そしてその通りであった。上りと異なり、下りはゆるやかに長い道のりを下る。落ち葉を敷き詰めた静かなルート。踏み跡もしっかりしている。
 途中のベンチに座って休んでいたガイジンの二人が、パウンドケーキを食べないかと声をかけてくれた。女性が「おせったい」という。有難く頂戴すると「どいたしまして」と片言のように口にする。お返しに生姜キャンディを差し上げ、ケーキをベンチに座って頂戴した。シアトルから来た60代の夫婦。リタイアしてスペインの巡礼路を歩いた。甥っ子の婆さまが愛媛県にいて、遊びに来ている。テント泊で歩き、今日切り上げて、電車に乗って空港へ向かうと愉しく話す。
 あなたは? と聞くので「リハビリお遍路だ」と遭難事故にあったことを話すと、モンブランにいったとうれしそうに話が弾む。私が81歳、バイデンと一緒だと知ると、いくつまで山を歩けるかと訊ねる。リタイア後は、ゴールデン・シクスティーズ、あなた方がそうだ。そのあとは、シルバー・セヴンティーズ、エンプティ・エイティーズというと、どう受けとったのかそうだそうかと笑う。
 山のへんろ道を降りるまでは彼らは私の後についたが、車道に降りてからは彼らは先行し、松山自動車道をくぐったところで道を分けて私は宿の方へ向かった。

お遍路最終章(1)無事、結願

2023-11-27 11:43:32 | 日記
 ご無沙汰しました。60番目札所から88番目札所まで、予定した11日間歩き続けることができて、四国のお遍路、無事に結願し、昨日、帰宅しました。
 まだ疲れが残っていて、昨日は9時前に床について今朝6時半頃に起きるような為体。やっぱり家にいると身がほぐれて疲れがどっと出て来るようでした。
 第1日目は家を出発して現地入りするアプローチですから、10kmほどしか歩きませんでしたが、その翌日から、最低28.1km、最高36km、平均30kmを少し越える距離を歩きました。そのうち平地・街中を歩くだけなのが5日間、山を通過するのが6日間。標高911mに位置する雲辺寺、750mの横峰寺もあり、88番目札所・大窪寺に入るのに手前の女体山774mのピークを通過したこともありますから、歩いた距離だけでは推し量れない行程が含まれるわけです。11日間の総歩行距離は、319.5km。250kmくらいと予測していたのに、どこでどうしてこうなったのか、まったくわかりませんが、ずいぶんな距離を歩いています。
 11月になっても夏日が続く暖かい秋と言われていたのに、出発直前になって寒波がやってくるという予報もあって、防寒の用意をしていたのが役立ちました。第5日目、四国中央市・伊予三島の中心街を出発して山に入って、小林一茶が「是でこそ登りかひあり山桜」と詠んだ三角寺を訪れたのは雨天。境内に着いた頃には「あら、霰よ」と参詣者の声が聞こえていましたが、私は境内のイロハモミジが色づいて緑の木々の間に姿をみせたのに見とれていました。そのときです、雨がたちまち白く雪となって降り注いできたではありませんか。おっ、おっ、おっ、これは見事。緑と朱と白の取り合わせが寺院の甍の黒と相まって瞬時に一幅の絵柄を広げて見せてくれました。すぐに雪は止んで、まるで夢でも見たような気分に浸っていました。
 翌日の「四国霊場最高峰」といわれる雲辺寺では、降り続いた雪が草地などには消え残っていました。前日そこを通過した人は積もった雪に足元が覚束なく、滑らないように恐る恐る歩くので大変だったとうれしそうにこぼしていました。またそこを下った観音寺の平地で出逢った方は「朝,雲辺寺山のスキー場は真っ白だった」と町から見た景色を口にして,遍路道の私に声をかけてくれました。11月18日のことです。やはり異常気象ではあったのでしょう。
 出かける前に宿を予約してスケジュール旅になってしまうと愚痴りました。ですが、わずか11日の区切り打ちの私ごときとは比較にならないお遍路をしている人たち何人にも出会い、話を耳にしました。通しでお遍路をしている方は45日間全部,出発前に宿を確保して歩いている、と。お遍路2回目なので、自分の調子と距離や難儀の度合いを推し量れるので,それができるのだというのです。また、アメリカから来ていた「おへんろさん」も、宿を押さえてから歩き始めたと,達者な日本語で2回目のお遍路のオモシロサを口にしています。
 区切り打ち3度目のときに記しましたが、COVID-19の影響で廃業に追い込まれた民宿や旅館が随分あり,私は宿の確保に難儀しました。経営者が高齢となり、営業を続けられない事態となったり、多人数は受け容れられなくなり、3人とか4人に限るとかして、宿自体の受け容れ規模が小さくなっています。
 そこへもってきて、この円安もあって海外からの「おへんろさん」がおおくなっている。それが目に見えてわかります。彼らはインターネットの「おへんろ情報網」を駆使して、体験を次々とネットに上げ、追加し、修正するというふうにして、ルートや宿の所在、待遇、費用などを遣り取りしているという。つまり、昔からのへんろ協会の古い本をもって歩いている日本人お遍路には到底できない「情報網」が出来上がっていて、臨機応変に対応しているというのです。宿の方も、ことばの不自由な外国人のために宿を紹介し、彼らに変わって次の宿を予約する労を執ると笑いながら話してくれました。日本ブームが起きているのかどうか知りませんが、いわゆる観光ではなく、体験版の日本旅として「四国お遍路」が取り上げられているのは間違いないようです。何人ものアメリカ人、台湾か香港か、シンガポールかはわからない中国人たち、タイや東南アジアの旅人たちの姿も、あちらこちらで見掛けました。その分、日本人お遍路の宿の確保が予約しなくては適わなくなっていると言えそうですね。団塊の世代の若い日本人の一人は、英語版の「四国お遍路マップ」を手に入れ、そのルートで歩いているとうれしそうでした。
 何度も回っている方は、日本人お遍路は少なくなっているとかなり断定的に話していました。
 今日はこのくらいにしておきましょう。またぼちぼち、「お遍路最終章」を書き継いでいきます。


お遍路最終章

2023-11-14 05:03:06 | 日記
 今朝、約束通り「本」が届いた。早速上下巻を郵パックに入れ、送った。重い。でも私の思いは軽い。明日、お遍路に出かけることができるからだ。
 みどりの窓口のある浦和駅へ行って、切符を買う。もちろん片道だけ。帰りは予定通りに歩くと、12日後になる。そこまで切符の有効期間はもたない。いつもなら列をなすみどりの窓口に人がいない。下車駅の「壬生川」を、駅員が「どう読むんですか」と聞く。こんなことは初めて。「にゅうがわ」というのを2回繰り返しても、すぐに伝わらない。そうか、「にゅう」という地名がどこかの山にあったな。日本語としては聞き慣れない音なのだろうか。それとも私の発音が、聞きづらくなっているのだろうか。往復の歩行も、汗を掻かない。もちろん寒くはないが、ウィンドブレーカーの前を開けて羽織ったまんまであった。
 帰宅して荷をまとめ、宿の予約電話をした。ところが「一杯です」と断られるところがあった。金、土、日と祝日ばかりか、結構先まで「予約」で埋まっている気配。何だ歩きながら、調子を見て、明日はどこにするかって、2日3日前に予約すればいいかと思っていたが、どうもそれでは「とれない」らしい。
 あるダメなところで、近くに知っている宿はないかと尋ねた。「ない。でも、家の前まで車で送り迎えしてくれる宿ならある」という。何だそこまで歩いてもいいから教えてくれというと、お遍路ルートから大きく外れて10km先。2~3時間余計にかかるとなると、こりゃあ、送り迎えして貰うしかない。ネットで調べると阿波池田の近くらしい。ああ、あの辺りかと、電車で通るときの光景を思い起こす。10kmというのを、平地感覚で聞いてはならない。山道に入っての5kmは、平地の2倍の時間がかかる。ま、互いの商売繁盛だし、年寄りのお遍路にとっても、野宿とか、寝袋持参の無料宿よりはマシと予約した。
 とやって、次々と予約していく。第3木曜日は休業だというところもあった。「電話がつかえません」とNTTの自動応答が応えてくれるところもあった。電話に誰もでず、「お掛け直し下さい」というメッセージになるところも3ヶ所あった。不安になる。とうとう最終日まで予約電話をし、2ヶ所はまだ、埋まっていない。
 荷物はコンパクトにまとめた。これまでの遍路旅があったから、荷物はいらないとわかる。途中で洗濯する。本はもっていくが、手帳はもたない。メモはスマホに書き込む。記録はメールにして家へさっさと送ってしまう。カメラはもっていく。スマホでもいいのに、それの使い方に慣れないからだ。
 今日の寒さが、有難かった。そうかこれくらい寒いと、防寒の着衣が一つ必要と、リュックに入れた。透明なビニール傘には助けられた。台風ではなかったが、強い風雨に見舞われて歩くとき、前が見えるというのが何より大切と感じた。そうだ、ヘッドランプを入れておかなくちゃあならない。真っ暗なトンネルというのが、所々にある。
 こうやって準備が調った。宿が概ね決まってしまったのでは、ぶらり遍路でもなく、ふらり遍路にもならない。何だかスケジュール闘争みたいだとカミサンに揶揄われ、そうだよなあ、天気が悪いときは途中で滞留するってのも、旅の醍醐味に通じるものなのに・・・と、ちょっと臍を噛む。ま、致し方ない。気候の良いときに行きたいというのは、誰しもが考えること。お前さんも、見事に衆生と同じ。
 そうか、そうだった。ハイごめんなさいよと、誰にというわけでなく謝る。空海の生誕1250年に88ヶ所を経巡り終えたいという密かな私の願いも、思えば、執着だよね。
 さて、そういうわけで、これから出発します。概ね2週間、このブログはお休み。ごめんなさい。帰ってきたら、また、土産話をさせて頂きましょう。
 ではでは、行って参ります。