mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「わたし」というミステリー(3)「わたし」になる道程

2019-05-31 11:07:37 | 日記
 
 ちょっと寄り道してしまいました。篠田節子『鏡の背面』(集英社、2018年)の物語に戻しましょう。虐待や自傷行為、アルコールや薬物中毒で普通の暮らしを送れない女性たちの避難所を営む主宰者が、死後、入れ替わっていたとわかって、その謎が解き明かされていく本書の話の運びは、「ひと」が何に拠って「わたし」と特定され、なにをもって他者からの「信頼」を得るのかを解き明かす過程でもあります。
 展開の過程で、演劇の座長や女優が取材を受けて応じる場面があります。座長はこんな指摘をしています。
 
 《存在感というのは、しかしやっかいなものであって、女優は芸術家じゃ困るわけなんだよね。そのあたりが難しい。……明美は芝居のロジックの中に、自己を埋没させるという点では稀有な才能を持っていたね。……自己の生活上の感情から解き放たれ、芝居の世界を構成する要素に従い、そこに新たな自己を形成することが肝心だ……》
 
 「ひと」が「わたし」であることを実感するのは、周りの人たちからの特定的承認です。「このひと」という承認が、自分の側からみると「わたし」になります。でも「この人」という特定性は、「わたし」というオリジナリティを表出することのように思われているのですが、ここに登場する座長は、「芝居のロジックの中に、自己を埋没させる……稀有な才能」を称賛しています。つまり、「わたし」という自己は、置かれた場のロジックに溶け込むことともいえます。
 
 同じ劇団で舞台を張っていた看板女優はこういいます。
 
 《自意識が出たらだめなんです。私は私なんだけど芝居のロジックについては関係がない。だけどその中で自己はあるんです。生活している私から離れていくのだけれど、芝居の構造のなかでの私が、どんどんリアルになっていく。わかっているけれど私には難しい。私はここにいる、表現したいって気持ちが表に出たとき、座長から厳しい言葉が飛んできますね。》
 
 それは、「わたし」がじつは、置かれた場の気配が憑依してつくっているものだと、指摘する言葉です。24時間いっしょに過ごす避難所という場で、そこにいる人たちから「主宰者」と信頼されることとは、どういうことか。外面や立ち居振る舞いだけでなく、その「ひと」の感性や感覚、ものの考え方やさらに根柢の直感的反応、それらすべてが「そのもの」として信頼を得なければなりません。篠田節子は全盲の避難所共同運営者を配置して、私たちの認知・認識がいかに視覚に負うているかを浮き彫りにするとともに、「役になりきる女優」の鍛錬の奥深くに入り込もうとしています。いかにして「自己」を消し、「その人」になりきるか。しかも何年も続けて……。その過程で「キーンが俺か、俺がキーンか」という悩みや迷いが浮かび上がる。それをどう超えていくか。そこにまで目をやって、篠田節子は物語りを設えています。
 
 木乃伊取りが木乃伊になると言ってしまえば、それきりですが、その木乃伊が周りの方々から全幅の信頼を得て、周りの人たちの存在の落ち着きどころとなり、宗教的な教義や集約点なしに心の収まりを見出すところとなるというのは、並大抵のことではありません。いわば、木乃伊は神であり、常時神になるために「役」を演じるには、どうすることが必要か、そう問うているようにみえます。読みすすめていると、私は何を根拠に(自分がこれと考える)「せかい」に対する信頼を築いているのかが問われていると、思いました。と同時に、翻っていま、「わたし」という卑俗な木乃伊は、どこから来て、どこへ向かっているのかと考えている自分を、見出しています。
 
 「わたし」は人類史的変遷進化の堆積物です。むろん「せかい」は、ローカルなもの。私の描き出す「せかい」は私の体験し意識表面に浮上したことしかとらえていないと思いますが、その私にすら、累々と堆積し、無意識とか身体性として受け継がれてきている無数のことごとが、内なるものとして働いています。ヘンな言い方に聞こえるかもしれませんが、普遍なんてものは、「わたし」には存在しません。個別性を捨象したら、「せかい」そのものが消えてしまいます。にもかかわらず、私が語ることのなかに人類史に通有する普遍性は存在し、それに出逢うには個別性を描きとる以外に、為す術をもたないのです。
 
 篠田節子はそれを、光は天から降ってくるものではなく、向き合っている悪逆、卑賎、低劣、俗悪の裡から輝きを見せてくるものと描いています。その描き出し方に私は、論理的ではなく、まさにその通りだねと共感の響きを感じています。なぜかは、わかりません。たぶん私の、これまでの人生が、その底に溜まっているからなのでしょう。篠田のいう光は、私にとっては「わたし」の内部から現れる「他者」、「超越的存在」のように感じています。
 
 「鏡の背面」というタイトルの意味するのは、なんでしょうか。私は当初、見えていることの裏側に張り付いて見えるように映し出しているものと、考えていました。つまり、見ている自分、鏡に映して見えている自分、だがそれが見えているのは、鏡の背面に反射率の高い加工を施し、光が反射してくるからです。篠田節子は、その反射率の高い加工が、人類史的な諸悪を自らのものとして乗り越えてきた、無数の、苦渋の生があったからとみているように思いました。それは決して、この後も絶えることなく、人類を襲う事柄となるに違いありません。でも、目を背けず、木乃伊取りが木乃伊になって(間違えて)神になるような生きようを辿りたいものだと、思っているように受け取りました。私流に翻訳すると、無数の苦渋の生から「わたし」の裡に「他者」が生まれ、それと向き合うことで「超越的存在」をわが身の裡に培うことが出来るのだと、いえます。

「わたし」はミステリー(2)自由な選択という「地獄」

2019-05-30 10:48:51 | 日記
 
 自由な社会に暮らす良さは、コトに煩わされない静かなたたずまいにあると、この頃、考えるようになりました。モノゴトや人と「かかわり」をもつことは、それ自体が「煩い」です。それを悦びの素という方がいることもわかります。イヤなことは煩わしい、ヨキことは楽しいというのは、価値判断が伴います。人それぞれの受け止め方がありますから、それに抜きにして「かかわり」というコトを見つめると、それ自体が「煩い」のもとなのです。「人はその存在自体が迷惑」と言ったのが誰であったか忘れてしまいましたが、「迷惑をかける」という次元を取り払って「かかわり」を考えるように仕向けてくれた警句でした。
 
 イヤなことは外から押し寄せてくる。つまり、「煩い」は外部からやってくると、たいてい私たちは考えています。ですが良きことも悪しきことも、イヤなことも悦びも、内と外の呼応によって起こり、その波長の変異と振幅によってイヤになったり悦びになったりするものです。誰かのために佳きことと思ってやることに、じつは、自身の心を充たす動機が底流しているとよく言われることと同じです。そもそも私自身が自ら(の感性や振る舞いや言葉の意味・由来)をわかっているわけではありませんから、善し悪しを自分で決めているのか、世の風潮に流されているのか、わかりません。他人が(口に出すかどうかは別として)褒めてくれるから、そのように振る舞うということは、ふだんよく見かけることですし、私自身もそうしていることを、ときどき気づいたりしています。つまり、「わたし」が何者であるか、「わたし」の感じていることや考えていることは、本当に私のものなのかどうかを、その淵源まで目をやると、それ自体がわからないことなのだと思います。人を「人・間」と言ったり、「人・閒」と書いたりしたのは、昔の人たちのそうした実感を文字に表われたのだと考えています。
 
 「わたし」はミステリーと、私がいうのは、「わたし」の不思議を辿れば、人類史の不可思議につながります。さらに「じぶん」という個体の成り立つ組成の細部にまで思いをめぐらすと、宇宙の大爆発にまで話がいってしまうと聞くと、もうわくわくして来るような心騒ぎを覚えて、とても静かな佇まいなどと気取ってはおられません。煩わしい。
 
 そんな日常を送っているところへ、私の知る若い方の新著が届きました。藤田知也『やってはいけない不動産投資』(朝日選書、2019年)。この方の前著『日銀バブルが日本を蝕む』(文春新書、2018年)を読んで私は、こう記しています(2018/12/8)。
 
《フランスの庶民のように、デモをして、火炎瓶を投げて政府のガソリン税の値上げを阻止するような文化的伝統をもたない私たち日本の庶民は、静かに面従腹背して、てめえら勝手にしやがれって、政治家や経済社会の偉いさんたちに毒づきながら、こちらも勝手にさせてもらうわって具合に振る舞えるよう、ひとつ知恵を絞ろうじゃないか。そんなことをぼんやりと考えている。》
 
 「政治家や社会経済の偉いさんたち」という外部に「てめえら」と毒づいて、「わたし」と分けています。外部と内部が明白。「勝手にしやがれ」と外部を突き放しています。今度の著書も、タイトルをみると「煩わしい」ことこの上ないものです。ところがぱらぱらと目を通していて、前著と視点にずれが起こっていることに気づきました。
 
 とりあげている素材は、不動産投資にかかわる詐欺まがいの出来事です。手練手管は、騙しや嘘、契約の見せかけ、口車に乗せる手口と、具体的でいかにも犯罪的なのですが、ちゃんと被害者の自由な意思に基づく選択も、挟まっているのです。前著は日銀の「横暴」が「日本経済をめちゃくちゃにする」というものでした。今度は地銀を巻き込んだ、不動産系投資グループ。当然、詐欺と被害者という構図が浮かび上がります。ところが、子細を読んでみると、ひと口に外部・投資グループが庶民をだましてお金をせしめたというばかりではないのです。その被害者の自由意思による選択が挟まっているところに、時代を切る鋭い切り口を感じました。
 
 見出し目次をみると、週刊文春か週刊新潮の記事のように見えるのは、「騙しのテクニック」が一覧になったように並んでいます。ところが、そのバックグラウンドに金融緩和やアベノミクスの見せかけ好景気の波があり、何より先行きの「将来不安」に襲われている人々がいます。そこまで視線が届いているのは、いかにも元週刊朝日記者、まだ週刊誌記者の記者魂が収まり所を探っているように感じました。新聞記者となると、たぶんこうはいきません。被害者を悪く書くことはタブーです。ちょうどNHKの夕方のニュース番組の「私は騙されない劇場」のように、騙された被害者は早とちりしたりうっかりしたり、軽率であったという設定で、騙す方はいかにも悪人という顔をしています。
 
 騙される側の自由意志の選択とは、どういうことか。騙される側に、高年収のエリートと平均的な年収を得ている「高収入志望」の疑似セレブ志向の庶民サラリーマンたちがいます。騙す側に中卒とか高卒の、オレオレ詐欺の下っ端手伝いをしていた人たちをみています。つまりこの「詐欺まがい事案」における、社会的な人と人との関係が構造的に構成されていると視点を据えて、出来する諸事象をとらえています。自由意志による選択には、被害者の欲望がうごめいている。そこに、この著者の、確かさの根っこがあるように思いました。本筋から離れますが、この両者の関係を観ていると、日本はとっくに「学歴社会」ではなくなっていますね。かつての詐欺とは、人の弱みに付け込んで「だます」ものでした。だが、この本に取り上げられているさまざまな手口は、人の欲望や思念の隙間を縫ってきわどい境目を歩いています。それはちょうど、不正を指摘されたときの政治家が「法に反するようなことはしていません」と居直るのに似て、社会的には「よくあること」に並んでおかれるようなことです。社会倫理が廃れたと、アダム・スミスならいうかもしれませんが、もうとっくの昔に、スミスさんの考えていた道徳的な社会は姿を変えてしまっているのです。昨今の資本家社会は、地道な生産や流通から離陸してしまって、夢幻のような世界を構築しています。「よくあること」とは「なんでもあり」ということに同義になっているのです。
 
  もう少し付け加えます。私が面白いと思っているのは、その視線の出どころ。この著者の視点は、騙しのテクニックの目の付け所が、じつは、社会的な上昇志向の「希望」と同じところにあると、みてとっています。つまりすでに世の中は、「騙す―騙される構造」がリアリティをもって成立しているというのが、本書の大きな骨格をなす新鮮な指摘なのです。自由意志による選択にも、単にうっかりというのではなく、その欲望の根底に不確実性の時代に相応する「将来不安」があり、その手当は自力でしておかねばならないという、自由社会の強烈な自律的近代的市民像が行き渡っています。
 
 不動産投資の甘い話は、オレオレ詐欺同様に、悪い奴らがいるから起こるものではなく、近年の資本家社会の行きつくところに発生している、ごく普通の事象だということです。これが普通って、どういうこと? とあなたは思うかもしれません。今の社会のエネルギー源が、「騙し―騙される」のと同じ処に発し、同じ手口で、資本家社会の取引は行われており、「騙しのテクニック」と(誰かが)呼ばわることは、トランプさんが謂うのと同様に「フェイク」であり、イヤならディールに応じなければいい事なのです。でも人間が変わってきていることを考えると、人の意思なんて、頼りになりませんね。そういう時代を迎えていると、本書は呼びかけているように思えました。
 
 幸か不幸か、私は幸だと思っていますが、騙し盗られるほどの資産を持っていません。老い先が見えていますから、「孫子のために資産を残してやろう」という将来不安も、もちようがありません。ただただ、静かに暮らしていたいというだけですから、なかなかわがコトのように受け止めることが出来ません。ですが、これから先、ますますこのような時代に生きつづけなければならない子や孫は、気の毒だなあと思います。同時に、でも、なるようになる、なるようにしかならないとケセラ~セラ~と鼻歌を歌っている次第です。

「わたし」というミステリー(1)身の裡に降りる語り口

2019-05-29 11:07:32 | 日記
 
 読書のコラボレーションというと、何のことだと思うかもしれないが、山へ行った往復の電車のなかや、団地総会の理事長として務める最後の準備にかかっている合間に読んだ本二冊が、私の意図したことではないのに、コラボレートしていると感じた。
 
 ジェラルディン・ブルックス『古書の来歴(上)(下)』(RHブックス+プラス、2012年。原著はPEOPLE OF THE BOOK 2008年)と篠田節子『鏡の背面』(集英社、2018年)。前者をなぜ図書館に予約したのかは、覚えていない。後者はカミサンが予約して読み終わったので、私が目を通した。
 
 むろん勝手に私の内部でコラボさせている。どちらもミステリーに属するといえようか。
 
 前者はペンギンブックスの一つ。たぶん誰かがどこかで標題に触れ、面白そうと思ったので、図書館に予約したのじゃないか。THE BOOK とあるから、神の言葉を記したもの。そのように意図して15世紀末につくられた絵入りのユダヤ教の写本(実在する「サラエボ・ハガダー」)にまつわる人々を描いている。ちょうどコロンブスが大西洋を横断する直前、異端審問が行われ、火刑も行われていたころにつくられ、500年余の転変を経てきた一冊の本が、20世紀末に解体してゆくユーゴスラビアの一角、ボスニアで発見され、戦火を逃れて古書修復者の手によって謎が解き明かされていくという物語り。
 
 後者は、虐待やDV、摂食障害や自傷、アルコール中毒や薬物中毒から立ち直ろうとする女性たちの避難所を運営するグループを舞台に、そこにかかわる人たちの振る舞いとかかわりと人生とが交錯して、「人」が生きること、「わたし」が生きていることの「不思議」が解き明かされていく。
 ミステリーは、単なる語り口の手際(と私は思っているから)、そのお話しの俎上に上がる「人間の不思議(ミステリー)」が、「わたし」の内面と共振して、わが身の裡に錘を降ろしていく。そのように読み取り、そのようにわが身の裡においてコラボする。そうして、両書が和解しえない違和感を宙づりにしたまま、腑の裡に残している。その気分が、また、好ましい。
 
 物語りの前者は、いま手元にみる「古書」に記し残された傷跡や血痕、そのDNAから類推する「来歴」を、著者が(あたかも神の目の如くに)物語る。それに対して後者は、目の前に起こった火災で焼け死んだ二人の運営者のDNA鑑定から、自分たちが信じていた主宰者ではなく別人であった可能性に突き当り、なぜ、どこで入れ替わったかを解きほぐしていく、文字通りの謎解きの物語。語り口の違いは、オーストリア出身作家と日本人作家の違いなのかもしれないが、神が世界をつくったとする唯一神信仰の西欧人の起点と、ことごとくが自然の流れの中において出来し、当然解きほぐされていかねばならないと感じる日本人の「じねん」の違いが、そのおおもとにあるように思った。
 
 前者の語り口では、キリスト教世界でユダヤ人がなぜ、かほどに忌み嫌われ、なおかつ共生を赦されて来ているのかを、キリスト起源の物語にかぶせながら、しかし、イスラム世界との対決における資金の確保をユダヤ人に頼り、ことが終われば排除するという「利用価値」において展開している。つまり、ユダヤ人差別というヨーロッパ世界に育つ人たちの胸中に源泉をもつ情念は、神の子の死に起源をもつものと記し置かれて、そこから先には深まらない。人の内面に垂鉛を降ろすことにはすすまない。
 
 後者の語り口は、読みすすめる読者の内心とともに作家の筆が運ぶ。つまり作家もまた、物語りの進行とともに突き当たる不思議と向き合い、読者とともに腑に落としてから次の段階へと歩をすすめる。登場する、世の不幸を一身に背負った女性たちやそれに対して顔をみせる家族やかかわる人たちの立ち居振る舞いを、読者はわが身の奥底を覗き、どこまでかを腑に落としどこまでかを棚上げして、読み続ける。こうして垂鉛を身の裡に降ろす。それは腑のしこりとなって、わが身の輪郭を描き出すまで身に留まる。本を読む醍醐味は、ここにある、と私は思う。(つづく)

無事下山した気分

2019-05-27 09:24:25 | 日記
 
 昨日午後、無事、団地の通常総会が終わった。
 
 「無事」と意識的に口にするのは、あまり私の本意ではない。やりとりがあってモンダイが浮き彫りになる方が、住民たちの受けとめ方の差異や齟齬が鮮明になる。その違いを解きほぐしていくことが、理事会の活動であり役割と考えているからだ。総会の出席者は、組合員のおおむね5割。ほかに4割が委任状を提出して欠席する。「出欠票」を提出しない住民は約1割。だが賃貸に出している住居やいろいろな事情で空室になっている居室が8%ほどあるから、未提出の数に近い。一概には言えないが、5割の出席者は団地に深い関心をもつ方々と言わねばならない。
 
 ところが昨日の総会は、穏やかなわずかのやりとりが行われ、いくつかの質問や議案書の趣旨に賛成であるが追加したいという意見が述べられて、議長の予定していた時刻にぴったりと終わる運びとなった。1年間の役割から解放されて肩の荷を下ろした理事・役員たちは、うれしさを隠しきれない。その喜ぶ顔を観ていると、私もうれしくなる。だが私には、肩の荷を下ろすというほどの実感がない。なんだろう、これは。
 
 そう考えて、ひとつ思い当たったのは、無事に下山したときの軽い達成感とホッとした思いに似ている。きびしいルートとか難しい道程ではなかった。多少の急傾斜や足場の悪いところはあったが、28年間、先達たちが歩いた踏み跡がしっかりとついている。ただ12名の人たちを引率して、道を迷うこともなく、怪我に遭うこともなく、無事に下山までこぎつけた。皆さんはそれなりの達成感を感じて喜んでいる。私は、そのガイドをしたというだけのこと。それぞれの道程を歩いたのは、間違いなくそれぞれの力量だ。もともと荷の軽い方もいた。ほかの方に荷を背負ってもらって、でもそれに気づかずに自力で歩いたと思っている方もいる。その人たちが一様にうれしさを隠せないのは、みんなで歩いたという「かんけい的道程」を感知しているからだ。ほかの人の発揮した力量もわが身のもたらしたものと感じられているからだと、私は理解した。ちょうどわがカミサンが「恵まれてますよ、(今年の)あなたは」と言ったように、ほかの方々も「恵まれていた」のだ。
 
 上記のようなことを記しながら、一つ思い浮かんだことがある。もし私が、理事長としてガイドしたと言ってしまうと、それは私のアクションになる。だが私のアクション自体が、副理事長の手配や気遣い、建築理事の敏速な対応、環境理事のボランティアの後方援護を受けながら進めてきた動きに支えられ、スムーズに展開したというなりゆきの流れがある。俗に言うと相性が良かった。それを「自然(じねん)」と言ったのではなかったか。
 
 つまり、私のアクションとしてまとめるとなると、私の能動性を強調することによって、他の人たちは理事長に引率された受動性が際立つ。だがそう感じてことばにする方もいるが、事実は相互関係的に動きが生じ、徐々に闊達になり、たぶん本人自身が考えてもいなかったほどよく動いたという面々の実感が、「無事に終わった」という破顔一笑に集約されていたのではなかろうか。その運びに呈されていた「自然」自体、中動態的な関係態、を喜びたいと、今私は、自画自賛している。

わが身のセンサー

2019-05-26 08:33:51 | 日記
 
 今日(5/26)の午後、わが団地の通常総会がある。一年間務めた理事長役も、総会が終われば解任となる。この一年で何が変わったか。団地をとらえる視線が変わったような気がする。いま私は、団地全体を一つの身体のように感じている。建物も住民も全部合わせて、循環器系が動き消化器系が働き、呼吸器系が作用している、と。
 
 健康でなければ日常がぎくしゃくする。若いころはわが身の働きのどこがどうと気にすることもなく過ごしていた。自律神経というか、副交感神経というか、無意識の働きがうまく作動していた。ところが年を重ねるにつれ、手入れが必要になる。わが身の意思自体も行き届かなくなるから、若いころ以上に気遣いが必要になる。管理組合の理事会というのは、いわば神経系のセンサーの役割をしていると思った。
 
 団地の水回りは、謂うならば循環器系だ。毎週の水質検査、毎月の機器の検査、毎年の排水管の高圧洗浄という定型チェックなども、怠らず実施されている。ある号棟に生じた数年越しの水漏れ調査も、修繕専門委員会のバックアップを得て丁寧な運びがとられ、ひとまず決着をみた。ある住戸のIT利用の希望から判明した信号受信レベルの強弱に対応する業者とのやりとりは、修繕専門委員会の専門性に対する信頼を高めた。
 
 あるいは環境の整備。日頃環境ボランティアの方々が献身的に動いていることもあるが、環境理事という素人が樹木の剪定や水遣り、アブラムシの駆除などに向かわねばならない。そのボランティアの方々に助力を得て、何にどう対処するかを決め、業者に依頼する。これらの活動も、安定的な取り組みができるほど定着している。
 
 つまり、まだまだ自律神経がうまく作用しているということ。団地の管理業務の定型、ルーティンワークがしっかりしている。修繕専門委員会の方々や環境ボランティアの活動ばかりではない。住宅管理会社に委託しているとは言え、窓口業務を担当する事務の方、清掃作業の方の仕事が、日々着実に取り仕切られていることが、居住者に安心感をもたらし、理事会活動に安定感をもたらしている。
 
 こうして管理組合理事会という神経系のセンサーが機能する。むろんそれには、どのような人が理事になっているというチームの構成も影響があろう。だがそれよりも、どのようにチームワークを作り出すかが、大きい。人は相互に影響し変化する。消極的になるのも活動的になるのも互いにかかわる人の動きに左右される。
 
 今年の構成の中で副理事長の果たした役割が、ことに大きかった。PCの使えない事情を抱えた理事にかわって副理事長が、窓口事務の方と提携して、企画・立案・実施まで組み立てた。センサーは階段毎という身体の隅々に行き届いている。だがそれが起動するかどうかは、目配りと気遣いが働いていなければならない。そう感じさせる副理事長の動きがあった。
 
 「恵まれてますよ、(今年の)あなたは」とカミサンはいう。その通りかもしれない。動きの柱になる建築理事、環境理事、副理事長という感度のいいセンサーが存分に働いてくれたからこそ、理事会がお役目を滞りなく果たせてきた。
 
 今朝、最後の「日報」がポストに入っていた。窓口事務の方から、「本日が最後の日報です。1年間ご苦労様でした」と慰労のことばが添えられていた。それに付箋が付き「こちらこそ、この1年間お世話になり、ありがとうございました。2019年度もよろしくお願い申し上げます」と副理事長のご挨拶が記されている。ほんとほんと。お世話になりました、こちらこそ。