mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

すっかり忘れている

2020-01-31 09:09:30 | 日記
 
 今日(1/31)午後、検査をするというので、昨日から食事制限をしている。大腸の中をすっかり空っぽにして内視鏡で検査をする。お昼はグリコのビスケットにゼリー状のジュース。夕食は煮込みハンバーグと白かゆ。ええっ、こんなに手際よく手順が用意されていたっけ? と思うほど。
 9年前にした同じ検査のことをすっかり忘れている。
 
 ふと思いついて、9年前のブログ記事を検索してみた。あった。9年前も同じように前日のメニュを記していた。「お昼は200ccくらいのパック入りのゼリー状ジュース、ビスケットのおやつをはさみ、夕食は溶き卵入りおかゆ」と2010/11/17の記載日も着いている。夕食のメニュが変わっているだけだ。これほど忘れてしまうと、初めての体験のように思ってしまう。検査後にたいへんであったという記述はないから、たいしたことはなかったようだ。検査を受けた人たちが、麻酔が醒めなかったとか、身体がふらついて運転できなかったと聞く。大きな個人差があるのだと思う。私の印象では、たいへんスムーズに検査が終了したと、ぼんやりと感じているのだが……。昔のことはなべて、スムーズに運んだように思うのかもしれない。
 
 飲み物は飲んでもいいとあるから、今朝起きてからコーヒーを淹れる。お腹が空いた気がしない。ま、ふだんの蓄えがあるから、何食か抜いても平気なのだが、TVを見ていると、やたらと食べ物のコマーシャルが多いと気づく。やっぱりあれって、欲望を刺激するわなと思う。私の欲望が作動しないのは、年を取って、もう欲しなくなったからかとも思う。観念すれば、案外欲望って減衰するのかもしれない。良いか悪いかは別だが。
 昨夜計った体重も、1.5kg減。9年前のブログ記事にも1.5kg減で、「ダイエットって(食べるのを制限すればいいだけ)、こんなに簡単なんだ」と記している。逆に考えると、9年前と私の体調が変わっていないと読める。
 
  マグコロールという「(たぶん)下剤」を1.5ml、1時間半をかけて飲む。「高齢者は特にゆっくり飲むように」注意書きがある。甘く口当たりは悪くない。これだけでお腹はいっぱいになる感じだ。ただ高齢者に対する注意書きがなぜあるのかが、わからない。単なる「下剤」以外に、何か副作用があるのか。お腹が痛くなる、めまいがする、息苦しい、手足に力が入らない、意識がぼんやりする、脈が遅くなるなどなど「症状」が出たら、飲むのを中止しろともある。歳をとるだけでそれだけの(副作用)「症状」が出るのだとしたら、高齢になるということは、よほど体に変化を引き起こすことと言える。
 そうか、子どもに戻るのか。でも、身体を形成途上の子どもと使い古して衰退途上の高齢者とでは、往きと還りの身体能力線が交差するだけで、同じってことではない。「人生下り坂って、最高」とどこかでタレントが叫んでいたが、下り坂の、見えない先にドカッと崖でもあってポンと落ちて彼岸に行かせてくれれば「最高!」って言えるかもしれない。
 

一転、雪国の春

2020-01-30 09:22:28 | 日記
 
 奥日光に行ってきました。一昨日(1/28)の出発時は、雨。日光宇都宮道路に入ってしばらくすると霙。いろは坂にかかるころには雪になっていた。積雪もあり、除雪車が前を走っている。関東平地の雨がこちらでは雪になっていたようだ。明知平のトンネルを抜けると、明らかに積雪が多くなる。それでも路面の雪は車に踏まれてぐずぐずになっている。赤沼トイレの前の駐車場には9時20分に着いた。出発してから2時間20分。ほぼいつもどおりの順調な行程だった。
 
 kwmさんたちもすぐ後に着いた。3時間かかったらしい。あとで聞いて驚いたが、kwmさんは雪の中を走るのは、ほぼ初めて。平地の少しばかりの積雪はチェーンを巻いていたというから、スノータイヤでは心配だったかもしれない。
 今日のコースを打合せ、1台を光徳に置き、全員で湯元の出発点に向かう。荷を下ろし、車を湯元の駐車場におきにいって、歩いて出発点に戻る。やはり雪が少ないのか、道路から林道へあがるところの石垣が剥き出しになって見えている。
 10時半、歩き始める。林道上の雪は湿っぽく、厚みがある。このルートを今日歩くのは、私たちが最初らしい。今日の踏み跡はなく、昨日か一昨日の踏み跡が凹んでいる。先頭を行くkwrさんは、ゆっくりしたペースで深い雪のなかへすすむ。枝に雪を乗せて大きく垂れ下がったヒノキが前を塞ぐ。ときどき、kwrさんの方が触れて雪を落とす。どちらを向いても、静か。呼気が周りの雪景色に吸い込まれていくような面持ちになる。雪が降り積もる。
 
 先頭を交代する。テンかキツネかシカの足跡が右側の斜面から降りてきて、左側の斜面へ下り降りている。シカのそれは、腹のところが削ったように凹んでいるから、すぐにそれと分かる。50分ほどで、光徳から湯元へのむかし道の峠にかかる。標識はすでになく、ただ光徳へのルートを塞ぐように木の板をつるしたロープが張り渡してある。なにか書いてあったのかもしれないが、文字らしきものが読み取れない。でも、ここだと、私の記憶がつぶやいている。
 
 kwrさんを先頭に森へ踏み込む。雪が多いと枝が低く道を塞ぐように見える。どちらへ行こうかとときどき立ち止まってルートを探す。雪道はこれが楽しい。急な斜面にぶつかる。そこを登って、先頭を交代しましょうと声をかける。一足掛けると、ずるりと滑り落ちる。爪先を雪面にたてて押し下げるようにしてやっと少しばかり体を上へ持ち上げる。一歩一歩、こうして上へ登る。
 急斜面の上で先頭をkwmさんが交代する。彼女はすこぶる目がいい。木に巻いた赤いテープを見つける。木々のあいだをくぐり、どんどん先へ進む。swdさんとの間が空く。すっかり木々に囲まれてしまった。赤テープはもう見えない。
 後にいた私は、右の方へ登ってみる。先が見えるところへ来ると、やはり左へ巻いた方がよさそうに見える。木につかまり、トラバースを試みる。少し広い谷間に出て、見たことがあるという記憶が戻ってくる。そうだ、このルートの正面にある倒木が面倒だから、ここで右へあがって回り込んだと、刻んだ「覚え」が甦る。kwmさんが後ろについている。
 
 やはり彼女が赤テープを見つけ、ついでkwrさんが赤テープを指さして、「その先にあるよ」という。そちらへ行きながら私は、三つ岳の西峰の稜線と東の稜線とが出会うあたりの凹みを気に留めている。もう少し左へ寄って、そこから凹みへ向かうと、たぶん、三つ岳の峠に出くわすはず。立ちはだかる針葉樹を避けて、明るい落葉広葉樹の斜面へ上る。このルートの峠部分の一番高い地点にある倒木が何本か横たわるのが目に入る。ここだ、ここだと、やはり私の記憶がつぶやいている。ちょうど12時。お昼にする。
 
 雪を交えた風が三つ岳の山頂側から吹き、それに背を向けてサンドイッチを口にする。暖かいココアを淹れて身体を温める。甘みを加えたカフェオレもおいしい。飲み物がなければとてもサンドイッチが喉を通らない。歳をとって嚥下力が衰えてきたのだろうか。目の下の斜面に広がる木の葉の落ちた明るい広葉樹林がふっくらとした雪に包まれて、私たちの辿ってきた履み跡だけがトレースを残している。いいなあと胸中がつぶやく。
 
 昼を終え、峠越えに移る。先頭をkwmさんがすすむ。この人たちは、ここが初めてではない。だが、冬にしか歩けないこのルートは、雪のつもり具合で気配が変わるから、いつ来ても初体験のような面白さが味わえる。先頭をときどき変わって、ルートファインディングの楽しさを感じてもらう。斜面のトラバースを難なく歩く。何十メートルか先の目標物を話して先へ行ってもらう。倒木の上に積もった雪が膨れ上がって、前方を塞いでいるように見える。だが回り込むと、前方が開ける。こうして峠越えの最後の地点が下にみえるところに着く。先頭にいたswdさんが、どこを降りていいか迷っている。目の前の急斜面を下ればいいのだが、彼女のストックが半分に折れたようになって、使えないことがわかる。私が先導して右の方へトラバースする。左の急斜面をkwrさんが滑るようにバランスを取って下る。kwmさんが後に続く。
 
 いつもならこの地点から正面に男体山がみえるのだが、雪が視界を遮っている。kwrさんも、ここには来たことがあると思い出したようだ。急斜面の雪を削るように踏みつけて大きく降っていく。倒木があり、右へ左へ通りやすいルートを探りながら下る。いつのまにかkwmさんが先頭を歩いている。swdさんはストックを諦め、私のストックを一つ使って、バランスを取る。こうして標高差300mほどを学習院の寮を目指して下っていった。
 
 学習院の寮は水源を利用して池を作っており、その先に小さなスキー場がある。うっかりスキー場へ踏み込もうものなら、管理人が出てきて「ここへ入って来ちゃ困るんだよ」と怒鳴られる。上部を回り込んで光徳へ向かうときに学習院寮への道に踏み込むと、「誰が除雪していると思ってるんだ」と居丈高に叱られたこともある。今年そのような気配がないのは、管理人が世代交代したのだろうか。
 池に張った金網の上を回ってスキー場を回避する。ここもかつてのスキー場のようではなくなった。もう使われなくなったのだろうか。宮家の人たちもお茶の水の付属へ行ったようだからと話しながら、光徳へ下ってゆく。
 
 光徳の駐車場に着いたのは13時50分。今日の行動時間は3時間20分。冬としては、まずまずの動きであった。車に乗り、湯元へ向かう。湯元の車を回収して宿泊先にいく。15時からのチェックインにはだいぶ時間があるが仕方がない、と考えていたらすぐ手に手続きをして、14時半には部屋に案内してくれた。部屋も風呂もリニューアルしたとかで、ちょっと小ぎれい。
 部屋の窓から雪をたっぷりとたたえた庭とその向こうの湯ノ湖がみえ、木立の間の遠方には男体山の影が見える。窓際の椅子に座ると、山なんかどうでもいい、ここでこうしてのんびり本でも読んでいられたら、それだけでもいいかなと思う。
 ふと、そう思って、そうか、ぼちぼちそういうことを本気で考える歳になったのかなとkwrさんと話す。毎年ここで、スノーシューの山の会をしているが、歩かなくても、こうして皆で寄り集まって過ごすのもいいかもしれない。
 
 部屋の暖房は暖かすぎるほど。kwrさんはテキパキと手袋や帽子、雨具などを広げて乾かす。私は着替えをもって風呂に向かう。風呂も、どこが変わったのかわからないが、広々としてこざっぱりしている。露天風呂も改修したといっていたが、何が変わったのかわからない。でも、湯温もよく小雪が舞う外は頭が冷えて心地よい。
 風呂を済ませたkwrさがビールを買ってきてくれる。まずはビールというので、良かったねえ、今日のコースは、と話ながらビールを飲む。私が持ち込みの生ワインをあけたのは、kwmさんがやってきてから。彼女は(きっとこっちの方がいいんじゃない)と私のことを気遣って、信州ワインの白を持ってきてくれている。生ワインは、「こりゃあ、ジュースだよ」とkwrさんがいう通り、口当たりは良いが甘い。信州ワインの方が、甘さがほどよく淡泊で、飲みやすい。そのうちswdさんもビールをもってやってきて、いろんな話をしながらプチ宴会をやる。
 
 夕飯を済ませ、7時半ころにkwrさんは床に就く。一寝入りしてからまた風呂に行ってこようと考えて横になった私は、いつしか眠り込んでしまい、目が覚めてトイレに行ったのは、朝の6時。なんと10時間ほども熟睡してしまった。それほどにつかれていたのだろうか。ま、眠れないよりはましというから、気にすることはないが、それにしても体を休めるというのに、こんなに時間がかかるようになった。
 
 朝風呂に行き、寒そうだったから露天には出なかったが、やはり風呂から戻ってきたkwrさんが、「雨だね」という。小粒の雨が、蕭蕭とふっているそうだ。これじゃあ、今日の雪山歩きはやめだねと話す。朝食に行っていると、雨が霙になり、雪に変わる気配。う~ん、どうしよう。
 「それよりは、もう一度風呂に入るわ」というswdさんの声に、出発を10時ころにする。私も朝食を済ませて、もう一度風呂に向かう。風呂掃除のおじいさんがやってきて、「いえ、まだいいですよ」といって、引き返す。
 チェックアウトをしたとき、しかし、雨は上がり、暖かくなった気温に木の上の雪が解けて、ぽたぽたぽたと大粒の雨のように水が落ちている。これじゃあ雨と同じだねと思う。kwrさんも「もうオレ、武装解除しちゃったよ」といって、雪山に踏み込む気持ちがない。まあそうか、こんなふうに腰が引けるのも、年相応でいいのかもしれない。kwmさんたちに別れを告げ、浦和へ向かった。こうして奥日光の下見は終わった。
 
 帰途、どんどん気温が上がるのがわかる。ヒーターを止める。車の屋根上の雪がいろは坂を曲がるごとにどんどんと音をたてて滑り落ちる。助手席のswdさんの話を聞いているうちに、宇都宮道路を過ぎ、東北道へ入る。ふと気づくと利根川を渡り、羽生のSAを過ぎる。アッと気づいたら、ガソリンがあと少ししかない。蓮田SAでいれようと考えていたのに、お喋りしていたらそこも通り過ぎてしまった。仕方がない。持ち応えるかどうか。ピンと音がして、ガソリンがあとわずかという印が点灯したのは、浦和インターを出るところ。これなら何とか持ちそうだ。
 まるで、雪国の春に行ってきたような下見であった。

よりによって

2020-01-28 06:18:48 | 日記
 
 明日(1/28)は雪が積もるかどうか心配されている。南岸低気圧が通過するところへ寒気が降りてくるから、雪になるのと霙になるのとの端境に、関東地方中央部は位置する。こんな日に、早朝から車で出かけようとしている。奥日光への下見である。
 
 今年は雪が少ないと、新潟や東北地方のスキー場は頭が痛いと聞く。ところが奥日光の正月は、それなりに雪があった。戦場ヶ原は積雪がそれほどでもなかったが、湯元はスキー場が開設できる程度に雪はあった。思えば、南岸低気圧が通過するのは、関東地方にとっては「春」の到来である。だから今年は、暖冬。春がすぐそこに来ているのだ。でも例年の山の計画で、2月は奥日光のスノーシューと決まっている。そこで積雪状態を見てこようと下見に行くことにした。
 
 それを知った山の仲間が、昨年スノーシューを買いこんだこともあって、一緒に行きたいという。それを聞きつけたほかの人も同行したいが……と、申し込んできた。そういうわけで、今日これから行く。スノーシューを買った人は、せっかくだから1泊して遊ぼうという。こちらも、急ぐよりはのんびりとしたいから、宿を取った。
 
 そこへもってきて、夜から朝にかけて、関東地方中央部から北は、雪になるという。交通機関の遅延なども注意するように、TVは呼び掛けている。6時に出ることにしていたのを、1時間遅らせた。現地の集合時刻も10時と、のんびり参考にしてあるから、雪が積もっていても、急ぐ必要はない。さあ、外を覗いて、雪は積もっているだろうか。
 
 予報では、奥日光は40センチの積雪という。よりによってこういう日に、こんな下見に行くなんてと思いながら、ワクワクしている。いくつになっても、しょうがないねえ、この性分。(1/27)
 
 起きてみると、雪はない。交通情報の電車も高速道路も渋滞は福島県より北。奥日光は雪になっているだろうが、ほとんど問題なく行きつけそうだ。ではでは。(1/28)

文化的・平和的に「防衛」を考えよう

2020-01-27 10:12:57 | 日記
 
 昨日のSeminarは、Hさんの「日本の防衛というモンダイ」。発題のときからHさんは、皆さんの考えを聞きたいと、いたって控えめでした。
 まず「国を守るとは」と切り出します。「国民の生命・財産と領土・領海・領空を守り抜くための取り組み」とはじめ「外国からの違法な侵害はやらせない」と引き取りながら、「宗教や国体(国柄)・文化は?」と疑問符をつけて提起しました。しかしこの、定番的なものの言い方は何だろうと思いましたね。「国を守る」という「防衛」の基本理念が怪しくなっているというHさんの認識があるのか。あるいは、人ぞれぞれの思い入れがあるから、その基本から確認してから、話しをすすめようと考えていたのだろうか。「結局は、子や孫を守る」こととHさん自身の「防衛」概念をまとめましたが、「国防」と考えるためには(世界情勢の認識とともに)何段階もの媒介項が必要なように思えました。
 
 それにつづいてHさんは、軍備を保有しないコスタリカのことや軍備を保有しないでレジスタンスで対抗するという森嶋通夫氏の説を紹介したりしたのちに、防衛は占領軍に委ねるとした日本国憲法の感覚が日米安保条約に引き継がれて、アメリカの保護国のようになっている日本の防衛の現状を指摘しました。つまりHさんは、第二次大戦の結果が現在(の日本防衛)に至る曲折を作り出している。それが今に引き継がれて日本が自国の防衛をアメリカに依存するほかない状況になっている。あるいはその経緯を(トランプのように)忘れて日本の「さらなる負担」を要求してみる言説になっています。日米協議の齟齬になり、その行方を見ている私たちの自尊心を傷つけ、信条を揺さぶり、収まりの悪い心もちを醸し出しているとみているようでした。Hさんの言葉の端々に、しかし、それでいいわけがないという悲憤が噴き出しているように感じました。
 
 それを言葉にしたMさんの発言が、「わだかまり」の正体をみせてくれたように思います。
 
 《北朝鮮はいまにも日本を攻撃するような挑発的な物言いをしている。中国は、ウィグルにゲットーを作り何百万人も収容して、ウィグルの宗教から文化まで漢民族風に作り替えるばかりか、拷問を常態化して臓器売買にまで手を延ばしている。あれはいずれ、尖閣ばかりか沖縄や日本にも覇権を及ぼす脅威にみえる。それに備えるだけの力を(アメリカに依存するのではなく)もたなければならないとすれば、北朝鮮や中国の軍事的脅威に対抗するためには、手っ取り早く核装備をアメリカから借用して、抑止力として調えるのがその他の軍事装備を用意するよりも現実的だ》
 
 というのが、「私見ですが……」と断って披露したMさんの「防衛モンダイ」でした。
 たしかに北朝鮮は、日本(にある米軍基地)への攻撃をいつ行うかも知れないという「狂気」を湛えています。あるいは中国をみても、香港政策もそう、台湾への脅しもそう、そしてウィグル自治区やチベット自治区への漢民族の侵略的進出も、「一帯一路」という世界政策の覇権主義もそう。周辺国が中国への警戒を口にするに足る問題に思えます。
 
 だがそれはすぐに、軍事的な防衛のモンダイなのか?
 少し違って、ここのところに来て初めて私たち日本人は、アジア民族文化の異質性に出くわして、わが身との、あまりの違いに驚いているのではなかろうか。つまり、私たち戦中生まれ戦後育ちの戦後日本人の、自身の在り様を外の鏡に照らして見つめ始めているように思ったのです。戦後、アメリカによって非武装化された日本は、経済一本やりで「復興」を成し遂げ、「一体どちらが戦勝国かわからない」と一時アメリカ人に嘆かせたほどの高度な消費社会を築き上げました。その私たち「自身の在り様」というのは、世界の軍事的緊張への対応をすっかりアメリカに預けて、のほほんと経済社会の豊かさに邁進し、浸り、人類史上初めてといっていいほどの「一億総中流」と呼ばれた、多数の人が贅沢な暮らしを味わってきたのでした。
 
 そしてふと気づくと、世界は常に軍事的な争いに奔走し、中東はすっかり日々を戦場の中におかれ、多数の人々が「難民」として流浪するようになっていたのです。「ふと気づいた」のは、やっとここにきて私たち(戦後日本人)の胸中に、独立不羈の心もちが萌し始めたからではないかと、私は思っています。それには、(世界の警察官としての軍事的な、政治的な、経済的な、文化的な)アメリカの相対的地位の低下が(私たちの胸中にも)起こって来たからでしょう。1990年以降の世界は、グローバル化という経済文化的な「アメリカン・スタンダード」が世界を覆う期間であったとともに、(皮肉なことに)アメリカが世界の中心軸から緩やかに滑り落ちはじめた期間でもありました。中国などの「途上国」が浮上してくるとともに、「中華帝国」というかつての世界の中心が誇りを取り戻す過程でもあったのですね。
 
 日本という「わが身」は、すでに人口においても、経済的な活動においても中心の座を離れ、ゆっくりと(かつての資産を食いつぶしながら)凋落する過程に入っているようです。そうなって初めて、「独立不羈の精神」を想い起すのですから、不思議といえば不思議、妙といえば妙な話です。だが果たして、贅沢になれた「わが身」を、「独立不羈の精神」の誇らしさと引き換えに、政府歳出の3割ほどを防衛費につかい、困窮に耐える暮らしに落としてやっていけるでしょうか。
 
 私のみるところ、「狂気」の北朝鮮は1941年(太平洋戦争開戦前)の日本のような状況に追い込まれているように見えます。日本を攻撃する脅威を感じるより先に、生き残りに懸命になっていて痛ましい感じがする、というのが正直な感想です。
 また、中国の覇権主義的な振る舞いに脅威を感じはするが、それは軍事的膨張というよりも「中華思想」的な威圧感が復活しているようにみえます。日本はいつでも、世界の隅っこに位置して世界の中心になったことがありませんから、フランスのような鷹揚さも、アメリカのような世界の警察官役も、中国のような権力主義的な振る舞いにも、馴染めません。でもその渦中にいて、わが身のことは自身で考えて決定しろと迫られていることは、間違いありません。どの国も、自身のことを考えるので、精一杯なのです。
 
 となると、私たち自身の身に馴染んだやり方でコトをすすめていくほかありません。身に馴染んだやり方って、なに?
 「平和ボケした非暴力主義」です。その背景には、民主主義と平和主義と経済活動に勤しんだ勤勉さがあります。それ自体は、世界の緊張を和らげることに資するだけでなく、人類が生き延びてきた根底的な「暮らし」の文化が根づいています。たぶんに自画自賛的な趣があるとはいえ、「清潔で気遣いの」できる「秩序の安定した安心」な「お人好しの日本」を押し立てて、世界の文化的な交流に貢献する。
 Hさんが後に指摘した様な、押し寄せる中国人にイヤな思いがするというのは、日本人の身に刻んできた文化的な違いが(来日する中国人を鏡にして)浮き彫りになっているのだろうと思います。それは逆に、長い目で見たら、中国人にも何がしかの文化的な影響を、注ぎ込んでいるに違いないのです。世界が交流するって、そういうことです。
 
 「アメリカから核を借用して」というのは、軍事的な対抗軸で東アジアの当面を眺めてみたら、そういう方策も一つの案だろうとは思います。だが、戦後75年をすっかりアメリカの属国のように振る舞ってきた日本は、いましばらくアメリカの傘の下に身を置いて、この後百年ほどの文化的な戦略で世を凌いでいくことを考えていく方が、いまの「国体(国柄)」に見合っていると思えました。
 もちろん私見をいえば、ポルトガルのようにして「かつてジパングという平和ボケした人々がいた」といわれるような国にしていってもいいんじゃないか。そんな夢想をしたものでした。

ものの見方の硬さ

2020-01-25 09:53:54 | 日記
 
 今週は、人と会って話すことが多かった。21日には大学の同窓生、23日には9カ月ぶりという親しい方、昨日はご近所のストレッチ同好会の方々、そして今日はSeminarがある。私は、人とつきあうのが苦手。世間話ができない。だから、黙って座っているだけで何となく気持ちが通い合うような人と時間を過ごす方が、心地良いと感じる。歳を取るごとに、その私の気分は亢進するようで、これも困ったものだと思っている。
 
 議論を聞くのは、いやな方ではないと思ってきた。だが、耳が煩わしいと思うようなことがあった。自分のものの見方に確信に近い「信念」のようなものを持っている人が、ある本を読んだ感想を述べた同窓生に投げかける言葉を聞くと、いや参ったなあ、どうしてこんなに「確信」をもてるのだろうと、不思議に思う。
 一刀両断。パカパカと片づける。
 
「いや、そういうのは陰謀論だよ。信用できないよ」
「植民地経営が持ち出しって言ったってねえ、政府の財布からは持ち出しでも、進出企業の財閥はたんまり儲けてるんだから、財政論だけでは片づかないよ」
「そもそも軍事費まで含めて財政支出が多かったっていうんだから、そんなの経済計算て言えないよ」 という調子。
 聴いてる方は、石橋湛山がそれほどの粗末な(植民地経営に関する)経済計算をしているとは思えないが、直に自分で(その文書に)目を通したわけではないから、黙って聞いている。それよりも、この人の「確信」の根拠は何よ、と疑問符がついたままだ。
 
 今日のSeminarでも、そうしたやりとりが出てくる可能性がある。講師は(私と同じ年齢の)Mさん。お題は「日本の防衛というモンダイ」。「防衛問題」と構えているわけではないから、面白そうなのだが、「所用があり、遅刻します」と伝えてきた参加者が、
 《テーマには大変興味があり是非冒頭から参加したいのですが・・・平和ボケした人間にかつを入れたいのです。防衛力なくして平和はのぞめないというのが私の持論。素手で守るなんて護身術ぐらい。それも刃物には勝てない。きれいごとでは身は守れません。防衛力=攻撃力と短絡的にいうノー天気な政治家こそ退治すべき存在。税金で護衛なんかつけるな。防衛力とは抑止力であり反撃力なのですから。》
 と、義憤にかられるように付け加えている。なんとなく、国家観の「紛争」と個人間の「争い」とを同列に考えているみたいで、同じ次元で言葉を交わすのは、とてもできないと感じている。

 こういう方が「持論」を展開すると、たぶん、聞く耳をもたないのではないか。私なぞは、「平和ボケ」といわれても仕方がないほど、戦後の社会をボーっと生きてきた。それは、あの戦争をした親世代の「遺産」のように思うし、その「遺産」を受け継いでこそ、戦後の経済一本やりの日本社会の展開があったとみているからだ。

 だから「持論」がどこから繰り出されるかによって、やり取りが交わせるかどうかが分かれる。まして、「持論」を聞きたいわけではない。どうしてそう考えるかの根拠を聞きたいのだが、「確信」をもった方は、たいてい、ご自分の「確信の根拠」は自明のこととして、振り返ろうともしないことが多い。
 
 そういうわけで、また私の人付き合いの悪さは、いっそう亢進しそうなのだ。困ったものです。