mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

着実に年を感じる――赤鞍ヶ岳・菜畑山

2019-02-28 13:34:07 | 日記
 
 昨日(2/27)、中央本線に沿うように、相模湖の南側から大月へと西に延びる山塊に並行するように走る道志山塊の赤鞍が岳(朝日山)と菜畑山に登ってきた。どこの本であったか、この赤鞍ヶ岳1299mを「道志山塊の東端に位置する盟主である」と記していた。しかし私が思うに、道志山塊には今倉山1470mや御正体山1681mがある。どうして赤鞍ヶ岳が「盟主」なのか、わからない。ただ、道志村役場は、この赤鞍ヶ岳を背にして位置している。また今倉山は都留市に属しているし、御正体山は道志村の西端、山頂を都留市と境を分けているから、「盟主」といわなかったのかもしれない。お膝元ならぬ、村の後背に位置する「ご神体」と考えると、まさに「盟主」である。
 
 朝9時ころ、その道志村役場前に着いた。「来客用駐車場」に車を止める。役場に入って、車を止めることを断り、トイレを借用できるかを尋ねる。快く了承してくれた。二週間ほどのちに、ここを案内する予定で、下見に来たのだ。少し詳しく言うと、3年半前の秋にこのルートを歩いている。今回は、雪が残っているかどうかをみようとやってきた。
 
 9時15分、歩きはじめる。登山道入り口、標高590mを入ってすぐに林道をショートカットするルートが、国土地理院地図には記されている。その分岐には、シカ除けの柵があり、人が手で開け閉てする鍵がつけられている。以前来たときには林道を上った。ま、下見だから近道も見ておこうと、鍵を開けて入る。その先は枯れたカヤトが立ち、踏み跡もはっきりしない。土が崩れている。その上の急斜面は倒木が道をふさぐなどして、歩きにくい。上の林道はすでに舗装ではなく、小石がごろごろしている。その先に、「←赤鞍ヶ岳」「←朝日山」の二つの表示が別々の柱につけられている。じつは、国土地理院地図は「赤鞍ヶ岳1299」と記す。昭文社の地図は「朝日山(赤鞍ヶ岳)1299」と表示し、その東に別に「赤鞍ヶ岳1257」もある。どちらが「ご神体」の地元山名なのかわからない。
 
 スギ林の中を、やはり急な傾斜の上りがつづく。出発して30分ほどで、稜線に乗る。だがそこからが、本格的な急斜面。1299mの山頂手前の「秋山峠」まで、この傾斜はいっそうきつくなりつつつづいていた。山頂着11時ちょうど。1時間45分。コースタイムは2時間15分だから、30分ほど早い。3年半前には1時間半と記録しているから、15分余計にかかっている。これが私の高齢化がもたらす衰退スピードだ。
 
 山頂から西へ向かう。大きく降ってまた上り、岩殿山を経て再び下ってまた上って岩戸の峰(高丸)1288mに着いたのは、11時45分。ここで15分ほどとってお昼にする。出発したのは12:01。本坂峠(道志口峠)と名のついた、道志村へ下るルートの一つの分岐が、12:17。赤鞍ヶ岳の山頂からここまでが、コースタイムは55分。お昼を差っ引くと、7分余計にかかっている。つぎのマークポイントであるブドウ岩の頭1224mで前回はお昼にしたのだが、ここの通過時刻が30分遅れている。
 
 前回は、秋の紅葉をカメラに収めている。奥深い峰々の合間に漂う雲とともに鮮やかなカエデの赤や黄色の彩が美しい。今回は枯葉のあいだから道志山塊の峰々がくっきりと見える。アップダウンは相変わらず続き、出発点と最高標点の差、700mの登頂以上に、追加の上り下りが500mくらい加わりそうだ。菜畑山への上り下りでは、さすがに音を上げそうになった。前回はストックを突く様な登り方をしていなかったが、今回はストックを最初から終わりまで使い続けた。
 
 菜畑山1283m着13:25。ブドウ岩の頭からのコースタイムは1時間だから、55分でやってきたことになる。悪くない。菜畑山の標識が新しくなっている。前回は朽ちかけ倒れかかっていた。ここからは下り一方。20分ほどでTV中継塔に出る。前回は、ここから舗装林道を通らず斜面を降ってショートカットした記憶があった。そのルートを探すが、倒木で荒れてわからない。でも踏み込んだからと探してみる。なんとか林道に下る地点を見つけ、木につかまり、脚を降ろす。
 
 舗装林道を少しゆくと、大きく降る山道に入る。ここも急傾斜だが、広い斜面だ。やはり枯れたカヤトが現れ、高圧鉄塔の下をくぐるようにして、さらに下ってゆく。山体をトラバースするように下り、「←菜畑山・大久保→」の看板のところで、南の沢の方へ道をとる。沢を渡り和出村へ下る。南に面した山肌を拓いて畑をつくり、人が住み着いてきた。家屋が明るい陽ざしに照らし出されて、ここに住む人たちの安定した心もちを表しているように見える。14時40分道路に降り立つ。そこから車道を20分ほど歩いて出発点に着いた。13:10.出発してから5時間59分。
 
 前回は、お昼を除くと5時間で歩いたとある。そう計算すると、今回は5時間45分かかっている。この差、45分が私の3年半の衰退指標である。私の身体チェックのための下見であった。雪はなかった。

外部・他者を内蔵している

2019-02-28 09:26:11 | 日記
 
 昨日(2/27)の朝、新聞の「文芸時評」を見て感ずるところがあったのだが、ちょうど山に出かけるところだったので、そのままにしておいた。歩いているうちにすっかり忘れ、今朝、ふと思い出してこれを記している。
 
 磯崎憲一郎は郡司ペギオ幸夫『天然知能』を取り上げ、人間の知覚可能なすべてを数量に置き換えて「人工知能化」するコンピュータの知性と対照して、「外部」を媒介項としてとりだす。
 
《それに対して、見ることも聞くことも、予想することすらできない、しかし間違いなく存在する「徹底した外部」を受け容れ、その「外部を生きる次元」にまで踏み出す知性こそが「天然知能」であると、著者は定義する。》
 
 つまり人の心裡には「外部」がある、と。知覚可能なことでも数量に置き換えることが出来ない、コンピュータの計算処理の速さでは及ばない「内なる外部」を人間固有の知性としてとりだして、それに「天然知能」という名を冠したのだ。面白い。「超越的なもの」と哲学世界で謂われていることこそが、人間固有の知性だという。自らを対象化し、外から見つめる視線。それが人間の出発点であったと、旧約聖書はエデンの園の物語を通して、語り継いできた。そのときの「超越性」とは「神」であった。

 だが、神が人と同じ地平の延長上にあったり、絶対神なき里の日本では、神は超越性というよりは出自の淵源を意味し、自らを対象とするよりは、自らの正統性を明かすことのようにみなされた。
 この、西欧と日本の「超越性」の違いを「自然観の違い」としてとらえ、組み直そうとしていた哲学者が木田元『反哲学史』ではなかったかと、私は記憶している。ま、その権威的由来はさて措いておこう。

 では、日本の自然観からは、どのように「超越性」が組みだされてきたのだろうか。死者の世界から生者の現在を見る視線である。黄泉平坂を駆け下るイザナギの振舞いを原点に、死の世界との対比をすることを通して、生きている私たちの現在の、いわば「遠近法的消失点」として「彼岸」を思い描き、そこから対照して己の現在を位置づけるというのが、絶対神なき里の人々の「超越性」であり「外部」であった。つまり、日本的自然観を持つ庶民にとっては、自らをも自然存在として位置づけ、いずれ自然に還ると同時に、ことごとに魂の宿る万物、八百万の神が取り囲み観ているという視点を内蔵する。それがのちに謂う「知性」となったといえる。
 
 磯崎憲一郎は、古井諭吉の小説に言及して、
 
 《文学的達成ともいうべきこの作者独自の語り口で、枯れていながら生々しくつややかに、止め処なく生成されるこの作品は、同じ作家の端くれとしてほとんど確信を込めて言うのだが、予め構想されて書かれたものではない。創作の渦中にある作家にとって、新たな文章とは、そこまでの文章を書いたことによってそのとき初めて見出される、苦労して切り拓くことによってそこで漸く出会う、正しく未知なる「外部」なのだ。》
 
 と、感懐を込めて書き記している。そうしてそれをまとめるように、「むしろ私の内部に、外部・他者を内蔵している」と、『天然知能』の言葉を引用する。
 
 磯崎の支援の届く奥行きと、受け止める私の感懐とは、その深さがはるかに違う。だが、日ごろ私の心裡が落ち着きどころを求めて表白していた一つの問題に、入口が開かれたような気配を感じた。

私の平成時代(4)大正教養主義の崩壊へ

2019-02-26 20:12:55 | 日記
 
 平成時代になって、社会の治安を保つ方法が大きく変わって来た。大雑把な分け方になるが、「昭和時代」は、社会学の用語によると、「規律訓練型」であった。教育を通じて、一人前の社会人としての振る舞い方を身につけていく、と考えられていた。学校教育がそれを担うと考えられていたのだが、私たち自身が子どもであった当時(昭和20年代~30年代)は、教養を身に着けることが人格的に己を高める道と考えられていたから、学校での知識教育が、すなわち、人間形成と同義語であった。いま振り返ると、これは、大正教養主義の名残であったのかもしれない。
 
 名残というのは、こういうことだ。すでに日中戦争や太平洋戦争の敗戦を通じて、国家と社会が分裂し、人々は、国家指導者=為政者というものが自分たちを守るものとは思わなくなっていた。だが、大正時代デモクラシーといわれた教養主義の大衆化、女子教育の広まりなど、昭和前期に社会を席巻した社会的な気風を吸って育った人たちは、国家指導者が混沌のなかに霧散したとき、自分の身に染み込んだ社会の気風を信じて、生き抜いていくしかなかった。その人たちが、戦中生まれ、戦後育ちである私たちの親であった。こうして、戦後前期をひと時代としておいて戦後後期と区別するならば、隔世遺伝的に、戦後後期を自分の時代として精神形成してきた私たちに、大正教養主義は受け継がれたといえるのかもしれない。
 
 話を元に戻そう。学校でしっかり学んで、真善美を身に着けることが人格の形成の第一歩という教養主義的な考えは、戦後アメリカから持ち込まれた新憲法下の、民主主義や人権思想や平和主義ともうまく馴染んで、私たちの学校教育を彩った。善し悪しはさておいて、私たちのアイデンティティは、この場でかたちづくられたのであった。だから、特別な「規律訓練型」の何かをすることが必要だとは考えられていなかった。人として自立/自律すること、一人前の社会人になることが、すなわち人格の淘汰と同義であった。人として尊重されるに値する人間になる。それは、教養を身に備えた人間形成を果たすことであった。
 
 ところが私が教師として学校の現場に身を置いた十年後、1970(昭和45)年代の半ばにはすでに、教養主義的な気配はすっかり姿を消し、学校は知識の切り売りとでもいうような、役に立つ知識の伝達を期待されるばかりになり、成績(能力)によって生徒を社会階層に配分する装置になり下がっていた。それは、「高校全入」という、「中流社会日本」の一つの結果とともに、学力別による高校の格差を生み出し、いわゆる「底辺高」では、学習どころか、日々生活指導に追われる実態を生み出していた。
 
 そうなってはじめて(教師として)気づくのだが、じつは文部省(当時)が規定する教師の「正規の仕事」には、「生活指導」は組み込まれていなかった。「生徒指導」という素行不良の生徒を指導することや、生徒の所属するホームルームに対する「特別活動」という名の、いわば、余分な手仕事という雰囲気で、端っこに置かれていた。高名な大学を出た数学の女性教師が、定時制高校に赴任して最初の授業を行い職員室に戻ってきて、「こんなことを教えるために教師になったのではないのに」と涙を流したのが、忘れられない。つまりこの時代の大半の教師は、「生活指導」をするために教師になったとは、思ってもみなかったのである。
 
 さて話は、飛ぶ。1970年代の後半から1980年代にかけて、日本の社会は、高度経済成長を果たし、車の生産でアメリカを追い抜いて世界のトップに立ち、ジャパン・アズ・ナンバー・ワンといわれる工業国に躍り出た。人びとの暮らしも、人類史上これほどの多くの国民が(おおむね一様に)これほど物質的に豊かな暮らしを営んだことはなかったと言われるほど、高度な消費生活社会を作り出した。その頂点で昭和時代後期が終わったのであった。
 
 じつはその高度消費社会を実現するまでの、経済社会の主たる担い手が、私たちであった。そして、その最中で私たちは、子育ても行った。ちょうど大正デモクラシーの空気を吸って育った人たちが私たちの親であったように、産業社会の高度化と一億総中流といわれる大衆消費社会を作り出した空気を吸った私たちの子どもが、「非行・暴力・登校拒否」の学校を席巻したのであった。
 
 じつは私の書棚に『非行・暴力・登校拒否―子どもたちの不安―』という新書本があった。1981年に三一書房から発行されたもの。1970年代の半ばから「激増した」という表題のような事象のケースを取り上げたものであるが、この書名は、いま振り返ると、昭和時代の名残のような響きを持つ。というのも、昭和が終わって平成になってみると、「不良」や「虞犯」は消えてなくなり、「非行」や「暴力」は「ふつうのこどもたち」の所作になっていた。
 思えば私たちの戦中生まれが青少年の時代には、ヤクザはヤクザ、不良は不良であった。カタギとか真面目とは、自ら一線を画して振る舞っていた。だが本書に取り上げられている「非行」や「暴力」は、ごくふつうの子どもたちに現れている。この時期の「登校拒否」は後に「引きこもり」となって、ごくふつうにみられる事象になった。この変化は、なにを意味していたであろうか。
 
 私たちが子どものころの社会は、戦争と敗戦の混沌を経て、貧困も、差別も、社会的抑圧も、どこにでも見ることが出来た。いうまでもなく人は皆、違っていた。だから逆に、落ちぶれるも這い上がるも、自らの身を立てるのは自身の決意次第と、世の人々は思い定めていたのであった。もちろん誰もが、本人の意思次第とはいかない。運不運も、当然のことのようについて廻った。だから、社会体制のせいにしたり、世の中の移り変わりに受け容れられない世間の非情に悪態をつくこともできた。
 
 ところが、1970年代後半の一億総中流時代は、文字通り、あらゆることを個々人の能力や努力やのせいにしてしまった。人を評価する尺度が「能力」一本やりになり、それを反映する学校歴が社会的なステータスと考えられるようになり、出来の悪い生徒たちは自らを責める以外に、憤懣の持って行き場がなくなってしまったのであった。そう言えば、いま大臣をしている東大卒の女性が、いつであったか、自分が大学受験の全国模試で一番を3回とったと(やはり優秀で都知事まで務めた元夫が1回だったことを嗤って)自慢話をしている記事があった。あるいはこんな話も思い出す。村上春樹がニューヨークへ行ったとき、大蔵省か通産省から派遣された優秀な官僚が共通一次試験で何点取ったと自己紹介したので呆れたという話を書いていたことがある。調べてみたわけではないが、これらの方々もたぶん、1970年代の後半に高校時代を過ごしたと思うが、ことほど左様に(最先端の優秀な人々でさえ)「能力」以外に自らを明かす言葉を知らない時代がやってきていたのであった。
 
 これは、昭和時代後期に精華をみせようとしてきた大正教養主義の見事な末路を示していたと、いま、私は思う。それがどう、規律訓練型の社会秩序の崩壊と関連するのか。それはまた、別の機会に考えてみましょう。(つづく)

無意識の「わたし」――「だてに年を取ってんじゃねえよ」

2019-02-25 07:43:12 | 日記
 
 先日「メンドクサイという劣化」と書いた。今朝寝覚めに、「それは劣化か」と、どこからか声が聞こえた。「えっ? じゃあなんだ?」と「わたし」が反応したら、「それって無意識なんじゃないの」と半醒半睡の迷妄の中から返ってきたように思う。
 
 「劣化」というのは、「そうでない状態」を標準ととらえているところから出てくる言葉。とすると、なぜ「そうでない状態」を標準としているのかから、応えなければならない。たいていそれは、「わたし」が若かりし頃とか、世間の元気な人とか、つまり「ふつうのありよう」を想定している。逆にいうと、自分が勝手に想定した標準から現在の「わたし」を観ているのだ。
 
 だが「わたし」は、時代と年齢と身を置いた状況によって、移り変わる。変異するのを自然と考えたら、「ふつうのありよう」を規準にするのは、おかしい。つまりメンドクサイは劣化ではなく、身体の自然な反応である。「わたし」の無意識が反応している。良いか悪いかは、どこからみているかによって違ってくる。
 
 何に対する反応か。身のまわり、置かれている状況、環境に対する反応。それは、今現在に適応しようとしている「わたし」に対する無意識の応答である。メンドクサイという応答は、今現在が「わたし」に要求していることを無意識が嫌がっているのかもしれない。若いころは状況に身を合わせるのに腐心してきた。「できないことはない」と叱咤激励して、向き合っていると、それなりに「できた」りしたものだから、ますます励んで適応してきた。だが、そうして70有余年経ってみると、どうしてそれほどまでに今現在に適応しようとしたのかと疑念が湧く。疑念というのは(なにがモンダイなのかわからないが)意識的な作業であるから、これは、反省といえるかもしれない。
 
 だが、メンドクサイは、疑念の前の段階に生じる無意識の示す態度だ。今現在自体が移り変わっている。適応しているうちに「わたし」自身も変化する。この変化する「わたし」は意識の私であるから、無意識と「わたし」が乖離するともいえる。それに無意識が抗っている、と考えることはできないか。高齢になって無意識が抗うというのは、物心ついてのちに身に着けてきた感性や感覚や意識と違って、遺伝的な形質や環境による心の習慣や振る舞い方が、自ら刻苦勉励してかたちづくってきた「わたし」を批判している姿でもある。
 
 ひとつモンダイが浮かぶ。高齢になって、どうして先祖返りのようにひととしての出発当初に受け継いだものが表面化して来るのか。長年の意識的な「わたし」が、抑え込んできた無意識によって逆襲を受けるとは、どういうことか。なぜなのか。
 
 「無意識は高い知能を持っている」と橘玲が紹介している(『もっと言ってはいけない』新潮社、2019年)。それによると、「これ(無意識の反応)は緊張や警戒の合図で……進化論的にいうならば、私たちのこころは、面倒なことを無意識に任せることで最も効率的に働くように設計されている」と。適応的無意識と心理学ではいうらしいが、橘玲はこれを「暗黙知」と呼んで、「職人の知恵」になぞらえている。
 
 知能かどうかはわからないが、無意識が「警戒の合図」をだすことは、山を歩いていてときどき経験する。岩場や雪の斜面、急傾斜の下り。「危険だよ」とビビる。股間がぞくぞくする。皮膚がゾワリとする。身が引き締まり、緊張して、慎重に通過する。
 
 それとは逆の反応にみえるが、メンドクサイは、「やってはいけない」と混沌の「せかい」から無意識が声をあげている。「それ」をやってはいけないと、断片的な指摘をしているわけではない。あれもこれも含め包括して、「きけん」信号をだしている。そう考えると、ちゃらんぽらんであったり、いい加減だったり、怠け者であることも、また、無意識の反応と考えると、時代そのものの進行変化に「きけん」と呼びかけていたように読むことが出来る。ゴミ屋敷と呼ばれたりするものも、使い棄て文化に対する無意識の「警告」かもしれない。片付けが苦手というのも、この理屈を使うと、合理化できるかもしれない(笑)。
 
 そういう無意識が健在であった時代が、終わりかけている。デジタル時代になって、ことにそう思う。何につけ、白黒はっきりつけ、明快で分かりやすいことが奨励され、優柔不断が嫌われる。メンドクサイも、不適応の証拠のように「劣化」と診断される。その時代の進展そのものが「きけん」であるとホモ・サピエンスの無意識が「警告」を発している。
 
 そう考えると、「だてに年を取ってんじゃねえよ」とチコちゃんに反駁することもできるかもしれない。

メンドクサイという劣化

2019-02-23 19:45:33 | 日記
 
 鷲田清一が「折々のことば」(2/23)で《そう「健常」が「障害」になっているのだ!  稲垣えみ子》を引いて、こう続けている。
 
《例えば老いて、「できない」ことだらけになってはじめて「できる」こともあるのに、人は「人生を否定される側」にまわらないかと怯え、「できない」ことをもぐら叩きのようになくそうとする。……》
 
 つまり人は、「健常者」の側に身を置いて自らを測る。それが自らを追い詰めていくことになるというわけだ。「健常者の側に身を置く」というのは、若かりし頃の自らをスタンダードとしている。

 先日山を歩いているときに、今でもアスリートを育てていて、かつてトップアスリートでもあったKさんは、身体の劣化を考えると暗くなると話す。これを聞いたある女性は、
「ええっ、どうして? 喜寿になってまだマラソンに興じているなんて、すごいじゃない?」
 と驚いている。還暦を迎えて仕事をリタイアし、山に旅にと忙しい彼女にすると、毎日が挑戦の連続。新しい体験を一つひとつ達成しただけで、充足感に充たされてアカルイ。なんでクラクなるの? というわけだ。

 だがKさんは、かつての自分を参照している。歳をとると着実に、記録は落ちるし、バランスは悪くなる。疲れも長引くから、参照先を換えない限り、クラクなるのは当然の結果だ。ところがこの女性の方は、かつて経験したことのないアウトドアに挑んでいる。毎回、新しい体験だから、参照先がかつての自分であっても、落ち込んだりはしない。あるいは一般的なタイムやコースであっても、年齢相応以上を達成していると思えば、十分充実感をもてるってわけ。
 
 年を取ってわが体に現れる事象は、「できる/できない」ではない。段々やることを後回しにしたり、手を抜いてしまうことだ。つまり、メンドクサイという身のもたらす気分が「できなくさせている」のだ。「健常」が「障害」になるというのと違って、それまではわりと容易に取りかかっていたことが、さりげなく先送りにされている。たとえば、「トリセツ」。新しい商品を買って取扱説明書を読むのが、メンドクサイ。あるいはその商品の動きがうまく運ばなかったときにトリセツを読んで、調整したことを、忘れてしまう。その都度読むのがメンドクサイ。
 
 これはひょっとすると、アナログ世代の私たちは、トリセツを読むよりも、だれか人から教えてもらった方が性に合うのかもしれない。スマホの電話がかかって来た時、受けることが出来なかった。ぽん、ぽん、と何度押しても、つながらない。どうやったらいいのかわからない。若い人に聞いたら、笑いながら、画面に指をあててスーッと横になぞる。そうして、受けることが分かった。このわかり方も、スマホの扱い方に馴染めないからではあるが、たぶん体で覚えるのを自然と感じて育ってきたからではないか。歳をとると、無意識が大きく身を動かす。アナログの育ちに戻っているのだ。
 
 メンドクサイという気分に支配されて、身体が思うように動いていないのは、ではガンバッテ身体を動かせばいいのかというと、そうでもない。無理をすることが身に合わない。そういう自分の身の移り変わりに思いを致す。それこそが年を取ることの、自然の極意ではなかろうか。