そぼ降る雨。寒くはない。土曜日の午後とあって、電車の乗客もゆったりしている。相変わらず東京を走る電車には、人がいっぱい乗っていて、駅ごとに乗り降りする人が多い。旗の台の駅に降り立つころには雨も小やみになっている。下町の商店街という感じ。通りの正面、突当りに見上げるように立っているのが昭和大学病院。その最上階へ足を運ぶ。今日は第11回目のSeminarの日だ。
会議室を開けると丸いテーブルの上に、楽器ケースがいくつも置いている。部屋の隅にはむき出しのファゴットが立てかけてある。吹奏楽器のようだ。誰もいない。はて困った。病院の入口には「演奏会」の案内があった。その人たちの楽器なのだろうが、どうしたものだろう。隣の部屋から出てきた女性に声をかけると、男子部員のものという。とりあえず何人もが出てきて、別の部屋に片づけてくれた。あとで分かったのだが、彼らは2部屋を借りていると誤解していたようであった。昭和大学の佐藤さんが事務局と細かいやりとりをしてくれて、学生さんたちも快く応対していた。
今回は15人参加。円卓がきっちり埋まった。最初に大柳さんから「台湾の体験」を話してもらう。大陸から来た国民党が大量虐殺をおこなったこと(2・28事件)もあってか、台湾人の対日感情はとてもよい、と。その話を糸口に、外務省ホームページに掲出している「中国への好悪感情の推移」を取り上げる。1979年から2012年までの変化。1980年に「親しみを感じる80%/親しみを感じない15%ほど」が、2012年「親しみを感じる18%ほど/親しみを感じない80%」へと、逆転している。どうしてだろうと話題になる。
「外務省の役人のデスクワークだよ、これは」とTくんが手厳しい。「中国に行ったことのある人の調査でもすればいいんだよ」、実際に接触した人であれば、好悪の感情ははっきりする、と。つまり、1980年以前はさほど行き来がないから、好感を持つ人が多い。漢文とか「三国志」や「水滸伝」という物語を通して知的な雰囲気で交換を抱いていた人たちも、実際の中国人に接してみると、辟易する振る舞いが鼻に着いてしまうだ。「なにしろ金勘定にずるく、周りのことなど何も考えないのよ」という方もいる。これは逆に、「私の知っている中国人はいい人よ」ということにもなる。でも、どうしてそのように人と対するのだろうか、と疑問を持つところから、次の問題に入る。
王朝が交代したり軍閥が抗争する世界に暮らしている庶民は、自らの暮らしは自らの手で守らなければならなくなる。その身を守る「幇/帮(ほう)」というネットワークがある。同族であったり同業者であったりする人たちが、帮によって、何かあった時の相互助け合いをする。それは逆に「幇」以外の人たちはまったくの「他者」であって、ちょうど私たち日本人が「外人」と名づけるのと同様に、心遣いをする必要を感じない。中国人の振る舞いを謗るよりも、そういった振舞いをしないで済んでいる私たちの(海に囲まれてきた島国の)幸運を寿いだ方がいいと話が転がる。
「他者」とか「外人」と向き合うということで、哲学者の中島義道が『ウィーン愛憎』で紹介している話が出た。下宿の家主や駅の切符売り。彼らは故障している直してくれ、とお願いしたとき、(故障のことは)知っている、直そうとしていたところだと応ずる。知らなかったというと、瑕疵が問われるからだ。駅の切符売りも、中島が言った行き先と違うと切符を突き返したところ、お前がそういったと頑として譲ろうとしなかったことを、「愛憎」として書き記している。つまり、知らない相手と向き合う時、どんなことでも、まず自分に瑕疵がないことを言いたてる。そうしたいと、付け込まれ、負けてしまうというわけだ。
「そうだよ、日本人は甘いんだよ」と声が上がる。「日本人も、もっと言ったほうがいいね。」と声が付け加わる。「相手がとてもひどいレベルで応じると、それと同じレベルに降りてものを言うのをはしたないと日本人は思うけど、そこまで降りてやり取りしないと、喧嘩にならないんだよ」と、(たぶん)仕事現役のときに味わった苦い思いを噛みしめているのであろうか、口調が鋭くなる。
ほんとうに、海に囲まれて(外敵から脅かされることなく)そこそこ平和に暮らしてきた日本の人々にとって、人はみな同じ共同体の同胞という感覚が体に沁みついているのであろう。それは幸運であったと同時に、グローバル化する世界の中では、成り立ちゆかない気質になってしまったと言えるようであった。(突然ですが、つづく。)
PS:ちょっとした都合があって、急に、明日から岡山へ行かなくてはならなくなった。5日まで(つづき)を書くことができない。ごめん。