mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

第11回Seminarのご報告(1) 他者と向き合ってこなかった私たち

2014-11-30 20:34:21 | 日記

 そぼ降る雨。寒くはない。土曜日の午後とあって、電車の乗客もゆったりしている。相変わらず東京を走る電車には、人がいっぱい乗っていて、駅ごとに乗り降りする人が多い。旗の台の駅に降り立つころには雨も小やみになっている。下町の商店街という感じ。通りの正面、突当りに見上げるように立っているのが昭和大学病院。その最上階へ足を運ぶ。今日は第11回目のSeminarの日だ。

 

 会議室を開けると丸いテーブルの上に、楽器ケースがいくつも置いている。部屋の隅にはむき出しのファゴットが立てかけてある。吹奏楽器のようだ。誰もいない。はて困った。病院の入口には「演奏会」の案内があった。その人たちの楽器なのだろうが、どうしたものだろう。隣の部屋から出てきた女性に声をかけると、男子部員のものという。とりあえず何人もが出てきて、別の部屋に片づけてくれた。あとで分かったのだが、彼らは2部屋を借りていると誤解していたようであった。昭和大学の佐藤さんが事務局と細かいやりとりをしてくれて、学生さんたちも快く応対していた。

 

 今回は15人参加。円卓がきっちり埋まった。最初に大柳さんから「台湾の体験」を話してもらう。大陸から来た国民党が大量虐殺をおこなったこと(2・28事件)もあってか、台湾人の対日感情はとてもよい、と。その話を糸口に、外務省ホームページに掲出している「中国への好悪感情の推移」を取り上げる。1979年から2012年までの変化。1980年に「親しみを感じる80%/親しみを感じない15%ほど」が、2012年「親しみを感じる18%ほど/親しみを感じない80%」へと、逆転している。どうしてだろうと話題になる。

 

 「外務省の役人のデスクワークだよ、これは」とTくんが手厳しい。「中国に行ったことのある人の調査でもすればいいんだよ」、実際に接触した人であれば、好悪の感情ははっきりする、と。つまり、1980年以前はさほど行き来がないから、好感を持つ人が多い。漢文とか「三国志」や「水滸伝」という物語を通して知的な雰囲気で交換を抱いていた人たちも、実際の中国人に接してみると、辟易する振る舞いが鼻に着いてしまうだ。「なにしろ金勘定にずるく、周りのことなど何も考えないのよ」という方もいる。これは逆に、「私の知っている中国人はいい人よ」ということにもなる。でも、どうしてそのように人と対するのだろうか、と疑問を持つところから、次の問題に入る。

 

 王朝が交代したり軍閥が抗争する世界に暮らしている庶民は、自らの暮らしは自らの手で守らなければならなくなる。その身を守る「幇/帮(ほう)」というネットワークがある。同族であったり同業者であったりする人たちが、帮によって、何かあった時の相互助け合いをする。それは逆に「幇」以外の人たちはまったくの「他者」であって、ちょうど私たち日本人が「外人」と名づけるのと同様に、心遣いをする必要を感じない。中国人の振る舞いを謗るよりも、そういった振舞いをしないで済んでいる私たちの(海に囲まれてきた島国の)幸運を寿いだ方がいいと話が転がる。

 

 「他者」とか「外人」と向き合うということで、哲学者の中島義道が『ウィーン愛憎』で紹介している話が出た。下宿の家主や駅の切符売り。彼らは故障している直してくれ、とお願いしたとき、(故障のことは)知っている、直そうとしていたところだと応ずる。知らなかったというと、瑕疵が問われるからだ。駅の切符売りも、中島が言った行き先と違うと切符を突き返したところ、お前がそういったと頑として譲ろうとしなかったことを、「愛憎」として書き記している。つまり、知らない相手と向き合う時、どんなことでも、まず自分に瑕疵がないことを言いたてる。そうしたいと、付け込まれ、負けてしまうというわけだ。

 

 「そうだよ、日本人は甘いんだよ」と声が上がる。「日本人も、もっと言ったほうがいいね。」と声が付け加わる。「相手がとてもひどいレベルで応じると、それと同じレベルに降りてものを言うのをはしたないと日本人は思うけど、そこまで降りてやり取りしないと、喧嘩にならないんだよ」と、(たぶん)仕事現役のときに味わった苦い思いを噛みしめているのであろうか、口調が鋭くなる。

 

 ほんとうに、海に囲まれて(外敵から脅かされることなく)そこそこ平和に暮らしてきた日本の人々にとって、人はみな同じ共同体の同胞という感覚が体に沁みついているのであろう。それは幸運であったと同時に、グローバル化する世界の中では、成り立ちゆかない気質になってしまったと言えるようであった。(突然ですが、つづく。)

 

 PS:ちょっとした都合があって、急に、明日から岡山へ行かなくてはならなくなった。5日まで(つづき)を書くことができない。ごめん。                          

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補足・「絶対無の場所」

2014-11-29 08:57:33 | 日記

 佐伯啓思『西田幾多郎――無私の思想と日本人』(新潮新書、2014年)に関する昨日のコメントは言葉足らずであった。「絶対無の場所」とはいったい何か。

 

 モノゴトを見て取るとき、いったい自分(私)はどこに立ってそれをみているのかが、必ず問題になる。ヨーロッパでは、世界の創造主である絶対神の前に立つ「私」は、容易に自らを定立できた。定立するというのは、自らを見つめる視線を据える超越的な基点が定まることである。どういうことか。私は「私」自身を自らの内側からみることはできない。自らを見つめるとは、世界の中に位置づけることである。それは自分を超越する地平に視点をおいて世界を見つめ、その中に「私」の地点をおくしかないからである。

 

 佐伯は、ヨーロッパ哲学は絶対神を創造主とすることによって、みている「私」の視点をそこに預けたとみる。むろん絶対神は(社会的に)共有されていたから、「我思うゆえに我あり」とすることで、「私」がそれ以上問われることはなかった。「私は、私である」と単純にいうことができた。その結果、超越的な地点から見て取ることを客観的と呼び、その方法を理知的作用とみて科学や化学の発展を成し遂げてきた。それは社会科学の分野にまで及んできた(逆にその結果、「私」が消去され問題にされなくなったことが、社会科学の分野では大きな問題を醸すことになるのだが)。

 

 ところが、絶対神をもたない(日本にいる)人たちにとっては、客観的とは「他者」を意味した。近代科学の来歴からすると、最初の「他者」はヨーロッパであった。自分以外の「私」とは異なる地平であるヨーロッパに視点をおいて見てとろうとする科学の方法は、未だにヨーロッパ流とその洗練された後継のアメリカ流が席巻している。だが絶対神をもたない人たちは、欧米言語に翻訳する以外には、どうやっても相対的な域を脱することができないと、切歯扼腕してきたのである。その壁を西田哲学の「絶対無の場所」が打ち破ったのではないかというのが、佐伯啓思の指摘するところである。

 

 西田は《「私」なる実体は存在しないとして一度はそれを否定して「無」の場所へ送り返して、そこに映されて初めて「私」が出てくる》とみる。それを西田は、「私は、私でなくして、私である」と表現する。その指摘はさらに、西洋文化は「有の文化」「有の論理」、日本文化は「無の文化」「無の論理」と対比させることにつながっていると展開するのだが、西田幾多郎が存在論の基底にたどり着いたのちに、仏教文化の到達地点(親鸞)を組み込んで「絶対無の場所」という地平を見出したと、私は感じとった。

 

 この指摘によって、ひとつはものを考えるという実践的な場面で「超越的な視点」と「他者」とがどう関係しているかが見通せるようになった。もうひとつは、思索の世界ではるかに遠くへ来ていると(私が)思う仏教の言説が西欧哲学と噛みあう次元を見出した、と思ったのである。それは、長い間の径庭を経て私の内的な断片が一つにまとまっていく予感と軌を一にしている。

 

 《「無常ということ」を潜り抜けた地平に、坦々とした暮らしの(価値的にどうかということなどどちらでもいい)継続がある、そういうのが自然法爾の人類史だという文化を、垣間見たような気がした》と昨日最後に述べたのは、上記の感触を得たのちの感懐であった。と同時に、一昨日記述した「陰の世界」「陽の世界」という現代文明との対比のなかの、日本の中世の精神的ありようも、思考の中に組み込まれていくように予感している。  

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自然法爾の人類史という文化

2014-11-28 17:16:30 | 日記

 来月の月例登山の案内ができないので、その準備を整えて、若い人にガイドを頼むことにしている。レンタカーの予約や地図や「山の会の通信」の来月号を制作して、必要部数のコピーをとる。先ほど、若い人に手渡すことができた。

 

 明日は2か月に1回のSeminarがある。早いもので、もう11回目、もう1回やれば2年続いたことになる。その「資料」を制作する。「パワーポイントを使うなら準備しますが……」と会場設営の担当者から声を掛けられたが、残念ながら私は、パワーポイントを使ったことがない。確かにあれを使うと、聞いている人の目線は集中する。TVのように図版を多用して、今年1月の「宇宙の謎」を概括したSeminarも分かりやすかった。だが今回は、そこまで技術習得をする気分になれなかった。

 

 レジュメはA4判で6ページ。外務省のホームページやWikipediaやJETROのサイトからとった図表がカラーなので、その部分を2ページ分にまとめ、他はモノクロコピーにしてコピー代金を節約したりしている。7月からメモふうに書き留めてきた文書、「主婦の髪結い政談――東アジアの困ったモンダイ(1)」は、全15回、A4判で31ページに及ぶが、これはSeminar関連のブログに掲載してきた。読んでいる人は、(たぶん)10人に満たないであろう。いまさら「資料」として提出しても、(たぶん)誰も読まない。むしろじかに話をしてすすむやりとりが、思わぬ「傾き」が聞けて面白いと考え、レジュメに絞った。今回は、Seminar開始以来最大の参加者になるというし、ビビッドな問題であるから、皆さんの口が滑りやすくて、面白い展開になるのではないかと愉しみにしている。

 

 合間に手に取っていた佐伯啓思『西田幾多郎――無私の思想と日本人』(新潮新書、2014年)を読みおわった。面白かった。佐伯は「学生に尋ねてみても、丸山真男も小林秀夫も……名前を知っていれば有難いくらい」と嘆いている。私も嘆かれた口になろうか。西田幾多郎は高校生の時に『善の研究』を手に取ったことがあったが、なぜこんなことをこんなふうに論じるのか、視界が見通せずに途中で投げ出してしまった覚えがある。哲学的な「論題」がどこから発生し、どこへ向かって論理が展開されているのか、皆目わからない。五里霧中であった。それがいまなら、佐伯啓思の噛み砕いたのを通じてだが、さしたる抵抗なく入ってくる。むしろ佐伯の例示する展開が(余計な要素を取り込んでいて)わずらわしいと思うほどだ。これは「経験」の積み重ねゆえなのだろうか。それとも、そうした「論題」に慣れ親しんだからなのだろうか。おそらくどちらも正解ではない。読み取ろうとするテキストが「わからない」のは当たり前、自分がどう読み取るかがモンダイ、と見切るようになっているからだと思う。「わからない」とわかれば、それはそれでいいと自分を見切っている。断念とも違う、諦念とも違う。バカの壁と言われれば、そうかもしれないと思うが、そういう自分を別に嘆くわけでもない。「世界」はその程度にみえてまあまあだ、と「向上心」を持たない自分が屹立している。年も年だし、「わかって」もすぐに忘れるしさ。「無無明 亦無無明尽」、物事が分からなくて困ることもなければ、分かりつくすこともない。すべてが消失点に至ることを軽やかに自覚することができる。

 

 その中でとりわけ気に留まったことのひとつ、「絶対無の場所」という提起。これは長年どう論理的に説明していいか分からなかったことを、氷解させた。経験的にはそう思ってきたのだが、私たちが「世界」を認知するときに超越的な視線をかならず持たなくてはならないにもかかわらず、それをどのようにして取り入れているのか、ことばにできなかったのである。絶対神をもたない私(たち日本人)が、欧米を媒介にして超越的視線を手に入れているというのは、眉唾物というか、けっきょくは相対的な「他者」に過ぎないのではないか、と。このことは、次の点にも通じる。

 

 これによって、絶対神をもたない私たち日本人が「私」を感得することができ、西欧哲学を経由しないで(というか、西欧哲学に比肩するようにして)、モノゴトの探求に向かうことができる。そういう西田の哲学的構築であった、と。これは、須らく西欧文化の枠組みに翻訳することを通してしか私たち日本人は、哲学や社会や人間を語ることができないと長年感じてきた桎梏を緩めてくれる。それによって、違った水路を通して「世界」が見て取れるように感じる。

 

 その西田哲学を親鸞の浄土真宗とリンクさせている佐伯の跳躍が面白い。「自然法爾(じねんほうに)」と佐伯啓思は飛躍させて、日本文化に結びつく地平に導く。これは昨日記した「仙人」の中世の能の世界、陰の世界を生きていた人々の感性と結びつく。そう思うと、いまさらながら、陽の世界に花を咲かせて消費生活をしている我が身が、いかに似非ヨーロッパ化してるかに、思い至る。似非ヨーロッパ化というよりも、近代資本制社会の豊かさの最先端にいて、ひょっとすると人類史的な文化の回天のフロンティアに立たされているのではないか、とさえ思ったのであった。「無常ということ」を潜り抜けた地平に、坦々とした暮らしの(価値的にどうかということなどどちらでもいい)継続がつづいていく、そういうのが自然法爾の人類史だという文化を、垣間見たような気がしたのである。

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幽冥界に遊ぶ心もち

2014-11-27 15:52:33 | 日記

 旅の途次に、宮部みゆき『本所深川ふしぎ草紙』(新潮文庫、2005年)を読む。江戸の町衆の風情が上手に掬い取られ、いまの私たちの暮らしとの(文化的な)落差が浮き彫りになるのが、面白い。「送り提灯」「置いてけ堀」「足洗い屋敷」など、どこかでいつか聞いたことのある言い伝えが、周囲の暗さや夜盗や人攫い、辻斬りが出る危なっかしさと合わさって、リアリティを醸す。「馬鹿囃子」などは、現代風刺の風情を揺蕩わせている。

 

 宮部は、江戸の暗さや貧しさや悲運や災厄を物語りの転換機にしながら、そこに生じる犯罪や事件のもつ善悪や優劣ややさしさやきつさの(世俗的)価値づけを無化する遠近法を用いている。読み終わるとき、ふと、登場した「悪人」を憎からず思って同情している自分に気づくという次第である。これが、この作者の人間認識の深さと確かさを表すものだと、私は思う。いつしか、「色即是空 空即是色」の境地に至っているのである。こうした遠近法の消失点を、読んでいて思うのだが、日本的な世界観なのではないかと肯定的に私は見ている。そうしてそれが、江戸の風情に残されていて、いまはすっかり忘れ去られているという対比に、宮部の小説の現代批判を読み取りたいと思うのだ。

 

 てなことを考えながら、関西への旅をしてきた。じつはその途次に、古くからの友人の一人に何年振りかで会ってきた。私より10歳年上の「仙人」。自称ではない。彼の飄々とした風情と自然(じねん)に生きる生き方とあくまでも知的に過ごすありように、誰かが(彼が40歳代の若いころに)つけた渾名である。その彼が50歳の前半に仕事をやめて親の介護のために関西へ帰り、以来、2年に1回くらいの割合で会ってきた。だが、ここしばらくは彼の調子が良くないこともあって、今回4年ぶりくらいの訪問である。元気であった。すでに82歳を過ぎているが、前歯が抜けているくらい。病院へ行かないから、これといった「病気」にもならない。歩くのに不自由ながら、1,2時間は、坂の多い神戸の街を「うろついている」という。足元が不如意であるから、荷物を入れる手押しのバッグを杖代わりに歩くんだよ、ハッハッハッと笑う。

 

 4年前には古事記を読んでいた。いまは、世阿弥、観阿弥を読んでいるという。能の世界は、陰の世界、幽冥の世界を揺蕩う感性によってかたちづくられている、と。中世において広く行き渡っていたそのかたちが、明治を経て「かたち」だけになり、底流する気配(エートス)が失われてしまって、陽の世界の「形式」に変じてしまっている、と。彼の話を聞いていると、すでに彼自身が、彼岸への心積もりを終えて、此岸と彼岸の間を行ったり来たりしているのではないかと思うほどであった。彼の話しとそれを聞く私の方の落差が大きく、魂をエネルギーとみている私のとらえ方がひょっとすると陽の世界的な表現ではないかと、思えたりした。ぜひとも彼のメモを見せてもらいたいものだ。そんなことを思いながら、別れてきた。

 

 「これが最後になるかもしれませんね」と明るい顔で彼は言うが、私は半ば本気で受け止めながら、別れのご挨拶をしてきた。魂というのは「かんけい」の集積である。自分には見えない。他者には「かんけい」を通してみてとれる。だから、彼岸に行っても、「普遍」的に出逢うことができる。そんなことを考えながら、神戸の街を後にした。

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神の裡から受け取る「七五三」

2014-11-26 10:03:23 | 日記

 関西にいる孫娘の七五三につきあってきました。娘の三番目の子、7歳。「7歳までは神の裡」と言われていたことが、その子の振る舞いをみているとよく感じとれます。いよいよ幼少期を抜け出して生意気な口を利く真似をする子ども期に入っていく気配が漂っています。

 

 正月に本殿めざして駆けっこする西宮神社へ向かい、そのご近所の写真館で貸衣装の振袖を着せてもらいます。立地も影響しているのでしょうが、この写真館は家族写真を撮る人たちでにぎわっています。待合室に飾った写真をみると、20年以上にわたって毎年1枚ずつ家族が記念写真を撮ったものが飾ってあります。結婚式の2人に始まり、翌年の3人、何年か後の4人となり、子どもの成長する姿と親の成熟する姿がともどもに写しとめられていて、なかなか味わいのある1枚になっています。それをみるだけで、この写真館の腕の良さと評判の良さが伝わってきます。来年も撮ってもらおうと思うのでしょうね。私は、遺影をそろそろ準備なくちゃなと、同行しているカミサンと話していました。

 

 写真館を出て、脇口から西宮神社へ入りました。神社を囲む通りには「七五三詣り」と記した幟端が何本も立てかけて、風に揺らいでいます。雨も小やみになり、心なしか空も明るくなってきました。手を洗い清め、口を漱ぎ、御祈祷の手続きをして中庭を一望する回廊に入ります。おっと驚く景色が目に飛び込んできて、待っている時間を感じさせないほどです。

 

 園庭の中央に広い池があり、それを取りかこむサクラやイロハカエデやトウカエデが赤や黄色に見事に色づいて緑の松に映え、白い砂利や飛び石が背景を埋め、回廊の柱が縁取りをして、一幅の絵の中にいるように思わせる仕掛けになっています。園庭と母屋・回廊との造りが、一幅の絵を見せるだけでなく、自らがその中にいるように誘い込む物語り性を備えているのだと、初めて悟ったように思いました。

 

 御祈祷に呼ばれます。2組3人の、3歳、5歳、7歳のお祓いとお祝いとが行われます。3歳と5歳は兄妹らしく、ご両親が付き添っています。祝詞で住まうところを「ナガサキ」と言っていました。長崎市でなければ、同じような地名があるのでしょうか。気になったので帰宅後に角川の「全国地名辞典」で調べたのですが、山形県から熊本県まで13カ所あります。西宮に一番近いのは愛知県岡崎市雨山町長崎か、長崎崎県長崎市。どちらからお出でになったのかわかりませんが、西宮神社の御利益がそこまで行き渡っているのかと思いました。

 

 わが7歳は、神妙です。祭壇の左側にいる白と赤の装束をした巫女さんの動きを珍しげに眼で追っています。右側から神職が2人現れて、お祓いをし、祝詞をあげて御祈祷をし、子らに真榊を渡してて玉ぐしを捧げさせるだけの簡素な儀式です。坦々と静謐に、神の裡から人の世界に入っていくことの通過儀礼です。しかし何を感じたか、臨席している7歳の兄10歳が懸命に笑いをこらえているのが分かります。日常との落差を受け止めるときの回路が、たぶん私などと違っていて、神主の振る舞いの一つ一つがお笑いの所作にみえるのかもしれません。子どもが死ななくなっていることも、関係しているのでしょう。万事が明るい世界ばかりを見せて、陰や死を「隠蔽」しているかのように展開している現世のあり方が、この10歳に反映していると思いました。神の裡から人の世に来ることができて、ここまで預かってくださった神々の世界に感謝し、大切にこちらで受け止めさせていただきますという、人の親々としての決意の場という雰囲気は、薄れてきています。通りの「幟旗」がそもそも、「祝い」一色なのですから、陰の部分は見えないのかもしれません。

 

 7歳は受け取った千歳あめを下げて、本殿へお参りに向かいます。あの、正月の早駈けが目指す本殿です。正面の石畳に柿色の軽ワゴンが止められています。ナンバープレートは前にも後ろにもついていません。ダイハツの新車です。お祓いのために止められているのでしょうか。それとも、奉納されたのでしょうか。まずこれが目に入ります。賽銭箱の前に立ってお祈りをささげ、今日の儀式は終わりました。

 

 もう一晩、娘の家に止まって、京都か奈良の紅葉見物でもして帰ってこようかと考えていたのですが、天気は雨の予報。加えて、子ども3人を育て、慌ただしく嫁さんの両親を迎えていそいそと気を遣っている婿さんが気の毒になり、婿さんの親御さんを交えて会食をして後に、帰ってきました。

 

 たぶん、これが最後の七五三になりそうです。もう一人、息子の方に6歳の孫娘がいるのですが、この人たちはこうした儀式的なことに一向に気遣わない文化なので、七五三なんてと言って、やらないと思っています。西宮神社という由緒ある神社で、奥ゆかしい儀式を見せていただいて、面白かったと喜んでいます。

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