mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

市井の民は皆「門前の小僧」(2)

2023-06-30 05:51:46 | 日記
★ ワタシの根拠


 では、ワタシのモノゴトをてみてとる根拠は何か。これが、「門前の小僧」二つ目のワケです。知の世界がワタシの根拠だと(何処か心裡で)思っていたのに、そこから退出したら、一体ワタシは何を根拠にしてジブンをつくっているのだろう。そういう疑問が,一つの見切りの向こうに見えてきました。
 それを話すには、もう一つ補助線を引かなければなりません。大学へ入って独り暮らしをするようになり、私自身の生活力がないことに気づいたこと。頭でっかち。暮らしに必要なコトゴトをすべて親や兄弟にやって貰って、空いてる時間は店の手伝いか本を読んだりしていさえすれば良かった。山へ行くようになり、衣食の最低限のことはできるようになりましたが、人の暮らしがどういうものであるかを,体感としてはちっともわかっていなかったと言って良い。卒業してすぐに結婚したのは、そうしたジブンの欠陥を無意識に埋め合わせる直感が働いていたのではないか。いまそう思います。
 人が生きるという土台に降り立ってみると、「知の世界」が「暮らし」より優位な位置を占めるという価値意識の逆立ちが大学までの私をとらえていたのです。人として自律していない。知の権威主義ですね。
 それを痛切に感じたのは、定時制に勤め始めてから。生徒たちの暮らし方を見ていると、如何に彼らが生活力を持っているか、驚くほどしっかりと自律しているか,感心したのです。たぶんその頃からだと思う。ワタシは、「暮らし」の方へ向かって歩き始めました。
「知の世界」は,いろいろな出来事にぶつかりながら再編成されていきました。いや再編というと、巨大な構築物を崩して再構築するイメージになる。そうじゃない。レンガ積みのブロックを一つ崩しては埋め直し、また取り崩しては嵌め込むという断片の繰り返しです。なぜそうしているのかワカラナイが、身の裡の何かにつき動かされて,そうしないではいられなかったことも多々あった。振り返ってみると、かかわった人たちにはワルイことをしたなあと思うことも少なからず思い出します。不徳の致すところです。
 1968年の世界的な「軸の争乱」がありました。お隣の文化大革命という,根柢から「権威」の価値を引っ繰り返そうとする試みがあった(と思った)。それらに関心を持つワタシは、では一体何を足場にして、そう考えているのか。どうしてそのような感性や感覚を身につけたか。一つひとつ「根拠を自問自答する」ことから、出直すという感覚でした。
 1960年代の後半、「生活化幻想」という言葉を用いて教育論を展開したことを思い出します。直接のきっかけは熊谷女子高の吉野富夫さんという数学の教師が口にした言葉でしたが、「知的なものへ」という時代の一般的風潮に対抗するように,イヤそうじゃない、「生活化へ」と標榜したものです。いま思うと、ワタシの切ない願望でした。
 高校教師という仕事は,ある意味で「知的権威」を身に備えて生徒と向き合う(と私は思っていた)。だが現実の定時制の生徒は、人の言葉を表っ面で受けとってはいない。世間に揉まれているからというのが、当時の教師たちの見立てであったが、人の言葉と振る舞いとの落差や逆立を、切り分けて見て取っていることが新鮮に響いた。その言葉の裏側に張り付いている発信者の心根を感知して受け応えしている。いや、そういう生徒もいれば、のほほんと言葉通りに受け止めている(育ちのいい)子もいる。何を聞いてもパンと撥ね付ける折り合いのつけようがない生徒もいました。いろんな生徒が居る中へワタシは何を共通の響きを持つこととして,言葉を投げ込んでいるのか。そう自問自答することを通じて、ワタシ自身の自律の根拠を探っていたということができます。


振り返った「門前の小僧」


 そうして、地に足が付く地平に辿り着いたと思います。それは、ワタシは凡俗の一人のヒトに過ぎないという自己認識でした。門前の小僧というのは、門内を覗いているときこそ「門前の小僧」ですが、振り返ってみると、わが暮らしの現場、門前町の方こそ日常の広い地平。しかもワタシは,その門前町で生まれ育ち、いったんは門内の境内に立ち入ろうとしたけれども、力及ばず、断念することになった。もし門内に入っていれば、門前町のことを何も知らず(ほぼ無意識に封じ込めたままで)、「権威」に浸って専門家面して街を闊歩していたことだろう。それをイメージすると、顔から火が出るほど恥ずかしい。そう感じます。
 本やTVで「権威」を身に纏った専門家に,日々出くわします。それらの人たちが、トランプが出現してから遠慮なく好悪を口にするようになった。フェイクという言葉も多用される。ワタシが子どものころから身につけてきた「古い権威」が瓦解していっている。それはそれで、化けの皮が剥がれるとみれば、悪い気はしませんが、ジブンが瓦解するそれだったかもしれないと思うといたたまれません。
 たまたま振り返ってみる機会を得て、ジブンを眺めてみると、門前町のことをまるで知らない。ただ身に覚えのあることはいくらでも見つかる。躰に刻まれている。無意識に沈潜していたのだ。この,振り返ってみて身に覚えのある無意識は、かなり異質な人をも共感的にとらえる感官に繋がっています。イデオロギー的に見る人は、トランプを毛嫌いします。けれども、なぜトランプがああいう振る舞いをするか、どうして多数のアメリカ人があのようにそこへ蝟集して騒ぐかは、岡目八目じゃないが、その感触の見当が付く。イイとかワルイとかいうことなどどちらでも良い。そういう世界を受け継いで私たちは人類史を歩んでいる。そう考えると、プーチンですら、必死こいて運命にもてあそばれているように見えて、気の毒になる。そんな思いがしています(つづく)


市井の民は皆「門前の小僧」(1)

2023-06-29 07:15:56 | 日記
 畏友・作家の鈴木正興さんから便りが届き、《(この「無冠」で)最近頻りに「門前の小僧」と称していることについて》違和感があると記されていました。


《今在るこことそれを包む世界を繋ぐ糸、個たる己と他者とを緊結する紐をことある毎に手繰りつつ自分自身をも含めた対象に真摯に正対し、持ち前の腰の強さ、靱やかさでもってずう~と他問自問し,今もその風が現在進行形であってみれば、「門前の小僧」だなんて事象は謙遜のし過ぎではありませんか》


 というワケです。褒めておいて批判するなんて、さすが世間をよく知る作家の熟達した技を感じさせます。でもねコレ、「無冠」に注目してますよって気持ち、こう書くと無冠亭もまた黙ってられなくて,また、あれやこれや書く元気が湧くだろうと,ワタシの健康を気遣った「挑発」です。それを承知で,以下のような返信を認めました3回に分けて掲載します。


★ 挑発に乗ります


 正興さんの,ワタシの健康への気遣い、挑発に乗ります。ひぐらしPCに向かいて心に移りゆくよしなしごとを書きつくるこそ、わが健康の源。
 でもね、ボーッとしてると、ただただパソコンの前に座っているだけ、何にも頭に浮かんでこないってこと、ありません?
 あっ、そうか、正興さんはアナログ一筋の人だからPCは、ないわなあ。でも原稿用紙を前にさて今日は何を書こうかと胸の中を覗いても、何にも触るものが無いってことはあるでしょ。
 といって何かなくては一大事っていうような,頼まれ仕事じゃないし、締め切りがあるわけでもない。ボーッと過ごすのは、それはそれで何の障りもなくて、外の世界ではまだ鳴き始めない蝉が耳の中で始終鳴き声を立てていることに気づく程度。結局矢っ張り、ジブンが起点。
 ワタシが「門前の小僧」というのには二つのわけがあります。


★ 知の土台


 ひとつは学生のころから見聞きし、読んできた本や言葉を交わした人から感じた、ワタシの「知」の浅さ。専門学者にもいろいろとあるから、一概に専門家の皆さんとは言いませんが、私が関心を持ってきた専門家の読書量、読みの深さ、切り取り方の微細さと鮮やかさは、ただただ見事としか言いようがないほどでした。ひたすら打ちのめされていました。
 たとえば私と同い年の早生まれ,つまり学齢は一つ上の柄谷行人という人がいます。この方も宇野経済学を学び、英米文学の文芸評論に転じ、いまは哲学者という肩書きで所論を展開している方です。社会運動的な領域をつねに視界に収めて時代を考察しているスタンスは、市井の民としてこの社会に身を置いているワタシにとっても、刺激的です。
 でも決定的に違うのは、土台においている「知のベース」が雲と泥の差ほどの開きがあることでした。若いころには、近寄ろうと思わないでもありませんでした。だが私が仕事を持つころにはすっかり見極めをつけていました。土台になる身の処し方がそもそも違うと直感したからです。
「知の土台」とは「身のこなしの文化性」です。刈谷剛彦に言わせれば家庭資本の違いというかもしれません。ものごとを何処で切り取り、どういう世界において展開し、なぜそうするのかという次元で考えたとき、大学のころからすでに、壁のような差異が見てとれるのです。学生のころは、若さ故に「勉強が足りない」と思っていました。そうじゃないことに気づいたのが、大学を卒業するころでした。
 気づいたというのは、わが身に関して見切ったことでもあります。つまりワタシが身を置いている世界は、知識人の世界とは違うという見切りです。知識人たちの研究成果や著書に触れることはできます。柄谷行人が目にしている著作物をワタシが手に取って読むことも、できないわけではありません。だが、そこで得た情報を処理する身の裡に揺蕩う処理装置の深さと広がり、それを表出するときの世界の高さ、広さ、奥行きは、彼の知識人には見えているに違いないのに、ワタシには見えないってことが、たびたび感じられます。ワタシは紛う方なく「門前の小僧」なのです。(つづく)


森林浴のお陰か?(2)フィトンチッドの効用

2023-06-28 06:52:55 | 日記
 自然生態園と南西側の「セゾンガーデン」と南東側の「四季の森」がどう違うのか私には分からなかった。ただ自然生態園にはミズスマシの池とかトンボ池と名付けられた池があり、モリアオガエルの卵が白い泡に包まれてまだ池の上の木にぶら下がっていた。ああ、あれが孵ってオタマジャクシが池に落ちるころには、サンショウウオがいち早く孵って餌として待ち受けていると昔、TVで見たことがある。ウシガエルの野太い声とシュレーゲルガエルのコロコロコロという凸凹の木肌の上を木で擦るような声が響く。人気もない林にカエルの伴奏だ。あっ、痩せガエルならぬ痩せた猫が歩いている。「鳥を食べないでね」と師匠は声をかける。
 昆虫館が設けられ、この公園で採取された昆虫の標本が類別に標本ケースに入れ飾られてあった。蛾や蝶や蜂や虻、カブトムシやクワガタ、カミキリムシやセミに至るまで丁寧に細かく採取されてあった。ミツバチが何十匹と標本にされ、ヘエ、こんなに小さいんだと認識を新たにした。標本にすると干からびて小さくなるのだろうか。
 ヤナギラン、ササユリ,ニッコウキスゲ、シモツケ、ホザキシモツケ、オカトラノオ、カンパニュラ、ミヤマカラマツ、彩りの違うオダマキの花も目に止まり、飽きることはない。花が終わりすでに青い実をつけている「春の花」も師匠が立ち止まって教えてくれる。でも頭に残らない。葉の上にポツンと小さな丸い実が載っているようなツリフネというオモシロイ木の葉もあった。レンゲショウマばかりが群れている区域もある。8月ころが見頃だろうか。
 ナナフシ橋を渡り返して東の四季の森へ行くと、シラネアオイの苑と名の付いた園地に取り囲まれてしばらく歩いた。葉の上に蝶結びをしたネクタイ様を載せているのは蕾だろうか。いやそういえば、奥日光などでは花期は終わっているから、これが実なのか。
 四季の森の,一番奥まったところまで行き、折り返して西の入口へ向かう。そのルートもいくつもに分かれ、池もあり沢も流れている。いかにも赤城山の中腹の地形を活かして設えられている公園だ。
 途中お昼を摂って、こうして歩いて入口に戻ったのは2時半を過ぎていた。4時間余。約7.5km、ほぼ10000歩ちょっと。往復の車が約4時間ほどだから、行動時間は8時間余の外出であった。
 これが「森の散策」と思ったのは、実は翌日になってから。運転を終えていつも感じるのは、ああ、今日も事故に遭わず無事であったメデタシ、メデタシ、である。帰宅して夕方5時前という早い時間だが、リビングのテーブルについて冷やしておいた缶ビールをプシュッと開ける。アメリカ人ではないから、ガラスのコップに注いでグイッと飲む。赤塚不二夫漫画ならば「プハーッ」と吹き出しになる。カミサンがサラダを出してくれる。ゆっくり飲んで気持ちが良い。飲み終わって改めてコップに氷を入れ、焼酎を注ぐ。いつもならビールが余計。この焼酎のオンザロックがいつもの晩酌。飲みすぎたかな。いや今日は大丈夫だ。どれくらい飲めるか、それが後にどれほど尾を引くかが,私の体調のバロメータ。気持ちよく夕食にとりかかり、カメラの写真をパソコンに整理し、風呂に入ってロシアの叛乱の腰砕けにがっかりして床に入った。
 今朝トイレに行こうかどうしようかと思いつつ目が覚めて枕元の時計をみたら、何と5時半に近い。9時間以上も続けて寝入っていた。いや、お酒はすっかり抜けている。この体調の良さは,フィトンチッド、森林浴のお陰か。ぶらついただけなのに、すっかりわが身が洗われたって感じがする。八十路の運動って,このくらいがいいのかもしれないね。


森林浴のお陰か?(1)森の中を歩く

2023-06-27 14:16:31 | 日記
 植物好きのカミサンがチケットをもらったというので、群馬県の赤城自然園へ向かった。大きな赤城山群の西側中腹、標高650mほどのところに設えられている広大な森林。静かだった。
 10時ちょっと過ぎに入口に到着。白いガクアジサイのような装飾花をつけたイワガラミが迎えてくれる。日光の植物園も入口にイワガラミがあった。この花は、何かこのように用いられるわけでもあるのだろうか。
 入園、地図を受けとり、歩くルートを大雑把に考える。それほど、いくつもに分かれた道が四通八達している。シャクナゲ園、散策の小径などと名付けられている。ところどころに①から⑳までの番号を振った札が目立たぬように立てられ、地図と照らし合わせれば、今どこにいるか迷わぬように案内されている。
 鬱蒼とした森に分け入るような気配。おっ、ガクサジサイがあった。イワガラミに比べると装飾花が大きく、かっちりしている。葉もゴワゴワと硬そうだ。オカトラノオが根方から先ちょへかけて花を開きつつある。カメラを構えていると、こっちにもあるよとカミサンが声をかけ、みると群落が花盛りのはじまりのようだ。ホタルブクロが咲いている。山でみるヤツは、こんなにひと茎にいくつも花をつけていたっけかと,記憶を辿る.わからない。
 レンゲツツジが色鮮やかな赤色を広げて結構な大木である。赤と言ってもいろいろあるが、ヤマツツジのいくぶん柿色が混ざった赤よりは朱色に近い。花期をすぎたウバユリが打ち萎れるように花を下に向けて蔕のところにまだらのシミのような汚れをつけた葉を残して頭を垂れている。サクラソウのような色合いの,今開いたばかりという風情の花が周りに蕾を従えて咲いている。マンテマだそうだ。へえ、初めて耳にする花の名だ。
 白いマラカスのような形の蕾を鈴なりにして、開花するとマラカスの先が割れ開く一群がある。オオバギボウシだという。賑やかだが清々しい感触。と、向こうからやってきた一団の説明役の人が、「これは伊勢神宮の正面に架かる橋の欄干につくられている擬宝珠に似ていてこの名が付いた」と説明している。わが師匠は、「何も伊勢神宮まで持ち出さなくてもいいのに」と説明の大仰さに驚いている。
 きれいな紫色の花びらが開いて雌蕊が突き出た花があった。自然園で発行している「花ごよみGUIDE BOOK」をみると「カンパニュラ」とある。栽培種の名のようだ。帰って調べてみると、「風鈴草」の仲間とある。ホタルブクロとも仲間だ。でもそうか? そう思って写真を細かく見る。自動焦点のデジタル・カメラだが、たまたま焦点がよくあっていて、PCでは大きく拡大できる。葉っぱもそうだが、花びらからも毛がいっぱい生えている。オモシロイ。なるほど花びらの下1/3は筒状になって,元は釣り鐘状の花だったことがワカル。ふ~ん、そうなんだと,むしろカメラの能力に感心している。
 池の端にシモツケがまあるく密集させた花をつけている。桃色と白の花が混じり合っている。周辺部が桃色、中央部が白い。周辺部から咲き始めるのかな。とすると、ズミなどとおなじに、咲いて後に色が変わるのか。これは木だという。シモツケソウもあった。こちらは散乱するように広く花を開かせて草だという。おなじような名なのに、草木の違いがある。ホザキシモツケも早い花は開いていた。これは奥日光の戦場ヶ原でよく見掛けた。
 こうして、ぶらりぶらりと、足を進める。向こうから来た女の方が、「いいですねえ、夫婦一緒で」とカミサンに話しかけている。えっ、向こうさんも二人連れではなかったか。「いえね、夫が他界しましてね。息子が行こうって誘い出してくれてきたんですよ」と言葉を添えている。そうなんだねえ、ご自分の境遇で見えるものがみえるってことですねと、カミサンは後で感想を漏らしていた。
 平日の曇り空。高齢者が多い。二人連れで散策している。日ざしが出てもこの自然園なら、帽子なしでも一向に困らない。風の通りも悪くない。標高もあるから平地より4度くらい低いのかもしれない。「こんな歩き方じゃあつまらないでしょう」とカミサンは言う。だがそうじゃないんだね。さかさかと歩こうと思っていると,こんな風に時速2キロにもならない歩き方は、たしかにオモシロくないかもしれない。だがこうやって、草花を愉しむって心していれば、つまんないどころか、森がありがたい。
 おや、あの声はクロツグミじゃないか。聞くと、そうだね、キヨコキヨコって聞こえるねと師匠は応える。そうだ、私は白馬のペンションへ行った早朝散歩でこの声を聞いてトラツグミって教わった。夜明けの白みはじめた空を背景に黒っぽい姿も見た。名前もクロが付いていたからクロっぽくて不思議ではなかったが、あれはシルエットをみただけだったなあと思いだした。おっ、こちらはキビタキのようだ。双眼鏡を出して、声のする方向に目をやる。樹間を飛び交う影が見える。あっ、あっ、いたいた、向こうの横に延びた小枝に止まってるよと師匠に告げる。師匠も双眼鏡を覗いて、そのまま動かないでねと声をかけて、私の双眼鏡の向かう方向をみている。飛ぶ。おっ、という間に、もっと見やすい枝に黄色い腹を見せて止まる。ちょんと向きを変え背中を見せるる。
 こうして自然園の半分を回り「自然生育園」と名付けられた北半分へ「ナナフシ橋」を渡る。(つづく)


呼びかけ方の社会学

2023-06-26 06:46:14 | 日記
 昨日(6/25)の朝日新聞に《「おばさん」にざわつく心》という企画記事があった。街中で年上の女の人が連れの孫に「あのおばさんに」といわれて傷ついたとかつかないとかと切り出し、一体何歳になったら「お姉さん」が「おばさん」になっても構わないかなどと声を拾っている。なんとも、ひねもすのたりって間延びのした企画。何でこんなことが問題になるのだろう。
 亭主や父親のことを「お父さん」「おじいちゃん」と呼び、妻や母親のことを「お母さん」「おばあちゃん」と呼ぶのは、子や孫などに呼称の主体基準を合わせる日本的な家族の用語法の一般的な形だ(とどこかで読んだことはある)。小さい子に主体基準を合わせることによって呼称で家族全体の中の位置づけが明快になる。
 その時々の発言主体に合わせていたら、誰が今発言しているのと問いたださなければならない。日本語が、主語を曖昧にするといわれてきたが、必ずしもそうではない。関係コミュニティの中の上限関係を組み込んだ秩序をつねに明快にして、身の置き所の安定点を確保するという社会習慣が無意識に働いてきたと私は考えている。
 逆に言うと、その呼称が通用する間柄が「身内」であり、通用しない場は「余所(よそ)の人」であった。つまり、鬼ばかりという「渡る世間」であった。上掲の企画記事の場面は、「身内」と「余所の人」が共に身を置く場、「街」である。端から「世間」。もしそこで、見知らぬ人から
「おばさん、おばさん」
 と声をかけられたら、
「なによ、あなた。わたしゃあんたのおばさんじゃないからね」
 と反撃を食らわせてもいい。あるいは、お婆さんに向かって、
「お嬢ちゃんと呼んでもらいたいくらい。あなたとわたしの歳の差は、さ」
 と笑いをとってもいい。心がざわつく謂れはない。
 にもかかわらず、ばあちゃんが街中で孫に話しかける第三人称に「心がざわつく」というのは、どうしてなのか。何だか、余計なコトを考えているからじゃないか。あるいは、余計なことを考える時代になったってことか。あっ、考えてはいないか。これまでになかった余計な要素がヒトの無意識に闖入するようになったってコトか。
(1)家族が希薄になり、家族が表象する序列感覚が希薄になった? 小さい子を主体基準にして呼称を用いることが少なくなったのか? そうは思えない。むしろ、子を持ち家族を構成する人が(相対的に)少なくなったから、第三人称としての「おばさん」が(小さい子という媒介項を欠いて)いきなり、社会(世間)の位置関係を表現するように転じた。わたしゃそんなに年寄りかいな(バカにしなさんな)と解されるようになったってことか。自分を中心軸にする聞き取り方が強くなった。語り出す方ももっと気遣えよってコトか。
(2)都会の暮らしで個々人の市民的な独立感覚がすっかり定着し、人と人との関係がフラットになってきた。共同感覚にあって底流していた「年の功」という年齢による序列意識の「功」の要素がなくなり、「見た目の年齢差」だけが序列として浮き彫りになってきた。皮肉にも個々人の間には、身内と余所の人という線引きが社会的にも(見た目の年齢差として)厳密に受けとられるようになった。つまり、個々人を包んでいた「家族」という保護膜も雲散霧消して、個々人の皮膚に近づいてきたってことだね。
(3)デジタル社会になってきて、人を呼ぶ呼称にも何か実体的な基準を置いてほしいという気分が若い人たちの無意識(ベース)に広がっているってことか。
 こんな企画が新聞記事になるということ自体、他人からどう呼ばれるかを(読者大衆は)気にしているからだ。街中で見知らぬ他人がジブンをどう見ているかに、ピリピリと反応しているように感じる。祖母が孫へ語りかけるのに、街中の第三者・中年女性を「おばさんに・・・」と言ったからといって、失礼のなんのとどうして話題になるのかが、私にはワカラナイ。小さい孫が、
「ねえ、おばちゃん・・・」
 と呼びかけてきたら、
「しつれいね。あんたのおばちゃんじゃないわよ.お姉さんて呼びなさい」
 って、怒鳴り返しでもするのだろうか。その方が異常だとワタシは思う。
 ま、新聞の文化部も暇なんだろうか。せめてこういうことを話題に載せるのなら、「呼びかけの社会学」って観点でも立てて、「おばさん」に目くじら立てる人を突き放して記事を書いたらと思う。それは同時に、書き手の「古さ」も浮き彫りにする。それでおあいこってわけさ。