mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

認知症の内と外

2017-02-27 08:30:57 | 日記
 
 久坂部羊『老乱』(朝日新聞出版、2016年)。医者の書いた認知症の物語りとみて、読んだ。妻に死なれて独り暮らしの78歳、己の危うさに当人がうすうす気づきつつある。ご近所に住む息子一家の嫁がそれなりによく面倒を見ている。目配りができるから、義父の暮らしの些細な異変にも気がつく。それが事故や事件に結びついたときに降りかかる負担が(自分たちを含めた)暮らしを一変させる「報道・情報」にも気が回る。つまり、世の子供家族の平均的な姿を取り出して、主題は「認知症」である。
 
 著者の久坂部羊は作家で医師。いまチェックしてみたら、2013年に同じ作家の『神の手(上)(下)』(NHK出版、2010年)を読んでいる。終末期医療を扱ったもの。「過剰延命治療はごめんだと具体的に感じた」と表題して、このブログに私は印象を記していることも、あらためてわかった。何かを読んだという「印象」は残っているが、はてどんな作品だったかは、すっかり忘れていた。そういう意味では、私も「老乱」の主人公がこの作品に登場したころの「己の危うさに当人がうすうす気づきつつある」状態にだいぶ近い。
 
 まだらボケと謂われる認知症の進行の様子を、当事者本人の内と嫁の眼という外から坦々と丁寧に描いて、「人という存在」が「かんけい」を紡ぎ感じて受け止めている根っこのところに降り立っていく過程が浮き彫りになってくる。医師としての知見であろう、まだらボケの、正気と妄想との端境が定かならぬまま、当事者の内面に推移する感触が描き出されている。突き詰めて読み取れば、たとえボケても、「かんけい」が醸し出すアウラ(aura)は感じとられていると、読める。wikipediaは「オーラとは、生体が発散するとされる霊的な放射体、エネルギーを意味する」と個体の醸し出す「気配」のように規定しているが、「なおオーラという言葉は、「微風」「朝のさわやかな空気」を意味するギリシア語 αὔρα(アウラー)、「風」「香気」「輝き」などを意味するラテン語の aura(アウラ)に由来する」と付け加えている。「かんけいが醸し出すアウラ」は、むしろこのオーラの原義に近い。「空気」と言ってもいいのだが、「KY」などと流行になったイメージがついて廻ってあまりいい印象が持てないので、ラテン語を使わせてもらった。
 
 久坂部羊は、この「かんけいのアウラ」が落ち着くところに人生の着地点をおいてみている。
 
《みんな寝静まったようだ。何も動く気配はない。/ふと意識が戻ってくる。ばらばらになっていた自分が、遠くからもどってくる。/幸せな一生だったよ。/後頭部が熱くなり、どこかに吸い込まれそうになる。眠りに落ちる直前のまま、脱力している。すべてを委ね、いっさいの抵抗を捨てて、なすがままになる。畏れも不安もない。苦痛も嘆きも、喜びも満足さえもない。曖昧模糊の壮大な無に使づく。》
 
 そうなのだ、「ばらばらになっていた自分が、遠くからもどってくる」のだと思う。成長しておとなになって生きるということは、生まれ落ちたとき、まるごと全部が「じぶん」であったのに、母親と自分を分け、親と子に分かれ、社会とも分節化して一人前になり、世界を分節化してモノゴトを学び、暮らしを立ててきた。まさに「ばらばらになっていた自分」であったのが、「遠くからもどってくる」。ふたたび、分節化する前の(ヒンドゥ教に謂う)混沌の海のように世界に溶け込んで一体となる。曖昧模糊の壮大な無というのは、分節化された地点からみた混沌の海である。それは自然と融け合って一体になった「じぶん」ともいえる。「幸せな一生だったよ。」という一言は要らないと、私は思う。それすらもたいした価値をもたないこととして呑みこんでしまう。そこにアジア的というか、仏教的な宇宙観を感じることができる。
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「普遍」は陽炎

2017-02-26 11:22:30 | 日記
 
 むかしハンナ・アーレントがギリシャ民主主義は普遍的なものではなく(ヨーロッパにだけ通用する)特殊なかたちだとみているという「解説」を読んで、とてもアーレントに親近感を持ったことがある。アーレントは、ヨーロッパ標準を世界標準とみなしている知的世界の常識を覆そうとしていたのだと思う。そのようにして、アジアその他の地域にギリシャをモデルとする民主主義が「適用」されるような発想を批判していた。親近感の根っこには、ヨーロッパ学を学び取ることが知的な第一歩と教え込まれてきたことへの苦痛があった。そのときには気づかなかったが、そもそも「普遍」という考え方自体がどうして「特殊」よりも優れていると考えるのか、私は納得できないできたのだ。
 
 逆に言うと最初に、普遍的な言説・ことが特殊な言説・ことよりも優れているという「刷り込み」があった。そうすることによって、(私の知らないヨーロッパ学という)超越的な世界が屹立していることを(カフカの城のように)感じとり、何よりもまず、ひざまずいて「学ぶ」ことを己に命じた。良い生徒であったと言える。やがて、「学びて思わざればすなわち罔(くら)く、思いて学ばざればすなわち殆(あや)うし」という漢籍からの知恵がときどき胸中に浮かび上がるようになり、ヨーロッパ学に拝跪している自分自身を対象とするようになり、ヨーロッパ学がもっている超越的な視点が己にとってどういう意味を持つのかと考えはじめるようになった。
 
 こうして(ヨーロッパ学に謂う普遍を)自己を超越する視点として手に入れ、それによって自己(の感性や思考)を対象化することができていたのだと受け止めるようになった。ということは、「普遍」というのは仮構された視点であって、それ自体が優れていることでもなく、それ自体を認識できることではないと言える。いわば「己」という特殊存在を「世界」に位置づける媒介項として仮構された視点に過ぎない。自己を世界にマッピングするというらしいが、それは世界から自己の輪郭を描き出す/取り出していく過程でもあった。
 
 2014年に木田元という哲学者がなくなって河出書房新社の「道の手帖」シリーズから『木田元――軽妙洒脱な反哲学』のなかで、ハイデガーのある講演を紹介している一文を目にした。
 
 《〈哲学〉ということばは、ギリシャに生まれ、ギリシャにしか生まれなかった。…〈哲学〉は、このギリシャ語の響きとそれによって名指される特殊な知のありかたを受け継いだ「われわれ西洋=ヨーロッパの歴史のもっとも内的な根本動向」をも規定することになった。逆に言えば、「西洋とヨーロッパは、そしてそれらだけが、そのもっとも内的な歴史の歩みにおいて根源的に〈哲学的〉なのである」。》
 
 そういえば、ハンナ・アーレントはハイデガーのお弟子さんである。ハイデガーには、私はとても歯が立たなかったから、彼がそのような立ち位置を保っていたことを全く知らなかった。だがこうして、ハイデガーやハンナ・アーレントにアジアのことはアジアで考えなさいよと突き放されてみると、心もちがずいぶん軽くなる。「わからない」ことをわからないとはっきり言える。「わからない」のは俺がバカだからと(そういう面も、じつは、それなりにあるのだが)閉じこもって悩む必要がない。「わからない」のは、どこがどうだからなのだろうと、考えをすすめることができる。
 
 木田はデカルトの言う〈理性〉に触れて、
 
《…〈理性〉はわれわれ人間のうちにあるが、なにか超自然的なもの、つまり神の理性の出張所とか派出所のようなものとしか思えなくなってきた》
 
 と感想を述べている。つまり、世界を神が創造したという前提をハイデガーの言う「内的根本動向」としているものにしかわからないことと、見切っているのである。〈理性〉(イデア)もまた、ヨーロッパ学の「普遍」。そう(刷り込まれて)思い込むことによって私も、ずいぶんと、感性・感情や身体性との齟齬に「思い悩んできた」。まあ、(刷り込まれたと言っても、自分で)勝手にそうしたわけだから、プラントンさんやデカルトさんのせいにするわけにはいかないが、やっとその〈理性〉にせよ「普遍」にせよ、仮構した「媒介項」に過ぎないと見て取ることができるようになってはじめて、「学びて思う」ことができるようになったと感じている。
 
 いまは「普遍」的な言説が「特殊」な言説よりも優れていると思うこともなくなった。いやそればかりか、モノゴトとその関係について「普遍」的なこととして展開されている言説は胡散臭いと感じるようになっている。私たちのことばは、それ自体が一般性を持っているが、それに乗せて話されていることは、徹頭徹尾「個別特殊」なコトゴトであり、それでいいのだと考えている。
 
 言葉は「特殊」なこととして放たれる。それを受け止める人々が(その個々の内面にしたがって)種々さまざまに受け止めていくとき、「普遍」のおぼろげな影が立ちのぼる。それは陽炎のようにとらえどころがなく、発信された言葉の特殊性と受信する言葉の特殊性とがそれぞれの内心において価値づいているばかりなのだ。それはまさに、わが身一個の実存的ありようと重なる。
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道なき道の山歩き(2) 三つ岳の肩を越える

2017-02-23 16:42:45 | 日記
 
 昨年の奥日光の山歩講では「おいしいものを食べたい」という希望があり、「誰ですか、そんなぜいたくなことを言っているのは! 賛成です。」という声に押されて、湯葉しゃぶしゃぶを特注したのだが、到着後のお酒がたたって、食べきれなかったと、ほぼ誰もが反省していた。今年は、食事の特注をしなかった。さらに私には、大いに反省すべきことがあった。2日間の雪山歩きを終えて帰宅した後、痛風を発症してしまった。その三日後に予定されていた奥日光案内ができなくなり、khさんやswさんに全部お任せしたという恥ずかしいことがあった。それ以来、夕食時の「晩酌」を止め、お付き合いとお祝いのときだけ飲むことにして、約一年という記憶があった。先週16日に街で集まりがあって友人たちと飲んで以来4日間、まったくお酒を口にしない日がつづいている。そう、今日のための用心でもあった。「威張ることじゃないよ」と嗤われたが、私にとっては画期的な出来事であった。
 
 そこへもってきて、先週の下見で途中退却したルートを「案内」仕切ったという達成感がある。なにより先ほどまで降り積もった30センチの新雪を踏んで道なき道を歩くというのは、まだ登山道などがなかった頃の山歩きに近い気分が味わえる。この稜線のここ辺りでとり着いて、山容のスカイラインがこのように見えるあたりで、そちらを目指して進めば峠に行き着くという歩き方は、まさに地形を見ながら地図を読む気分。それが見事に当たった。コースにかけた時間も、おおよその見込み通りに運んでいる。むろん皆さんの脚力があったからだし、ラッセルの先頭の交代や、歩きに行き詰ったひとへの技術的なサポートをkhさんはじめ、皆さんが代わる代わるやってくれたからに違いないが、雪山のルートファインディングと地図を読む心もちは、達成感にひときわ以上の充足を与えてくれる。
 
 そういうこともあって、風呂上がりわずか1時間の間に私は、ワインを一本ほど開けてしまったらしい。らしいというのは、翌朝、同室のkhさんから「ずいぶん速いピッチで飲んでたね」と言われたこと、デスクの上の空きビンが飲み量を示していたことで分かった。そして悪いことに、朝起きたとき、ほぼ、夕食に何を食べたか、何があったかを全く覚えていない。完璧に酔っぱらったのだね、本当に久しぶりに。khさんは「喉が渇いていたからでしょう」と優しく解釈してくれたが、記憶が飛んでしまうほど飲んだのは、還暦後初めてのことだ。まあ、この元気さは寿いでいいかもしれないが、一気に認知症にまで跳躍するかもしれないとも思った。
 
 22日、朝8時50分ころswさんの車を光徳の駐車場へ置きに行き戻ってきて、先に出発した皆さんに合流。9時、湯ノ湖畔、冬季通行禁止の金精道路入口から小峠への林道に分け入る。踏み跡はついていない。昨日から誰もこのルートをたどっていないということだ。いいねえ、こういうコースって。雪は深い。沈むから、重い。雪で倒されている樹々の幹や枝が歩行を妨げる。ここもラッセルを皆さんが交代で務めてくれる。1時間ほど歩いた林道の途中から光徳牧場と湯元の旧道に分け入る。樹林の中。むろん旧道など影も形もない。何しろ奥日光が国立公園に指定されたころに湯元へ抜ける道路が開鑿されてからは、まったく使われなくなった道だ。木柱の看板も朽ちてなくなってしまった。
 
 ここから三つ岳の三つある山頂の東よりの肩、つまり峠を越えて光徳牧場に下ろうというコースだ。林道からの分岐が標高1570mほど、いったん1700mほどに上って肩の1670mに向かう。標高差でいうとわずか100mほどだが、針葉樹が枝を張り、雪の重みで行き先を阻む。そこへもってきて吹きだまる雪が脚をかけると崩れ落ちて一向に身体を持ちあげることができない。すぐ後ろに、今日76歳になったばかりの最高齢者がつづいている。歩きやすいルートを辿らねばならない。もう何度もここを通っているのだが、これまでの記憶と印象が違う。積雪量ですっかり変わって見えるのかもしれない。はて、ここよりまだ少し直進して南へ行ったようにも思うが、この辺りで左へすすんだろうか。後続に「少し待っててください」といいおいて、左の急傾斜を登る。上まで登って先を見れば、肩の方へ向かえるかできないかがわかろう。50mほど先へ行くと、その向こうが広く開けている。そうかここかと、記憶の印象と比べて「OK! 来てください」と声をかける。
 
 三つ岳の中央峰の樹林の山体が行く手を阻む。東の方へと迂回して、高いところへ登る。三つ岳の東よりの峰の山体が迫り、その二つの山体が正面南の方で低く交錯しているのであろう、スカイラインが目の高さにみえる。ここより上へあがる必要はなかろうと、トラバースに移る。記憶のルートでは谷あいが深く歩きにくかったのに、いまはさほどではない。雪面からササタケか萱のような葉先が顔を出している。これは記憶にある。雪が少ないときはスノーシューを傷めるのではないかというほどごろごろの石も出て、風で吹き飛ばされていたところだ。これでいいんだ、と確信が湧いてくる。その先で谷あいに降りると、太い倒木が横たわっている。いつもなら、雪の上の顔を出して迂回する大木だが、今は雪がかぶさって程よく乗っ越せる。その先を回り込むと大きく降って広い峠の南端があったなあと思いつつ回り込むと、どんぴしゃり。11時到着。お昼にする。正面に男体山が大きな火口を見せて屹立する。陽ざしは暖かく、雪がどんどん解けていっているような気がする。
 
 30分ほどでお昼を済ませ、光徳牧場の片隅にある学習院の寮へ向かって急斜面を降る。これが今日のメイン。斜度が30度以上になろうというこの急斜面を深い雪を踏んで下るのは、雪山歩きの醍醐味を堪能できる。陽ざしを受けて少しやわらかくなった雪は、スノーシューを受け止めてそれほど崩れず、歩きやすい。ふだん下りは苦手と言っているmrさんも、「新雪の方が歩きやすいね」と、他の人が歩いていないところへ踏み入って、調子よく降っている。先頭を行くのは最高齢者のotさん。つい一昨日が誕生日であったというmsさんも、踏み跡がついていないところを選んで下っている。kwrさんは、わざわざ傾斜の急峻なところを選ぶようにして、雪と遊ぶ。標高差200mを30分足らずで降りてしまった。
 
 学習院の寮がみえたところで、少し上に上がる。と、下から「何処から来たの?」と声がかかる。「湯元から」と応じると、寮の舎監であろう、「ここは学習院の敷地だから、そこをトラバースしたら山王峠からのルートと出逢うから、そちらを通って」という。下の方には寮へ入る車の道が除雪されて雪にくっきりと深い道を刻んでいる。横切ると雪上車の通った後がついている。光徳のクロスカントリースキーのコースであろう。khさんが先頭を歩き、光徳牧場の方へ踏み込んでいく。こうしてアストリアホテルに着いたのは、13時35分。出発してから3時間半の快適ハイキングであった。
 
 夕方仕事があるというswさんの車で湯元の私の車まで送ってもらって、そこで別れ、私はアストリアホテルに引き返してkhさんがまとめておいてくれたスノーシューを積み込んで返却に向かった。4時過ぎに家に帰り着いた。そうそう、2月生まれの人が2人もいたおかげで、宿の「割引」があった。お蔭で、お酒やワインを注文したのに、ひとり頭1万円の支払いで清算が済んだ。これからも、誕生月の人には是非とも参加してもらわにゃならんと思った。
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道なき道の山歩き(1) 中禅寺湖北岸・高山の峠越え

2017-02-23 10:12:25 | 日記
 
 春が近づいて関東地方に低気圧が到来するようになり、4日おきに雨が落ちる。山沿いでは当然、雪になる。20日から21日にかけての大雪で30センチの積雪があったと奥日光湯元で聞いた。その21日から昨日まで、奥日光のスノーシューハイキング。山の会・山歩講の月例山行である。
                                                      
 21日、あさ9時40分頃に竜頭の滝バス停で落ち合う。私とkhさんはスノーシューを借用して車に積んでいった。車の通る舗装路面にも雪が積もり、圧雪されている。スノーシューを装着している私たちのかたわらで、大型のゴミ収集車が坂道を上がれず、タイヤ周りの雪を取り除いたりして走りはじめるが、空回りしてまた、ずるずると下へ滑り落ちる。小雪が舞っている。
 
 10時、除雪されて積みあがっている雪だまりを踏み越えて、中禅寺湖北岸の周回路へ入る。一昨日までに降り積もった雪は凍りつき、その上に昨夜来の雪が数十センチ積もっている。スノーシューも新雪に隠れる。ことに斜面に来るとストックも半分以上雪に埋もれる。周回路は高山の山体が中禅寺湖に下り降りる斜面を削るように上り下りしているから、階段の上下もある。そこへ古い雪が凍りついてあるから、スノーシューの爪先のエッジを立てるようにして上がる。降りるとき大きなスノーシューの踵の方が邪魔になって狭い階段に乗せるには横にしなければならない。横にすると、一歩を二段づつ下りないと左右の足が階段を踏めない。夏道のときは、湖側につけられた木柵のかたわらを踏み通るのだが、斜面から崩れる雪で斜めになっている。しかも木柵についている一番下のところは、雪が湖側へ落ちてしまっている。斜面のトラバースをするようになる。木柵の1メートルほど高いところの斜面をトラバースするから、ひときわ高度感もある。しかも踏み込んだ脚が凍りついた雪に触れるとずるずると滑り落ちる。新雪が溜まっているところは、踏んだ脚がずぶずぶと埋まって滑る。一歩一歩踏み固めるようにして何十メートルかのトラバースをするところが、何カ所もある。mrさんが悲鳴を上げる。khさんがすぐ脇に来て、足先のエッジを聞かせるようにレクチャーする。それでも高度感が怖いから、へっぴり腰。するとますます重心が保てず、身体は不安定になる。私のすぐうしろのmsさんはさほど苦労することなくついてくる。後続を待っている間に「楽しいでしょう」と声をかけると「愉しむ余裕などありませんよ」と返ってくる。
 
 12時、こうして熊窪に着いた。夏道のコースタイムは1時間半だから、いいペースで歩いている。雪はいっそう強くなり、北風を受けて吹雪のようだ。大きな木陰で風を避け、二カ所に分かれてお昼にする。先週機能しなくなっていたスマホを取り出してチェックする。今回は動いている。いつもスマホを出して現地天気予報を観ているmsさんが「午後には晴れ間が出るって…」と元気をつける。
 
 12時25分、高山からの峠に合流すべく、上りが始まる。深い雪がラッセルにこたえる。でもルートはまるで分らないから、私が先頭を外すわけにはいかない。ときどきスマホを開けて、事前にチェックしたルートとGPSの現在地表示がどれくらいずれているかをみる。順調だ。ただ雪の積もりぐあいが吹きだまっているところと吹き飛ばされているところがあるから、選びながら前へ進める。一歩がしんどい。ああ、これがつらくなったら、私の山案内は終わりだなと思う。先週私が撤退したところに来た。右か左かで迷ったところは、地図を見れば歴然、右の沢にも入らず、沢横の急傾斜面を踏み上る。途中で、夏道の古い標識が頭だけを出している。そうか、ここかと、ルート選択に自信が湧く。
 
 皆さんに「あと標高差で100m上るだけです。この急斜面を約300mほど歩けば峠に着きます。」と発破をかける。雪が積もって大きくなった倒木を迂回して登るところで、踏む雪が崩れ、一歩で20センチも体が上がらない。ストックを短く持って雪に突き立て、身体を引き上げる。mrさん、kwmさん、swさん、kwrさんたちがつづいてくる。下からkhさんが「ザイルを出して!」と私に声をかける。ザイルを出し、木立にフィックスして下へ降ろす。mrさんがザイルにつかまって崩れ落ちた斜面を登ってくる。ストックをもっていない。私のストックを預けて、先に上へあがるようにいう。otさんとkhさんが上がってくる。ザイルを仕舞い、先行隊の踏み跡を追う。これは楽だ。
 
 傾斜は変わらぬほど急だが、倒木や吹き溜まりがないから、直登してもさほどむつかしくない。何人か先頭が代わってラッセルをつづけている。そうなんだ、誰もがこうやって交代できるんだと、安心する。と、先頭にswさんが「まっすぐでいいんですか?」と聞く。高度計を見るとあと標高差30mほどで峠と分かる。斜面の50mほど先にある倒木を指して、「あの高さまでです。あれに近づいてから斜め左へ登って行けば、峠がみえるはずです」と見当をつける。気がつけば、陽ざしが背中に当たっている。見上げると青空が見える。峠がみえるところで、先頭をkwmさんたちに行ってもらい、私は最後尾のotさんとkhさんを待つ。otさんは明日で76歳。この山の会の最高齢。誕生祝の山歩き。彼が歩いている間は、この会をつぶせないと、日ごろ私も思っている。
 
 熊窪から1時間で峠に着いた。夏道を歩くより20分ほど余計にかかったが、雪の深さを考えるとまことに順調だ。「ここからは下りばかり」と聞いて、元気が戻ってきた。50mくらいは広い急斜面、下の平らな平面が目に入るから、怖さがない。銘々がまっすぐ下ったり斜めにおりたり、新雪を踏んで下る。下りは苦手といつも言っているmrさんも、何処でも歩ける雪面をジグザグに選びながら下ってくる。新雪は急斜面でもスノーシューをしっかりと受け止めてくれるから、重心を崩さななければ心地よい。こうして平地に降り立つ。ミズナラの林であったものが、戦場ヶ原に近づくにつれて、シラカバとカラマツとズミの林になる。先頭のkwrさんがときどき振り返って、「まっすぐでいいの?」と聞くように私の顔を見る。頷くだけでどんどん前へすすむ。シカ柵に突き当たる。扉があかない。降り積もった雪が邪魔をして手前に引く扉が動かないのだ。kwrさんが雪を掘っている。下の雪は凍りついている。、kwrさんがストックの先で掘り崩し、私がそれをどけるようにして、かろうじて人が通れるくらい隙間をつくることができた。手前に引く扉でよかった。もしこれが向こうに押す扉だと雪が取り除けず、通れないことになってしまう。
 
 冬場は運航していないバス通りに出る。小田代ヶ原へまわるのを止めて、赤沼に向かう。除雪してないから、スノーシューがちょうどよい。湯川の流れを渡ったところで、今日はまだ誰も踏んでいない湯川沿いのルートへ踏み込む。赤沼に15時着。お昼を入れて5時間の行程。良い歩きであった。
 
 16時に湯元の宿に着く。風呂に浸かって汗を流して温まり、17時過ぎからワインを飲みながら2017年度前半の「日和見山歩」のプランを検討する。5人の担当者から10案が提出され、月々の山行計画を決めていった。(つづく)
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批評と感想、文学と読み物(続) 断裂する「世界」

2017-02-20 09:55:56 | 日記
 
 昨日の話しをにつづけたい。今月の問題提起者のKtさんの語り口がどこかしっくりこない。
 
《何に興味・関心を持つか、書き手のイデオロギーだけで判断すべきでない。》
《人それぞれに関心、感動の要因がある。大きいのは、その作品の出来である。》
《質の高い作品であれば、右、左関係なく評価するし、感動するはずである。》
 
 「判断すべきでない」――なぜ? なぜそう一般的に言えるのか? えっ? おまえならどう言うの?  私ならきっと、「判断すべきとは思わない」というだろうなあ。Ktさんは、どこかに「普遍的な基準」を想定している。ここでいう「普遍的な基準」とは、この言葉を聞く人たちも「同じように思うに違いないという確信」ではないか。その「確信」をかぶることによって、じぶんの内面に踏み込むことを避けているのではないか。養老孟の「バカの壁」ではないが、「確信の壁」はじぶんを守る。他の人たちと同化することによってわが身に及ぶ危険を回避している。じぶん固有の価値に踏み込めば、それを解析して(問題提起者としては)説明しなければならない。それは、なぜじぶんがそのように考えているのか、なぜじぶんがそう感じているのかにいったん降りたって、ふたたび他人に伝わる言葉にしなくてはすまない。
 
 「その作品の出来である。」と言い切ることを、私はしたことがない。人がじぶんの裡側に生起する「感動」を「作品の出来」という外部的なことに転移して考えるのは、「じぶん」と「作品の出来」とが同じ地平に並び立っていることを前提にしている。私にはそれはできない。まず、作家が何を意図してこの作品を書き上げたのか「わからない」。私がそれを(同じ感覚でもって)受け止めているかどうかに自信がない。私が学生の頃は「行間を読め」とよく叱られてきた。それは、屹立する外部世界のことを何も知らないと言われていると思ってきた。事実知らなかったわけだが、その「外部」とは、その作品が提示されている「時代」のことであり、「世界」のことであり、その作家の抱懐している「宇宙」のことだとばかり思ってきた。つまり、その作品の「背景」を読み取れ、読み込めといわれて、己の無力をいつも感じ続けてきたことを思い出す。つまり、「作品の出来である。」といえるような読解力をじぶんが持ったと感じたことがないのである。だからここでも私は、「じぶんの感動」がなにゆえに生起したのかと、じぶんの感性の根拠に視線を向ける。
 
 そうすると、じぶんの感性や思索をかたちづくってきた「自分の来歴世界(の断片)」が浮かび上がる。あくまでも「断片」である。じぶんがいかに親や兄弟や友人たちやその大勢の周辺の人たちを模倣し、叱られ、嗤われ、揶揄われることを通して「じぶん」をかたちづくってきたかが、如実に浮かび上がる。たいていは適応しようとしてきている。高松から岡山へ越してきたために方言の違いもあって、他人との違いをいつも自覚させられていた。中学生になってからは独りいることも少なくなかったが、孤立していたわけではない。ほかの人とつるんでいないと不安であるとか寂しいという感性を持たなくてもよかったのだと、いまになって思う。それほど付き合いが悪い方ではなかったと思うが、付き合う余裕はなかった。たぶん兄弟がたくさんいたことも背景にあった。それより、友人とつるんで遊ぶほど暮らしに余裕がなく、家に帰れば親の仕事の手伝いをするのが精いっぱい、本を読んでいるときは独りでいることを許容されていたからではなかったかと思う。どちらかというと、独りは心地よかったのである。と同時に、中学高校の頃は、孤高とでもいおうか、皆と違うことにちょっとした誇らしさも感じていた。何も誇らしく思う根拠はなかったにもかかわらず。
 
 それが大学に入ってみると、じぶんが凡俗であることにしばしば打ちのめされた。「世界」を知らないことが一番大きかったであろう。その「世界」とじぶんとの位置付き方もわからなかった。群盲象をなでるごとく、「世界」を撫でていながら、じぶんの感性には届かない、隔靴掻痒の思いをしていたのであった。もしこれが軽く乗り越えられていれば、私は学問の世界に飛び込んで己を充たしていたかもしれないと、思ったことがある。だが超えられなかった。タクシーの運転手をしながら哲学をしていると評判の研究者がいたことも、心裡に刻まれて残った。後でタクシー運転手というよりは植字工として身を立てていたとか、哲学者というよりは言語学で評価が高かったと知ったのだが。在野の探究者というポジションが、どことなく「凡俗」である私の身の丈に合っていると感じていたのである。
 
 話がそれているように思うかも知れないが、Ktさんのように「普遍的な基準」を身の内に立てるというよりも、いつしかわが身にうち立てられている「普遍的な基準」を崩すことに、大学卒業後の私の振る舞いは注がれたと、今になって思う。当時はそれでもまだ、再びそれを再構築して世界へ挑むという大それた志を(これまた何の根拠もなく)持っていたことは持っていた。その大それた志が「文化闘争」という領域を見つけていたことは(恥ずかしながら)当時の文章を読んでみるとわかる。
 
 そういうわけで、Ktさんのように「質の高い作品であれば、右、左関係なく評価するし、感動するはずである。」と決めつけることなど、到底できない。自分はどうなのかと述べることはできるが、そもそもなにが「質の高い作品」かを一般的に指摘できない。ましてイデオロギーに関係なく、「感動する」などと受容の仕方まで一般化することは、不遜もいいところ、とてもかなわない。おまえ自身はどこに身を置いて、そのような指摘ができるの? と問うことになる。
 
 上記の断裂は、「しっくりこない」というより、足場を置いている世界が違うような気がする。そういうわけで、「問題提起」になかなか入り込めないでいるのである。
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