mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

何が違うのか

2020-02-29 16:35:22 | 日記
 
 昨日、今日の世の中の、この素早い反応は、なんだ。小中校を休校にするのは、ま、いいとしよう。
遊園地なども、やむをえまいと思う。だが、雪崩を打って、営業自粛が相次いでいる。
 近所の公民館も、3月15日まで休館にするという。毎週やっている「男のストレッチ教室」も、都合2回お休みになる。ま、映画でも見に行くかと思っていたら、今朝の新聞でお目当ての映画館が、やはり15日までお休みするとあった。
 
 何と市立図書館も15日まで休館。その間に返却期限の来る図書はどうするんだよと思って図書館サイトの自分の借り出し図書をみたら、なんと返却期限は、3月末に自動延長されていた。いま届いている図書も、明日、借りておかねばならない。
 これはまるで、「非常事態宣言」だ。
 北海道は、仕方あるまい。雪まつりが影響したなと、思う。だが、この埼玉でも、同じように公共的な場が「閉鎖」になるのは、なんだか私が、取り残されていくみたいで、妙な気分だ。
 
 この、世の中の動きと私の鈍い反応とには、天と地ほどの違いがある。これは、何に由来しているのか。情報量か。でも新聞やTVでも、香港風邪とかSARSとか、インフルエンザの流行とさほど変わるまいと受け取ってきた。たしかにちょっとした接触が感染を広げるきっかけになると言えば、理論的にはその通りだ。だが、そうか。そういうことを言えば、ありとあることごとが、危ないことに通じている。せいぜい、後期高齢の年寄りは自衛策を講じなさいと呼びかけるのは、妥当だと思う。だが、誰もかれもがというか、世の中の公の文化活動全部が自衛策を講じるっていうのは、どんなものだろう。
 不要不急だからとなると、食う、寝る、トイレ、ふろ、以外はたしかに不要不急だね。いや、そう言ってしまえば、世の中にとって年寄りは、存在自体が不要不急だといえば言える。
 でも、この感性の違いなのか、反応の違いは、気になる。

小集団で暮らせと「天の啓示」か

2020-02-28 10:15:46 | 日記
 
 「全国の学校を一斉に休校にするよう要請します」と首相が発表して、世の中を騒がせている。メモを読む記者会見も、なんだか上の空に見える。どうしたんだろう。午前中の予算委員会で立件民主党の枝野党首の質問の舌鋒が鋭かったと、どこかのジャーナリストが書き記していた。厚生労働省ばかりに取り組みを任せていいのか、国土交通関係や産業関係、文科省関係で何にどう対処しているかを問いただした後、首相と官房長官は「指示をした」というかたちだけでなく、何にどう取り組んでいるかに踏み込んだら、中身に何もなかったという様子だったらしい。
 そうして、夕方突然の「全国一斉休校」ときた。まるで桜を観る会を追及されたらすぐに「来年は止めます」といったのと同じ。反射反応だ。
 
  「全国一律」といっても、そもそもまだ、17都道府県でしか発症者がいない。
 これまでの広がり具合を新聞発表で見てみると、2/13日(感染者20人)から急増している。17日(40人超)、19日(60人)、21日(81人)、22日(100人超)、24日(130人)と増え、25日で136人の感染者という。しかも、多いのは、北海道(30人)、東京都(23人)、愛知県(18人)、神奈川県(15人)、和歌山県(11人)、千葉県(7人)で、あとの11府県は1~5人。
 どうして「全国一斉休校なんだろう」と思う。首相の、羹に懲りて膾を吹く姿は、滑稽だ。
 それでも「一斉休校」が必要だとしたら、なぜそうするのか、広がり具合がどうなっているのか、今後どうなると見込んでいるか、を説明して、各都道府県と市町村教育委員会が判断してくださいというのが、「教育の自律」からして妥当なのではないか。いかにも中央に集中した集権政治が実態とでも言わんばかりの振る舞いである。
 
 でも率直な感想を言うと、小中学校なんかは、状況をみて休校措置を取ればいいんじゃないかと、私などは思う。もちろん私はただの市井人だから、経験則的な判断。だから、それでは対応できないというワケを、説明してもらいたいのだ。
 むしろ学校の子どもたちより、朝の通勤ラッシュや夕方の帰宅ラッシュの電車やバスに乗るのは、心配である。だからことによったら、高校生などは休校措置の方が適当もしれないと思わないでもない。まして、仕事で休めない電車やバスを使う通勤客こそ、どうしたらいいか教えてもらいたいと、思っているんじゃないだろうか。
 もうひとつ、首相というか、文科省というか、政府の要人が見落としていることがある。
 学校を休校にすると、生徒たちはどこへ行くか。まさか、自宅でじっとしていると思っているんじゃないだろうね。
 よほど環境が潤沢で家族が家にいる子どもたちは、「自宅待機」的に家で暮らすか、家族連れで新型コロナにかかわりのない遠方へ(自家用車で)旅に出て、のんびり過ごすかもしれない。だが大半は、それほど余裕はない。共稼ぎが小学校低学年以下の子どもを抱えているときは、学童保育もなくなるから、どうしようかと思案するに違いない。実家の祖父母が手伝いに来てくれるところは、まだいい。
 そうでない家庭や、小学校高学年以上の子どもたちは、お昼を用意して貰って、夕方父母が帰ってくるまで一人か兄弟姉妹で過ごすことになる。その子たちが、ひと月もの間、「自宅待機」的にじっとしているわけがない。
 3,4割の子どもたちは、外へ遊びに出ると私はみている。
 都会の子どもたちは、繁華街へ出向く。人の屯するところに寄り集まって、それぞれの好みにしたがって遊ぶ。なかには公園とか、図書館とか、博物館とかへ行く子もいるだろう。でもそれら、不特定多数の集まるところの賑やかなところの方が、学校など、地域の顔見知りの子どもたちといるより、ずうっと新型コロナ感染が心配なんじゃないか。私は、そう感じる。
 WHOも、この新型コロナが世界的な広がりを見せる「パンデミック」と認定する時機を見計らっているようだ。だが、なんともそれがまだるっこしい。なにか(別のこと)に政治的に配慮しているのかと、疑わせたりする。ヒト・モノ・カネのグローバルな移動が、この流行を後押ししていることは間違いがない。取り組みの戸惑いが見えるのも、この自在な移動がもたらしている経済的な繁栄を止めたくないからというのも、わからないではない。
 また、そうした関係が(かつてのパンデミックのときと)異なっているから、政府もどう取り組んでいいか、戸惑っているのかもしれない。ま、それならそれで仕方がない。せめて、進行している事態を逐一子細に公にして、「かんけい方面」が自ら判断して「対処」できるように(邪魔しないで)やって惜しいと思う。
  
 ま、私としては、自分のからだをできるだけ健康に保って、感染しても、新型コロナに負けないようにしておく。これしかない。
 つねづね「雑菌世代」と自称している。戦中生まれ戦後育ちの私にとっては、ウィルスは怖くない。獅子身中の虫として共存もしている。何しろ戦後、DDTを頭から吹き掛けられてなお、喜寿の年まで生き延びてきた身だ。
 ちょっとやそっとで負けないし、たとえ負けても、ここまでくれば、それくらいの不運を引き受けなくては、神様に申し訳ないとも思っている。

医者にも行けない

2020-02-25 19:43:29 | 日記
 
 4日前、金曜日から風邪気味だ。喉がいがらっぽい。寝ていて咳き込む。いま話題の新型コロナウィルスではない。熱がないこともあるが、いつもの疲れがたまると気管支炎を発症する。それだと自己判断している。日曜日に団地の委員会があったが、咳き込みながら出席したのでは迷惑だろうと考えて、欠席を知らせた。
 でも医者には行けない。待合室で待っているだけで、「渡航歴」でもあるんじゃないかと疑われるに違いない。いつもの気管支炎なら、咳止めの薬をもらって飲めば、3日ほどで治る。でも、どうやって薬だけをもらうことができるか、わからない。
 毎日寝ているかというと、そうではない。朝起きて夜寝るまで、ほぼ起きてパソコンのキーボードを叩いている。先週奥日光の宿にいるとき、はっきり「啓示」のような夢をみた。5月の岡山である同窓会に間に合うように、ここ7年間やってきたSeminarの「まとめ」を「私記」としてでも出すべきだ、と。もちろん、seminar関係者にだけ配る私家版だ。せいぜい35部くらい印刷してもらうことになるだろう。だが分量が、ずいぶん膨大になる。ここ5日間でまとめただけでも、400字詰め原稿用紙で1000枚は越えている。どうやるか、思案のしどころだ。デザインも自分でやって、印刷と製本だけなら、pdfファイルで送ってくれれば、お安く引き受けますというコマーシャルも、ネットを調べるといくつか目に付く。もしデザインまで頼むとなっても、数十万円出せばやってくれるのは、5年前のことでわかっている。
 そういうわけで、7年分のSeminarの「ご案内」と「ご報告」と「余波としてのわたしのコメント」を「まとめ」る作業の取りかかった。これをしていると、咳を忘れる。こうして、4日経ってみると、鼻水が出るという経過をたどって緩やかに治まるかと想っていた。だが、そうはうまくいかない。咳き込みがゆっくりだが、強まっている。
 今夜を無事に過ごせたらいいが、そうでなければ、明日は医者へ行こう。事前に電話で、経過と症状を話し、一年前にかかった気管支炎と同じ症状なので、同じ薬の「処方箋」を書いてもらえないかと、頼んでみよう。「軽度の風邪は自宅にいてください」という政府の「対処方針」も出た。それに医者がどう対応してくれるか、だな。
 そんなことを考えていたら、山の会の3月の担当者から電話があった。「新型コロナのこともあるので、3月予定の山行を注視にしてもらえないか」と。チーフ・リーダーがそういうのでは、中止しかない。事務局を担当している私が、皆さんに連絡する。「了解しました」。

末弟の生誕70年を想う

2020-02-23 10:17:50 | 日記
 
 今日は、私の末弟Jの70回目の誕生日。彼は6年前に病没しています。世の中は、彼の十年後に生まれた「天皇誕生日」として祝日にしていますが、子どものころからの私たち家族にとっては毎年この日は「祝日」でした。
 思えば母親が、息子五人の誕生日を毎年きちんと祝う場を設けてきたことが、私の身に刷り込まれて、兄弟間の序列を意識させ、争うのではなく敬愛することへと気持ちを傾けさせたのだと、今になって思います。むろんまた、兄や弟たちがそれに値する振る舞いをしてきたことも、相身互いのいい関係を築くことにつながったのでしょう。
 
 誰であったか脳科学者が(ラジオで)、子どもの男兄弟というのは序列秩序が安定していると心理的にも関係が安定すると話していました(それに対して女姉妹というのは、いつもあなたが中心ですよといわれていることで関係が安定すると言っていましたが)。ふ~んそんなものかと(私の身に覚えのない女姉妹の心もちを推察して)、その時は聞き流していました。だが(男兄弟についてだけになりますが)考えてみると、「かんけいが安定しているのは、相互のあいだのちつじょが安定している」といっているようなものです。つまり脳科学者のいっているのは(男兄弟に関しては)同義反復だったといえます。
 
 ただ、誕生日をきちんと祝うという振る舞いは、年功序列を意識させます。
 ちなみに、年功序列というのも、連綿と続いた男社会の産み落とした秩序といえますから、たしかに(女の子たちと違い)男の子たちにとっては、重要なキーワードだったのかもしれませんね。
 その年功序列が、たとえば母親の言説や振る舞いにおいて、つねに兄を立て弟を慈しめと諭すことだったでしょう。その内実は、弟からみると、兄が立てるに相応しい実存の在り様を日々の言説や振る舞いにおいて示していたからだったと言えます。また私自身が兄として弟に対して敬愛するに足る実存のかたちを示しているかどうかを問われてもいたわけです。
 
 でも子どもの頃のわが身の実態は、わがコトだけに夢中で、弟の心もちを慮ったり察したりしたことはほとんどありませんでした。申し訳なかったなあと、母親の一周忌に編集した冊子の中に綴った弟の一文を読んで、思ったことが思い出されます。私のすぐ下の弟(四男坊)が「兄たちが次々と家を離れて東京の大学へ出ていってしまうのに、自分が捨て置かれていくように感じた」という趣旨のことを記していました。兄である私の胸中において弟を置いていくことなどにかまっている余裕はありませんでしたから、まさに彼が感じたように「捨て置く」ようにしたのだと、いまさらながら忸怩たる思いで振り返っているわけです。
 
 ちょうど五人兄弟の真ん中の私にとっては、一番上の長兄と一番下の末弟とは天秤の両端。しかもその二人が首都圏に在住して(私の身近に)暮らしていたわけですから、ま、いうならば私の視界にいつも存在していました。彼らの在り様と私との関係が、気にならなかったことはなかったといえます。
 ことに末弟は、よくわが家に出入りしていました。若いうちは、週末にわが家に来て、彼の甥っ子や姪っ子の相手をしてくれました。子どもにとって叔父さんという存在は、ことのほか影響力があるものです。末弟Jの人懐っこい振る舞いは、そうした人付き合いの下手な父親であった私と違って、わが子たちに受け継がれているように思うことがあります。
 歳をとってからも、彼の仕事関係の出版物や活動とか、私と共有する山やアウトドアの関係の話はよく聞かされていました。そういう縁もあって、私が仕事を退職してのちの、いわば余生の活動を支援してもらうこともありました。文字通り、兄に対する敬愛を貫き通した在り様だったなあと、亡くなって6年近くも経つのに、じんわりと肚の奥底から甦ってくるように感じます。
 その彼が誕生してから70年。彼にも古稀の味わいというのを、味わわせてやりたかったなあと、感慨ひとしおです。
 そうだよ、歳をとるってオレみたいに自在になることなんだよ。あなたのように釈迦力に働いて身をすり減らすなよと、死ぬまで仕事一筋で夢中であったJのことを、あらためて悼む気持ちがこみあげてきます。
 2月23日。これからは国民の祝日。だが私にとっては天長節ならぬ「J長節」として、私がそちらに逝くまでは「わたしの祝日」になる。

日本海側気候の奥日光 めでたし

2020-02-20 11:00:36 | 日記
 
 18日から二日間、奥日光の雪の山を歩いてきた。山の会の毎年恒例の宿泊山行。
 18日は、宇都宮―日光道路の日光口を過ぎたあたりから雪が降り始め、いろは坂にかかるころには本降りになった。昨日の夜から降り続いているらしく、路面にも雪が積もっている。
 湯元の駐車場止まっているのは私たちの車だけ。バスで来る人たちと合流して、スノーシューを履き金精山の方へ歩き始める。10時半過ぎ。雪の降りがひどくなった。どこかの小学校の修学旅行だろうか、ゼッケンをつけた子どもたちが急な斜面で橇遊びをしている。
 
 今年の参加者は達者な人たちばかり。橇遊びをしている傍らの斜面を上りきり、踏み跡のない雪面に踏み込む。倒木を避けながらずいずいと登っていく。急な斜面を上ってジグザグ道をショートカットするのも、面白そうにトライしている。吹きだまったような深い雪は、スノーシューでもずるりと滑り落ちてしまう。膝を使って雪を固め、そこへスノーシューの爪先を置いて身を持ち上げる。
 雪はパウダースノーのようにサラサラだ。先月末に下見に来たときには少し水っぽかった。手袋が水を含み、冷えて手指が凍えるようであったのに、今回はそういう感じがない。
 kwrさんが先頭を切って歩き、間もなく79歳になるoktさんたちがつづく。khさんとkwmさんはそれと離れて私とともに気ままにルートを取る。
 
  金精道路に向かうところでkwmさんが先頭に立ち、stさんmsさんが後を追う。stさんは金具でできた和カンジキを履いている。これは左右にぶれないストッパーがついてはいるが、前後には歯止めがない。そのせいで急斜面では苦戦している。ストックを両手で持って前の雪面につき、四つん這いで歩くようにするといいよと声をかける。
 金精道路に突き当たるところには、ビール瓶のプラスティック・ケースをいくつも積み重ねて階段状にし、ロープでつないで崩れないようにしてあった。kwmさんたちはつぎつぎとそれを上って、ガードレールに手をかけ、金精道路へと上る。
 
 金精道路も雪が30センチほど積もっている。そこへ強い風が吹いてきて身体が飛ばされそうになる。そう言えば栃木県北部の山沿いでは風雪注意報が出ていた。風下に背を向け、広い道路に広がって三々五々下ってゆく。
 向こうからひとパーティがやってくる。近づいてみると、奥日光のガイドをしているAさんがカップルを案内しているとわかる。今日スノーシューを借りた自然計画のMさんが「80超えても毎週ガイドしている方もいるんですから、歳に負けないで頑張ってください」と、khさんを励ますときにAさんの名が出た。こちらもフードを取って顔をみせると、やあやあ、久しぶりですねと、言葉を交わす。彼らが踏んできた足跡が、強い風ですぐに消えてしまっている。
 
 金精道路から小峠への分岐のあたりは風の通り道になって、地吹雪も舞い上がって視界も悪い。その手前の道路の脇へ身を寄せてお昼にする。11時40分。雪は相変わらず降り積もる。oktさんの前に向き合って座ったkhさんも、言葉を交わすこともできず、黙々と食べている。
 お昼を済ませ、小峠への分岐のところでoktさんとkhさんは湯元の泉源へ下ることにし、皆さんと別れた。
 ほかの方々は蓼の湖へ向かう。雪がないときはミヤコザサの繁茂で歩くことが適わない。積雪期だからこそのルート。そのため蓼の湖は「幻の湖」と呼ばれている。分岐から急な斜面を下る。先頭のkwrさんは、順調に下っている。カンジキのstさんは体を横に向け、カニ歩きをしてスッテプ・バイ・ステップで降りている。下ったところでstさんが先頭に立つ。再び樹林の中を抜けて湖への道をたどる。急斜面のカンジキに苦戦している。湖に出るところで、向こうからやってきた8名くらいのパーティとすれ違う。尋ねると刈込湖へ行って、同じ道を戻ってきたようだ。小峠からは夏道を歩いた。階段が凍りついていて危なかったという。このくらい雪があれば、冬道も歩けたはずだ。
 
 蓼の湖は凍っていない。やはり今年は暖かいのだ。凍った湖面を上を歩いたこともあったと、はじめてきたstさんに話す。20分足らずで来てしまった。ここから引き返しては、簡易に過ぎる。小峠まで行きますかと聞くと即座にkwrさんが「行きましょう」と応える。彼は、下見のとき以来スノーシューの味を占めたようだ。すれ違ったパーティが下ってきた踏み跡をたどって樹林帯を登る。雪が深く、面白い。最後の急斜面を上って、一休みする。1時ころ。
 ここから駐車場に帰れば、ちょうど2時ころになる。同じルートをたどるのも面白くないから、夏道を金精道路へ向かう。このルートは、雪が多いときや雪面が凍りついているときは通らない方がいいと、現地に通暁しているMさんから聞いている。雪が多いときは急斜面を崩れて溜まる雪でルートがわからなくなる。一度そういうときに私も歩いたことがあるが、滑りやすいトラバースばかりで脚がどうにかなるのではないかと思った覚えがある。凍りついたときは、滑落の心配が大きい。そういうときは、スノーシューよりアイゼンが役に立つ。でも、このところの暖かさや少ない雪ならまず心配あるまいと考えた。
 踏み跡は、まったくない。だが少雪のせいで夏道らしさの凹みが見てとれる。さすがに急斜面のところは20メートルくらい、滑り落ちないように注意してトラバースすることになったが、あとにつづく人たちは慎重に身を動かしている。左側は先ほど上って来た渓が、ずうっと下の方にみえるスリリングな斜面がつづいている。上り下りで太ももが攣りそうと言っていたmsさんも、難なくついてくる。わずか40分で金精道路の分岐に着いた。
 
 ここから湯元の泉源に下り、温泉寺の方へ近寄ってから駐車場へ向かう。ここをはじめて訪れたstさんは参道に立ち並ぶ石灯篭に感動している。駐車場で車を回収して今日の宿・休暇村湯元に着いたのは2時。手続きをして部屋に入り、風呂に浸かる。じんわりと今日歩いた行程とその感触が甦る。戦場ヶ原は雪が少なく、草が剥き出しになっていたが、さすがに湯元は日本海側気候といわれるだけあって、そこそこの雪に恵まれた。標高でわずか100メートル高いだけなのに、湯滝から向こうは、雪国であった。もっとも、湯の湖は凍っていない。しかし、湖畔に位置する宿の部屋から見えるはずの男体山どころか、その手前の木立さえも、吹雪にかき消されて茫茫たる冬将軍の制圧に任せているようであった。
 
 風呂上がりから夕食までの間の3時間ほどの「談議」が楽しい。それぞれに持ち込んだビールや白ワイン、赤ワイン、日本酒を空け、お喋りをして、久々の邂逅を喜ぶ。このひとときのために「恒例の宿泊山行」があるのだと、改めて思う。これまでの山歩きを振り返って歳を重ねることに話は及ぶ。年をとっても年々体力が強くなっている人の健勝を讃える。2020年の「山行計画」に話が及ぶよりも、酔いのまわるのが早い。窓の外は、吹雪く一面の雪の飛び交う白い世界。むろん部屋のなかは暖かい。
 
 翌早朝は雲一つない空に、上弦の三日月が冴え冴えと樹間に輝く。朝の露店風呂から見上げると空の深い群青色がようやく明るみをもち始めて青に変わり、さらに薄い空色に変わっていく時間越しのグラデーションが、身の裡の気力につながってくるのを感じる。部屋に戻って窓を開けると、正面の木立のあいだから、すっくと立つ男体山のシルエットが目に入り、その手前の湯ノ湖の湖面が水を湛えて雪に映える。シルエットの男体山が明るくなった陽ざしに色合いを変え、奥日光の守護神であることを静かに誇っているようであった。
 
 朝食を終え、別行動を取る高齢の二人を置いて、三つ岳の肩を越すルートへ向かう。8時半。冬場に封鎖される金精道路の入口から、小峠へ向かう林道に踏み込み、その途中から光徳へ抜ける湯元からの旧道を歩く。旧道とは言え、三つ岳を巻く現在の道路ができてからは使われなくなり、ブッシュに覆われて夏場はとうてい歩けない。積雪期だけ通行できるルートを歩こうというわけ。雪が少ないと難儀するから、実はその様子を見るために、先月末頃に下見に来た。  kwrさんもkwmさんもその下見に付き合ってくれた。今日は彼らの案内で、光徳まで行こうということにした。
 ルートを探しながら、先頭を歩くのは、はらはらもするが、これほど楽しいことはない。そういう山歩きの味わいを味わってもらうことで、彼らもまた一歩、愉しみのグレードを上げることができる。
 
 昨日のカンジキと違ってスノーシューをはじめて履いたstさんは歯止めの利き方が気に入ったようで、先頭を歩くkwrさんの踏んでいないところを選んで歩く。林道も雪も、先月末よりは少なくなっていたが、それでもそれなりの深さがあり、キュッキュッと雪が締まる音が響いて、身体に跳ね返る心地が快い。
 45分で林道から逸れる、旧道の入口に着く。ここでkwmさんに先頭を交代する。kwmさんはヒノキの枝を避けながら、迷う気配をみせず、ぐいぐいと斜面を上っていく。あまり急がないでと、一番後ろから声をかける。stさんはスノーシューが、ますます気に入ったようだ。
 kwmさんが立ち止まって、先を探しているところでstさんが振り返って「こちら? あちら? どちらへ行くの?」と聞きたそうな顔をする。「kwmさんに任せているからね」と、私は知らぬ顔をして立ち止まっている。やはり先月末に歩いた斜面を選んで身を持ち上げる。
 ほとんど迷うことなく、下見のときにお昼を取った地点へたどり着く。何と旧道入口から25分で来ている。積雪は半月のあいだにずいぶん減って、前回雪の下にあった倒木がすっかり身をさらしている。トラバースも草や枯れ枝を踏みながらすすむ。msさんが、「ああ、ここは覚えがある」とトラバースをしながら声を上げた。もう何年も前になるが雪の多いときに彼女はこのルートを歩いたことがあるのだ。stさんはkwmさんと違った新雪を選んで、雪の感触を楽しんでいるようだ。
 
 あっ、あっ、ニホンカモシカがいた、と先頭にいたkwmさんが指さす。しばらく彼女と目を見つめ合ったそうだ。カモシカは近眼だと聞いたことがある。動じないというより、見ているものを確かめるのに(たぶん)時間がかかるのだろう。カモシカの踏み跡が、これから下る急斜面のそちらからこちらにつづいて残り、あちらの木の陰に消えている。
 真っ正面に男体山が姿を見せる。三つ岳の峠を越え、肩の南側に来たのだ。陽ざしが暖かい。「記念写真」を一枚撮って、ここから光徳の学習院の小屋に向けて標高差300メートルほどを下る。てんで勝手にルートを選んで下りに下る。下の方で少し登ったことを憶えているkwmさんは一番谷間に下るのを避けて、中腹をトラバース気味に下る。雪を楽しみたいstさんは、谷間に降りてしまう。msさんは用心深く、降りてゆく。kwrさんはマイペースでkwmさんの近くを歩く。それぞれに雪を味わっているように思う。
 
 学習院のそばの池の囲いの上を回り込み、やはり学習院への除雪道路に踏み込まないように、その傍らを歩いて光徳牧場の方へ下って行った。ふと時計を見ると、11時25分。なんと、出発して3時間かからずに今日の行程を終えてしまった。光徳で合流する予定の、別行動のkhさんたちには12時から13時ころに着くと言っていたから、ずいぶんと早い。彼ら彼女らの山歩きの力量が高まったんだから、結構なことじゃないかとkhさんは後で言うが、私の歩く力が弱まっているってことも、考えられる。
 下見のときは、10時15分に金精道路の入口を出発して、13時50分に光徳駐車場に着いた。お昼を25分間くらいとってはいるから、それを差し引くと、3時間10分の行程だ。それが今回は、宿を出てから光徳駐車場まで2時間55分。宿から金精道路入口までの時間を差し引くと、2時間40分。下見のときより30分も早い。やっぱり私の歩き方がのろくなっているとみた方がよさそうだ。ま、早ければそれがいいというわけではないから、コース時間そのものはどうってことはないが、自分の歩行速度が鈍くなっているという自覚は、大切なことだ。
 
 こうして、今年恒例の奥日光宿泊山行は終わった。見上げる光徳の空には、少し雲が出てきた。khさんに連れられたoktさんはスノーシューを履いて、やはり戦場ヶ原から光徳牧場周辺を歩いて雪上山歩を楽しんでいたらしい。数えで80歳になるoktさんがどこまで頑張れるか、これからその領域に突入する私にとっては、わがコトのように感じる関心事だ。
 stさんはすっかりスノーシューが気に入ったようであった。まだ60歳代の半ばの彼女なら、これからスノーシューを買って歩いても、履きつぶすほど時間が残っている。
 数えで古希を迎えるmsさんは、体力もスリルも、そろそろ隠居気分で山を歩きたいというようだったが、「ありがとうございました。面白かったわよ」と別れ際に、懲りていないことを口にした。これはまた来年よろしくね、という挨拶だったろう。それが何よりうれしかった。
 
 kw夫妻は、私たちとここで別れて、バスで湯元へ車を取りに戻る。私とkhさんは借用したスノーシューを返しに麓の日光市へ立ち寄る。ほかの方々は、東武日光駅へバスで向かい帰途に就く。こうして、好天に恵まれた、日本海側にはそれなりに雪のあった奥日光の二日間が終わった。
 めでたし、めでたし。