mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

アマテラスがヤマトの神になったわけ――天皇制と私(7)

2017-04-30 17:27:03 | 日記
 
 (承前)
 新谷の著書が面白かったもう一つの理由は、天照大神がなぜ祀られることになったのか、という疑問を解くヒントが行間に見え隠れしていたことである。4/16のこの欄で林順治『アマテラスの正体』が「アマテル → 辛亥のクーデタ → 乙巳のクーデタ → アマテラス」と変遷をたどったと解説していることを紹介した。加羅系渡来集団の神(タカミムスヒ)であったアマテルが、それを乗っ取って支配することになった百済系の渡来集団の神として姿を変え、アマテラスになったという説である。しかしこれは、渡来系の天皇部族には説得性があるかもしれないが、先住系の集団や天皇部族に関係しない人々には、単なる「お話し」にしか過ぎないだろう。
 
 ところが新谷の行間に見え隠れするヒントは、厩戸皇子(のちの聖徳太子)が隋に送った「国書」に起因するとはじまる。よく知られている「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無なきや、云々」という厩戸皇子が隋の煬帝に認めた書は、隋と対等の位置に立つ独立不羈の誇りのように、私たちは習ってきた。ところがこの書は、「蛮夷の書、無礼なるものあり、復た以って聞する勿れ」と煬帝の怒りを買ったと隋書にあるそうだ。当時、ヤマトでは「日没」は「天日隅宮(あめのひすみのみや)」、つまり日没が美しい宮と呼んだ心象であったが、当時の隋では「日没」は忌避される言葉だったそうだ。つまりそれを知らなかったヤマトからの「国書」に隋の皇帝が怒ったというのだ。その後日談が記されていて「行間」が見え隠れする。小野妹子が、隋の使者・裴世清とともに帰朝するが、煬帝からの「国書」を帰国途中の百済で盗失したと記されているそうだ。それを新谷は、じつは「国書」に非礼を謗る文言があったのではないか、それを(当時、朝鮮との交易・交渉の窓口をつかさどっていた権勢家の蘇我氏には)知らせないために盗失をよそおったのではないか、と。その責めを負って小野妹子は流刑と決定されたが、天皇はこれを赦免したばかりか、再度、遣隋使に任命している(なお、このときには「東(やまと)の天皇、西(もろこし)の皇帝に白(もう)す」と儀礼的で無難な言辞を送っていると、新谷は記している)、とも。隋臣・裴世清との送迎の儀礼に「蘇我馬子はじめ、蘇我氏側の者たちは出席してないらしい(のに対して、610年新羅と任那の使いが来たときは蘇我馬子・蝦夷が中心で厩戸皇子はその場にいない)」とも指摘している。外交に関する「棲み分け」がなされていたというか、蘇我氏はもっぱら朝鮮半島との提携によって権勢を保持し、隋との関係を軽視していたと読むことができる。
 
 新谷は「古代史研究家の東野治之」の仏典研究を紹介し、「日出ずる処は是れ東方、日没する処は是れ西方、日行く処は是れ南方、日行かざる処は是れ北方なり」による解釈を示している。これは陰陽五行説が当時、影響力を持っていたことを示している。私は陰陽五行のことを知らなかったが、「色」を取り上げるseminarの講師から聞かれて、吉野裕子『隠された神々――古代信仰と陰陽五行』(河出文庫、2014年。初出・講談社現代新書1975年)に眼を通し、「いやなかなか面白い、私たちの感性の由来に触れて解き明かしていくような気分で読みすすめました」と(2015/12/14のこの欄で)感想を記している。吉野は、古代信仰では強く東西(出雲大社と鹿島神宮)の観念が潜在していたが陰陽五行が影響するにつれて南北(伊勢神宮)の観念が導入されるようになった、と説いていた。
 
 推古朝の王権には自らの国を「日の昇る国」とする意識があったとしたうえで、《「日出ずる処の天子」「アメノタリシヒコ」と名乗った推古の王権では大王(天皇)を日神の子孫とする観念が次第に形成されつつあった段階と考えられる》と述べ、国史の編纂に着手したとする。日神とはなにか。新谷はこうつけ加わえる。
 
《この推古朝における王権神話の構想の中で先行したのは自然信仰的な「日神」であり、それに対してのちに新たに構想されていったのが神話的な「天照大神」の神観念であったと考えられる。》
 
 こう読んでいて私は、毎朝起きるとうちの外に出て東に昇る太陽に手を合わせていた母親の姿を思い出している。もう60年ほども前のこと。すでに百姓ではなかったが(母の祖父の時代に大百姓であり、没落してのちもそれを誇りにして生きていた)母親の、身に刻まれた痕跡のように「自然信仰的な日神」を敬う振る舞いが、深く私たちの暮らしに沁みこんでいると思う。「こころのふるさと」のような日神への自然信仰を私たちは共有している、と。
 
 話しは変わるが、去年から評判だった映画「君の名は。」をみたとき、どうしてこれが「泣ける」のかわからなかった。またなぜこの映画が「世界的に空前の大ヒット」するのかもわからなかった。ただ、巨大な隕石が落ちて失われた村に強い憧憬を感じる都会人の視線には、ここまで来てしまった人類史の出立点を懐かしさをもって振り返るような感懐が流れている。ふとわが身の日常をみると、「君の名は。」と問わねばならないように、固有名を失って過ごしていることに思い至る。懐かしさの感触は身体に刻まれた遠い記憶なのかもしれない。
 
 お伊勢さんが千何百年かのあいだ保ち続けてきた稲作の始原の文化に、もう一度立ち返りたいという願望が、自分で育てて、自分で作り、自分で使ったり修理したりするということからはるかに離れてしまった現代社会の私たちのなかでは、無意識化されてしまっているのだろうか。そろそろ究極の地点に到達しつつあるのかもしれない、と思った。
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「記紀神話」の成立と「日本」――天皇制と私(6)

2017-04-30 10:56:57 | 日記
 
 「記紀神話」の成立を考えていて、王権神授的な物語りが「正統性」をもつところに呪術的な飛躍があるように思えて、どうにもわからなかった。その疑問を解いたのが、新谷尚紀である。彼の著書『伊勢神宮と出雲大社』(講談社選書メチエ、2009年)は、古事記、日本書紀と中国史書とを丹念に照合して、「記紀神話」の成立に迫っている。
 
(1)「帝紀」「本辞」と呼ばれる記録書が、王統諸家の内に多種あり、それぞれの物語りが紡がれていた。それらを整理し、歴史書編纂をしようとのりだしたのは推古朝で。推古28年(620)、厩戸皇子と蘇我大臣馬子により「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部幷公民等之本記」が撰録された。ところが、それが消失してしまった(645年)。乙巳の変のクーデタ(蘇我入鹿の暗殺)の折に「大臣蘇我蝦夷が自邸でそれらを他の珍宝とともに焼いた」と『日本書紀』に記されている(という)。
 
(2)(そこで改めて壬申の乱後になるが)天武天皇は(諸々の)「帝紀」を撰録し「偽りを削り実を定める」こととし、稗田阿礼に勅語して「帝皇日継」と「先代旧辞」を誦習させた。それを後の711年に元明天皇が太安万侶に(稗田阿礼誦むところの)天武天皇の勅語の「旧辞」を撰録して献上するように命じた。太安万侶は翌712年に『古事記』参観を献上した。古事記の記述は推古朝までで終わっている。
 
(3)なぜ推古朝に撰録された「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部幷公民等之本記」は消失したか。「それが所蔵管理されていたのはほかならぬ蘇我大臣家であった」という。新谷は「これは蘇我氏の権勢を反映した歴史書で、現在読むことができる『古事記』『日本書紀』とは異なる内容であったと推定される」とみている。この新谷の「推定」が、これらの書が蘇我氏に所蔵管理されていた情勢をもうかがわせる。蘇我氏の力が推古天皇はもちろんのこと、厩戸皇子を凌ぐほどであったからであろう。
 
(4)ではなぜ、(同様に仏教を擁護し広めようとした)推古天皇・厩戸皇子と蘇我大臣(馬子・蝦夷・入鹿)は、烈しく対立したのか。『日本書紀』の推古30年(622)の記録が一年分、すっぽりと抜け落ちているという。しかも厩戸皇子の没年が推古29年(621)と一年早くされているのは、本当の没年622年に何かあったのではないかと新谷は推定しているが、それが何であったかは慎重に言明を避けている。これが「聖徳太子の謎」といわれ、様々な推測(暗殺されたのではないか)を生んでいる理由なのだ。この蘇我大臣家の厩戸皇子家に対する「敵視」はつづき、643年の厩戸皇子の血族23人が一挙に(蘇我入鹿によって)暗殺されることで(ひとまず)終結を迎える。
 
(5)しかし645年、乙巳の変と呼ばれるクーデタで蘇我入鹿が暗殺され、蘇我大臣一族が滅ぼされて、律令制度の整備が開始される「大化の改新」がはじまる。このクーデタに手を貸した勢力の一角に物部氏がいたことによって、厩戸皇子(聖徳太子)はじつは「神道派」であったなどという憶測も行われているのであろう。
 
 「天皇紀」「国記」という「歴史書」をまとめようとした動機が「遣隋使」を通じた「中国史書」に触発されたものだと考えるのは、不自然ではない。しかも推古朝の厩戸皇子は律令制度を導入することに力を入れ始めていたから、当時の権勢家であった蘇我大臣馬子(の権勢保持路線)と齟齬するところはあったであろう。と同時に、推古天皇の権威を保ちながら時局を運営するには蘇我氏とも手を携える必要があり、微妙なバランスの上に推古朝の皇子としての執政を担っていたと思われる。厩戸皇子の死後、彼を「聖徳太子」として祀り上げ神聖化するのに対して、蘇我氏が抱く懸念と、「尊皇派」として聖徳太子をかつぐ、蘇我反対勢力との「齟齬」が、聖徳太子係累の暗殺にいたったと推察するのは、なるほどと思われる。だからこそ、この「暗殺事件」をきっかけにして物部氏の力も借りた中大兄皇子らの乙巳の変がかたちを持ちはじめたともいえよう。
 
 厩戸皇子の律令制度の整備も、大化の改新も、その後の壬申の乱後の天武天皇と持統天皇の治世も、基本的に中央集権の天皇への集中であった。そこに、中国史書に倣って「天皇紀」や「国記」という「古事記」や「日本書紀」という支配の正統性の(背景)証をつくる必要があった。ことに、蘇我氏の力による権勢に対して、神による神託という物語りは、「聖徳太子」の物語りと並んで、天皇支配の正統性ばかりか(従来支配との)異質性として提示するに足る「物語り」であった。ただ単に、「神」を味方につけるというアニミズムからの必要(への配慮)でもなければ、フロイトのいう「心的外傷の二重性理論」でもない。自らの支配を「神託」とみて、侵すべからざるものと規定し、瑞穂の国としての治世を忘れぬよう自らに厳しく戒める「物語り」であったとみると、この時期の「伊勢神宮」の設置も、得心が行くことである。
 
 天照大神が瓊瓊杵尊に授けた「三つの願い」があったと4/20に記した。「宝鏡奉斎の神勅」「天壌無窮の神勅」「斎庭(ゆにわ)の瑞穂の神勅」が三大神勅。「宝鏡奉斎の神勅」は、わが魂と思に居よという。「天壌無窮の神勅」は天皇の系譜永遠なれ、という。「斎庭(ゆにわ)の瑞穂の神勅」は、自然の恵みに感謝しつつ暮らしなさいという。この天照大神の「三大神勅」は、支配者として後継する天皇とその重臣たちに向けた、決意表明であり、祈りであり、戒めであったと読み解ける。けっして、滅ぼされたものへの鎮魂であったり(いやそうであったとしても、それは鎮魂する者のためであって)、支配されるものへの配慮からなされたものではない。
 
 そのように受け止めると、「記紀神話」が私(たち日本人)の物語りになるためには、まだいくつものハードルを超えなければならないところがある。そこに踏み込むには、今日はちょっと時間がない。(つづく)
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「歴史の水脈」(3)列島の落差と地方の独立不羈

2017-04-29 10:57:14 | 日記
 
 島尾敏雄と吉田満の対談でちょっとした「発見」がありました。
 
「島尾さんは出身が福島ですよね。」と吉田が言い、
「ぼくは福島県の相馬です。」と島尾が応えている。
 
 4月の「ささらほうさら」でosmさんが引用した資料では「島尾は横浜の生まれであるが、両親の出身地である小高に夏休みを利用しては頻繁の訪れ「いなか」と呼んで親しんでいました」とあったから、いわば「こころのふるさと」かと思っていましたが、彼自身は福島県の相馬を「出身地」として意識していることがわかりました。単なる「夏休みのふるさと」ではなかったと思われます。
 
 吉田満は函館の出身。その二人が取り交わす、東北、相馬、函館と島尾が戦中に特攻隊員として待機していた奄美と戦後身をおくことになった琉球という圏域と日本列島の中央部との違いが、面白く語りだされています。
 
 まず吉田が、津軽と薩摩は似ていると口を切り、島尾が《似ているところがありますね。共通語をつかうときの抑揚がね》と、いかにも言葉を紡いできた作家らしい視線がきらりと輝きを見せています。吉田はさらに、こう畳みかけています。《県民性なんかもね。無口で、愛想が悪くて、しかし人情は良いとか。》
 
 「ささらほうさら」の集まりでも、岩手出身のktさんは首都圏に来て働き始めて以来、「方言」にもつねに劣等感をもっていた、と話していたのを思い出します。それに対して函館出身のwsさんは恬淡としている。南相馬出身のosmさんは方言のことなど意に介していない様子でした。また私自身は、生まれた高松から対岸の玉野市に移住したときに「方言」をからかわれて「じぶん」を意識するきっかけになったことはありましたが、劣等感とまでは言えなかったような気がしています。慥かに、たえおば大阪弁の人は何年東京にいても大阪弁が抜けないし、そもそも抜こうとしていないと「我の強さ」をあげつらわれたりすることがあります。
 
 吉田の感懐に島尾は、こう応じています。
 
《……北および南と真ん中とは、ちょっと違うんじゃないですか。違うというのは、日本人は昔から倭人だといわれているけれども、倭人というのはぼくは真ん中辺で、北と南の方は違うと思うんですね。……縄文の長い時代に日本列島人みたいなものができたと考えるよりしかたがないですものね。》
 
 縄文人とか弥生人という分け方を考えたことはあります。また、木曾辺りを端境にして東と西で言葉も習俗も食文化も違うと論じている日本文化論を読んだ記憶もあります。だが、島尾のようにみてみると、稲作文化を抱えもってこの列島にやって来た渡来人の系譜を、私などの香川や岡山出身の人は持っているのかもしれません。長い間に交じってしまっているのでしょうが、基本的に稲作文化の営みが私の「身」をつくっていると思うことが、結構多いのです。ことに「お伊勢参り」のことを考えるようになってから、私は渡来系天皇部族の系譜に連なっているのだろうなあと、そこはかとなく思います。それは、万世一系に連なる誇らしさというものではなく、先の戦争に対する天皇の戦争責任にも「(私なりに)始末をつけなければならない」と思ったり、藤原不比等が制作指揮をとったとされる「記紀神話」にも(どうしてこういう物語を紡ぐ必要があったのかを考えてみようという)責任を感じてしまっていたりするのです。おかしいですね。
 
 吉田満と島尾敏雄の対談は、津軽のどん詰まり感に対して鹿児島は開かれていると、話しが先へ展開し、琉球と接していた鹿児島の(国際情勢に明るいという)地政的優位性が、明治維新に際して「鹿児島藩があれだけ見透しが利いたのは、なんといっても世界を知っていたからですよ」と、有利に作用したことへと結びつきます。それはさらに、島尾が「ヤポネシア論」と造語して「日本列島を南太平洋の島々のひとつのグループとする区域概念」を提示してみせたことへとやりとりはすすむのですが、むしろ私は、そのやりとりの間に島尾が触れた東北と相馬の違いに目がひきつけられました。
 
 「相馬というのは東北のなかでは、浜通りで関東につながっている……。」と吉田が振り、島尾が次のようにつづけている。長いが、面白いので引用する。
 
「入口です。だから大分関東が配置こんでいますあそこはちょっとグジャグジャですね。しかし福島県のなかでも、よく謂えば根性がある。悪く言えば根性が悪いというのは、会津と相馬です。なぜ相馬のような小藩がそうなのかというと、あそこはあんな街道の途中なのに、頼朝の安堵以来大名が国替えにならない珍しいところなんです。(島津もそうだがあれはちょっと別格。対馬の宗氏もいるが)……相馬のような不安定な場所で大名が変わらなかったというのは、他には聞かないです。戦国時代もあるし、いろんな理由で滅びてしまうとか、それから徳川時代になったら、徳川氏はどんどん国替えさせましたからね。それで結局、相馬は動かなかった数少ない大名のひとつです。よっぽどうまく立ち回ったのか、生き残るための知恵があったのか。そして先祖は将門だと言っているでしょう。ヘンなところです、あそこは。六万石の小さなところですけれどね。まあ、人間は意地悪かもしれないなあ……。(……)仙台の伊達とのかんけいなんかも、ずいぶん危ないところまで行きながら、うまく切り抜けて……。伊達郡というのは相馬郡とくっついていますからね。仙台の伊達も元はそのあたりから出たんでしょう。」
 
 前回の「歴史の水脈」(1)(2)で述べた、osmさんのいう南相馬の開明性、進取の気性というのと重ねて読むと、「水脈」が頼朝のころ、いや将門までさかのぼる。まあ、こうなると遠景がぼんやりとして、蜃気楼のようにも感じられるから、みたいことを見ているだけなのかもしれないが、要するに私たちの現在が、累々と積み重ねてきた人の営みの上に(いつ知れず)かたちづくられ、受け継がれてきた気風のうえにあるのだと、つくづく実感する。
 
 追伸的に補足しておきたいこと。島尾のように「歴史の水脈」に目をやっていくと、明治以降の中央集権制で「日本」を一体化し、都会も地方も同じレベルの「一体性」で語るのは、ほんの高度成長によって達成された「中流社会日本」以降の、45年ほどをベースにしているにすぎない。しかもそのベースは、バブルがはじけからどんどん解体・乖離し始めてしまった。ことに21世紀になってからの中流の没落した社会である現在、都会と地方の懸隔を一元的に、近代の効率で論じるのは、明らかに地方に分がない。つまり、都会・宗主地域が地方・植民地域をどう遇するかという論議にしかならないのだね。中央官庁は「予算」という財源をもっているから、地方は中央に「理解」してもらわなければ、立つ瀬がない。民意というよりも、その地域の独立性のあたりを「歴史に水脈」に照らし合わせて言葉を交わすステージが設けられないものか。そんなことも感じた。
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たいへんな大山詣でを実感した

2017-04-27 19:40:53 | 日記
 
 10日前には「午後雨、降水確率80%」で心配されていた「丹沢大山登山」。一週間前には「曇りのち午後3時小雨、降水確率40%」となり、三日前には「曇り、降水確率10%、降水量0mm」となって、当然、行くことにした。山の会の月例登山。江戸のころから「大山詣で」と講までつくって行われていた。いまは日帰り登山ができる。秦野から登山口の蓑毛へバスで行き、浅間山を経て阿夫利神社下社からの表参道を通って大山に登る。下山路は日向薬師を目指すルート。
 
 バスの終点蓑毛で下車したのは私たちだけ。気温も上がらず薄ら寒い。用意を整えて歩きはじめる。9時5分。にぎやかな鳥の声が響き渡る。ガビチョウですよねとaiさんがいう。ペットが逃げ出してはびこったそうで、日本の野鳥には数えていないという。シャガの白い花が道筋を彩る。「あっこれ、オドリコソウよ」と誰かの声が上がる。10分ほどで上着を一枚脱ぐ。樹林の中に入っている。さらに30分ほど歩いて体温調節をする。常連の最高齢者、otさんが来ていない。歯が痛くなって突然の不参加。「いろいろと故障が出るわね」と皆さん歳を気遣う。このルートは「蓑毛のみち」と呼ばれていたようだ。あとで地元の土産売りの女将から「蓑毛道が一番楽だわね」と聞いた。ゆっくりゆっくりと身をあげる。45分で稜線の分岐に着く。浅間山と下社と大山の三差路。私は浅間山をみているから荷物番。ほかの方々は荷を置いて往復する。待っていると、キョキョキョ、キヨコ、キヨコと鳴く鳥の声が響く。ええっと、なんだっけあれ、ナントカツグミ……と思うが思い出せない。15年前に雪の白馬で聞いて教えてもらった鳥だ。みなさんは10分も経たないで戻ってくる。三角点もあり高い電波送信等も建てられている山頂標示の写真をmrさんが見せてくれる。プラスティックの小さな山名を書いた板が壊れて木に張り付けられている。
 
 そこから下社への水平道へ入る。kwrさんに先導を頼む。大山のいくつかの稜線の中腹を切り拓いて下社へのルートをつくったもの。くねくねと曲がり、少しばかりアップダウンするが道筋は広い。南の谷側は鋭く急傾斜で切れ落ち、陽ざしを受けて明るく見えている。鎖を設えたところもあるが、驚くほどの岩場ではない。しばらくすると、渓向こうから子どものはしゃぐ声が聞こえる。そちらへ目を向けると、向こう側の稜線を上るケーブルカーの駅舎がみえる。「ああ、その上のが下社だ」「なんだすぐだね」と声が上がるが、まだ道半ば。木の間ごしに海が見える。「あれは江の島だ」という声にmrさんはわざわざ引き返して来てのぞき込む。
 
 大きく屈曲した水平道を曲がると、ひょいと下社に出る。日曜日には混雑する境内も水曜日とあって静かで広々としている。社もなかなか荘厳、「大山詣で」を引き受けるだけの貫禄がある。msさんは拝礼をしている。ケーブル駅からの急峻な階段を上ってくる人もいる。ヤエザクラがやっと満開という風情で重たそうな花をつけている。ケーブルの下の参道の並びに「湯豆腐を食べさせるお店があるんですよ」とodさん。一度どなたかに連れて来てもらったときに下山後そこで食べた湯豆腐がおいしかったという。この大山に大豆をもって奉納する方が多く、ここの水もいい。それで豆腐づくりがはじまり、今や名物になっている、と。でも同じ表参道を下山するのは能がないというと、見晴らし台からこちらへ水平道を通ってくればいい、そのときもそうした、ときっぱりした口ぶり。でもなあ、ケーブルカーで下るってのも能がないというと、kwrさんがここからケーブルカーで下るんじゃなくて、歩いて降ればいい。下山道があるはず、息子が登ったことがあると、kwmさんが口を添える。それで衆議一決。下山して「湯豆腐を食べよう」と決まった。
 
 じつは私には、見晴らし台から日向薬師に向かう下山道に振り回された思い出がある。この見晴らし台を通って日向薬師に降りるとき、標高660m地点から東へ降る(地図上では)急峻な九十九折れ道がある。下り苦手の方がいることを思い、660m地点からまっすぐ南へすすむと、標高500mほどで林道に降り立つ。そこから林道を100mほど歩いてさらに浄発願寺へ下る登山道を抜けると、日向薬師バス停に10分というところに出る。時間の距離も短くていいのではないかと思って、歩いてみたことがある。ところが、途中でルートが失せ、むかしはシカ避けに使っていたのであろう金網も朽ち果てて倒れ、地図を頼りにさらにすすむと、みごと林道に突き当たったのだが、そこへ降りる手前10mほどのところで、崖になっていた。大きくヘアピンカーブする林道の、あちらこちらの降りるところを探したが、標高差で5mほどはつかまる木立もない。とうとうあきらめて元に戻り九十九折れを降るということがあった。もうひとつ、日曜日の日向薬師から伊勢原駅へのバスは1時間に1、2本あるのだが、平日は1時間に一本、ことに2、3時の間は1時間半に一本しかない。これといったお店もなく、ここで1時間半を過ごすのは困るなあとも思っていた。だから降ってわいたodさんとkwさんたちの提案は、この上ない朗報であった。
 
 「湯豆腐」という目標が見つかったこともあってか、表参道歩きは快調であった。最初の鳥居の右わきに「一丁目」とある。10時40分。道標には「山頂まで90分」と表示がある。山頂に「二十八丁目」があるというと、それが励みになって、かなりきつい傾斜の道をいいペースで上る。あとからくる若い人たちには道を譲る。彼らはたちまち姿がみえなくなるが、私たちはもっぱら感心するばかり。マイペースを崩さない。それでも7丁目、14丁目、21丁目というルートの四分の一毎に一息入れ、途中に咲く白い花をミネザクラだといったり、ナントカスミレだとか品評している。スミレは花ばかりか葉だけみても駄目で、裏側をみなくちゃわからないよ、難しいと言われて、私は敬遠している。「ぼたん岩」という面白い形の岩を愛で、「二十七丁目」の石柱を鳥居の脇に見つけたときには、ずいぶんと余裕があった。
 
 山頂に着いたのは12時ちょうど。コースタイムより10分も早かった。山頂からも湘南の海岸と江の島が一望できる。二、三人の人がいるだけ。奥社の社はシャッターを下ろしている。平日のサービスはないようだ。風が強く、冷たくなってきた。「こりゃあ下山したら湯豆腐と熱燗だな」と、つい声になる。風通りの少ないテーブルとベンチを選んでお昼にする。陽ざしが差してくる。下山路はちょうど風下にあたるから、ぽかぽかと暖かい。階段の多い見晴らし台への道は急峻ではあるが、汗ばむほど。少しばかり降りたところで着ていたものを脱いで体温調節をする。今度は西側の稜線の下の方、樹林の中に下社の社殿の屋根がみえて奥ゆかしさを醸し出している。白い花色のサクラがある。マメザクラだろうか。ミツバツツジの紫がかった色合いやハナモモらしい鮮やかな色が緑の樹林に際立つ。アセビやキブシもまだ花をたわわにつけている。13時半、見晴らし台に着く。50分のコースタイムだから、やはり下りが苦手なのか、疲れが出てきたのか。でも皆さんは元気そのもの。気温も上がり汗ばむ。「湯豆腐よりも冷ややっこだね」と山頂の前言を訂正する。
 
 そこから下社への水平道を辿る。こちらの水平道は(蓑毛のみち)に比べて谷側に鉄製のロープが張られ、ずいぶんしっかりと整備されている。ケーブルカーだがった、ケーブルカーへ戻る人が通る「表参道」なのかもしれない。途中に大きな滝があり、ずいぶん多い水量が流れ落ちている。二段になっていて二重の滝と呼ばれている大山川の水源。その脇の小さな社・二重社には、灌漑の神、雨乞の神が祀られているという。大山の水源の神。豆腐を頂戴するなら、ここにお参りしなければなるまい。
 
 すぐに下社の下に着く。ここからの下山路30分は急峻な石段がつづく。それも昔にしつらえられたまんまらしく、踏む石も寄せ集めのバラバラ、高さもいい加減、あまり歩かれていないらしく、苔がつき、狭い。ワイワイキャーキャー言いながらmrさんは下っていく。最後の方は、結構慣れた様子で面白がっていた。あとで立ち寄った茶店の女将の話では「むかしの人は足が小さかったから」という。また「雨が降ると濡れて滑りやすくなる。いつやらも若いスポーツマンが7段ほど落ちて、足をひどく怪我してかわいそうだった。あなた方は無事に降りてきてよかったねえ」と感心してくれた。なるほどケーブルカーが使われるわけだ。そうそう、その女将は「戦時中は鉄の供出でケーブルがなくなったから、みんな歩いて登ったのよ。女坂の方が下りにはいいわね」と付け加えた。むかしの大山詣での人たちが歩いた登山道を、今回の私たちは、上り下ったことになる。まさに大山詣でを実感した。
 
 この途中で真っ黒のツグミのような大きさの鳥を見た。なんだろう、わからない。くちばしがオレンジだったとkwmさんがみていたのが、後で調べるときの決め手になった。クロツグミだ。そうだ、蓑毛の道で聞いた鳴き声も、クロツグミのものであったと思い出した。
 
 この茶店の「冷ややっこ」はおいしかった。突き出しに出してくれたキャラブキの山椒味もコンニャクの甘辛煮も土産にもなっているらしく、「今風に薄味仕上げ」であった。こうしてバス時間まで30分ほどを過ごして大山詣でを終えた。
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浅い浅い、表層をなぞるだけ

2017-04-27 09:19:44 | 日記
 
 「東北でよかった」と発言した復興大臣が更迭された。それに対して「政治家が何か話したら、マスコミが一行悪いところがあったらすぐ『首をとれ』という、なんちゅうことか。」と「恨み節までぶつけた」と報道している。私の思ったこと。
 
(1)政治家にかぎらないが、発言が表層をなぞるだけになっている。「(安倍一強という)緩みがあるのではないか」とメディアも指摘するが、それよりも哲学がない。それこそが問題ではないか。「東北でよかった」というのが「一行」の発言というのは、「大震災が人口密集の首都圏で起こっていれば23兆円という被害ではすまなかった」という文脈にあったのを、そこだけ切りとって非難していることを指す。そうなんだ。もし「東北でよかった」と言わずに、「もしこれが東北でなく首都圏で起こっていたら……」と発言していれば何の問題もなかったろうと、二階幹事長は考えているにちがいない。
 
(2)でも「一行」に、大震災被害地、被災者を軽んじる趣がある。そのことが癇に障る。そう受けとめて反発している。大震災の時に福島原発がメルトダウンを起こしたとき、時の首相が「向こう三十年住めないことになる」と表現したことを、「ひどいことを言う」と反発したのも、マス・メディアであった。「ふるさとを奪われた人たちが30年も帰れないと(時の首相が)いうのは許せない」と自民党も同調して非難した。だがのちに、その発言をした時の首相を責めるよりも三十年住めないところを生み出した「福島原発」それ自体を責めるべきであったと、(故郷を奪われた人たちには)わかる。それは、その時の首相に変わって首相の座に就いた「なんでもヨシヒコ首相」が原発事故終結宣言をしたときであった。この終結宣言が、政府と東電と、要するに人口密集地域の「支配グループ」の意を汲んだものであることを感じとったときであった。だが、その宣言は、支配システムの壁に阻まれて動じることはなかった。メディアは、そのときどきの気分で報道する。だからかつて「ひどいことを言う」と非難したことを忘れて、後には「三十年も住めない」という状況になぜ向き合わねばならないのかと、被災者を代弁する。非難したり代弁したりするのはメディアの役割なのだから、行きすぎたり浅慮であったりしても、そのときは構わない。カミツキガメのようなもの、時の政権に噛みつけば、そのお役目は半ばはたしているのだから。だが、カミツキガメである限り「特ダネ週刊誌」と同じ域を出ない。私はもう少し、メディアには、私たちが気づいていない(あるいは気づいていても触れたくない)ところを衝くような報道をしてもらいたい。それこそが「知る権利」なのじゃないか。そしてそうしてこそ、カミツキガメが政治家の浅慮をついて、思慮深い政治家を育てるのじゃないか。またそれが何十年、何百年と積み重なって、深く考える気風をもった市民社会を育むのではないかと思う。
 
(3)もし今回の復興大臣の更迭に学ぶとすれば、大都会と地方とは明らかに宗主国と植民地の関係になっているということではないか。原発依存をつづけるかどうかという論議に決着をつけるなら、首都圏で必要なものは首都圏に原発をつくって賄うべきだと私は主張する。そう言うとかならず、「もし何かが起こったときの被害の大きさを考えたら、そうはいかない。お前の主張は端から原発をつくらせないようにするトリック・ロジックだ」と反発を受ける。もう少し穏やかなインテリは「それは効率の問題ですよ。万一の場合のリスクを最小にするのは人の智恵というものです」といなしてくれる。だが、福島の原発事故が明らかにしたのは、もはや首都圏と地方は(同じ次元で言葉を交わす)共同性をもっていないということであった。もちろん現今の「北朝鮮情勢」や「トランプアメリカとの対峙」というときには、たちまち一体化してしまうのだけれども、国内問題をめぐって言葉を交わすときには、すでにすっかり中央集権的な支配システムに取り込まれていることをひしひしと感じる。今回更迭された復興大臣の発言が示したことは、これであった。もはや原発被災地は、首都圏の植民地なのだ。
 
(4)もし復興大臣の首をとるこのならば、以後大胆にこの「宗主国―植民地」モンダイに切り込むという視線がメディアにも政治家たちにも備わらなければならない。なぜ福島は「植民地」に堕してしまったのか。どうして首都圏は、かくも「宗主国」として振る舞えているのか。明治以降の統治システムにおいて何が問題であったか。いまそれらをどう修正し手直しして行けるか。にもかかわらず、自今以降も「日本」という共同性を保っていこうとするなら、日本の社会には何が必要なのか。政治家は何を心得る必要があるのか。市民は何を心掛けるべきか。そんなことを、丹念に掘り下げて探究する、どういう地点に立っていると思う。
 
 「任命責任」を感じた安倍首相は間髪を入れず(復興大臣の失言を)「陳謝」したという。そんなことは焼け石に水にもならない。浅い浅い、表層をなぞるだけなのだと、肝に銘じてもらいたい。
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