mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

脳科学の刺激(1)実体験と世界

2024-07-30 08:29:57 | 日記
 昨日の話に続ける。池谷祐二『夢を叶えるために脳はある――「私という現象」、高校生と脳を語り尽くす』(講談社、2024年)を読みながら触発されたこと。彼の3日にわたる講義の3分の1、まだ第1日目しか読み終わっていないのに、あれやこれやワタシのおもいに刺激が入る。捨て置くよりは、それを拾い出して、何にインパクトを受けているのか、自問自答する。
 池谷祐二の脳科学の探求は、(私の好みに合わせていうと)ずいぶんテツガク的な思索と符節を合わせる。何しろ初っ端の問いが、心と脳は一体のものかどうか、なのだ。
 つまり、人の心の作用は、脳の反応の延長上におけるかどうか。もし置けるなら、脳の生理学的探求によって、心の動きを映し出すことができる。もし次元が異なることなら、それこそ魂と身体の二元論。死んでも魂は浮遊しているという論説につながる。
 池谷の脳科学は前者とみて、その最先端を紹介している。今日はその一つ、体験が世界を感得することとどうつながっているのかということを、考える。
 磁気チップを埋め込んだネズミが迷路を容易に記憶・探索することができるとか、バイオハッキングによって赤外線が見えるようになったという話しは、昨日も触れた。バイオハッキングというのは、遺伝子編集によって身体機能の不都合を取り除いたり、微生物の投与・摂取を通じて特定の腸内細菌の活動を促進したりする(マイクロバイオームの最適化)とか、サプリメントの摂取やフィジカル・トレーニングによって、身体的・生理的・心理的状況を最適化することだが、すでにいろんな分野で試行され、実用化されている。
 その(心と脳に関係する)原理的な研究の一つとして、他人の感覚を脳から直接受けとることができるかどうかを探求もしている。つまり、イメージを伝えるのに言葉はいるのかいらないのか。となると、その前提となるのは、人の五感を刺激する実体験がどう(その人の)世界観イメージをかたちづくっいぇいるか、そのメカニズムも明らかにされなければならない。
 私は、ワタシの中に生命体史と人類史のすべてが堆積されていると考えているが、進化的に受け継がれたものとワタシを包む環境の中で私が体験したことが積もり積もってそうなっていると考えている。もちろん、そのメカニズムはわからない。だが、この「積もり積もって」というのは、何が、どう、どこに積もるのか。
 池谷脳科学はそこに踏み込んでいる。思考が記憶の中で、その連鎖として行われていること、そこには物語りが底流していること、その物語の形成には「訓練の賜物」があることなどを話したあとで、《身体を使った経験がないと「見える」ようにならない》という衝撃的な、「ネコのゴンドラ実験」を紹介する。
 垂直に立てられた支柱の両サイドに水平棒が出ている。その竿の両端に視覚経験のおなじネコ二頭が繋がれている。そのうち一頭は床に足が付いていて、もう一方はカゴに乗せられている。床に足の付いたネコが歩くと支柱棒が回転して、カゴのネコも歩くネコとおなじだけ空間を移動する。ところが、《カゴに乗ったままのネコは、一向に目が「見える」ようにならない》という。自分で動き回らないかぎり、「見え」が生まれない。つまり、目さえあればものが見えるようになるわけではない。網膜から上がってくる電気信号を、《自分の身体を通した経験を通じて、手間暇掛けて吟味しながら、光情報の解釈の仕方を学習しなければ、「見える」ようにならない》。これは考える・意思するというよりも、身が直に世界を感知し構成する授受作用を(無意識に)しているってことでもある。
 これはワタシの経験的実感を証すだけでない。「遠くのものが小さく見える」という「事実」さえも、実は、(そう見えるという)訓練を受けていなければ、そのように感知できないという。遠近を映した画像も、「遠近」には見えず、平面の三角形と区別がつけられない。立体か平面かもわからないのだそうだ。つまり五官の感知した「情報」も、それ自体としてあるのではなく、ワタシの付随する世界の物語として構成されることによって、「みえている」のだ。「みえる」ということ自体に、すでに人の物語り構成が作用している。自然(しぜん)それ自体が鏡像的につくられている。私が「自然(じねん)」と呼んでいた(人の意志的な)ことが、その初発の起点に(人類史的に受け継いできた)世界構成の作法が埋め込まれているということだ。となると、はたして人の自由意志とか、主体というのは、いったい何なのであろうかと、私の胸中の自問自答はどんどん広がってゆく。
 ははは。最先端の脳科学ってすごい。と同時に、それらのことが経験的にホモ・サピエンスのワタシに受け継がれ、わずか十月十日の胎内と生まれ落ちてから小学校に入るまでの6年余の間に「せかい」をそれなりに(内心で)受け止めてかたちづくっている。直立二足歩行というヒトの自然さえも、セカイをみる目にしっかりと受け継がれ作用している。
 しかもその大部分は、ワタシの無意識として仕舞われていて、ワタシの意思に関係なく、次の世代に受け継がれている。その壮大な生命体史や人類史の(私が知らず受け渡ししている)「不思議」が、いまワタシの身の裡でぐるぐると渦巻いている。いや、とりあえずここでは人として受け止めていますが、ネズミやネコの実験をみると、哺乳類とか脊椎動物とか、視覚や聴覚や嗅覚や痛覚や味覚などの大きなバラツキにも、それなりの進化の合理があると思われ、ふ~ん、すごいと感嘆している。
 いや、すごいって終わっては、もうしわけない。つねづね歩くしか能がないとわが身のことをおもい、(山へと願うワタシの)直に山に入りたいおもいが、実は世界を感じとりたいという無意識につき動かされていたのか。何か不可思議な経験的集積の知恵を感じている。(つづく)

1 コメント

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ハイブリッド哲学 (サムライグローバル)
2024-07-31 14:35:03
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学のような理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
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