リハビリに行くといつも「どうですか?」からはじまる。私の右肩の様子の変化を尋ねているのだ。一週間でどこがどう変わったか変わらないかを伝えようと思うが、私自身が、それをつかめない。身を動かす毎にどこに不都合が感じられるかをチェックする。ふだんの動かし方ではなんともないのに、少し変化を加えると右腕の重さと可動範囲が、左肩や腕に較べて違うことがわかる。
その少しの変化は、朝のTV体操をしていて、わかる。僅か十分間の体操である。ラジオ体操の第一、第二に加えて「みんなの体操」とか、片足立ちでバランスをとったり、肩や腕の可動範囲のチェックが入る細かい体操が組み込まれて、なかなか変化に富んでいる。
そのとき例えば、右腕を掌を前に向けて横に伸ばす。同じく伸ばす左腕と違った感触はない。ところが、掌を返して小指を上にしてあげると、途端に左右の腕の違いが際立つ。右腕が重く右肩と右上腕に痛身を伴ってくる。身体のつくりが微細にできていると思う。
リハビリのはじめにそう話すと、その箇所の探りから入って、経絡を辿るように指で押さえ、もみほぐすように移っていく。その辿る先が時に腰の方にまで及ぶ。そして押さえられたポイントが間違いなく凝っているというか張っていたことがわかるように、軽く解(ほぐ)けていく感触を覚える。20分ほどのリハビリを終えると、確かに身軽になっている。ありがたい、これでまた、一週間は持つと思える。
何かの事故があったからではないが、私の身体は強張り始めている。掌の強張りを医師は「デュピュイトラン拘縮」と、舌を噛みそうな名で呼んだ。この「拘縮」というのが、強張りを指しているのだが、これは、たとえば農婦の背が丸まっていたり、街を歩く年寄りの背骨が右へ大きく傾いているのにもいえるのだろうか。ふだんの暮らしの中で、遣わない身のこなしというのが、ずいぶんとあると、体操をしていると気づく。その遣わない部分が、長年掛けて(どのくらいだろうか?)固まってしまうというのだ。パソコンのキーボードを叩くのに小指も薬指も遣ってはいる。にもかかわらず、左の掌も右の掌も小指と薬指に拘縮がはじまっている。
子どもの頃には、そういう心配はしなかった。いや、20代や30代の頃も、そのような気遣いはしたことがない。だが、身体がほぼ出来上がった(20代半ば?)頃から、身の固まりははじまるのかも知れない。というよりも、気遣わなくても身体は、無意識にいろんな動きをしている。ことに寝ているときの寝相の悪さは(ことに深酒をした夜のそれは)、七転八倒の苦しみかと思うほどに暴れ回っていた。あれは結構、寝ながら身の不都合を調整する運動だったのかもしれない。
ところが、年をとるに従って、身体が暮らしに必要な身のこなしを自ずと身につける。無意識の習性として身が馴染み、定着させることで楽になる。それが昂進すると、その(暮らしに必要な動きの)特性を保有して固まり始めるような気がする。そうならないためには、意識的に解してやらなければならない。それが、体操であったり、筋力保持の運動であったり、持久力を強めるためのランニングや水泳や登山だったりする。いろんなスポーツが広まることによって、背中の曲がった年寄りが少なくなっていることに、街を歩いていて気づく。
年をとることと、暮らしの習性が昂じて身体に不都合が定着することとを意識的に調整して、ほぼ適当な身体性を保ち続けることが意志的にできる人にはできるようになってきていると言える。だが私は、それが苦手なのだ。長年の、自ずからなる流れに逆らわない気性が定着してしまっている。ちゃらんぽらんだし、努力が嫌いだ。なるようになる、なるようにしかならないという身についた習性が、ことのほかぐうたらな、行き当たりばったりの暮らしに向いている。
その「ぐうたらの壁」にいま突き当たって、修正するかい? って、わが身の別人から声を掛けられている。でもなあ、いまさらなあ、と渋る声の方が強いのが、心地よく響く。これって、なんだろう?
暖かくなってきた所為でしょうか、身体が軽くなっています。何より昨年4月の事故以来のリハビリが効いてきて、今月初めから通院が週一回になっています。(常連客の)私担当のリハビリ士も固定して、遣り取りしてから、微妙な変化を指先で探るのか、勘所をきっちりと押さえて、あっ、そこそこ、と声を上げたいくらいです。人のからだって、精細につながっているのだと感じるし、それを、外から押さえて探り当てるという精妙さにも感嘆します。マッサージというと、撫で摩るだけかと思っていましたが、そうじゃないのですね。でも、血流を良くしているのだろうか、それとも体液の流れとか神経の通流とかに作用しているのだろうか。身の内部で何が起こっているのか、何を起こしているのかわかりませんが、患者としては、結果良ければすべて良しです。
身が軽くなると、長く放っておいたコトを、やっぱり仕上げようという思いが、緩やかに湧き起こってきました。他でもない、2012年から続けてきた山の会の山行記録をまとめることです。
4月の事故当時既に8年分をひとまとめにして、自分で編輯デザインして、印刷製本だけをして貰おうかと考え、そういうことをしてくれるかと知り合いの出版社に相談していました。無論、快く諒解して、いろいろとアドバイスも貰える話が進んでいました。
ところが2020年の1月末から突如現れた新型コロナウィルス禍。山歩きそのものが大きく制限され、4月からはしばらく休止状態になってしまった。公共交通機関を使わなければいいのだと気づいてから、車にテントを積んで行くことにしたり、登山口近くの鉄道駅まで来る人と合流して歩いたりして山行が再開した。そうなるとほとんど私の週1の山行トレーニングと重なってしまって、毎週私が行こうと思う山を案内し、声を上げた人とどこかで合流して一緒に行くという形になったわけです。
いま思うと、それが、私の山行気分を昂進して、だいぶ無茶な歩き方を楽しむようになっていったのだと、反省も交えず解析しています。
ともあれ、山行記録の方は、コロナになってからも綴っていますから、8年分が9年分になり、降る年だけを数えれば、もう間もなく十年になります。事故以来、身が思うようにならず、本にすることも忘れていました。思い出すことができるようになっても、果たして本にするってどういうことなのかと、余計なコトへ考えが進んでしまう。ますますやる気が削がれる。そうして、もういいやという気分で放りっぱなしにして年を越した次第。
ところが2月になり、リハビリも週1回でいいとなってから、山行記録をまとめる気分が甦ってきました。無沙汰していた出版社に話を持ちかけると、そちらも少し様変わりしていて、紙媒体ではないが、本にしたものをネットで販売する事業に乗り出していて、私の本もそういうコンテンツの一つとして使わせてもらえればと、話が付け加わってきました。それはまたプランバシーの保護のこともあるから、そうすると書き方も若干変えなければなりません。それは相談しながらということにしたら気分が楽になったわけです。
こうして、再び「素原稿」を読み直しながら、本にする準備を再開しています。先に何かを置いておかないと日々を過ごしていけないというのも、困った私の習性ですが、でもそれが私の回復力の証しだとすると、それはそれで大切にしなくてはなりませんね。
今日は花粉が飛び交うほど温かくなるという。荒川沿いの彩湖にでも行って歩いてみようかな。
ロシアの侵攻を受けたウクライナの街の様子が画面に生々しい。日本語を話せるウクライナ人もいて、訥々とした語り口が痛ましく響く。安否を問う在日の娘のPC画面に向かって「なぜなの? なぜなのかわからない」と問いかけ応える母の声が悲痛である。
TVのコメンテータは、チェルノブイリが占拠されたことに触れたり、NATOが加盟国を増やしてきたことがロシアを追い詰めていると解説したり、プーチンの思惑を推しはかったりするが、人々との乖離が大きい。
ウクライナの人たちからすると、どうしてわたしたちがロシアと戦争しなくちゃならないの? と、わが日常を探ってみても腑に落ちない。国内東部での争いがキエフの日常に響くようなこととして届いていないのか。親ロシア派と親自由社会派(?)という対比が、いかにも政治的というか、ジャーナリスティックに腑分けされたカテゴリーなのか。クリミアがロシアに編入されたことも、政権上層部の権力闘争の結果であって、〈わしら知らんもんね〉と受け止めているのか。
ウクライナのTV討論番組の中で、親ロシア派の国会議員に進行役が殴りかかる様子が映る。既に国内の分断が極限にまで来ていると思われる。だのに、市井の民の〈わしら知らんもんね〉というのは、どうしてなのか。ソビエト時代も含めて、市井の民が手の出しようもない政治世界のことには、知らぬが仏を決め込む習性が身にしみているのか。だとすると、「なぜなの? なぜなのかわからない」という声も、少しは解きほぐせる。政治の権力闘争は、周辺諸国との対立も含めて、雲の上の争い。昔風にいうと、神々の争いが突如、地上に降りてきて、その災厄に巻き込まれた人々の困惑なのかもしれない。とすると、たぶん日本の私らと似て(程度の差は大きくあるが)、政治に対する見切りが底流にあるのかもしれない。
あるいは、また、家族をポーランド国境に送り届けた父が「キエフへ戻る」と話したり、弾薬や自動小銃が売り切れたと取材記者がレポートするのを聞くと、日本との積み重なった社会の径庭の違いが浮き彫りになって、わが身に問いかけてくるようだ。つまり、雲上人の争いであったコトが、わがコトと受けとられる端境の辺りに近づいてきていたのかも知れない。つまり国政が市民の暮らしの地平に近づいてきて、それを自由を護るという言葉で集約していく気風が醸成されてきているのかも知れない。
かも知れない、かも知れないと積み重ねるのは、私がウクライナのことを何も知らないからだ。それは同時に、ウクライナと日本の経てきた歩みと日常の「混沌」が身に伝えてくる響きが異なるからでもある。ニュースを観ていると、その「異なり」が伝わってくる。それは戦火に直面しているウクライナの民とそうではない日本の私が、はじめて出会って「当事者」となる入口に立っている姿である。蟹の甲羅からちょっと顔を覗かせたような。日本にいる私にとって、では、ロシアのウクライナ侵攻の「当事者性」とはなんだろう。
TV画面や新聞紙面に踊るウクライナの様子が、一つひとつわが身の日々の暮らしと対照した問いかけに思える。そうか、これが国際政治とか、国際社会の入口か。とすると、この問いかけに、一つひとつ丁寧に応えることが「当事者性」への入口に立つことであり、「当事者研究」ではないかと、日本の市井の民である老爺は考えている。その「研究」の応答舞台は、もはや国際政治も国際社会もみな、国内政治や日本社会と区分けできない人類史的文化の研究であり、そこに系統的な論脈とか文脈が備われば、学術研究になるのかも知れないと、入口とは別の出口へ向かっているように感じながら、考えるともなく思っている。
ロシアがウクライナに侵攻した。やるな! 入るな! と警告してきたEUもアメリカも経済制裁という以外に手の施しようがない。なぜって? ロシアは核兵器を持っている。その上、それを使うかも知れないと匂わせて、持っているぞと高言している。核抑止力が、大国の侵略が世界大戦になる歯止めになっている。皮肉なことだ。チェルノブイリをまず制圧したというロシアの戦略が、ウクライナの持つ「原発という核の脅威」を抑えることへ向かわせたと考えられるからだ。しかも、戦後国際秩序の基本を無視して侵略に踏み切るロシアのこと、ひょっとすると核兵器を使うかも知れないと思うのは、ごく自然だ。
もしヨーロッパやアメリカが軍事的に対応すると、第三次世界大戦になる。核を用いず、ウクライナ国内の戦闘支援となると、泥沼に陥るのではないかと心配する向きがある。多分そうはならない。なぜなら、ロシアはウクライナを廃墟にしてもいいとは考えていないし、ウクライナ国民の感情の底流に親ロシア感情があるからだ。ゲリラ戦になるほど、ロシアと決別しヨーロッパと手を結ぶ気風があったようには思えない。親露政権が確立してくれれば、それがベストと(ロシアは)思うに違いない。そんな事態をウクライナの人々が受け容れるかどうかは、わからないが、軍事力を背景にそれを押しつけられると、ま、それでも仕方ないかと我慢する程度にロシアとは親しみを身に刻んできている。
ここがゴチャゴチャした場合、中国はロシア側について参戦するか? いやたぶん、しない。欧米露が第三次世界大戦となったら、中国はその結末を傍観して、アメリカが力を落とすのを待って台湾を併合する。それくらいの賢さを習近平は持っている。
北朝鮮はどうするだろう? これもたぶん、参戦はしないが、独自に韓国へ軍事攻勢を掛けることは考え得る。北朝鮮国民の食料難を乗り切るには、韓国と統合するようにして危機突破を図る以外に脱出口が見えない。もちろん力尽くということもないわけではないが、こちらは文政権と共に国家統一を果たすという旗を掲げるのを得策と考えるに違いない。大統領選で負けるかも知れない現政権側にとって、この大義名分は、捨てがたい。当然、アメリカとは縁を切ることになる。だがこれくらいの不義理は、世界大戦下ともなれば、どうということはない。中国が後ろ盾になるかのようにみえていることも、虎の威に見えよう。
などと私が世界地勢図の動きを推しはかるのは、全くの傍観者だからだ。TVの画面で「どこへ行けって言うの? 私ひとりで、どこへ行けばいいの?」と泣きながら街路を通り過ぎてゆく老婆をみると、世界地勢図なんかは吹っ飛んで、胸が痛む。街路を埋め尽くす車列をみると、逃げだそうとはするものの、逃げ場を失って立ち往生している庶民の姿は、ひとりかどうかではなく行き場のない老婆と同じだと思う。そしてそれは、私の姿と重なる。
いつであったか、長年親しく言葉を交わしていた友人に「もし外国の攻撃にあったらどうする?」と歳をとってから聞かれたことがあった。私は即座に「逃げる算段をする」と応じたら、以来彼には愛想を尽かされた。彼がある種の愛国者であり、統治的に日本の政治を考えていることは承知していたから、彼からいつかそういう問いかけがあることは予想がついたし、正直私は「逃げる」以外に力が無いと思っていた。でも彼は、もう少し日本の社会や国家を算入した考えを聞かせてもらえると期待していたのだろう。心底がっかりしたようだった。
友人をがっかりさせたのは悪いと思うが、「逃げる」以外、私に何ができるだろう。命が惜しいとは思わない。子や孫を護るという心持ちがないわけではない。だが一緒に逃げる以外に、何ができよう。ロシアは軍事施設を標的として攻撃し、制空権を掌握したといっている。つまり彼らの侵略は、市民を標的としているわけではない。国民国家的な領土領海という近代的線引きの次元で争っている。それは市井の民にとって、自分が護ろうと思っていることとずいぶんなズレがある。
加えて近代の戦争は、私たち市井の民が手を出せる次元のものではない。せめて防衛に力を尽くしている武力や外交力の発揮の、邪魔をしないくらい。唯一つ、市井の庶民の間に流布される「情報」を見極め、それに踊ったり踊らされたりしないことを心得ることは重要だ。でもそれは、この事態から「逃げる」ことと矛盾しない。しかもその「情報」は、市井の民の気風を混ぜ返して、護るに値する文化をぶち壊してしまう恐れを多分に含んでいる。
ウクライナの民がもし悔やむことがあるとすれば、もっと日頃から社会的な気風を、護るに値するコトへ磨きを掛けておくべきであったということではないか。おいおい、待て待て。まだそんな風に見限るなよ。ウクライナが自由な社会に踏みとどまるというのなら、親露派の人たちもそういう気風を守りたいというような、それなりの政権のつくりかたがあるのではないか。それがロシアの気に食わないということもあろうが、そこでこそ、ウクライナの道筋はウクライナ人が決めるという強さを、対外的にも提示してみせることができるのではなかろうか。
あっ、いや、そういうのを政治過程に乗せて外交場面に生かして行くのは政治家や官僚たちがやってくれればいいこと。市井の民は、市井の気風を守るに値するものに仕立てていく。それは、日々の人と人との遣り取りで、日々、そこ場で繰り返し育てていくことだと思う。そうなってこそ、行く所はどこにもない! ここで死ぬ、と肚が据わる。
図書館の書架に見掛けて、秋月達郎『奇蹟の村の奇蹟の響き』(PHP、2006年)を手に取った。タイトルの「奇蹟」って何だろうと思ったから。ストーリーは読み始めてすぐに見当がついた。ぽつりぽつりと、他の本の合間に読み進め、いま読み終わった。
徳島県に収容された第一次大戦の山東半島青島の戦いで敗北したドイツ人俘虜。全国の何カ所かに分けられ、その一部、約一千名ほどが徳島の一番札所霊山寺に近い板東に収容された。日露戦争の時もそうだったと聞いたが、この頃の日本の俘虜に対する処遇は、とても丁寧だったらしい。そう言えば、ヴェルサイユ条約締結の折の「同盟および連合国」の会議に於いて日本は「人種差別撤廃」を盛り込むよう提議し、米英の反対に遭って取り上げられなかった。つまり、それほどに日本の外交官・軍人は国際的なセンスにおいて先端的であったとも聞いている。
その俘虜たちと徳島の町の人々の期せずして起きた交流が、パンを焼く、チーズや乳製品をつくるにはじまり、ドイツ文化の伝承が行われ、音楽を聞くことから楽器を奏でることへと広まり、徳島の人たちがオーケストラをつくり、ベートーベンの第九やメンデルスゾーンの演奏をするまでに至る。おおよそ敵国人と対しているという風情ではなく、不意の外来客と収容所内外における交流の積み重ねが「奇蹟の響き」を湛えて受け継がれることになった顛末を物語る。メンデルスゾーンがいなければベートーベンの名が残ったかどうかもわからないと知るのは、驚きでもあった。
でもどうしてなのだろう? 既視感がある。この話を人情ものと読んでいる自分に気づく。青島で敵として対峙した憎っくきドイツ人俘虜と偶然相まみえ、徳島の人を介在させてドイツ文化を受けとっていくというお話しは、主人公の俥曳きと地元篤志家のお嬢さんとの(身分的な軛に縛られた)悲恋物語として読めばありきたりの響きしか齎さない。あるいは、俘虜収容所の所長や副官の鷹揚な振る舞いも、いまの「敵基地攻撃能力」を俎上にあげる愛国者たちの言動をみていると「奇蹟」にも思えなくもないが、先の日露戦争の頃の軍人の振る舞いを知っていれば、言挙げするようなことではない。
だがこの時既に耳が聞こえなかったベートーベンが自ら指揮して万雷の拍手を得てからほぼ百年徳島の田舎の村で、ドイツ人による第九の演奏が合唱付きで響き渡ったとなると、えっどうして? と奇蹟感が湧き起こる。さらにそれが、徳島の人たちに感動を呼び起こし、オーケストラが結成され、演奏してみせる。
彼らに合奏を教えたドイツ人は、「……なんという稚拙な演奏だろう……」とつぶやき、さらにこう続けた。「だが……何というすばらしい演奏だろう……」。
《音と音の切れは悪い。調子は外れる。指揮には従わない。音程もずれる。ドイツならば、子どもでもこれほど下手には弾かないだろう。だが、彼らは、ベートーベンのこころに迫ろうとしている。第九の神髄に触れようとしている。合唱はないながらも、シラーの詩をありありと奏で上げようとしている。これが音楽だ……。》
「これこそが……歓喜の歌だ……」
と、記している小説を、さらに百年ほど経った時点の私が読んでいる。そう思うと、ありきたりの人情話が、全く違った文化の伝承として響いてくる。ちょうどバルセロナのガウディが手がけて未だ完成していないバシリカ(聖家族教会)のように、ベートーベンという作曲家が二百年前の指揮したこの曲が、百年前に徳島にいたドイツ人俘虜たちによって演奏され、それが徳島にほとたちに受け継がれ、さらにそれを百年経っていま、ドキュメンタリーのように読んでいる。あの教会のように、ガウディの手法が受け継がれ、受け継いだものが自らのタッチを加えながら補修をし、さらに建築する。それを見ている傍観者の私も、そこに込められた「祈り」を感じて、しばらく立ち竦む。
この文化の継承の偶然性が齎す「奇蹟」こそが、この小説のタイトルとなっている。そう思うと、平凡な人情話が、全く違った響きを湛える。
と同時に、私の裡側に広がる波紋は、身を通すという当事者性の感触。俥曳きの、端から適わぬと世の習いから定められたような恋心が、これまた文化の香りを湛えて行間に漂う。人の出合い自体が偶然のことであり、それが齎す出来事もまた、ひょんなことからはじまり、思わぬ結果をもたらして、人の目に触れる。その痕跡を、ひとりの作家が目に留めて、調査に乗り出し、炙り出された記録の行間に見え隠れする人々の姿に思いを馳せ、まるで夢を見ているように動き始めて、物語を紡ぐ。この人と人との「かんけい」がもたらす痕跡こそ、「奇蹟」と呼べることなのかも知れない。
つい先だって(2/20)の本欄で「応答と日常の成立をほとんど奇蹟のようなものとして捉え、それを獲得すべき状態と考える哲学」の系譜に属すると自称する国分功一郎の「日常」を、よくわからないと私が感じていたことが、この小説をこういう風に読み解くと、ピタリと当てはまって、腑に落ちる。それは、「文化の伝承が世代を超えて受け継がれていくのは、奇蹟のようなことだ」と示している。
その「奇蹟」が平凡に響くのは、苦難辛苦があったにせよ、75年という年月を命を奪われることもなく生き続け、子をなし、また孫を得て、平々凡々と暮らし続けてきた繰り返される奇蹟の連続に身が慣れてしまったからであろうか。その「慣れ」が思考の枠組みにまで及んで、コトを概念化し、それに寄りかかって身を処しているからではないのか。
もう一歩踏み込んでいえば、日常を身に刻むのに、触覚としての「心」を通さないコトは痕跡を遺さない。つまり、文化的な伝承としては意味を成さない。それどころか、「心」を通さなくても身過ぎ世過ぎができるという文化を、身に刻む結果になる。それって、ゲームの世界じゃない?
そうか、理知的世界は、もうそこまできてしまっているのか。とすると、知的であることは少しも喜ばしいことではなく、むしろ、身を通す、まさしく「痴的」であることこそが、誇らしく語られるべき「痴性」ではないか。
おやおや、また脱線して、混沌へ向かおうとしている。ま、これが、たのしいのだが……。