mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

こんな~日本に~誰が~した~、だね。

2014-06-30 19:28:21 | 日記

★ 「集団的自衛権」提起の背景

 

 「集団的自衛権」が安倍首相の口から飛び出したとき私は、朝鮮半島有事の際の「対処」を考えているのだと思った。かつて朝鮮戦争の時、日本はアメリカの占領下にあった。だから米軍は好き放題に日本を後方兵站基地として使用したし、労働力や医師や看護師の動因にもそれほどの不都合を感じないで日本の人材・資材を動かすこともできた。

 

 その後日本が独立し日米安保が成立してからも、自衛隊発足について吉田首相と厳しいやりとりがあったことは周知のこと。憲法九条で日本を無力化しのはアメリカの方針であり、それを逸脱することはできないと、軍事非協力を貫いて警察予備隊・自衛隊の発足と活動にタガをはめたのは吉田首相であった。

 

 だが今は違う。日米安保は「軍事同盟」になった。中曽根政権のころはまだ「日本は不沈空母」と呼ぶだけの、つまり米軍の足場すぎないとの自覚があった。だが、冷戦が終結し、父ブッシュによる湾岸戦争のあとから「日米軍事同盟」とか「同盟関係」という表現が日本側の政府関係者から言われるようになった。いつまでもアメリカの保護下にいる気分ではいられないと感じていたのであろう。アメリカ側も日本を保護的に遇する必要はないと考えるようになっていた。それが具体化したのは2005年、「日米同盟:未来のための変革と再編」が策定された。普天間の返還や米軍基地のグアム移転が合意された協議であった。

 

 その背景には、アメリカの財政赤字、国防予算も逼迫あった。出来得るならば金銭面だけでなく、具体的な軍事行動において日本の協力を引き出そう。さらに中国が軍事的にも経済的にも力を急進させており、その抑制装置としての日本の位置もそれなりに確立しておきたい。さらに、北朝鮮の核開発とミサイル技術の進展がある。北朝鮮が(国内的な破たんを契機に)中国との協議なしに軍事行動に出る可能性も否定できない。


    
 上記のような事情を背景に「集団的自衛権」が提起されることになった。これを安倍政権のひとり相撲のようにメディアは取り上げているが、アメリカの強い要請なくして、今回のような「閣議決定」で乗り切ろうという着想は出てくるまい。安倍首相やその側近の思いつきだけとは考えがたい。

 

★ 「国家権力は暴走する」道筋を開いた

 

 そうして今日、いよいよ、「集団的自衛権」が閣議決定されることになりそうだ。それも国会審議を経ず、与党間の「調整」でそうなる。私はいま、イヤなことを思い出している。「国家社会主義ドイツ労働者党」が政権を掌握した直後の運びである。

 1933年、「国家社会主義ドイツ労働者党」の党首が首相の座に就いた直後に、「閣議」で「民族と国家の保護のための大統領令」と「ドイツ民族への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」の二つの緊急大統領令制定を提案し、決定した。これは「法的考慮に左右されずに決着を付ける」ためのものであり、政府は非常大権を得た、とされている。これがのちにヒトラーの「全権掌握」の始まりであった。このことは《ドイツ語でMachtergreifung(乗っ取り、権力掌握)と呼ばれており、世界的にもこの語が用いられる》と、wikipediaが教えてくれた。

 

 私がここで問題にしたいのは、ヒトラーの横暴ではない。この時のドイツの憲法は、「ワイマール憲法」であった。当時世界で最も民主的とも言われた憲法のもとで、法的に正式の手続きを経て「非常大権」を手に入れることが可能であった、ということである。


 
 「日常」ではない。「非常大権」である。この時ヒトラーが便乗したのは「国会放火事件」であった。共産主義者が放火したという流言飛語を梃子に「国家権力は暴走」した。それと同じ「国家権力の暴走」の道へ、安倍政権は舵を切り始めた。北朝鮮や中国と戦争になるかもしれない、という不安を梃子に。安倍首相が暴走するとみなしているわけではない。だが、「暴走の歯止めを取り払う」やり方、考え方をつくりあげたとみている。

 

★ 「国家権力」は国民の味方なのか

 

 「国家権力」を自分たちで奪い取ったことがない私たちの歴史的経験が、こんなところに転がり出てきた。私たちにとって「国家権力」は味方であるという観念が、広まり浸透しているのであろうか。これこそが「平和ボケ」と非難されるべきことではないかとさえ思う。

 

 私の父の世代は、国家権力が暴走することを身に染みて体験してきた。第二次大戦に徴兵され、従軍した。しかし単に1銭5厘で徴兵されたという受け身であっただけとは言えない。戦争という非日常の日々を自分なりに受け止め、家族を守るためであったり、故郷を護るためであったり、仁義を尽くすためであったり、忠義に準じるためであったりしたであろうが、それぞれの想いをもつことによって自ら参戦したという側面をないがしろにはできなかった。だから「一億総懺悔」と言われても、そういうことも言えるよなと、だまって受け止めたのであった。だが、生きることに懸命であった庶民が戦争に反対することも、口をはさむこともできなかったのは、事実である。

 

 とすると、敗戦後に考えなければならなかったのは、「国家は国民の味方なのか」という問題ではなかったか。いや実は、そんな論題は問題にもならなかった、ともいえる。なぜなら、当時の庶民は、国家が国民の味方であるなどと考えたこともなかったからだ。ただ、味方かどうかは別として、国家は庶民にとっては、乗船している船である。船長や乗組員が、どちらに向けて舟をこぎだすか進路をとるかは関知外できないにしても、同舟であることには違いがないから、その船の状況には適応せざるを得ない。荒波に遭遇して力を貸せと命じられれば、力を貸さないわけにはいかない。選択の余地はなかったと言える。


 
 では「国家が国民の味方なのか」と問うことは、無意味ではないか。そうではない。そこが「戦後民主主義」のもたらしたものだと、私は思っている。船長は乗客の意見に耳を傾けて操船せよと、憲法が規定した。船長が勝手気儘に振る舞うことへの「抑制装置」も三権分立として取り入れている、と理念を学校で教わってきた。「権力抑制装置」をもつという「権力」の自己批評性、それが、システムへの国民の信頼と安心の土壌であった。つまり理念においては、「権力の抑制」機能を作用させることによって「国家は国民の味方」にするというのであった。そして国民は基本的に、そうなるものと思ってきた。

 

 これは「洗脳」と同じではないかと、「自主憲法制定派」は言うかもしれない。その通りだね。教育は洗脳を含む。その点では日本も北朝鮮も同じである。ただ、日本では戦後、学校での洗脳を教育に転轍する自由を保障してきた。教わったことを鵜呑みにする不自由ではなかった。思想表現の自由というのは、そういうことだが、それが保たれてきた。つまり憲法の持つ、権力の地保批評性は、国民の自らに対する自己批評性をも組み込んでいたと言える。

 

 学校で教わる理念を鵜呑みにしないで事実をみつめたとき、憲法に謳う「三権分立」の抑制機能が働くとはいかないことがあると知った。司法も立法も行政のシンクタンクの官僚機構に実務を握られてしまって、力の抑制が働いていないことまで出来するようになった。芯の部分を抜き出して極端に言えば、官僚機構が国家を操船していると言える実態を長年続けてきたのであった。このシンクタンクの「力の抑制」は、縦割り組織内部の対立によってかろうじて機能しているという、皮肉な実態にあったと言える。

 

★ 上司が誤ることがあるという判断を組み込むドイツ

 

 「集団的自衛権」の問題を我がこととして考えなさいという論調を、朝日新聞の編集員が展開している(6/29)。「殺し合い あなたが命令されたら」と見出しを振った[政治断簡]。「殺し、殺される恐れが格段に高まる憲法解釈の変更を、おかしいと思う人は多いはずだ」から、もし日本に徴兵制が敷かれていたら、だれもが我がこととして考えるだろうと展開している。甘い見通しだと思う。物騒な話だが、編集委員氏の引いているドイツの例をみて、ドイツは「国家権力の暴走」を実際的に反省し繰り返さない仕組みを組み込んでいるのだと知った。

 

 ドイツは2011年まで徴兵制を採用していたようだ。東西冷戦の、分断された国家の当事者であったわけだから、それを不思議とは思わない。だが、2011年に徴兵制が停止されると「理想との逆行を懸念する声が上がった。」というのだ。どういうこと? 

 

 ドイツでは、徴兵制によって「制服を着た市民」と称される軍の核心が継承されてきたという。ナチスの政権獲得の時代には「突撃隊、親衛隊、鉄兜団」と呼ばれたナチ党の暴力装置が、公的な認知を得て我が物顔に秩序維持を図った。それを反省してドイツでは、「抗命権・抗命義務」を盛り込んだ。「人の尊厳を傷つける命令には従わなくてよい、違法な命令に従ってはならないと法に記した。命令の適否判断する権利と義務と一人ひとりに負わせたのだ。」という。実際に「2003年にある少佐が、イラク戦争は国際法違反で米軍には協力できないと任務を拒んで裁判になったが、結果は無罪」になったという。

 

 

 上司が誤ることがあることを前提として、命令系統とそれに従う将校・兵士との実際的関係を法的に保障しようという仕組みである。それによって、ドイツは「国家権力の暴走」も含めて、力の抑制装置としているともいえる。徴兵制の停止によって「制服を着た市民」の検証力が弱まるという懸念は、まさに、市民が体を張って国家権力を監視しつづけなければならないという態度をあらわしている。それこそ近代民主政体下における「主権者」の姿ではないか。

 

 『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』(1984年、ダイヤモンド社)において、「日本軍は環境に過度に適応し、官僚的組織原理と属人ネットワークで行動し、学習棄却(かつて学んだ知識を捨てた上での学び直し)を通しての自己革新と軍事的合理性の追求が出来なかった」と指摘されてきた。にもかかわらず、官僚組織の無謬性は堅持されたままである(諫早湾の可動堰にかかる訴訟の成り行きがそれを証明している)。

 

 安倍政権の「危うさ」などとマスメディアは称しているが、自己批評性をもたない国家権力は暴走する。今日はその、暴走の第一歩を踏み出した記念すべき日となる。こんな~日本に~誰が~した~、だね。


「ご笑覧ありがとうございました」とお別れをしてきました。

2014-06-30 19:28:21 | 日記

 いま気がついた。あと5時間くらいで、この、ぷららのブログサイトは閉鎖なんだね。今ごろアップしても、何人の方がご覧になるか、わからない。それなのに今日も、ごたごたとややこしいことを考えて、書きつけていた。

 

 まだ仕上がらないから、アップしないことにしたが、申し訳ない。

 

 長らくこのブログをご笑覧くださり、ありがとうございました。

 

 先日、小学生の修学旅行の生徒たちの、奥日光のガイドをした。そのとき、誰かが「いくつ?」と聞いたので、ひょいと思いついて、「そうだ、君たちは午年だね。私も午年だよ」と応えた。

 

 すると……、「36?」「ブー」、「60?」「ブー」、「わかった。48だ」「ブー」といって、やり取りは終わった。

 

 私も子どものころは大人の年齢が分からなかった。70歳を少し超えて亡くなった母方の祖母は、人間を超越しているように思っていた。いまの私と違わない。彼らは60以上の年齢をわからないのだ、と思った。

 

 

 子どもにとっては、私らの年寄り世代は、異界の人なのだ。いまあらためて想い起すのだが、そういう異界という感じがあったから、そのあとのガイドでサルの遺骸をみたとき、「ありがとう」と言ったのではないかと思った。

 

 異界の人と思われるのは、しかし悪い感じではない。泥濘の海の中から、ちょっと自分だけが取り出されて脚光を浴びているような気分というか。違和感を持ってみて戸惑っている子どもたちが明るい世界にいるような気がして、希望が湧いてくるように感じた。

 

 そういうわけで、ブログはまだ続きます。

 

 mukan's blog は、下記のサイトに引越します。引き続きご笑覧ください。上の方はCMなし、後ろの方はCMつきです。

 

 http://fjtmukan.blog.fc2.com/

 http://blog.goo.ne.jp/fjtmukan


弔意と「再会」と「かんけい」

2014-06-29 10:17:57 | 日記

 同級生のTくんから、久々のメールが届きました。7月下旬に開かれる「Seminarのご案内」に対する返信です。出席できないと記した後に、以下のような見舞いの言葉が添えられていました。

 


 遅ればせながら弟様のご逝去のお見舞いを申し上げます。一度だけですが玉野高校 東京支部 同窓会でJ三さんと親しく(多分テーブルで同席)させていただいて、お話した内容を今もハッキリと思い出すことができます。


 
 (F・Jと書かれていて、玉野高校の同窓会名簿では、一字違いの別人(岡山在住)もいらっしゃって、確証が持てるまでには時間(期間)を要しました。)


 
 その時の話ですが、時には私も図書館でも目にする雑誌「」山と渓谷」の出版社にお勤めとのことで、私の方が関心を覚え、入社の動機(確か在学中にワンダーフォーゲル活動のとりこになったとか)までお聞きしました。サラーリーマンといっても、出版社は特別なので色々ともっとお話を聞きたいなと思いました。

 

 確証が得られた後、「月刊アウトドア」の編集長をされていたことを知り、ますます驚きの念を持ちました。アウトドアの世界は、経済的に恵まれた方も多く活躍されている世界でもあり、小中高からそうした世界と関係ある方も多いと思い込んだりしていました。きっと、弟さんは、アウトドアを愛する広い世界の人との交流を楽しまれたのではないでしょうか。


ご冥福をお祈りします。                    6月28日

 

*******それに対する私の返信。

 

 Tさま。お見舞いありがとうございます。

 

  弟・Jと会ったことがあるという話を聞くと、その瞬間にJが我が胸中に蘇ります。「やあ、しばらく」という感じで、笑っています。Tくんと嬉々として自分の仕事の話に興じるJの姿が想い浮かびます。本当に仕事人間だったというか、仕事が遊び、遊びが仕事という生き方をしていました。

 

 1950年生まれですから、団塊世代のラストランナーだと思います。豊かな時代の日本の空気を吸って育ち、バブルを経て、物にあふれた豊かな社会においてどう人生を豊かに遊び暮らすかを、仕事にしていたと言えます。そういう意味で、Jよりも7歳上の私たちの世代とは、人生の構えが違っていたのではないでしょうか。

 

 私たちの世代は、戦中戦後の抑圧と混沌、貧しいが活気にあふれた時代に育ちました。そのせいで、近代前期の前向きの向上心とつつましく生きるという、プロテスタント的な精神を備えていたように思います。しっかり誠実に働いて豊かな暮らしをしたい、しかし贅沢はしない。のちに「もったいない精神」などとアフリカの女性から評価されたような、節約気分ももっていました。

 

 しかし弟Jがものごころつく小学校6年(1962年)頃は、すでに「所得倍増」の時代になっています。10年前の中国のような状態と言えましょうか。Jが大学を卒業して就職する1972年は、まさに高度経済成長のど真ん中、その1年半後の石油危機を予感することもなく、イケイケドンドン。インフレも毎年7%ほどではなかったでしょうか。「借金しないのはバカだ」と言われていたころです。しかもいまの中国と違って、わりと平等主義的な社会精神が生き残っていましたから、それほどの格差もなく、世の中全体が豊かになっている時代でありました。後に日本流の経営のやり方が実を結び、人々は自信を持ち、世の中の気分全体が前向き。これから新しい時代を築いていくのだという気風がみなぎっていたように記憶しています。そうそう田中角栄が総理を務めていましたね。

 

 人間の本質は遊びにあると論を展開した、ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス 人類文化と遊戯』の新装普及版が中央公論社から出版されたのが、1971年。まさに当を得た出版でした。弟Jは、その時期に「山と渓谷社」に就職したのです。遊ぶことに気持ちを引かれながら、しかし後ろめたさも感じていた私たちの世代とは、ひと味違う世界感覚を身に着けて、仕事に臨んだと思います。

 

 いやいや、話しがそれてしまいました。「やあ、しばらく」というふうに弟Jと会うごとに、私の想いは、Jと私との違い、Jの世代と私たちの世代との違い、Jの仕事人脈の作り方と私の作り方の違いと、ついつい比較して、けっきょくJの輪郭を思い描いているのか私の輪郭を思い描いているのか、わからなくなります。Jとの「かんけい」が、時間を超越して眼前に出来しているのだと考えることにしています。

 

 Tさま、ありがとうございました。

 

 次回Seminarにお会いできないことは残念ですが、ぜひ9月にはご出席ください。


プランニングという希望とセルフ・ネグレクト

2014-06-28 15:19:37 | 日記

 月例登山のプランづくりをする。今年度後半、10月から来年3月までの分。この山の会発足のきっかけになったカルチャーセンターの企画が、4月からの年度単位であったためだが、山歩きの気分とうまく合致して「さあ今年も頑張るぞ」という「山気分開き」に、4月というのはちょうど良い。

 

 こうして、前半分はすでに実施中なのだが、後半部分を提示しておく時期がそろそろやってくる。まだお勤めをしている方々もいて、その(後半期の)スケジュール調整が8月になるとはじまるからだ。と言っても、平日の月1水曜日が基本。リタイアしている方々を念頭に置いている。あれこれ事情を抱えていて、毎回出席できない人が出るのは仕方がない、か。

 

 まず、山を選定する。秋なら紅葉、冬なら眺望、春先なら花を楽しめるところがよい。地域的にも偏りがないように心がける。だが冬場の積雪は大きな制約条件になる。行動時間が5時間程度、ところによっては6時間を超える。標高差も1000m位までを限度と考える。それが妥当なのかどうかが、じつはわからない。いずれも私が歩いたルートを軸にしているが、時間を短縮するために、途中からエスケープ・ルートの方へ変えるところもある。こうしたルートや、むかし歩いたことがあるが今どうなっているかわからないルートは実施前に、下見をすることにしている。

 

 ルートのバラエティもとりいれる。さほどむつかしくない岩場、軽アイゼンを使った登降。スノーシューで歩くコースは泊りにして2日間設ける。季節的な変化は、山歩きの幅を広げる。むろん技術も訓練される。年をとっても、安全に歩く力は確保しておきたいと思う。

 

 目標の山が決まれば、アプローチを調べる。鉄道の時刻、バスやレンタカーの利用可能性、帰路の時刻表など、事前に調べておかなければならない。それらが使えないところでは、タクシー便の利用可能性と運賃なども必要になる。この作業にインターネットが威力を発揮する。痒い所に手が届くような細かな情報が提供されている。でも実際には、実施前に[直前案内]を出す。この時期に調べたバスなどの時刻が、季節が変わってもそのまま運行されているかどうか、チェックしなくてはならないからだ。駅に行ってみたら、下見のときにあったバス便がなくなり、タクシーにせざるを得なかったこともあった。

 

 こうして半期分を仕上げて一覧にし、地理院地図をプリントアウトしてルートのイメージを描く。その上で実施月日を決めていく。

 

 この作業をしている間、私は結構集中している。ほぼ1日を費やすが、パソコンの前に座ったまんま。書架にある山の本や持ち帰っているパンフレットを取り出してはコースを変えたり、アプローチの手段を変更したりする。かつて歩いたときの「かきつけ」も役立つ。私は、単独行も友人と歩いたのもガイドした山も、退職後の山歩きは、帰宅したのちに「メモ」を書きつけてある。ここ7年ほどは「山紀行」的に原稿用紙10枚程度にまとめている。若いころのように「行程時間」を書きつけたりはしていない。おおよそコースタイムで歩いたかどうかだけチェックする。実施に当たっては時間をせかしたりするような歩き方は、滅多にしないからだ。むしろ、眺望や花、天候や足場の良し悪しなど、ルートの様子から、案内するのに無理は歩かないかに注意を払う。帰路のバス便に間に合うかどうかも、余裕をみていないと慌てることになる。

 

 私が「山紀行」を書き記すのは、「意識して自分の行動を対象化する」ため。行動中は、基本的にメモをつけない。メモ代わりに写真を撮ることはする。時間やルートの分岐や迷ったところは、一つ一つ丹念に記憶しておく。でも書きつけるときに、自分に都合よく解釈したり、不都合なところを切り捨てようとしていたりすると、なぜそういう衝動が起こっているのかを、自分に問う。そこまでいって初めて、私の山歩きは完結するような気がしているからである。

 

 生来が怠け者の私が、コトを(ひとまず)完結させるのは、そうすることによってずぼらな自分がものごとをやり遂げたという、とりあえずの成就感をもちたいからである。それがないと、いったい私は何をしているんだろうと、生きていること自体に疑問が付きまとい、自己嫌悪に陥ってしまう。就職をしてから、このかた、そのようにして自分の生きる意味とか、自分が日々していること、形成している「かんけい」の意義を位置づけてきた。そのときどきによって、位置づける局面や舞台を切り替えることで、へこみそうな失敗や人との対立に起因する内面の悪感情を、昇華させてきた。いわば、メンタルなセルフ・ケアであった。その、位置づける局面や舞台の置き方によって、徐々に「世界」が繋がっていることが見て取れるようになったと、思っている。

 

 じつは、今日の朝日新聞の「投書欄」に、「ゴミ屋敷は自己虐待のサイン」というのがあって、上記のようなこと(自分の振る舞いの完結)を思うに至った。当初の主は「地域包括支援センター相談員66歳」とある。

 

 《「ゴミ屋敷」のことを、報道だけでなく身近でも見聞きするようになった。片づけられない背景には、体の衰えや認知症、障碍などがある。日常的に行うべきことを放置してしまい、それでも平然と住める精神状態の追い込まれるのだ。専門的には「セルフネグレクト」(自己放任)という。》

 

 と書きはじめられたこの投書は、《国の主導で自治体によるセルフネグレクト対策をもっと積極的に推進するべきだ》と主張を結んでいるが、私は結論はどうでもよくて、冒頭の書き出しがガツンと身に響いた。

 

 「生来が怠け者」と先ほど書いた。若いころの私の自己認識は、それであった。何かを成し遂げたことがない。なるようになるというのが私流であって、何かを鍛錬して身に着けることも性に合わなかったし、意図して暗記するというのも嫌いであった。今から思い直すと、自分の身体性にあった[自然]の成り行きが落ち着く先に落ち着けばいいという、ちゃらんぽらんが好きだったともいえる。まさに「セルフネグレクトの精神状態」のままに生きていた。

 

 そういう自分が、周囲の状況のしからしむるところに従って大学へ行き、就職をして結婚し、女房に育てられ、あるいは子どもを育て、退職までこぎつけたのちに、もう12年を迎えているというのは、まことにまことに僥倖というほかない。セルフネグレクトを補ってくれた周りの人たちが(幸運にも)いたからであった。

 

 その間に、私が身に着けた一つの方法が、ひとつひとつの「課題」別に成就感をしめくくること、であった。仕事で言えば、年度ごと、学期ごと、向き合っている教室や生徒の集団ごと、一つ一つを区切って「課題」を設定し、いま何になぜ取り組んでいるか、自分の振る舞いはその中にどう位置づいているか、それがもたらした結果はどのような意味を持つのかと、「対象化」できるモノはできるだけ対象化してきた。

 

 私自身はいくつもの局面に身を置いている。仕事もあれば家庭もある。友人関係もあれば、思想的な課題をもった研究会もあった。その活動の延長上に、出版社との付き合いもあり、編集のボランティア仕事も出来した。山歩きを始めてからはそのかかわりによる友人との交遊も増えた。それらが、そのときどきに比重を変えながら、バラバラの存在していたのが、40歳を超えるころからひとつながりになって見てとれるようになり、かろうじて私自身が分裂しないで過ごすことができた。

 

 それを実現してくれたのが、「課題」別に完結するスタイルをつくることであったと、いまにして思う。生活習慣にしてきたことによって、かろうじて全面的なセルフネグレクトに陥らないで、今の暮らしをつづけていられるのだ。つまり、新聞の「投書子66歳」のように「セルフネグレクト」を病気のように言うまでもなく、我が性格にしてきたことを思うと、これから先、いつふたたびセルフネグレクト状態に戻らないとも限らない。

 

 高齢化するということは、障碍者になることだといつかも書き記した。何もかにもが不自由になる。不自由になることは、外から見ている人にとってはセルフネグレクトの「発症」だと思うだろう。認知症も然り。じつは「発症」ではなく、自然状態に戻るのだ。それはおそろしいことだとも言える。

 

 思えば、我が身の始末を考えなければならない時期が来ている。そういうことを言いだして、すでに何年かが過ぎている。にもかかわらず、本棚の片付けもまったく進んでいない。お客が来るときにはさすがに片づけはするが、そうでないときには、散らかしっぱなしだ。緩やかにセルフネグレクトが進行しているともいえる。

 

 そういうわけで、「山の会のプランニング」という「希望」は、文字通り「正気の私」の希望である。「本音の私」が出来するとしたらセルフネグレクトになることだ。そのときには、プランニングした山の集合時間・場所に私が現れないとき。「いよいよあいつもそうなったか」とメイフクを祈ってもらいたい。  


大雨、雷をうまくかわした、奥日光ガイド

2014-06-26 10:10:12 | 日記

 変な天気だが、予報はよく当たる。

 

 朝、現地を出発するときは晴れ。だが、予報に従ってコースを変更、半日の行動計画にする。昨日は、横浜の小学校の修学旅行の、現地ガイド。奥日光の湯元から切込湖・刈込湖を経て光徳牧場へぬける6時間余の案内を、3時間半の半日行動に変えた。

 

 こういう変更の判断と決断は、勇気がいる。なにしろ、抜けるような青空が広がっている。だが予報では「午前中曇り、12時は雨、15時は雷雨」。それに、山の天気は変わりやすい。変わりやすいというのは、曇りが雨になることもあれば、雨がほとんど気にならないお湿りに終わることもある。だが、前日は大荒れの天気があったから、予報が当たれば大変な雷雨になる。ごあいさつに現れた女性の校長さんは、変更したことに迷う気配も見せず、「よろしくお願いします」と、笑顔を見せる。

 Kさんと私は、他の4班と逆のコースを歩くことになる。湯元から湯滝、小滝を経て光徳に至る。今月上旬のコー

スより、1/3長い。だが時間は同じだ。ということは、途中の自然解説を簡略にするか、休まず歩くしかない。ペース・メーカーは私がやる。逆のコースを歩く人たちはバスで光徳へ移動する。お昼を三本松でとるということだし、光徳から湯元のコースの方が登りのルートだから、私たちのグループの方が余裕がある、と読む。つまり15分くらい到着時間をが遅くともいいだろうと見込みをつける。

 

 出発前に、雨具をすぐ出せるところに入れなおすこと、他の小学校の修学旅行生がたくさん往来しているから、迷子にならないようにしっかりついてくることを注意する。私の班は20人、女性の教師と添乗員らしい男性とカメラマンが同道する。その方々の紹介もご挨拶もない。歩き始めるころには、空に厚い雲が張り出し、日が陰る。

 

 湯ノ湖畔で記念写真を撮る。カメラマンが並ぶよう指示をし、「さあ、笑って元気を出して」と声をかけるが、寝不足の子どもたちもいて、なかなか息が合わない。教師は一人の生徒にかかりっきりだ。歩き始める。昨日夜に、この仕事を引き受けたガイドのボスがスライドなどを使って奥日光の概要を説明してくれているから、こちらの案内は、目前のことに絞ればいい。

 

 湯ノ湖の湯が沸きだしているところは、木道と手すりがしっかりと設えられてしまったために、手を入れることができなくなった。湯気が立ち、水の色が違って見える。ヒカリゴケがあるところを覗くが、光っていない。マタタビの葉が白くなっているのがある。それを話して、葉の下を覗くと、花は終わって実がなっている。しばらく湖畔をあるいていると、「あっ、マタタビ!」と誰かが声をあげる。手に取るほど近くはないが、葉の下に白い花が咲いている。そうだ、あれが花だよと指をさす。後ろから教師が「こちらにも聞こえるように話してくださいっ」と声をあげる。20人が一列になっているから、後にまで声を届かせるのはむつかしいが、それ以後は、立ち止まり、みなを前に集めてから、大声を出すようにした。

 

 湯滝の豪快な落下は、差し始めた陽に飛び散る水滴がキラキラと輝いて目を奪う。覗き込んでワアーと嬉しそうだ。標高差60m余の下りに入るところで「あれ、あの声は何?」と森の木を指さして一人が尋ねる。エゾハルゼミだ。陽が出ているときしか鳴かないセミと話し、手で大きさを示して木肌に止まっているからセミや抜け殻を見つけたら教えてねと、つけ加える。すぐに後ろから「あったあ」と声が上がる。添乗員らしい男性が抜け殻を見つけた。木の高いところにある。先頭にいたカメラマンが後ろへ移動する。ハムシやゾウムシの仲間を捕まえて「これ、なあに?」ともってくる子もいる。

 

 湯滝におりたところで、トイレを案内する。この後、目的地までトイレがないことを告げる。小学生は我慢してお漏らしをしてしまう子もいる。カメラマンは小さな班ごとに湯滝を背景に写真を撮ることを考えている。だが、トイレに行った子が一人戻ってこない。Kさんの案内するほかの班もトイレへ行ったから、そちらの子たちと一緒にいるのではないか。女性の教師が探しに行く。教師はたいへんだね。

 

 森に入る。木道を後ろから追い越していく小学生のグループが、ずいぶん多い。ひとクラス全員が隊列をつくって追い越していく。あるいは、地図をもちノートをもって4,5人ごとの判別に行動している組もある。ところどころに立っている教師に通過チェックをしてもらっている。こちらは、木のコブ、ウロ、合体木をみてもらいながら、樹木の倒木更新と森の変容を簡略に説明する。森の変容は、前半2時間くらい歩く間の木々の様子を比較することだから、ちょっとむつかしい。

 

 おおむね中間点というところで、水を飲ませ、一休みする。リュックを開けると、今度は荷物が納まらないと四苦八苦する子もいる。生徒は誰かやってよと叫びたい様子だが、教師はニコニコして手を出さない。これはたいしたものだ。リュックの底を地面において動かないようにしたらいいんじゃないかと、サジェストする。するとすぐに納まる。

 

 北戦場ヶ原に出る手前で雨が大粒になる。雨具を出して着るよう指示する。傘をさす子もいるから、前後を開けて、傘がぶつからないようにしろと注意する。男体山が山頂までしっかり見える。大真名子山も小真名子山も姿を見せている。シラカバやイヌコリヤナギ、カラマツの幼木、そこにズミがはびこりはじめる様子を見ながらズミの林に入り込む。イヌコリヤナギの枝に小さいが泡がついている。アワフキムシだ。今年はアワフキムシをみかけない。カッコウが鳴く、ホトトギスが鳴く。立ち止まり耳を澄ませて鳴き声を確認する。托卵の話を付け加える。そういえば、湯川沿いで水に触れていたときには、ミソサザイの話をした。

 

 逆川沿いに入るころには雨が小降りになり、やがて止んで、陽が差し始める。右岸沿いの道で、崖の上からシカの死骸を見る。月初めにみたときに比べても、すっかり分解が進み、頭がい骨と背骨とヒヅメをつけた脚が1本と毛が残るだけになった。積雪時に滑落死してからの変化を加える。生徒たちは深刻な顔をしてい見ている。

 

 11時55分、光徳沼に着く。沼の水面から湯気が立つように沼全体がうっすらとした水蒸気に覆われてて「けあらし」のようにみえる。温まった沼の上空に北からの冷気が入ってきているためだろう。雷が近くなる気配がする。時間は予定通り。ここで休憩させておいて、私は、少し離れたところへあることを確かめに行く。逆コースを来たガイドの1人が「サルの死骸がある」と教えてくれたからだ。歩いて3分くらいのところにあった。戻ってきて、子どもたちを集め、「みたい人はついてきなさい」と言い置いて先導する。半数以上の子がついてくる。

 

 どこかで何かに襲われ、後ろ足か尻のあたりにかみつかれて逃れて命尽きたのであろう。沢にかかった橋の下で、雨を避けるようにして死んでいる。噛まれたと思われる辺りの肉がはがれているが、それ以外の部分は毛におおわれてまだ腐食がはじまっているように見えない。顔はしっかりしているが、手の指骨が少し出はじめている。

 

 恐る恐る近づいた子どもたちが、「触っていい?」と聞く。「いやダメだ。細菌がたくさんついているよ」と応えると、近くの木切れを手に取ってつつこうとする。それもやめさせ、自然に生きるということは、このようにして(たぶん何かに襲われてけがをして)命を落とすこともある、懸命に生きて死んだものに畏敬の念をもたなきゃね、ということを話す。私たちは自然に還るのを見守ってやるしかないと、先ほどのシカの死骸を思い出させる。私の家で買っていた猫が死んだとき庭の隅に埋め、のちにそこを掘った時、すっかり骨も毛も土に返っていたことをつけ加えた。子どもたちは黙って深刻そうな顔をしている。「さあ、いこうか」と促すと、「ありがとうございました」と、何人かが声をそろえた。私は一瞬、坊主みたいなことを言ってしまったかな、と思った。

 

 12時15分に目的地に到着。トイレを済ませて全員がバスに乗り込むころに、また、雨が落ち始める。今度は大粒、そして、土砂降りになる。お昼も三本松ではなく、湯元の旅館に戻って取るという。

 

 バスの中で、私が教師と思っていた女性同道者が「私、ボランティアなんです。3月まで教師をしていましたが結婚して、いまは神奈川の中川温泉旅館を手伝っています」と告げる。では、添乗員と思っていたあの男の人が教師なのか? それにしては全然そういう仕事をしているようにみえなかったなあ。この女性は、私が教師とみて対応していたのを負担に感じていたのだろうかと、思う。

 

 運転手はバスを旅館の玄関軒先ぎりぎりに寄せ、子どもたちは次々と雨具を脱いで旅館の人に預け、館内に駆け上がる。世話はたいへんだ。件の女性ボランティアは「まだ挨拶を済ませてないから、ちょっとお待ちください」といって中へ駆け込む。子どもたちを呼び返すのかと思っていたら、校長さんが出てきて、「ありがとうございます」と挨拶をした。いや、それにしてもラッキー。適切な半日行動判断であった。土砂降りの雨とドングシャラグシャラと落ちる雷を耳にしながら、前方をのぞき込むようにして運転する帰途の車の中で、もし全日コースを歩いていたら、いまごろ涸れ沼にもいきつけず、泣きながら歩いているよなあ、とKさんと話し合ったものであった。