mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

心も体も冷える大連・旅順

2016-10-31 05:25:37 | 日記
 
 夜中に寒くて目を覚ました。空調を入れていなかったせいもあるが、昼夜の寒暖差が大きいようだ。TVの天気予報を見ると、最低気温は8℃ほどになっている。少し着こんで、やっと熟睡した。
 
 翌日、大連と旅順をガイドが案内してくれる。日本が租借していたころに建てた遺跡巡りのようなものだ。ロシアと日本の建築が入り混じっている。さすがに日本人の居住区だった辺りは三階建ての煉瓦造りが多く、庭も植え込みもずいぶんとある。ガイドに言わせると「高級住宅街」だという。だが、改装中であったり、人が住んでいる気配もないところが目につく。ガイドはまた、「超高層の方が流行り」と、先ほどと矛盾したようなことを言う。どちらが本当かわからないが、後者の方が正解のような気がした。なにしろ、「高級」にしては、つくりが古い。フェンスも(もちろん中国人が彼らなりに改修して)設えたものであろうが、電飾が張り巡らされていたりして、季節遅れの安手の歳末の住宅みたいだった。
 
 満州鉄道の本社だったところは、鉄道関係の行政機関が入っているようだ。ただ、古い建物がそのまま「博物館」として保存されているという。「一人50元かかるが、入るか?」と聞くので、入ることにした。入口に上がるコンクリート造りの階段は、古びて剥げ落ちている。ドアに「御用の方は××××に電話をしてください」と、日本語で書いた掲示物がぶら下げてある。ガイドが電話をすると、閉じられた崩れそうなドアが内側から開いて、「どうぞ」と声がかかった。人がいたのだ。訪ねてくる人がいると、そのたびに開ける。逆に言うと、それほど訪ねてくる人が少ないのだろう。中はちょっと驚くほど天井も高く、つくりが豪勢だった気配がうかがえる。もちろんコンクリート造り。本社とは別に周辺に満鉄の調査部とか図書館といった建物もあるから、いわば満鉄街だったのかもしれない。当時の満鉄の勢いを感じさせる。
 
 「博物館」らしく、満鉄の始まりから満州開拓の歩みなどが展示されている。撤退するときに、ほとんど何も持ち帰らないままに残したという。かつての総裁室には、歴代総裁の写真入りの扁額が掛けてある。長い人で5年、もっとも短かったのが最後の総裁の4ヶ月ほどであった。夏目漱石の友人が二代目総裁をしていて、夏目はここに2年ほど遊んだという話も、博物館の学芸員が日本語で話してくれた。ところが、中国語と英語で書かれている説明書きには、あきらかに日本が軍事力を用いて「租借」占領し、中国人を「隷化」して行った事業というふうに書いてあるのに、学芸員は、かつての満鉄の事業が壮大であったことを示すような説明に終始する。質問してわかったのは、ここに来るのはほとんど日本人。あとは、アメリカ人や中国人の小中学生がときどき、ロシア人はほとんど来ませんということであった。
 
 満鉄が残していったものが一室に陳列されていた。時計や切子のガラス製品、条幅や扇子や手拭い、法被などもあったが、それががどれも1万円だという。「えっ、売ってるの?」「はい、売っています。ここを訪れる人が少なくなり、維持する資金が足りません。買い求めていただいて資金としています。ご協力ください」という。それを聞いて、なんとも言えない気分になった。同行のNさんは、父親が満鉄社員であったこともあり、満鉄のマークが入った懐中時計を買ったが、ロシアに勝手に入り込まれ、日本がロシアとの戦争で勝ったからといって、(中国に断りもなく)ロシアから租借権を譲り受けるという、まことに中国にとっては勝手なことをされた「記念館」。そこで、日本の所業のよろしかったところを取り出して説明して資金を求めるというのは、いかばかりの無念をともなうであろうか。学芸員とは言え、この方たちの心裡を思いやると、協力しようという気になるには、もう少し入り組んだ論理回路が必要に思えた。
 
 同じようなことを、この後尋ねた旅順でも感じた。こちらは水師営。旅順攻略の戦勝会見が行われた場所。ここでも、同じように(満鉄などの)遺留品が要られており、説明員は同じような「協力」を要請していた。ひとつ気になったこと。彼ら中国の説明要員はロシアについてはさほど「感懐」を抱いていないようにみえたのに、日本人(軍や満鉄など)に対しては、愛憎混じる思いを持っている(のではないか)。どうしてなのだろうか。水師営では、会見場傍の「資料展示室」では、セピア色の皇室の写真を飾っている。乃木将軍の息子が戦死したことや乃木夫妻の「殉死」の様子まで大々的に掲示している。要するに、戦前の日本人が誇らしく展示していたものを、そのままに「保存」しているのであろう。なぜ? どういう位置づけで? と思うが、説明員からそれを解釈する言葉は聞けなかった。写真は撮るなということであったから撮らなかったが、実はそれのコピーを販売しているからであった。
 足を運んでみて驚いたこと。二○三高地や東鶏冠山北堡塁は、たしかに旅順港をとり囲む格好の地を占めている。その周辺にロシア軍の80基の砲台が(旅順港を護るように)据えられていたというのはよくわかる。その攻略が困難をきわめ、多大の犠牲をともなったということも、得心させるに足る地勢をしている。だが、二○三高地に登ってみて、そこに据えられた(旅順港に照準している)日本軍の28センチ砲をみたとき、よくこれだけの巨大な砲をここまで持ち上げ、据え付けたものだと思った。と同時に、それで砲撃するとしても、旅順港まで7.8㎞もある。届いたのか、という疑問も湧いた。いや(説明板には射程8㎞とあったから)、届いたからこそ、据え付けられて威力を発揮したのであろうが、1905年のこと。私などは「昔のことと」と思っているが、日本の製鉄技術もまた、ずいぶん高度であったと思わせるに充分であった。
 
 旅順を訪ねたとき、旅順港を直下に見晴らせる展望台に行った。この港が良好であると同時に、入口を沈船で塞いだというわけがみただけで納得できる。入口の幅は、わずか90m(70mともガイドは言ったが)だそうだ。しかも内側は広い。さらに、深いのだそうだ。「天然の良港」と軍事的に評価されたのがよくわかる。私の祖父から聞いた日露戦争従軍時の苦労話に得意顔が加わっていたわけもわかるような気がした。
 
 だがこの展望台、風が強かった。二○三高地もそうであったが、体感温度は零度に近かったのではないだろうか。私は、山用の防寒用衣類と雨具を身につけ、ともかく歩き回ることで寒さを防いだが、ほかの面々は、どうだったのだろうか。もう一度大連に帰ったとき、明日に備えて、防寒着を購入した人もいた。
 
 気温が低かったからには違いないが、そればかりではなく、日中ロの歩んできた関係を、現代の私たちがどう(今の自分の身体が抱えているナショナリティを組み込んで)受け止めればいいのか、一筋縄ではいかないなあと、ぼんやり思いながら、帰途に就いたのであった。

かしましい大連

2016-10-30 14:45:29 | 日記
 
 大連空港に降り立ってすぐに、間違えたところに来たと思った、と先週記した。林立する超高層ビルと上下12車線の道路にあふれんばかりの車とクラクション、そして煙霧が出迎えたからだ。もちろんこれは、私自身の身体的選好が作用している。私たちが過ごしてきた産業社会時代の反省も含まれている。なによりも、清岡卓行が《かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連……》と『アカシアの大連』で記していたような、しっとりとした趣をイメージしていたこともあったが、それを微塵も感じさせないことに落胆したのであった。身勝手な言い分ではあるが。
 
 現地ガイドが滞りなく案内をしてくれ、まず超高層38階建ての宿に着き、30階にある日本語の通じるフロントへ赴いて、手続きをする。部屋は20階。眼下の広い4車線の通りが細く見える。周りのやはり超高層ビルが立ち並ぶ。その隙間に10階建てほどの高層ビルもあり、はばかるように3、4階建ての背の低い建物が雑多に並ぶのが、みえる。北向きにしつらえられたエレベータからは、間近に大連駅が見おろせる。上野駅を模して建てられたとガイドが言う。そう言われてみると、昔の上野駅に周囲のざわめきも似ているように感じたのは、電車に乗り降りをした翌々日以降であった。ホテルの最上階、38階のレストランには朝食のときだけ上がったのだが、ゆっくりと回る回転レストラン。周囲の眺望を楽しみながらお食事をお愉しみくださいという趣向であったが、残念ながら曇りか霧かはたまた煙霧か、遠望は利かない。だが、このホテルの倍以上はあろうという高さの超超高層ビルも、屋上にヘリポートを設えて取り囲んでいる。外を歩きながらみると、最上階が丸く設計された特徴的な我がホテルが、ビルの谷間に小さく身をかがめているように見える。
 
 近くの超高層の商店街を通り抜けて、南の方に見えた緑の公園に足を向ける。「労働公園」。にぎやかな音曲が響く。向こうの方で社交ダンスふうに、2人が踊っている。その脇にも一人で踊っている人がいるから、取り巻きをふくめて、なんだろう、このグループは。さらに向こうの木立の間では、一人カラオケと言おうか、テープの曲を鳴らし声を張り上げて歌っている年寄りがいる。人の手が行き届いて、大きな龍の形につくられた植栽など、かえってつまらなくなっている公園の植物たちの間を、しかし、散策するという雰囲気ではない。今日は金曜日、夕方。中国でも、週末なのであろうか。人の数は多い。広い公園のあちらこちらに屯している。ある一角では、50人ほどの人が輪をつくり、その中に5,6人の胡弓をもったりバイオリン様の楽器をもった人が椅子に座って、合奏している。これはこれで、一人カラオケとは違って、本格的な音曲。週末野外コンサートというわけか。皆さんその演奏を聴くために集まっているようだ。
 
 街中へ引き返す。公園から引き返すときに、広い道路は渡れないから、地下道を通る。中にはお店もあるのだが、シャッターが下りていたりして、暗い。通路は四方へ通じている。はて困った。通りかかったオバサンに尋ねると、ついておいでという。暗い通路を通って空の明るいところに出ると、エスカレータが動いている。それを上がると、宿近くの街路に出た。ちょっと中国語のできるNさんが歩きながら話を聞くと、私たちの泊まっている宿の9階でマッサージをしている、「寄っておいで」という。「あとでね」とお礼も言って、別れる。くたびれた。ビールでも飲もうと小さな食堂に入る。ちょっとしたおつまみも注文して四人で、まずは旅の始まりの乾杯をする。出るときに清算すると、全部で41元。650円ほど。う~ん、安い。
 
 宿近くのにぎやかな屋台のような出店の連なる通りを抜ける。「海鮮」と看板もあり、貝やエビ、魚の生きたまんまが水槽を泳いでいる。注文すると、「焼」「煮」の調理をしてくれる。店の中にテーブルと調理場が用意されてある。お兄さんが店先に出て声をかけ、袖を引っ張る。値段は「斤」という単位で表示してある。500gらしい。アワビらしいのが68元/500g、メバルのような魚が65元/500gとあるから1000円余か、高いかどうか、わからない。翌日ガイドの話では、衛生状態がわからないから「あの出店」(で食べるの)は敬遠した方がよいという。木のが実や豆類も売っている。リンゴやバナナも並んでいる。肉まん、餡マンらしいのもある。夜になると、立ち食いをしている人で通りがあふれかえっている。上野のアメ横が小さくなったようだ。ぶらぶらと歩いて宿近くなって、先ほど道案内をしてくれたマッサージのオバサンに出逢った。夕食をとるのに「ギョウザのおいしいところ」をNさんが尋ねている。中国語を話すのは得意な彼にも、なんといっているか聴き取れない。私が用意していた紙切れとペンを出すと、店の名を書いて、道を指さしてくれる。これなら簡体字が混ざっていても、わかる。見に行く。その途中に「盲人按摩」とある。おっ、座頭市だ、といいながらNさんが関心を示す。夕食の「(水)ギョウザ」はほんとうに大盛りであった。二人分というが、四人で二皿が食べきれなかった。山東省産「赤ワイン」もボトルで頼んだ。味はまずまず、1000円ほどであった。
 
 大連のやかましさに辟易したのには、中国語のピンシャンと跳ねるような抑揚のことば遣いにあるのかもしれない。街中で話しているのを聞いても、まるで喧嘩をしているようなのだ。女の人の高い音が入るとますます、耳にひっかかるように触る。乾燥した土地だからなのか、人が多いからなのか、怒鳴り散らすように声をあげないと伝わらないとでもいうように、口角泡を飛ばすように声を張り上げて話す。いやはや、まいったね、これは。
 
 大連の広さは1万平方キロメートルとガイドが話していた。人口は700万人ほどというから、埼玉県と同じほどだ。帰ってきてから調べてみると、埼玉県の広さは3700平方キロほどだから、埼玉県の2.5倍の広さ。とすると、人口密度は逆に埼玉県の方が高い。埼玉の面積のおそらく1/4ほど、北西部には秩父山地がある。大連はというと、これまた結構、山地でおおわれている。私が見てきた観光地図ではまるでそれがわからないのだが、ホテルでもらった「WELCOME TO DAIREN」という地図では、山地に緑の色をつけていて、市街地と区別している。緑色のところにまったく人が棲いないわけはないが、それをみると、だいたい半分が山地である。もっとも山地といっても、標高は2,300メートル程度。海沿いの山地には「棒種島景区」とか「秀月峰景区」と名がつけられ、「景勝観光地」であることを示している。あるいは、広大な緑色の区域が「大連森林動物園」「野生動物放養園」「白云山景区」と分けられ、自然保護区になっている。
 
 とは言え要するに、大連の方が人口密度は埼玉県よりも低い。にもかかわらず、あれだけの超高層住宅が林立しているということは、大連政府の住宅政策もあるだろうが、大多数の人たちを超高層住宅に住まわせる「集約居住」をしているのかもしれない。その事情は分からないが、やかましいというよりは、かしましい大連に、まずは疲れてしまったのであった

多次元世界に生きる私たちの姿

2016-10-28 09:59:28 | 日記
 
 世界が十一次元あるという宇宙論の世界を耳にすることが多くなった。もちろん私が、そのようなことに関心を持っているからなのだが、かつてはSFの世界でしか考えられていなかったパラレル・ワールドという世界も、科学世界の論理的仮想として語られるようになった、と言っていいのかもしれない。そのイメージを物語りにしたのが、宮部みゆき『過ぎ去りし王国の城』(角川書店、2015年)。図書館に予約しておいたら、1年半後に届いた。するすると読む。
 
 人と人との関係における宮部みゆきの世界が上手に取り出される。好ましく思って読むから余計に奥行きをつけているのかもしれない(と、読み手の自分を振り返ったりもする)。奇しくも今日(10/28)の朝日新聞「折々のことば」で鷲田清一は次のようなことばを拾っている。
 
《誰かの支えになろうとしているこの人が、一番支えを必要としていると思いました。……ある女子高校生》
 
 宮部みゆきという作家の、ひ弱な人に対する視線が好ましく、しかし今回は、その(甘い)視線を自らに拒絶することによって自律を果たしていこうとするラストが、上記の女子高校生のことばと重なって、新鮮な切り口。というか、宮部にとっては自家薬籠中の語り口。そう言えるかもしれない、と考えた。
 
 作家とても、毎回同じモチーフで物語りをしていては、いやになるに違いない。宮部みゆきという作家は、そういう点で(時代劇は知らないが)、マンネリになることを拒んで一作ごとに異なった地平を見ようと努めているように思える。それがまた、好ましく感じられる。私自身は、マンネリの世界に身を置いて、暮らしとしてはそれを拒んでもいないのに、作家や評論家には、より新鮮な世界を切り開いてくれることを望んでいる。読者の特権である。作品消費者の贅沢な欲望である。それが、(己の)現実存在に対するハッとするような鋭い批判であってもいい。そうそう、(私も)そう思うと同調的に読みすすむ作品よりは、ほほう、そうくるかと、意想を衝く世界の方が面白い。ということは私も、いまだ、違った次元の世界を覗いてみたいと願っているのだろうか。それとも、仮想世界と現実世界とのメリハリがきっちりついてしまって、心を遊ばせる世界を知っているということだろうか。う~ん、「遊ばせる」だけか。それはまた、つまらないねえ。
 
 だがさらに後に気付いたのだが、宮部みゆきは宇宙論的な世界を(ひも理論的に)取り出して試みたというのではなく、近頃流行りのVR(ヴァーチャル・リアリティ)とリアリティ世界との「かかわり」を描き出そうとしたのではないか。そう思って読むと、四次元の現実世界から二次元の絵を入口にVRの世界に入り込む入り方、その感じ方、その中での自己の位置づけ方、そこから何も持ち出せないという仕組み、外へ出てきたときにエネルギーを吸い取られたようにへとへとになってしまうこと、ひょっとしてVRの世界は「死の世界」と同じではないかと思えることなど、まさにヴァーチャルであることが仮想されていると読める。ということは、十一次元の世界というのも、まさに私たちの想像力世界の中に位置づくだけの「仮想現実」。IT時代の若い人たちが、たとえば「ポケモン」というVRに夢中になっているのを嗤っていた私たちも、じつは、同じような想像世界に遊んでいただけと言える。つまらないねえ、と言って済ませられることかどうか、またわからなくなった。
 
 というのはVRがすでに、「ポケモン」もそうだが、現実と入り組みはじめているからだ。そこに足を運ばなければ出会えない、目前の風景の中に「ある」ものを、「ある」と感じている人間がいるのだ。論理上想定できることと、眼前に見ていることとが、同次元で「ある」と感じられるかというと、むしろ後者の方がリアリティがある。前者の「論理上想定できる」という、目に見えないことが「見える」というのは、インテリジェンスを媒介にしなければならない。だが、百聞は一見に如かず。「感触」としてのリアリティに、思索(インテリジェンス)としての論理性は適わない。そういう、大きな人間文明の変化を汲みとるところに宮部みゆきが踏み込みはじめているのか。それはすごいなあと、いまは単なる私の思念の中で、感心しているのである。

何が悲惨か

2016-10-27 10:37:28 | 日記
 
 今日の新聞に『週刊新潮』の広告が載っている。週刊誌の「見出し」ばかりの「ぶら下がり広告」は、流言飛語の宝庫である。本文を読むことなく、世間の噂と評判の注目点が目に留まる。たぶん、いつしか私自身の中の「世界形成」にもなにがしかの作用をしているに違いない。そんな「見出し」の主軸の座に、今号は以下のような言葉が躍っている。
 
《なぜ「土人」発言だけが報道されるのか?》
《沖縄ヘリパッド 「反対派」の「無法地帯」 現場リポート》
▼天下の公道に「私的な検問所」設置で大渋滞
▼「ぶっ殺すぞ、お前!」ヤクザまがいの暴言一覧
▼沖縄防衛局職員の頭をペンチで殴ったリーダー
▼地元住民に本音を訊くと「あいつらはバカ」
 
 いやはや、本文を読むまでもなく、この記事を掲載した意図が分かる。沖縄に派遣された機動隊員の「土人発言」を帳消しにしようとしている。これをみて「してやったり」という安倍首相や菅官房長官の顔も浮かぶ。いつぞやの国会で「(日本を護るために献身的に働いている)自衛隊員、海上保安官、警察官に感謝する」と起立拍手をした人たちが、ほくそ笑んでいるのが目に見える。私は、それを「今の日本の悲惨」だと思う。
 
 私は沖縄のヘリパッド建設の「現場」を知らない。それに関する記事も、気を付けて読んでいるわけでもない。だから、この『週刊新潮』の記事の真偽について確かめようもないのだが、真偽よりも、「だから何なのか」と、この記事掲載者に聞きたい。「どうせ週刊誌、売れてなんぼよ」と応答があるかもしれない。もしそう居直るのなら、今後は『売れてなんぼの週刊新潮』と名前を変えてからにしてもらいたいね。
 
 「大渋滞」「ヤクザまがい」「暴力的」「バカ」、これらのレッテルを貼るためだけの見出しである。「天下の公道」で公権力が検問したり、封鎖したりするのは当然。それに対抗しようとする人たちが「私的な検問所」を設置するとしても、それを非難する根拠はどこにあるのか。「ヤクザまがい」とか「暴力的」というのは、国家権力そのものの占有事項。「国民」が、国家権力から身を守ろうとして、何を手段にできるだろうか。「無法」を非難しているというかもしれない。だが、トーマス・ホッブズを引き合いに出すまでもなく、「国家は最強の怪物である」。「主権」をすべて(国家に)「預けてしまった」としても、ジョン・ロックのいう「抵抗権」を保留している。学校でそう教わったからではなく、私たちは、大東亜戦争や太平洋戦争の反省として肝に銘じたことであった。
 
 だからいま、沖縄の人々の「抵抗」について、「国家権力」と「民衆/国民」とを同列に並べて、《なぜ「土人」発言だけが報道されるのか?》などというお粗末なことは言うべきではない。もし「土人発言」だけが責められているとしたら、それは間違いだ、責められるべきは政府首脳だ、政治家たちだ、というべきなのである。
 
 この週刊誌の記事の真偽はどうであれ、(仮に事実だとしても)私は沖縄の人たちを擁護する立場をとる。あきらかに「問題なのは」政府の方にある。暴力的に、ヤクザ同然に、合法性を盾にとって強行しているヘリパッドの移設自体が、「怪物」の所業だからである。そしてそれを傍観している私もまた、植民地宗主国の住民らしく(ふだんは)思慮の外に置いているからにほかならない。
 
 ただ今の私の(政治的に無力な)立場から言えるのは、機動隊員がそのような暴言を吐かざるを得ない立場に追い込み、地元住民がそのような振る舞いをしなくては「願い」が届かないような状況に追いやったことと、それを同列に俎上に上げ、国家権力当事者の責任を阻却するような記事を平然と掲載させてしたり顔の政治家たちこそが、私たちの悲惨だと思うのである。

ひたひたと

2016-10-26 10:37:59 | 日記
 
 大連から帰ってきて、田部井淳子さんが亡くなったことを知った。77歳。ま、この方は山の縁で身近に感じていたというだけのことだが、歳が近いこともあって、我が腸に響く。と、こんなメールが来た。
 
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Subject:Uさんご逝去
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本日、教新MLを管理するGMOから、
> メンバーのUさんが何らかの原因でメールを受け取れない状態になっているため、
> メールの配信を停止いたしました。
> Uさんに連絡を取ってみてください。
と連絡があった。そのため、自宅に電話してみた。
奥さんと思われる人が出て、概要、つぎのような話をした。
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Uさんは、今年夏に急死した。(日時は言わなかった。)
その時は、頭が真っ白になってしまい、大学の関係者には連絡しなかった。
葬儀は、家族だけで密葬を行い、今は鎌倉霊園に眠っている。
(こちらからの連絡は)これが最後にしてほしい。
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ということだった。とりあえず、連絡まで。
*****
 
 Uは、大学の専攻もサークルも同じであった。頑固で粘着質の彼の気質が私は苦手で、学生のころからあまり気持ちの行き来はもたなかった。ただ在学中に一時、彼が精神を病んだことがあり、入院加療に手を貸したことを覚えている。卒業後、同じ専攻やサークルの集まりで顔を合わせて言葉を交わしたが、変わらぬ気質と周りを(自己流にしか)気にしない振る舞いに、いまだ病が持続しているのかと思うほどであった。彼自身は「経済学の研究を続けている」と思っているようであったし、実際、ペンネームを用いた著書をもらったこともあった。どうしてそのようなテーマにくらいついているのかが良く読み取れず、一般的な啓蒙概説書に見え、彼我の(大学卒業後の)径庭の大きさばかりを感じとったというのが、私の率直な感想であった。むしろ、山の縁で名を知っていた田部井淳子さんの逝去の方が、気持ちを強く打つように感じる。
 
 しかしUの「頑固で粘着質」という気質は、学生時代の(同じ専攻の)人は、私にも感じていたのではないかと、振り返る。3年生になったころだったか、専攻の図書司書の方が「あなたは(入学したころに比べて)ずいぶん明るくなったわね」と言ったことを覚えている。田舎から出てきて、コンプレックスをいっぱい抱え込んで鬱勃としていた私にとって、「明るい/暗い」という世界の切りとり方自体に意味があるとは思えなかったし、そのような対人関係に気を遣う世界をまるで持っていなかったのかもしれない。だからいま思うと当時の私は、当時の私が見ていたUと同じで、「周りを(自己流にしか)気にしない振る舞い」をしていたのかもしれない。
 
 「(こちらからの連絡は)これが最後にしてほしい。」という「奥さんと思われる人」のことばに、Uの占めてきた位置が込められているのかもしれないと感じる。だが、そうした断片だけで彼の人生を推し量ることは、それこそ乱暴極まる。むしろ、おぼろげながらの「学生時代」の印象を文字通り断片として心の片隅にとどめておく方が、互いの(人生における)距離を置いて来たことを示して奥ゆかしい。
 
 それにしても、同世代の人たちと(いつ知れず)別れることが多くなった。ひたひたと、我が身にも迫っている。