mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

私らがアホだから

2016-06-30 13:50:05 | 日記
 
 参院選。「憲法改正」が焦点と言っている野党に対して、安倍首相は「景気回復=経済政策」で争っている。TVも新聞も「焦点のひとつに憲法改正」と報道している。たしかに安倍首相は衣の下の鎧を隠してはいない。選挙後には「憲法改正論議をする必要がある」と(「改正」を「論議」と)焦点をすり替える表現をしている。これはどういうことなのだろうか。報道は、憲法改正の世論調査を示し、「憲法改正を争点」にすると選挙に負けると読む。つまり安倍首相は、鎧の上に「景気回復」をかぶせて有権者の前に提示して見せる「修辞法」をもちいているのだ。
 
 「修辞法」というと文章を飾る技。日本人は元来「じねん」が好きであるから、「飾る」作為には不純なものが混ざると考えて、これを嫌う。だがそれは、「修辞」をする人が嫌いと言うよりも、「飾る」ことに心惹かれて得心して仕舞う自分を(後で考えてみると)嫌いになるからである。騙されるように感じるのだ。だが「騙されている」のだろうか。「隠す」ことをいろんな場面で私たちはしている。そもそも本音を隠さないでは、他人と向き合っていけない。長年連れ添ったカミサンとだって打ち明けあっていないことがたくさんある。そもそも自分の何がホンネかも、自分にわからないことが多い。自分自身とうち融け合ってきたかというと、それも疑問だ。いつも自分の思いが移り変わる。ふと思ったことに、なんとも卑しい心象を感じて、いやだなあコイツと思うことがある。自分の中の他人(であったらどんなにいいことか)を発見するというと格好がいいが、気が塞ぐような思いをする。
 
 だがそれを「政治的に」用いられると、この政治家は私を馬鹿にしていると思う。例えば、いまラジオを聴いていて自民党の参院選コマーシャルを初めて耳にしたのだが、安倍首相の「いま日本は前進しています。所得もよくなっています。景気は回復しているのです」と声が流れる。この、安倍総裁(自民党)は何を見ているのだろうか、と思う。「前進している」って、何が? 「所得が良くなっている」って、誰の? 経済指標を取り出して「前進している」というのなら、なぜ税率の引き上げを2年半も延期する判断をしたのか。全体の所得が前年よりも上向いているとしたら、よほど高所得の人たちがより多くをとり、低所得の人たちが低迷してより「格差」が広がっていることを意味する。としたら、所得の再配分を考えるのが政治の仕事ではないのか。政治家であり行政権を握っているあなた方とみている焦点が違うことを感じる。そこまで慮る前に、ウソも百篇繰り返せばホントウになるという「我が闘争」を想い起す。
 
 これも「騙される」というが、私たちの「情報」の仕入れ方がその程度だということは、自覚していなくてはならない。つまり簡単に自分をも(いつ知らず)偽ってしまうのだ。情報化社会とは、その情報を読み取って価値判断をする次元において「社会的に有効な仕組み」を構築しなければ、誰もかれもが騙されてしまう社会だと言える。「社会的に有効な仕組み」とは、情報と価値をめぐって公に戦う/戦わせることである。選挙戦はそういう意味ではもっとも有効な議論の場になる。だが、「選挙後に論議する必要がある」という口上や野党から提案された「公開討論会」を断るというのは、そもそも「議論」をして有効な国民の判断の機会を提供しようと考えていない。
 
 これはすなわち、安倍首相(を抱える自民党)ばかりか、日本のメディアも、庶民も、だれもかれもが一緒になって、「この程度」の国民性をかたちづくっているのである。自虐史観だなどと日本会議の人たちは戦後民主主義のサヨクの言説を批判するけれども、サヨクだけではない。日本会議の人たちも、同じように自らの言説を最善のこととして人々に押し付けているだけなのだ。ただその押し付け方が(安倍政権においては)、「情報操作」的に上手になり政治技術的に巧妙になり、論議の次元をすり替えたりして「修辞的に」達者になっているといえる。これは「人心操作」という「支配」の仕方であり、これが庶民の「程度」を底上げするわけではない。むしろ庶民は、「この程度」に据え置かれて、一向に鍛え上げられない。加えてエリートたちの資質も「この程度」にとどまってしまう。ここでエリートというのは、政治を主導する人たちであり、それを背景で支える実務的・知的グループであり、社会の論調を主導するマス・メディアの担い手たちである。相違いえば思い出した。2016年6月12日のこの欄で、「反面教師としての舛添さんとお金のモンダイ」を掲載した。その中で、舛添さんの首を獲れば舛添モンダイが終わるのではないかと「心配した」が、その後の経過をみると、その通りになった。舛添さんを反面教師にすることもできなかった。「その程度」の私たちだということを忘れてはならない。庶民だけじゃないよ。エリートも、政治家もメディアの人たちも、誰もかれもが。
 
 そう言えばイギリスでも先週、EU離脱という国民投票の結果が出て、再投票が提案されたり、「離脱」に投票した人たちが今さらながらEUのことを「検索」したりして「後悔している」と報じられている。でもイギリスはたいしたものだと私は思う。そういう結果を自分たちが引き出したことを真面目に受け止めている。再投票をすることはないであろうが、これがイギリス国民の今後の投票行動にいい影響を与えることは疑えない。「それが民主主義だ」と私の(71年蓄積してきた)感覚が寿いでいる。間違ってもいい、それを一つひとつ心に留めて、修正していく。民主主義は成長し変化するものだと、戦後最初期の「民主主義教育」を受けてきた世代は体に刻んでいる。
                 
 ちょうど、71年前に敗戦を迎えて日本国民は、どれほどにEU離脱に投票したイギリス国民ほどに「後悔した」であろうか。社会の作り方が違うから、この部分だけ同じように取り出して比較しても仕方がないが、「一億総ざんげ」とそこまで一括されて「敗戦を陛下にお詫び申し上げた」とくくられると、そんなはずがあるかと言葉が口を突いて出る。軍属としてインドネシア戦線に従軍した私の父親も、戦後に(戦争のことについては)沈黙した。そうして公務員という職を放擲し小売商に徹すると、生き方を変えた。その後は基本的に(可能であるときには)弱いものに味方する道を貫いた。強者に対して基本的に反対する立場に立った。それを私は、彼なりの「戦争責任」の取り方と受け止めていた。
 
 戦中に生まれ、ものごころついたころに進駐軍の占領下で過ごした私たちは、昭和24年(1949年)に小学校に入って、謂わばまっさらの「日本国憲法」(の精神)を学んだ。それが日本占領の政治戦略にのっとっていたかどうかなどは、考える余地もないこと。ただ体感として、敗戦後の混沌の中で親の世代の振舞いを見ていて、(のちに)戦争に敗れるとはこういうことかと肝に銘じたし、親世代とは違った生き方を始めるのだという気概を身の裡に溜め始めていた(と振り返って思う)。
 
 その親世代とは違った生き方というのが、「民主主義」と「平和主義」と「人権」であった。そういう意味では、戦後71年になって今の政権が最も変えたいと願っている「戦後思潮」の主たる担い手は、私たちの世代ではないか。とすると「この程度」の構築者でもあって、対外的には「腰抜け」の中心世代でもある。と同時に、日本の経済成長の主担い手でもあるから、良いも悪いもことは私たちの世代に発するとさえいる。
 
 さて参院選。これがどうなるかに私はほとんど関心を失くしている。たぶん結果がどうなっても「後悔」もしない。シニカルになっているわけではない。世捨て人に近い気分だからともいえなくもない。だが、モンダイは今回の結果がどうということではなく、一つひとつの段階を、失敗をふくめてかみしめて、次に生かそうとする「民主主義」を体現しているかどうかである。そういう意味で、庶民を平然と操作している現在の政権を(世論調査の結果のように)歓迎するのかどうか。それだけはみておきたいと思っている。

手作業が「私」を写す

2016-06-29 09:57:04 | 日記
 
 昨日は「ささらほうさら」の月例会。そろそろ半世紀近い付き合いのある年寄りばかりが集まる。今日はいちばん若いWさんが講師を務める。テーマは「銅鏡制作」。彼は長年、中学校の理科教師をしてきた。だが授業よりも生徒指導に手間を掛けなければ維持できない日々のルーティン・ワークは、準備の慌ただしさや「評価」のわずらわしさもともなってストレスが溜まる。ところが、部活動・科学部の顧問は、そうしたストレスから瞬時解放されていられる。「心躍るような実験」もあったと振り返る。その一つが「銅鏡制作」という。
 
 この講座のわずかな時間で「銅鏡」をつくるのは(年寄りには)難しいとみて、講師はすでに下準備をある程度済ませてきている。十円玉ほどの粗削りの銅板を、磨いて銅鏡にしようというもの。机を傷めないように下に敷く布も用意している。紙やすりを持つ手にはめる手袋も百円ショップで買ってきたと配ってくれる。生徒たちとちがって(年寄りでは)、紙やすりをつかうにも銅板が動いては、不器用さにさらに不都合さが加わっ時間がかかるだろうからと、かまぼこ板の真ん中を薄い銅板の形状にくりぬいて、そこに銅板をおいて紙やすりをかけるように工夫してくれてもいる。高齢者への配慮が、至れり尽くせりだ。
 
 目の粗い紙やすり2枚をつかって、銅板を磨く。1枚に10分くらいかける。その2枚を終えたのち、目の細かい紙やすりを、また2枚、それぞれ10分くらい使って磨きを入れる。目で見た限りでは、鏡のように顔が映るほどではない。紙やすりの引っ掻いた目が傷跡になって残っているように見える。だがそれほどの時間、磨きを入れたのち、液体金属磨き液(ピカール)を布に含ませて銅板の表面をさらに磨く。何度かこういうことを繰り返して、付着し残るピカールを吹きとると、あらあら、銅板は見事に輝きを持ち、十円玉ほどの小さな「銅鏡」が覗き込む己の眼を写しているのが、わかる。完成、というわけだ。
 
 しこしことその作業をする間に、銅や銅鏡の歴史や成り立ちを話す。自然銅が枯渇して銅の精錬が行われるようになる経緯、その間に鉄の精製が挟まる技術の発達が、「一種の呪術」として理解され、神の依代としての「威信」を持つことへ銅鏡が変貌する、と。松本清張の『同県・銅鐸・銅矛と出雲国の時代』や「魏志倭人伝」を掻い摘む。そうして、
 
《「自然にあり得ないもの」に「天界の姿を写しこんだ」ということはそれ自体が「神的存在」に昇華されたと考えられる》
 
 と展開する。伊勢神宮の八咫鏡のことを指している。
 
 話を聞きつつ、手元は「磨く」作業をすすめながら、「神意」と我が心もちとの緊張感を確かめている。う~ん、なかなか即座にそうと、単純には進まないのではないか。銅鉱石から銅を抽出するという技術は(その温度や媒介項を省略してみると)「錬金術」としての魔術的営為と見える。私たちは、だが、すでに精錬された銅板と2種の紙やすりや磨き液を手にし、これをああすればこうなるという「手順/アルゴリズム」を、何の不思議も感じないで「理解」して取りかかる。そこに「神意」の入り込む余地はない。むろん「威信」としての価値軸も消え失せている。それは、つまり、自然に対する畏れも失せ、あたかも自分が銅の精錬をして磨きやすりや磨き液をつくっているかのように、自然に対する我が(人類共同体の)優位性を前提にしている。だからこそ、「呪術性」とか「宗教性」とか「自然に対する畏敬の念」という要素を蒸発させて、日々を「お祭り騒ぎ」で過ごすことが出来ている。それって、どこかヘンではないのか。どこがヘンなのだろうか。
 
 ま、ま、そういう思索は結論を出すことではないから、私の心裡でころがして「棚上げ」にする。鏡をつくるという一つの作業が「私」を写している。面白い講座であった。

災い転じて快速・乾徳山

2016-06-28 06:17:26 | 日記
 
 梅雨ですから、関東地方は火曜日から木曜日まで雨とあっても何の不思議もないのですが、今日は晴れ。これを逃がす手はないと朝5時40分に車を出して、乾徳山に向かう。いまは山梨市に属する。むかし一度カミサンと一緒に登ったことがある。それほど険しい山とは思わなかった。これを私の山の会に使おうかと山行中に話したら、いやはや、今は山の情報が行き渡っていて、「鎖場がある険しい山」と称されているそうだ。安全確保に何を準備したらいいか、それを確かめるためだけにでも一度足を運んでおく必要はある。そう考えて、出かけた。今朝のことです。
 
 近頃はインターネットで「目的地」を事前に検索することが出来る。google地図では、「その地点の情報」として住所も表示してくれるから、naviにかけるときには大いに役に立つ。「乾徳山登山口駐車場」で検索する。番地まで表示した「住所」が表示される。それをメモして、朝出発の時にnaviに「目的地」として入力する。これで安心、naviの指示に従って、すくすくと車をすすめる。
 
 おやおや、こんな狭い道を行くのかえ? と思った。何しろ「乾徳山登山口バス停」があるところ。バスがこんな道を通るとしたら、これじゃあ両神山のアプローチと同じだ。ところが標高がどんどん上がる。「登山口駐車場」の標高は830mのはず。ところが、1000mを越えてさらに上がる。とうとう1300mまできた。「大平民宿」とある。地図を取り出してみると、尾根を一本越えて、東へ来ている。どこかで道を間違ったというよりも、インターネットで検索した「乾徳山登山口駐車場」が、違うところを示していたわけだ。どうしようか。
 
 でも地図では、乾徳山への最短距離のアプローチができるところにいる。災い転じて福となす。今日の目的が、乾徳山の最後の岩場の「確保」の仕方を見てくるということであれば、そこまでのアプローチは近くてもいいんじゃない? と私の内心で問答する。むろん反論は出てこない。地理院地図では「大平高原」と表示されているほどの、広い草原。山菜取りの人たちが入り込むらしく、「大平山荘」の名前で、いろいろと注意書きがしてある。どこに車を止められるだろうと、林道の方まで走ってみる。舗装路は当然砂利道になり、そのうち凸凹の大きな林道になり、「林道工事をしていますから、駐車しないでください」とある。と、うしろからバンがやってくる。広いところを見つけて先へ通す。「乾徳山登山口」と大きく表示しているところに出る。「よし分かった。」ここから登るとして、車を下の適当なところへ止めなければならない。少し広い箇所で車を回す。私の車は軽にしたから、こういう時に都合がよい。下っていると、ダンプカーとすれ違う。2台。林道の上の方の工事というのは、ダンプカーが出張っているのか。
 
 下の広い草原に車を置き、歩き始める。8時10分。10分ほどで先の登山口につき、登りはじめる。ところが、斜面の踏み跡は、かなり急な傾斜を登っている。地図を見ると、右に左に大きく揺れる道をショートカットして、道満尾根のルートに合流する。ならば、このかすかな踏み跡を辿ればいいんじゃないかとぐいぐいと上がる。ところが途中で、踏み跡が途絶する。落ち葉が降り積もって、あれもこれも踏み跡に見える。でもまさか、こんなところが地理院地図に記載されているはずがない。(たぶん)間違っているだろうが、これを突き上げて道満尾根のルートに出るしかない、と思った。そう時間をとらずに尾根には出た。出たところを下りのときに忘れないようにケルンを置く。登りはじめてから20分。
 
 こうして、当初予定では下るところから登ることになった。そのすぐ上に、国師ガ原への分岐があった。徳和からの登りと合流する地点だ。そちらへすすむ。そこまで2時間が徳和からのコースタイムだから、それを1時間で来ている。当初予定のルートで上ると6時間25分のコースだ。それが短縮されるとなると、きっと私の山の会の面々は、大喜びするに違いない。登山口には「2時間半」とあったから、往復で4時間半か。OKだね。
 
 国師ガ原への途中に「関東の富士見百景 富士山の見えるまちづくり 地点名 三富からの富士」との表示板があった。南を観ると、八合目から上を雲の上にみせている富士山がくっきりと見える。下につく雲は分厚く取れそうにない。富士山は1000㎞西の気象を現すと、むかしから言い習わしてきた。首から下は九州の気象だ。九州では天候が傾いている。
 
 樹林の中を登る。ごろごろとした大きな岩を踏みながら、高度を上げる。上から降りてくる人たちがいる。若い。たぶん、5時6時に登りはじめて、9時過ぎのここを下っている。「元気だね」と声をかけると、「ありがとうございます」と返事が来る若いペア。いいねえ、こういうのって。国師ガ原の上部、扇平に出る。月見岩と名づけていて、道満尾根を登ってくるところとの合流点だ。振り返ると、まだ富士山が頭をみせている。扇平が背の低い草原のようになっていて、背中の方には鎮座している乾徳山のこんもりした山体をうかがえる。あとで気づくのだが、それは乾徳山の前景の山であって、本体はその向こうに岩を連ねて峩々とそびえているが、目にすることはできない。
 
 前景の森山を抜け、岩場に取りかかる。ひとつの岩を登ると中段で岩に赤ペンキで「→」とある。右へすすむと、腐りかけた木の梯子が岩を渡るように設えてある。こっちのほうが怖いなあと思う。大岩を巻くとその裏に高さ15mほどのさらに大きな岩が立ちはだかる。2本の鎖が着き、右の方は鎖も新しく足の置き場がはっきりと見て取れる。左の方は鎖も古く岩の凹みに靴裏を押し付けて登るようになる。上り下りを分けたのだろうかと思い、上りには左をつかう。岩が乾いているからフリクションはよく効く。だがここを私の山の会に人たちが登るときには、安全確保が必要になるかもしれない。ザイルを使って確保しながら登るのも、若いうちならいいが年寄りにはあまり向かない。やめた方がいいだろうかと、思ったりする。いくつか岩場を乗っ越たところに「迂回路→」とある。最後のほぼ八十度くらいの、鎖のついた岩場を回避して山頂に立つルートも設けているのだ。それは帰りに見ることにして、「ご正道」を登る。なるほど鎖も必要だが、岩がわりと手がかりを多くもっている。上りやすい。鎖もときどき使わないと困るほど、足場がない。もし雨で濡れていると、ここを登るのは難しいかもしれない。そんなことを考えながら上に立ったとき、ちょうど下に若い二人組が顔を出した。「どうですか」と聞くから、「乾いていて、大丈夫だよ」と返事をする。
 
 その上は山頂だった。10時15分。出発してから2時間足らずで登った。一人コンロを使って湯を沸かし、ラーメンをつくっている。私はテルモスのお湯で簡易にそれを片付けている。早いがお昼にする。富士山はもう、雲に隠れて見えない。先ほどの若い人が登ってくる。朝7時頃に、徳和を出たそうだ。私が予定していた登山口だ。ということは、私が着いたとしても8時であったから、彼らよりも1時間遅れとなる。ずいぶんショートカットしたものだと思う。
 
 20分ほど山頂で過ごして、下山にかかる。「迂回路」を通る。鉄の梯子が2カ所にかかっている。なんだ、ずいぶん簡単に下ってしまう。そこからの岩場で、何人かの登る人たちとすれ違う。2本の鎖のついた岩場を下りかけたとき、左足が攣る。おお、これはまずい。今日は陽ざしもよく水が不足しがちだが、それだろうか。とりあえず鎖場を下ってから、水を補う。月曜日にしては上る人が多い。乾徳山は人気の山なのだ。樹林帯に入って下っていると、足元の石の上にヒガラが何かを咥えて止まる。私が退くのを待っているように石の上を行ったり来たりしている。ひょっとすると巣穴に入ろうとしたのを私が邪魔したのだろうか。何枚か写真を撮って動くとぱっと飛び去った。
 
 扇平の分岐を過ぎて道満尾根の樹林に入る。少し行くと大きな岩の上に出て崖になっている。行き止まり。おやと思い、右の斜面の踏み跡を見るが、それもない。大岩に乗る手前の左を覗くと、大岩を回り込むように踏み跡がついている。なだらかな尾根歩きが急に傾斜のきつい下りになって降り立った辺りが、今朝国師ガ原への分岐だ。その急な下りを降りているとき、また足が引き攣った。先週水曜日の富士見山の疲れが今ごろ出ているのだろうか。荷を下ろし、スポーツ飲料をしっかりと飲む。ゆっくりと下る。何とかいけそうだ。
 
 1580mまで下ったところでまた林道に出合う。標識に「←大平」とあるのに気づく。私は道なき道を強引に上がって道満尾根に合流し、ここを通った。この矢印の方向からくる「ご正道」があるのだと思い、そちらへ歩を進める。舗装された林道を何度か九十九折れに下ると「大平→」の山道への標識がある。標高が1450m。下に砂利の林道が見える。降りてみると、今朝上りはじめた「登山口」だ。何だかキツネにつままれたみたいな気分。時計を見ると、まだ11時50分。ここを出発してからちょうど3時間半。快速登山である。
 
 その林道を車のところへ向かっている途中に、標識がある。その一部に「徳和・道満尾根→」とある。向こうは崖だと思っていたが、少し小高くなった土手に登ってみると、その木陰の向こうにしっかりとした踏み跡がある。ここもまた、道満尾根への入口になっていたのだ。ここから入ると、面白いかもしれない。12時、車に帰着。「三富徳和」の「乾徳山登山口駐車場」も見ておこうと、naviに入れ出発する。登ってきた舗装路をあるところでヘアピンターンをしてまた山道へ入る。舗装はつづいている。一つ尾根を越えると、道路をふさぐシカ避けの柵があり、「徳和バス停→  通過したのちには鍵を閉めるように」と注意書きがしてある。「徳和バス停」は乾徳山登山のときに下車する停車場だ。そうか、この向こうにそれがあるのか。鎖を外して扉を開け、通過後にそれをまたかけて扉があかないようにする。そこを下ると少し広い通りに出た。奥への道をたどると、6台ほどの車が止まっている。すでにそれで「駐車場」はいっぱいだ。なるほど、こういうところか。
 
 それを確認して、帰途に就く。塩山の町の北側、大菩薩に繋がる山の中腹、ぶどうや桃、サクランボの栽培をしている畑を縫って標高550mほどをぐるりと巻く「フルーツライン」を通り、中央高速に入る。高速は空いている。午後3時には帰着。まさに、災い転じて福となした快速・乾徳山であった。

モンゴルの旅(4) 探鳥の奥義をちょっとだけ垣間見た

2016-06-27 04:56:43 | 日記
 
 南ゴビ最終日の急な日程変更については、すでに記した。そのお陰で、山間地にあるムカールシバという国立公園へ入った。後で地図を見ると、昨日の公園の西北側に位置する。そこでイワシャコを見たのは驚きであった。はじめハトかと思った。崖下の地面に2羽うろついている。私たちの姿を見ると慌てて走り回るが飛ぼうとしない。と、崖をつたつたと這い登りはじめた。それが早い。垂直な崖だのに、躊躇うことなく駆け上るという風情。だれかが「イワシャコだ」といって、双眼鏡をのぞくと、身体の横にはっきりと斜めの筋が何本かある。ガイドから「います」とは聞いていたが、こんな形で出会うとは思わなかった。後から駆けつけたガイドが手で示す方には、先ほどの駆けあがった2体が50mほど上の山肌を歩いている。さらにその上には、別のイワシャコがいて、後ろを向いている。さらにまた崖の裏側に回ると、別のイワシャコというふうに、全部で5羽も目にすることになった。
 
 そこへ行く前に、これも参加者が先に見つけたのだが、ワシミミズクの雛が山の中腹の岩の上に鎮座しているのが見つかった。ちょうどアニメのトトロのようなずんぐりむっくりの恰好で、目を開けている。どうしてあんなところにいるんだろうと、ガイドも不思議そうだったが、後ろの灌木の陰に岩穴があることに気づき、望遠鏡を動かして観る位置を変えると、豈に諮らんや別の雛もいる。わいわいと騒いでいると、岩の上にいた雛がのそりのそりと動き出し、岩穴に戻っていく。その上空をオオノスリが旋回する。もし見つけたら、当然のように襲うであろう。そうなると、たぶん近場のどこかで見張っているワシミミズクの親鳥が追い払おうと姿を見せるかもしれないと、バトルが起こることを想定して愉しみにさせた。むろんそうはならなかったが、自然界の動態的平衡が感じられて面白かった。
 
 ナキウサギやジネズミが山肌のあちらこちらに穴を掘って棲んでいることが分かる。ちろりと顔を出して、周囲を窺がい懸命に走り抜ける。巣材にするのであろうか、口いっぱいに草を咥えて走っているナキウサギの姿は微笑ましい。尻尾の長いのがジネズミ、短いのがナキウサギと思ってみると、すぐに見分けがつくなるほど「鷲の谷」と名づけられるわけだ。餌が豊富。この小動物たちは、しかし、どうやって冬を越すのだろうか。氷河期の生き残りというから、寒さには強いのであろうが、雪と氷に閉ざされたらどうやって餌を採るのだろう。
 
 こうして、南ゴビに午後半日のおまけ探鳥をして、ウランバートルの宿に戻ったのは、夜中の12時すぎ。シャワーを浴びただけで、すぐに寝付いた。翌朝は少しゆっくりするかと思いきや、朝日が昇るとすぐくらいに、朝の探鳥に出かけるというオプション。宿の近くのかつての工事現場に、キガシラセキレイが巣をつくっているという。何羽もいて、巣に餌を運ぼうとしている。私たちを見ると警戒して、巣に近づけない。ガイドは「少し余裕を持たせてやって」と、離れることをすすめる。面白い。鳥たちに与えたり取り除いたりするストレスは意外と大きいものかもしれない。こうした気づかいが、鳥を観ることの必須条件かもしれない。シベリアハクセキレイもいた。シラガホオジロ、ヤツガシラも飛んだ。アカアシアジサシが2羽、川筋の上を行ったり来たりして餌を探しているのも、ゆっくり観察できた。
 
 朝食を済ませ、ウランバートルを出る。1時間半ほどで着くふたつの国立公園を、昼食をはさんでめぐる。岩山と樹林と草原とが、ディズニー映画の自然の情景のように展開している。ひとつの公園の名をグル・エコ・パークという。グルって、チベット仏教の尊師のこと? そうであった。やっとチベット仏教の色濃い影響と思われる言葉にぶつかったが、ほかの参加者はオームのグルだと、もっぱら日本国内向けの話題に終始していた。
 
 ここでワキスジハヤブサをみる。あれがソウゲンワシだとガイドが指さす。クロハゲワシが上空を舞う。大きい。アネハヅルも近くを飛翔する。アカツクシガモの親鳥がひな鳥8羽を連れて草地の上を引っ越している。カメラを抱えたバードウォッチャーがそれを追う。ガイドはそこまで迫ってはいけないと制止するが、何人かにはその声が届かない。あとで聞くと、けっきょく雛を置いて親鳥は飛び立ち、雛は大混乱をきたし、やっと帰って来た親鳥と出逢うことが出来たそうだ。カササギがいた。警戒心の強いワタリガラスは遠方からあ観察する。コクマルガラスも、日本にもいるハシボソガラスやハシブトガラス、シジュウカラ、ヒガラ、コガラ、ゴジュウカラ、ジョウビタキ、キセキレイ、ホオジロもいて、日常とつながる。それらとは違って、ハシグロヒタキやオジロヒタキというのも現れたし、すでに書き記したが、ミユビゲラというのも初めて見て、探鳥の奥義をちょっとだけ垣間見た思いがした。草原を入りまわるジリスも愛嬌があった。
 
 ガイドは目と耳がいい。まず鳥の声を聞き、どのあたりに何がいると見当をつけて、双眼鏡で覗く。鳴き声も幾種類かもっている鳥がいて、聞き分けにくいとガイドはため息をついている。どういうところに巣をつくるかをつかんでいる。それにふさわしい場所を見つけると、遠方から双眼鏡や望遠鏡で観察する。子育てをしているこの季節には、必ず適当時間を置いて親鳥が餌を運んでくる。ときにはオスが運んできた餌を巣の近くでメスに渡す。メスがそれを食いちぎって雛に与えている。あるいは飛び方や縄張りとする範囲をおおよそつかんで、探すというよりも、要のところで待ち受けることもする。雛を育てているところには基本的に近づかない。遠方から観るだけ。なによりも、鳥の個体は(ことにメスは)地味で背景に溶け込んでいる。だから声がすると、その保護色を見極めるようにしてお目当てを探し出す。脇でみていると、実にそれがうまい。客には年寄りも多いから、そんなにシャカシャカと歩けない。30歳代半ばのガイドは自分のスコープを置いて、ずうっと先の方へ「偵察」に出かける。見つけると、遠くから合図をして皆を呼び寄せる。客の方も心得た人が多く、ものすごい(たぶん2000ミリというような)望遠レンズをつけたカメラを乗せて三脚をかついで、山の斜面だろうと氷河の上だろうと、さかさかと動いている。アレが撮れたコレが撮れたと画面を見せてくれる。これが鳥の同定に大いに役立つ。はるか上空を飛ぶ猛禽類も、こうやってひとつひとつ分けるのだが、私は双眼鏡でみてどこで見分けるかを考えている。結局見分けがつかない。まあ、これも歳のせいもあって仕方のないことときっぱり諦めて、そう言えば私は地誌に関心を向ければいいんだと、自分を慰めている。
 
 一つ思い出した。ウランバートルに戻ってきた翌日、雨であった。朝の探鳥も雨合羽を着て出かけた。篠突く雨というよりも、ちらちらと降る程度の雨だったから、山歩き気分で言えばたいしたことのないお湿り。モンゴルの子どもたちは、空に向かって口を開けて雨を愉しんでいる様子であったし、またほかの子どもは傘をさしてうれしそうに歩いていた。みな長靴を履いているのが目を惹いた。この日は一日雨。緑は一層濃くなっている。モンゴルの人たちが雨を歓迎する心もちが伝わってくるような一日であった。
 
 そうして帰国する、最終日の朝。空はカラッと晴れ渡っている。「恵みの雨男」・日本人ガイドも、私たちと一緒に帰国する。「あなたが帰るから晴れたんですよ」というと、うれしそうに、「ほんとそうですね」と返してきた。2週間ぶりに家族と逢えるというのが、堪らなく愉しみなようであった。無事成田に到着。参加者が全員荷物を受け取り終わるまで見届けたガイドと、さらりと別れた。「モンゴルへ行くのなんて、最後だから」とカミサンは言っていたが、〈また、もしモンゴルの北や西へ出かけるこのガイドの旅があるなら、一緒してもいいかも〉と思いを変えたように見えた。それも悪くないと、シンプルライフに思いをやりながら私も思ったものでした。(モンゴルの旅・終わり)

モンゴルの旅(3) 南ゴビの「鷲の谷」に分け入る

2016-06-26 06:38:04 | 日記
 
 さて、旅の目的は「探鳥」であった。早朝の便でウランバートルを発った私たちは、南ゴビのダランザドガド空港に7時過ぎに降り立った。1列4席、56座席の双発のプロペラ機に、朝日が差し込みはじめたのは6時を回ってから。高度を下げると下界の草原が青々として起伏をともなっているのがわかる。川筋もみえる。細いが水も流れている。ところどころ、溜池だろうかと思うほどの水たまりもある。樹木がない。沙漠と聞いていたので、意外な思いがした。昨日入国したときのバスの中で、現地ガイドが「昨日までの一週間は雨、異常気象だった」と話していたが、ウランバートルだけでなく、南ゴビでもそうだったのだろうか。
 
 4台の8人乗りのバン。日本人鳥ガイドと現地ガイドを併せて16人総勢が分乗する。先週も一組ガイドしたというのは(たぶん)、このモンゴル探鳥ツアーの定員を上回った分を、一組まとめ上げて案内したのであろう(そういうことが結構あるのだと、あとで聞いた)。2台はヒュンダイ、2台は日産などの日本車。ハンドルが右と左と別れる。モンゴルの車は右側通行。ガイドは「韓国製が安いのでそちらの車が多かったが、耐久性で日本車が優れているので、今は日本車が多い」とそつなく日本人客を持ち上げていたが、「優れている」日本車は空調が使えないほど使い尽くしている。確かに走っていると、車の傷みが早いことは実感できる。沙漠といっても砂礫沙漠。草が生え、その根の部分は小さく盛り上がっている。がたがたと良く響く。それを何十キロと結構な速度で走り抜ける。舗装路を走るのに比べて、数倍傷みは速い。チベット高原を走ったときもトヨタのランドクルーザだったが、メーターが28万キロ。すごい! と驚いたら「一度ゼロになった」と運転手が笑う。たしか30万キロでひとめぐりしてメーターはゼロになるのではなかったか。使い尽くす。これもシンプルライフのひとつだね。
 
 南ゴビの宿泊地「ツーリストキャンプ」のゲルに荷物を置いて、さっそく探鳥に出かける。じつはどこをどう走っているのか私にはわからない。お日様をみて、だいたい西へ向かっていると思った。上空から見たよりも起伏は少なく広大な草原と見えるが、それでも「稜線」を越えるとその向こうにまた同じような広大な草原が広がっている。雨が流れて浸食されたと思われる凹みが(たぶん)長年かけて深くなり広がり、水流をつくり湿原になったところもある。そういうところに少しばかり背の高い草が密生し、馬や牛やヤギが水を飲みに集まり、その糞につく虫が蝟集し、それを餌とする鳥が集まる。鳥ガイドはそれを熟知しているのであろう。
 
 ところが(後で知ったのだが)、日本人鳥ガイドはモンゴル語ができるわけではなかった。4台の運転手のうち英語が話せるのは一人だけ。鳥ガイドは乗った車の運転手と言葉を交わしながら走っているのではなく、鳥を見つけると手で車を止めるように、徐行するように、右へ左へとジェスチャーで示して、移動している。あらかじめ現地ガイドと(同席して)目的地とか今日のルートなどを打ち合わせてから出発しているのであろう。だから臨機に鳥を追いかけたり、鳥ガイドの記憶と違う場所に来てしまうと、それを修正するのに手古摺っている。ただ、4台のお客に公平になるように、鳥を見つけたらまず先頭車両が止まる。そこへ、ほかの車両が頭をそろえる。そうしたところで車を降りて鳥を観るというマナーにしているから、末尾車両に乗る現地ガイドがつかず離れず動いてやりとりをする。つまりわりとうまく意気投合しているガイドチームというわけである。
 
 湿原のようなところでアカツクシガモを見つける。「繁殖地なんです」とガイド。サケイをみせたいと思っているようだ。あっ、あれだとガイドが指さす方を2羽の鳥が飛び去る。彼はそれをじいっと見ていて、そちらへ移動する。草むらを飛び交う小鳥がいる。望遠鏡(スコープ)を据えたガイドがさっとそれをとらえて、「はい、入っています。ハマヒバリです」と望遠鏡から身を離し、覗くように促す。ほかの客たちは銘々の望遠鏡をそちらの方に据えて、覗き込んでいる。双眼鏡だけの客がガイドの望遠鏡に目をあてる。望遠鏡を持ったカミサンも私に、ガイドがそうするから遠慮なくみせてもらったほうがいいとサジェストしていたから覗こうとするが、ほんとうに遠慮のない女性客がぱっと横から体で割り込んでくる。彼女らは鳥を観たい一心で、後ろに並んで待っている人のことなど、気にしていない。ガイドが右によけると左から身を寄せる。後ろに並んでいる私のことなど、見てもいない。そうして、「ほらっ、何々さん、ここにサバクヒタキが入っているわよ」と知り合いの女性客に声をかける。ときどき、長い列ができるとふと気づいたように席を譲ってくれるから、私もみることができるというわけだ。いやはや。結局私は、もっぱらカミサンがとらえたスコープでみることが多かった。というか、自分の双眼鏡でソレをとらえて、動きを観察する。キガシラセキレイは緑の草のあいだに黄色い上半身をヒョコヒョコと動かしながら歩いているのを見つけた。なんとも美しい。スコープにとらえたとカミサンがいうのをのぞき込む。30倍の迫力は、やはり間近で寄り添っていると思える。
 
 こうして場所を変え、まさに「探鳥」する。草原の中にぽつんと半ば崩れた石組み囲いが残っている。そこに近づいてガイドは、イワスズメの巣があると示す。出入りしているのが親鳥、岩の隙間に何かを咥えて入り込む。その岩の隙間を覗ける方向に立ち位置を変えて待っていると、雛の姿がときおりみえる。モウコアカモズ、イナバヒタキ、コヒバリ、マミジロタヒバリなど見ている人たちはどこがどう違うと評定しながら、「同定」している。私などは、ははあ、あれがヨーロッパアマツバメか、そう言われてみれば、腰が白くないねとか、そうかこれがサケイといって、先ほど飛んでい行ったやつなのか、という調子。アカマシコも、北海道でみたのとは違ってみるほど鮮烈な色合いで大きかった、という印象派に終始した。どの鳥も今が子育て。おおむねペアリングも抱卵も進行中。子育ての親鳥たちはときどき天敵を追い払うのに声を立てて騒いでいる。
 
 草原を走っているときに、ときどき車を止める。オオノスリが悠然と地面に降りて周りを見渡している。アネハヅルがいる! と誰かが、前の車の窓からガイドの指さす方向をみて声を立てる。2羽のツルが何かを啄ばみながら動いている。すると1羽が羽根を広げて飛び上がる。もう1羽がそちらを見て、素っ気ない。「求愛ダンスだ」とガイド。望遠鏡に入れてもらうと、草原の緑とマッチして、ツルの白がなかなか美しい。車を寄せる。と、ツルが背を向けて離れていく。「近づくのはここまでだね」とガイド。でも、カメラを抱えた客は、もっと向こうへ行こうとする。ツルはついに飛び立つ。間合いをはかるってこういうことだねと、私は思う。この後何度かアネハヅルの番を見かけたが、これから抱卵し、子育てを済ませて親子でヒマラヤを越えるのかと思うと、彼らも大変な事業を営んでいるんだなあと感心する。
 
 見上げると空に猛禽類が飛んでいる。トビもいたが、シロエリハゲワシにお目にかかった。チゴハヤブサやヤツガシラも目に留めた。
 
 あとで手に入れた南ゴビの地図を見ると、ダランザドガドは南ゴビの中央に峰を連ねる巨大な山脈の北部に位置する。つまり、その山脈の南部にまた広いゴビが広がっているのだ。私たちの宿営地(ツーリストキャンプ)は標高が1500mほどであったが、南ゴビの第二日は、その南西部標高2300mほどのヨリンアムに向かった。1時間半も車で走ると山岳地帯に入り込む。谷間を分け入るように走る道は、草原の道とちがってどこでも走れるわけではない。しっかりと林道の様子だ(といっても林があるわけではないが)。左右に立ちあがる山のほとんどは重畳たる岩ばかりだが、草もついてはいる。とこどこころに木立が生えている。灌木もある。谷間には水が流れ、目の粗い砂地になる。寒い。一日の寒暖の差が大きいというので、防寒の用意はしていたが、それを着こんでさらに雨着をつけて、やっと寒さをしのぐような冷え込み方だ。山の奥地へ入る途中で、岩山の断崖に巣をつくるチョウゲンボウをみつけた。車を止め望遠鏡で覗き込む。3羽の雛が餌をもらっている。帰りには別の場所でオオノスリの巣を見つけた。そこにも3羽の雛がいて、親鳥がとってきたウサギを腑分けして食べているのが見えた。ここも子育ての季節なのだ。
 
 午前9時。国立公園ヨリンアムの奥地へ、歩いて入る。別名「鷲の谷」と呼ばれている通り、さほど広くない谷の上空に、山の尾根を超えた猛禽類が舞う。昨日見たシロエリハゲワシ、ヒマラヤハゲワシ、イヌワシ、ワキスジハヤブサとみて、「おおっ、あれはヒゲワシです!」というガイドの声に見上げると、尾羽がたしかに楔形になった大きなワシが悠然と舞う。何度も、尾根を越えて消え、尾根を越えて姿を見せる。さらに奥へ詰めると、川の端に融けない雪渓が残っている。その向こうには谷を塞ぐように氷塊が川を覆っている。氷塊は薄くなり、いくつかに割れ、その下が空洞になったところもある。融け始めている氷河だという。公園入口の看板には大きな氷河の絵が描いてあった。私たちの入ってきた方向が来た、上流に当たるってわけだ。南へ流れ下る方に氷河がある。ヘンな感じはしたが、南ゴビの砂漠はさらに南部に広がっていると分かると腑に落ちる。
 
 観たのは猛禽類ばかりではない。昨日見た小鳥たちに加えて、キョンキョンと鳴くベニハシガラス、チャイロツバメ、コシジロイソヒヨドリ、シロビタイジョウビタキ、セグロサバクヒタキ、ユキスズメ、ウスヤマヒバリ、キバシヒワ、腰の周りがピンクをしたコウザンマシコ、モウコナキマシコなどを確認し、さらにカヤクグリに仲間だと思うが、あとで調べてお知らせしますというガイドもわからない一種を観た。ただ鳥を観るというのではない。子育てをしている鳥の生態を観察している。それを熟知してこそ、鳥影をわが目にとらえることが出来る、とひたすらなガイドを見ていてそう思った。そうそう、カッコウの声も聞いた。日本で聞くのと同じ鳴き声であった。(つづく)