参院選。「憲法改正」が焦点と言っている野党に対して、安倍首相は「景気回復=経済政策」で争っている。TVも新聞も「焦点のひとつに憲法改正」と報道している。たしかに安倍首相は衣の下の鎧を隠してはいない。選挙後には「憲法改正論議をする必要がある」と(「改正」を「論議」と)焦点をすり替える表現をしている。これはどういうことなのだろうか。報道は、憲法改正の世論調査を示し、「憲法改正を争点」にすると選挙に負けると読む。つまり安倍首相は、鎧の上に「景気回復」をかぶせて有権者の前に提示して見せる「修辞法」をもちいているのだ。
「修辞法」というと文章を飾る技。日本人は元来「じねん」が好きであるから、「飾る」作為には不純なものが混ざると考えて、これを嫌う。だがそれは、「修辞」をする人が嫌いと言うよりも、「飾る」ことに心惹かれて得心して仕舞う自分を(後で考えてみると)嫌いになるからである。騙されるように感じるのだ。だが「騙されている」のだろうか。「隠す」ことをいろんな場面で私たちはしている。そもそも本音を隠さないでは、他人と向き合っていけない。長年連れ添ったカミサンとだって打ち明けあっていないことがたくさんある。そもそも自分の何がホンネかも、自分にわからないことが多い。自分自身とうち融け合ってきたかというと、それも疑問だ。いつも自分の思いが移り変わる。ふと思ったことに、なんとも卑しい心象を感じて、いやだなあコイツと思うことがある。自分の中の他人(であったらどんなにいいことか)を発見するというと格好がいいが、気が塞ぐような思いをする。
だがそれを「政治的に」用いられると、この政治家は私を馬鹿にしていると思う。例えば、いまラジオを聴いていて自民党の参院選コマーシャルを初めて耳にしたのだが、安倍首相の「いま日本は前進しています。所得もよくなっています。景気は回復しているのです」と声が流れる。この、安倍総裁(自民党)は何を見ているのだろうか、と思う。「前進している」って、何が? 「所得が良くなっている」って、誰の? 経済指標を取り出して「前進している」というのなら、なぜ税率の引き上げを2年半も延期する判断をしたのか。全体の所得が前年よりも上向いているとしたら、よほど高所得の人たちがより多くをとり、低所得の人たちが低迷してより「格差」が広がっていることを意味する。としたら、所得の再配分を考えるのが政治の仕事ではないのか。政治家であり行政権を握っているあなた方とみている焦点が違うことを感じる。そこまで慮る前に、ウソも百篇繰り返せばホントウになるという「我が闘争」を想い起す。
これも「騙される」というが、私たちの「情報」の仕入れ方がその程度だということは、自覚していなくてはならない。つまり簡単に自分をも(いつ知らず)偽ってしまうのだ。情報化社会とは、その情報を読み取って価値判断をする次元において「社会的に有効な仕組み」を構築しなければ、誰もかれもが騙されてしまう社会だと言える。「社会的に有効な仕組み」とは、情報と価値をめぐって公に戦う/戦わせることである。選挙戦はそういう意味ではもっとも有効な議論の場になる。だが、「選挙後に論議する必要がある」という口上や野党から提案された「公開討論会」を断るというのは、そもそも「議論」をして有効な国民の判断の機会を提供しようと考えていない。
これはすなわち、安倍首相(を抱える自民党)ばかりか、日本のメディアも、庶民も、だれもかれもが一緒になって、「この程度」の国民性をかたちづくっているのである。自虐史観だなどと日本会議の人たちは戦後民主主義のサヨクの言説を批判するけれども、サヨクだけではない。日本会議の人たちも、同じように自らの言説を最善のこととして人々に押し付けているだけなのだ。ただその押し付け方が(安倍政権においては)、「情報操作」的に上手になり政治技術的に巧妙になり、論議の次元をすり替えたりして「修辞的に」達者になっているといえる。これは「人心操作」という「支配」の仕方であり、これが庶民の「程度」を底上げするわけではない。むしろ庶民は、「この程度」に据え置かれて、一向に鍛え上げられない。加えてエリートたちの資質も「この程度」にとどまってしまう。ここでエリートというのは、政治を主導する人たちであり、それを背景で支える実務的・知的グループであり、社会の論調を主導するマス・メディアの担い手たちである。相違いえば思い出した。2016年6月12日のこの欄で、「反面教師としての舛添さんとお金のモンダイ」を掲載した。その中で、舛添さんの首を獲れば舛添モンダイが終わるのではないかと「心配した」が、その後の経過をみると、その通りになった。舛添さんを反面教師にすることもできなかった。「その程度」の私たちだということを忘れてはならない。庶民だけじゃないよ。エリートも、政治家もメディアの人たちも、誰もかれもが。
そう言えばイギリスでも先週、EU離脱という国民投票の結果が出て、再投票が提案されたり、「離脱」に投票した人たちが今さらながらEUのことを「検索」したりして「後悔している」と報じられている。でもイギリスはたいしたものだと私は思う。そういう結果を自分たちが引き出したことを真面目に受け止めている。再投票をすることはないであろうが、これがイギリス国民の今後の投票行動にいい影響を与えることは疑えない。「それが民主主義だ」と私の(71年蓄積してきた)感覚が寿いでいる。間違ってもいい、それを一つひとつ心に留めて、修正していく。民主主義は成長し変化するものだと、戦後最初期の「民主主義教育」を受けてきた世代は体に刻んでいる。
ちょうど、71年前に敗戦を迎えて日本国民は、どれほどにEU離脱に投票したイギリス国民ほどに「後悔した」であろうか。社会の作り方が違うから、この部分だけ同じように取り出して比較しても仕方がないが、「一億総ざんげ」とそこまで一括されて「敗戦を陛下にお詫び申し上げた」とくくられると、そんなはずがあるかと言葉が口を突いて出る。軍属としてインドネシア戦線に従軍した私の父親も、戦後に(戦争のことについては)沈黙した。そうして公務員という職を放擲し小売商に徹すると、生き方を変えた。その後は基本的に(可能であるときには)弱いものに味方する道を貫いた。強者に対して基本的に反対する立場に立った。それを私は、彼なりの「戦争責任」の取り方と受け止めていた。
ちょうど、71年前に敗戦を迎えて日本国民は、どれほどにEU離脱に投票したイギリス国民ほどに「後悔した」であろうか。社会の作り方が違うから、この部分だけ同じように取り出して比較しても仕方がないが、「一億総ざんげ」とそこまで一括されて「敗戦を陛下にお詫び申し上げた」とくくられると、そんなはずがあるかと言葉が口を突いて出る。軍属としてインドネシア戦線に従軍した私の父親も、戦後に(戦争のことについては)沈黙した。そうして公務員という職を放擲し小売商に徹すると、生き方を変えた。その後は基本的に(可能であるときには)弱いものに味方する道を貫いた。強者に対して基本的に反対する立場に立った。それを私は、彼なりの「戦争責任」の取り方と受け止めていた。
戦中に生まれ、ものごころついたころに進駐軍の占領下で過ごした私たちは、昭和24年(1949年)に小学校に入って、謂わばまっさらの「日本国憲法」(の精神)を学んだ。それが日本占領の政治戦略にのっとっていたかどうかなどは、考える余地もないこと。ただ体感として、敗戦後の混沌の中で親の世代の振舞いを見ていて、(のちに)戦争に敗れるとはこういうことかと肝に銘じたし、親世代とは違った生き方を始めるのだという気概を身の裡に溜め始めていた(と振り返って思う)。
その親世代とは違った生き方というのが、「民主主義」と「平和主義」と「人権」であった。そういう意味では、戦後71年になって今の政権が最も変えたいと願っている「戦後思潮」の主たる担い手は、私たちの世代ではないか。とすると「この程度」の構築者でもあって、対外的には「腰抜け」の中心世代でもある。と同時に、日本の経済成長の主担い手でもあるから、良いも悪いもことは私たちの世代に発するとさえいる。
さて参院選。これがどうなるかに私はほとんど関心を失くしている。たぶん結果がどうなっても「後悔」もしない。シニカルになっているわけではない。世捨て人に近い気分だからともいえなくもない。だが、モンダイは今回の結果がどうということではなく、一つひとつの段階を、失敗をふくめてかみしめて、次に生かそうとする「民主主義」を体現しているかどうかである。そういう意味で、庶民を平然と操作している現在の政権を(世論調査の結果のように)歓迎するのかどうか。それだけはみておきたいと思っている。