mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

切口

2023-06-14 06:44:08 | 日記
 月に1回、「ささらほうさら」と名付けた老人会が再開されました。半世紀以上も付き合ってきた年寄りが、代わる代わる主題を持ったお喋りをし、それにかこつけて遣り取りすることで健康状態を推しはかるという7、80代の茶話会です。半世紀以上も付き合えば、「主題」と言っても大凡のことは判ってしまうから「ひねり」が入ります。あるいは生のままの話に「ひねり」を加えて読み取るという業をつかって私は、嗚呼、今月も面白かったと、胸中で自己活性化を図っています。
 コロナ禍で久しく中断していた「ささらほうさら」が4月に再開され、作家・鈴木正興が、その畢生の作品『郁之亮御江戸遊學始末録』の「後始末記」を原稿用紙57枚に書き記して配り、畢生の作品に関する「書評」の数々を紹介すると共に、自身の畢生の技「文遁の術」をゲロしてしまうという、何ともいかがわしくも面白い展開を見せました。
 これがワタシの自己活性化を刺激し、この人の存在がワタシにとって如何なるものであったかを反省通覧せしめることになりました。それは「ささらほうさらの源流」として、当ブログ紙上にすでに公表したものです。アナログ育ちの井戸から一歩も出ていないこの作家にも読んで貰いたいと、一月後、「ささらほうさら・無冠」5月号としてお配りしました。それを目にした、やはり半世紀来お付き合いのある読書人から、こんなメールが届けられました。
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 無冠・2023.5.18号、到着いたしました。いつも有難うございました。正興氏の話どれもまことに面白い話でしたが、それ以上に「突出した癖の強い思想家」氏への率直な批評に驚きました。多くのことを想起しました。/いろんなときの「思想家」氏を思い出しました。『自立の思想的拠点』も読み返しました。たまたま先日新本(鶴見俊輔と合冊)を買ったばかりでした。私もこの本に「支えられて」きました。それにしても読む所が違うんだな思いましたがこれも大いに有意義なことでした。御稿は私にとって久しぶりに出会った思想的事件となりました。多くの感慨が引き起こされました。2023.5.25. 川***
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【私の返信】
 今日までパソコンが故障して修理に出していたため、あなたのメールを読むのが今日になってしまいました。ご返事が遅くなりました。「思想的事件」なんて大袈裟な。でも、心中深くで受け止めてくださり、ありがとうございます。/たまたま正興さんの「後始末記」が、私に関しては「弔辞」のような趣でした。それに刺激されて「ささらほうさらの源流」という形で、「異議あり!」のアクションがどのようなモメントで動いていたのかを、私の視点で振り返る機会になりました。/私ばかりでなく、ほかの方々が、それぞれの視線で「癖の強い思想家」に刺激を受けて動いていました。今日のささらほうさらの会でも、講師のガクさんがみる「夢断章」の中に「癖の強い思想家」氏が何度も顔を出して、「旧交を温めて」いるようです。「異議あり!」において、例えば事務職のガクさんやアキラさんが、どのような受け止め方をしていたのか、なぜその後も固有の位置付き方をして「異議あり!」を支えてきたのかと考えたとき、この「思想家」氏のモメントだけでは続かなかったと思うのです。正興さんの位置付き方、公団職員であったリキさんとか、実習助手のカマちゃんが、どう固有の位置を占めたか、なぜそうすることができたか。そうしたことは、運動論としても興味深いものがあります。/「思想」などよりも、「躰に聞け」という発想とか、ソフトボールやチンチロリンや麻雀をやる遊びのセンスが、「思想」の次元を観念から身体へ向かわせ、心身一如の境地を生み出していたと私は思っています。/機会あれば、あなたの思う所と言葉を交わしたいですね。たったいま、パソコンが直ったばかり。メール第一号です。/追伸:「それにしても読む所が違うんだな思いました」は、ワタシの傾きを指摘されていると思います。もう八十路になって読んだ本のことを思い起こすとき、こりゃあ「偏見・誤読だよ」といわれるほど自儘に傾きをつけても、許してもらえるだろうと思って振る舞っています。努々(ゆめゆめ)、検証などなさいませぬように。笑い飛ばしてください。2023-06-09 無冠亭敏明
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 そう書いた返信を6月号の「ささらほうさら・無冠」に掲載しながら、「さらに追伸」を付け加えて「主題」の自己活性化を推し進めています。
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「思想的事件」という読み取り方をして下さる方がいて、あの一文が「思想的」になります。実名や筆名で表現せず「突出した癖の強い思想家」と切口で言葉にしたのは、プライバシーに配慮したとか流言蜚語に気を配ったというのではありません。「ささらほうさらの源流」のモメントを取り出して彼の人の位置付き方を読み取るとソコかな、と。身近にいると振る舞いの一つひとつが臭いを発し違和感を増幅させます。切口というのは夜目遠目傘の内の断片。市井の庶民、門前の小僧はそうでもしなければ何もかもが混ぜこぜになって「ささらほうさら」になります。源流を見ざるべからず、です。