mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

正しさの証明

2023-06-24 09:34:58 | 日記
 80代半ばの知人が裁判を起こすという。えっ、どうして? 何があったの?
 話を聞いて驚いた。交通事故の始末について疑念が起こったから、という。起きたことは大雑把に言うとこういうことだった。
 首都高速を走っていて、車線を変更しようとして、後ろから来た車と接触した。知人は、明らかに後方確認が甘かったと、自分の非を認めている。自分の車はリッターカーの乗用車。相手はアウディの高級車。アウディの後方ボディにかすり傷、自分の車両も前方に傷が付いた程度であった。アウディを運転していた女性は、事故後テキパキと電話で連絡を取り、警察にも報せ、その動きは見事であったと知人は感心していた。
 どちらにも搭載していた車載カメラが事態を記録していて、その画像は警察だけでなく、加害者、被害者にも渡され、争うことなく処理が進んでいった。たまたまおなじ保険会社だったこともあり、すべて保険金で始末できることになって一件落着となるかに見えた。
 だが、ひとつの細部に知人は違和感を感じた。頸椎損傷という医師の診断が出たというのだ。
 画像を見ても、実際の車両の損傷をみても、所謂むち打ちのような身体に障害を与える衝撃があったと思えない。それを警察で口にすると、警察官は(それはそうですがと共感を示しながらも)「診断書がでてますからねえ」と、問題にならないというスタンス。アウディに同乗していた女性の子どもにも頸椎損傷の診断書が添えられていたという。
 この知人は現役時代に技術系の仕事に就いていて、いまでも80代半ばというのにデジタル機器を使い回し、スキーや野鳥観察に飛び歩き、日焼けした健康な姿をみせている。今風の時代に存分に適応している闊達な方である。車両の衝突とそれが及ぼす被害についても知見がないわけではない。その彼の感覚器官が違和感を感じた。えっ、それってほんとう? と。
 そう思った彼は千葉県に衝突とその衝撃を測定する機関があることをネットで調べ、問い合わせた。そこは、しかし、裁判所などの公的機関の要請であればお応えできるが、個人の問い合わせには応じられないとの返事。むろん、彼の疑問が解けようが解けまいが、保険会社の補償に自己負担が生じるわけではない。ま、そんなものかと放っておけば、コトは片付く。
 だが、彼はそれを裁判に持ち込むという。ただ一点、衝突の衝撃に頸椎損傷に至るほどの力が働くのかという直感的な疑念を晴らすために。
  話を聞いたご近所の同席者がいろいろとサジェストする。裁判費用は,もちろん持ち出し。敗訴すれば相手の費やした費用も原告側の負担になる。
 いくらくらいかかるかね。
 何百万という単位じゃないか。
 いいんだ、どうせ財産なんて残してもしょうがないんだからと、何年か前に奥さんを亡くした彼は、金銭的なことを気にしていない。むしろこの新しい「発見」を探求することに意欲が湧いているって感じである。
 そうか、こういう身の裡の好奇心が蠢いて彼の前向きの日々が紡がれているのか。そう思った。
 ご近所サジェストのひとつ。衝突の衝撃という理化学的な解析と警察の判断とは必ずしも連動しない。医師の診断書という決め手を覆す社会的な動機を警察も持っていない。司法もそうかもしれない。保険会社は最初の判断を護るために力を尽くすだろうし、医師はむろん診断を疑われて黙っているはずがない。しかも、こちら知人は加害者だ。当然のように被害者に同情的になる世論も、向こうさんに味方するであろう。よした方がいいよと、裁判に持ち込むのを止めることに傾いた。だが知人は、自分の疑いを明らかにしたいという衝動を抑えられないようだった。
 アウディはその女性の勤め先の社有車。ひょっとすると、女性が事故後電話をした相手は会社の弁護士だったのかもしれない。その指示に従って、警察に電話をし、コトをテキパキと処理したのかもしれないと推測される。医師の診断も、たぶん会社の弁護士の指示に従って機能的にテキパキと進めたのであろう。そうして交通事故につきものの事後処理の工程がテキパキと進行し、会社の指定する医師も、こういうときの「習い」に従って過大に症状を受け止め、もっとも保険処理の最高額に近い慰謝料などを手にする。もちろん運転者の女性に.何か下心があったり悪意があるわけではない。事故のことはすぐにでも忘れた日常を取り戻しているであろう。
 ふとワタシの頭に浮かんだイメージは、何年か前の池袋の暴走事故。母子二人が死亡した。当時上級国民と揶揄された高齢運転者が、頑としてブレーキとアクセルの踏み間違いを認めず、実刑判決にまでなったケース。もちろん今回の知人のケースとは異なるが、理化学的な「真理」を見極めたいという動機が、世論という情報処理の色づけにどれほどの力になるか、ワカラナイと思った。「交通事故の衝突衝撃の身体に及ぼす影響について」という論文を書くのならまだしも、保険会社に代わって民事訴訟を起こしても、獲得する金銭的損失はせいぜい、今後の保険金の金額くらいのものだ。とうてい百万単位の訴訟費用とは比較にならない。今の社会は、金銭に換算できるコトには敏感に反応するが、「真理」を探求する場ではない。なんだか、ずいぶんつまらない裁判の遣り取りになるのではないか。
 もしこれをきっかけに,司法とか事故処理の行政とか、それにまつわる保険会社や医療態勢の「腐敗」を書き留めようというのなら、それはそれでオモシロイかもしれない。あるいはこれをもとにして、社会派のドラマを一本書き上げるのなら、取材源として力を入れるのも、よくわかる。でもねえ、そういう風にいくかね。
 一度、相手側になって考えてみる。被害者は子ども連れの女性。むち打ち症で苦しんでいる。あるいは苦しまないまでも、衝突時の恐怖に悪夢にうなされる子どもをイメージするだけで、世間の同情は集まる。しかも、この加害者は裁判によって、何の得もしない。なのに、なぜ訴えるのよ。更に余計な負担を被害者に強いて苦しめるとメディアに載せれば、簡単に世論誘導はできる。裁判も有利に運べる。
 裁判は「真理探究」の機関ではないのだね。日々生起する猥雑な社会的揉め事を始末するのに大わらわなんだから、個人的な好奇心を満たすような「趣味のお遊び」は持ち込まないでよと、裁判官も思うかもしれない。
 正しさの証明は、庶民には開かれていない。ひょっとしたら、何百万円かの裁判費用を,先の千葉県にある機関に「衝突の衝撃が身体に及ぼす影響」研究の費用として寄付して、今回の画像を提供して、シミュレーションして貰うような方が、直に「正しさ」が証されていいんじゃないかね。
 さあ、どうする? 振り上げた手を、何処へ持っていくか。思案を勧めたくなってきた。