mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

心を偽って生きる大人

2015-02-28 10:10:47 | 日記

 昨日の新聞に、映画になった『ソロモンの偽証』(原作:宮部みゆき)の「公開記念・特別討論会」という広告が載っている。「議題」は「なぜ大人は嘘をつくのか?」。子どもの側から、出演女優の藤野涼子が「真実をより求めたくなるのは子供の方が真実に敏感だから」と見出しに掲げ、大人の側には、作家の高橋源一郎が「心を偽って生きている大人ほど物事を曖昧に穏便に済ませる」と応じた見出しにしている。

 

 高橋源一郎らしからぬものの言い方である。もっとも、広告制作者の見方が介在するから、このような表現になっているのかもしれない。小さな文字の本文を読めばそのあたりはほぐれるかもしれないが、それをはっきりさせたいのではないから、私は本文を読まない。なぜ「高橋源一郎らしからぬ」なのか。この文言は子ども(対談相手)に阿諛している。高橋源一郎は「心を偽って生きる大人」という白黒分けた物言いをしない人だと私は思ってきたからである。むしろ、「子供の方が真実に敏感だから」という言い方に、そうか? と疑問をつきつけるのを情動としてきた(と私は見てきた)。

 

 宮部の原作はよくできている。私は昨年の1月2日のブログにこう記している。

 

《取り上げられる「世界」の生きにくさ、「すれ違い」に気づかないことが生み出す「かんけいの暴力性」、社会システムと個別性の折り合いのつけ方が不定形である中学生の思い描く「正義」や「真実」の比重が、あたかもアインシュタインの相対性理論のように空間の歪みを生み出し、「かかわり」によって引き合ったり反発したり衝突する「場」が、時代の(人間の)問題性を掬い採っていて、読む者にリアリティを感じさせる。読みつつ考えさせる衝迫力をもっている。》

 

 ほぼベタ褒め、である。いまでもこの印象は変わらない。つまり宮部もまた、藤野涼子のような、ここに表出された高橋源一郎のような、単純明快な人間のとらえ方をしていない。人間のとらえ方についていえば、一昨日「大雑把に言えば、8割の子どもたちは(つまり、すべての子どもたちの8割部分は)、何とか現代社会に適応していこうとそれなりに力を尽くしている」と本欄に記したことに関わっている。このなかの「( )の部分はどういうこと?」とある読者から質問があった。

 

 たとえば何か残虐な出来事があったときに、そこに(関心の)焦点が当たるのは致し方ない。しかしそのとき、「こんなヤツがいるんだ、バカめ!」とか「ヒデエな!」思うのが人の常である。だがそう感想したとき、人は自分がそのようなことをするとか、そのようなことをするのと同じ感性を自分は持っていないと、みずからを棚上げしている。客観的に見るとか他人事とみるというのは、自分の内面を通過させないで事態をとらえ、その結果、自分をそうでない側に位置づけて、我が身を安心させているにすぎないのだ。ヘイトスピーチというのも、その表れである。嘘をつくのも身を守る手立てなのであろう。

 

 自分の内面を通過させるというのは、それまで気付かなかったが、自分の内面にもそれと同じ「バカめ」なことや「ヒデエな」なことが潜んでいると受け止めて、そこからモノゴトを見据えはじめるることを言う。若いうちは、それがなかなかできない。なぜなら、混沌の中から世界を取り出している最中なのだから。彼または彼女が「世界」と思ってみている外部は、じつは自らの「内部」にほかならない。それが混沌であることに耐えられないのは、混沌の世界の一部にはじめて分節化して名前を付け、それを外部と認識することによって、じつは自分の内部を世界から分かつようにして認識しているからである。親から切り離され、自生集団や地域から自らを疎外し、社会や大人と距離を置くことによって、いわば、自我の形成途上にある。藤野涼子が「真実をより求めたくなる」というのは、モノゴトに名づけをはじめたときの、世界の地平線が見えないときの、感覚である。そしてそれを「子供の方が真実に敏感」と、大人と対比し大人を足蹴にすることによって、大人の庇護下から自律しはじめていることを宣言しているのである。だがそれは、世界をとらえている姿ではない。やっと世界をとらえはじめる緒についただけなのだ。

 

 世界を鏡にして自らの内面をみるということは、そろそろ自律しようという年齢になって、はて、これまで(いつしか)身に着けてきている「私の感覚・観念/ことば」というものは、いったい何に根拠をおいているのであろうか、と考えるようになってからのことである。それを吟味しはじめると、たちどころに、「私」というものが自分のものではなく、社会的な「かんけい」的存在であることに気づく。そのとき私たちの内部に働くのは、あくまでも「私の直感・実感・思索」に「実体」的にこだわって「私」を概念化しようとするか、「かんけい」的存在であることを受け入れて、みずからの変容の幅をみてとるか、そういう内面作用である。

 

 「かんけい」的存在であることを受け入れるとき、自分が今は感じていないコトゴトも、社会的な出来事を通じて出来したときに、そういう一面が自らにも潜んでいる(かもしれない)と関知する。残虐な感性や思索、ふるまいも、いまは単に(自分がおかれてきた)社会関係において抑えられてきているだけで、自らが持っていないのではない(したがって、いつか何かの折に噴出するかもしれない)とみることによって、他者に対する共感性も寛容性も高まる。高橋源一郎が謂う「大人ほど物事を曖昧に穏便に済ませる」というのは、(いつか起こるかもしれない)我が身の痛みとして(事態を)受け止めたもののありようを言い当てたものとみることができる。

 

 それが日本的な特徴かどうかは分からないが、山本七平が指摘したように、単純素朴であり実直であり、清廉潔白であり、邪心がなく明快であることを須らく良しとする日本人の感性・感覚は、地政学的な環境条件の中で長く暮らしてきたことが育てたものであろう。それを一概に劣ったものと指弾するよりも、そうした地政学的環境条件に恵まれてきたことに、まず私は、感謝したいと思う。あるいはまた、理屈よりも情緒を重んじ、タテマエをそれとして奉りつつどこかで軽侮して、ホンネを保ってきた世俗のやり方を、案外賢明な処世法とも思っている。

 

 その結果、概念的にモノゴトをとらえるという人の「(理性的といわれる)真実」のかたちよりは、社会や人と人とのかんけいが曖昧であったり、アンビバレンツであったり、白黒つかずグレーであると、まずみること。自分をその中に参入していること。といってそれを良しとするのでもなく、具体的な関係において一歩一歩踏み歩いて、変えて行くこと。そう考えるのが、社会構成法として、いま一番必要とされていることではないか。たとえ理非曲直をわきまえても、直ちに非が正せるかどうかを、経験則的にゆるりと思案して行こうと思ったりしている。


「道徳教育」は学校のワークショップで

2015-02-26 16:38:46 | 日記

 昨日(2/25)の朝日新聞の「教育」欄は、《道徳で「愛国心」どう考える》と題して、2人の若い大学教師に書かせている。2人とも、1963年、1965年生まれと、私よりいわば、ひと世代若い。思えば1958年、私が高校1年の時、私の高校が「道徳教育」の研究校になっていた。京都大学を出た社会科の教師が熱弁をふるっていたのを思い出すが、憶えているのは西洋哲学史の概論であったことだ。だから「道徳の授業」とは思わなかったが、当時の新聞紙面などで、やかましくやりとりされていたことは印象に残っている。安保改定が俎上に上がりはじめていた。日教組は勤務評定をめぐって大騒ぎの渦中にあった、エネルギー転換にまつわる炭鉱争議が激しくなりはじめていた。今から考えると、社会主義と資本主義の激しいイデオロギー的な応酬に終始していたように思う。だが同時にそれは(今、その根っこを探り当てると)、近代産業社会化が果たして幸せなことなのかと、問うてもいたように思う。そして、思う。昨日の紙面のお二人の記述も、そのときのレベルとあまり変わらないのではないか、と。

 

 大森直樹(東京学芸大学准教授)は、1958年の「道徳の時間」以降の動きを戦前の「修身の復活」とみている。2006年の教育基本法の改定によって愛国心規定が盛り込まれたことも視野に入れて、「愛国心の押し付け」とみる。
 それに対して貝塚茂樹(武蔵野大学教授)は、外国人との接触が日常化してきている今日、「愛国心だけを切り離して問題視するべきではない」、それを取り扱うのは「自然な形だろう」と展開し「政権が価値を押し付けるというのは誤解だ」という。

 

 つまりお二人とも、「押し付け」はいけないと、やり取りの出発点を設定している。だがそうか?

 

 大森は《愛国心を含め、道徳性とは本来、生活や仕事に専心する中で自然に培われるものであって、国が求めるものではない》と、これまた「自然」を当然視している。海に守られた島国に暮らし、見慣れた顔ばかりの古里に育まれて、皆同じと考えていて不思議のない共同体に育ったのとは、すっかり時代が違っている。隣は何をする人ぞとばかり、我関せず焉の個人主義が蔓延している今の時代に、「自然に」愛国心が育つ(べし)というのは、育たなくてもよいというのと同じである。つまり(私を含む)人々は、自分の都合のよいときには「愛国心」を利用するし、都合が悪いときは知らんふりをする。別に日本という国に忠誠を尽くすなどとは考えないが、それが自分の鬱屈を晴らすにふさわしいと思えば、「希望は戦争」と口にするのが「愛国心」というナショナリズムの本態だ。

 

 貝塚も《都合のいいことも悪いことも含めて国家に向き合い、よりよい関係を考えなければ議論は前に進まない》と、「愛国心」を概念的に戦前の愛国心と同じとみなさないで、もう一歩踏み込んで考える地点に来ているのではないかと、問題提起している。それなら「自然な形」といわないで、アメリカのような「意志的な愛国心」への道を拓くべきではないか。「意志的な愛国心」というのは、「(愛国心の)あらまほしきかたち」の提示である。学校教育を通じて提示するというとき、「社会」が提示するのか「国家」が提示するのか、論議は、まず別れる。これまでのやりとりは、ほとんどこの二つを区別していない。現在の教育制度上、学校教育の本体は地方行政府にある。とすると「社会」が教育しているように見える。だが本態は文科省が「指導」という名の規制をしている。全国一律ということばも、響きがよく用いられるところから考えると、「国家」が教育している。

 

 貝塚は「政権が価値を押し付けるというのは誤解だ」と、なぜか政権の中枢にあるかのような「弁明」をしているが、「国家」が教育していると考えているのであろう。となると、「あらまほしき愛国心」の提示は、現実態としては「押し付け」であると考えねばならない。むろん「社会」であろうと「国家」であろうと、大人が子どもに押し付けることに変わりはないが、地方行政府が担うこととなると、その地方行政府の数だけ違いが生じる。大人の多様性が「愛国心」の多様性を生む。多様性というのは「幅」であり、大いに異論を含みこむ。その多様性を考えると、一律に「押し付け」とひとくくりにするのは乱暴ともいえる。

 

 さてそれでも、「愛国心」を「自然」に育むと考えるのは、その根底に長く「愛郷心」が横たわってきたからであった。「愛郷心」というとすぐにパトリオットを思い出すかもしれないが、(たぶん)少しずれる。私が考えている「愛郷心」とは体に刻まれた「かんけい」への愛おしさ/憎らしさの、アンビバレンツな感情である。単に生まれ育った土地に対する記憶ではない。「懐かしい/厭わしい」と思い「うつくしい/けがらわしい」と感じ「愛しい/憎らしい」と受け止めることごとが「愛郷心」の骨格をなしている。それは肯定的感情ばかりではない、生まれ育った共同的関係への実感であって、直ちに「国家」への愛情にはつながらない。まして近代国家であってみれば、異質な市民が寄り集まって構成している社会関係の上に立っているのであるから、「愛郷心」もまた、遠近・濃淡・深浅が異なると想定しなければならない。

 

 にもかかわらず、ともに支える「国家」というアイデンティティを共有するには、「懐かしいふるさと」的な「愛郷心」ではない「共同幻想/フィクション」をもたなければならない。それは何か。アメリカのような「建国の理念」を、いまさらながら仕立て上げるわけにもいくまい。かといって、第二次大戦ですっかり火を消してしまった「国体」を持ち出すのは、時代錯誤もいいところだ。とは言え、高度消費社会の前に風前の灯火となっている「(昔ながらの)共同性」に、火吹き竹で風を送ってもう一度燃え上がらせようというのも、滑稽である。私たちは諦めるしか道がないのであろうか。

 

 道がないのかと思うのは、高度消費社会になっていくにしたがって、すっかり社会的な共同性を壊してしまったように思うからだ。経済は河の流れのようなもの、私たちは船に乗って向こう岸を目指していたはずなのが、いつしか船を操ることばかりに夢中になり、何処へ向かっているのかを忘れてしまうような社会に暮らしている。人は自己責任で生きることになり、社会に共有する規範が見えなくなって行っているように思える。

 

 それでも、社会的に共通する身体の記憶には、まだまだ捨てがたいものがあると、学校の現場にいた私は、経験則的に思っている。大雑把に言えば、8割の子どもたちは(つまり、すべての子どもたちの8割部分は)、何とか現代社会に適応していこうとそれなりに力を尽くしている。あとの2割部分が、これまでの社会にあっては思いもよらない振る舞いに向かっている。その8割部分は、累々と蓄積してきた戦後過程を含む社会が伝統的に受け継いできたものです。文科省の指導要領に記されている、言葉になった「徳目」や価値ではなく、人と人とのかかわりにおいて小さな日常社会の場面場面で親から子に、大人から子供へと受け継がれてきている立ち居振る舞いの所作や「かんけい」構成である。身体の記憶というのは、それである。つまり日本では、アメリカのような「理念」を立てて共有するということはしないが、暮らしの中で堆積してきた身体の記憶に、しっかりとした土壌が培われてきている。

 

 そしてこれに対する安心感や安定感、つまり「信頼感」こそが、「道徳」のベースになることであり、その「信頼感」こそが共有することのできるアイデンティティとして、「愛郷心」の土台を構成するものなのである。となると、「理念」的な構築はさておいても、今の時代にふさわしい立ち居振る舞いと「かんけい」構成の、日常的な展開こそが、学校においても社会においても(意識的に)再生されなければならないことではないだろうか。

 

 文科省は、教室で言葉を介して「教える」ことばかりを思案している。だが、現実の学校現場では、教師が言葉を通じて教えることよりも、立ち居振る舞いを通じて薫陶を垂れることの方が、圧倒的にちからをもつ。学校の教師は、現実社会に適応できなくてダメだとよく言われるが、だからこそ伝承している振る舞い方をもっている。そこに12年間暮らす生徒たちは、良くも悪くも、それなりに有用な社会的規範を体に刻んでいるのである。だから教師は、「生活指導」とか行事とかを通じて生徒らが具体的に関わり合う公的空間に目を留め、「評価」などはどちらでもいいと言えるほど、指導に力を入れる。

 

 この次元からの「道徳」と「人と人とのかんけい」の構築法を、体得させたいと思うのだが、そんな次元の論議は、学者さんにも(新聞記者にも)見えないのかもしれない。


うつくしいという普遍性

2015-02-25 11:13:40 | 日記

 「花の供養」を書き記したあと、はて、我が弟の拾おうとしていた「花」とはなんであったろうかと、ふと思った。水俣病患者のきよ子さんが「ありゃ、何のつもりじゃったろうか、散り敷いとる花の上に坐って、桜の花びらば、いちまいいちまい、拾いよりましたがな、片っぽの手のくぼに」という所作は、我が弟が出版という「散り敷いた花の上に坐って」、書物をつくり世に送り出すという「桜の花びらば、一枚一枚、拾いよりました」振る舞いと同じではなかったか。彼はそれを41年間続けてきた。

 

 それは、本を出すことで拾いきれることだったろうか。彼の求めた「花」は、弟の関心世界にかかわるライターの書き記したこと、伝えるイメージを収めようと暗い雪の藪山を登って撮ったカメラマンの写真、デザイナーの表した形、厳しい色合わせに何度も刷り直し、紙質に対する注文に応じて手を加えてくれた印刷業者の工夫、あるいはアウトドアにおけるアクションなどの向こうにある、目に見えない「何か」だったのではないか。人の思いかもしれない、イメージかもしれない、思想かもしれない、校正や印刷、製紙作業という丁寧な行為そのもののもっている「確かさ」かもしれない。人と人がかかわるときにもつ、ぶつかり合い、影響し合って変容する、揺蕩うような相互性、「かんけい」。言葉にすると薄っぺらでウソになってしまうようなコト。つまり、存在しているという「人と人とのかんけい」そのものを、拾おうとしていたのではないか。

 

 だからそれは、いちまい「片っぽの手のくぼに」拾うと「手のふるえてかなわんですけん、ようと、拾えまっせん。拾いこぼし、拾いこぼし、そげんしていつまっでんやりよりました」ように、手に取ったと思った瞬間に、消えてしまう。人が為す振舞いのひとつひとつを、決して実体として留めることなく、しかしたしかにそこに所在し、拾っていたと(記し置く人に)思いが残る「かんけい」ではないか。私たちはきよ子さんのように、わが振る舞いはあるがままに捨て置いて日々を過ごしている。自分の顔を自らジカに見ることができないように、わが生きるさまは自らジカにみることはできない。何かに映して、つまり何かを介在させてはじめて、かろうじて目にしていると思い込むばかりにすぎない。介在しているのが「人と人とのかんけい」である。

 

 きよ子さんの所作は、はっとさせられるほど胸を撃つ。うつくしい。と同時に、哀しい。大野晋は「うつく・し【美し・愛し】」の「解説」を次のように書き出している。

 

 《親子の間の(主に親から子への)、また夫婦、恋人の間の肉親的な非常に親密な感情をいうのが、もっとも古い意味。……仁・慈・恵・愛の行為をする意。……中世に入ると、美しい、きれいだの一般的な意でも用いられるようになる。》(『古典基礎語辞典』、角川学芸出版)

 

 「いや、世間の方々に、桜の時期に、花びらば一枚、きよ子のかわりに、拾うてやっては下さいませんでしょう」という(きよ子さんの)母親の石牟礼道子に託すことばに、人が生きることを慈しむ万感の思いがこもる。それを私は「うつくしい」と感じた。弟が拾おうとしていたことは《存在しているという「人と人とのかんけい」そのもの》だとすると、それこそが人が生きるすべてであり、しかもそれは、拾ったと思う間もなく拾いこぼしてしまうものであり、それゆえに哀切である。とすると、弟ばかりか私は、では、それらをどう拾っているか。拾いこぼしているか。それをどう(伝えてくださいと)誰に「託して」いるか。そんな問いが、私に向けられていることに気づく。

 

 きよ子さんの振る舞いが両親の言葉を通して、母親の託する振舞いを通して、石牟礼道子に記し置かれることによって、その文章を引用した書物を通して、私のところに届いた。私はきよ子さんの所作をうつくしいと感じた。きよ子さんは、そのようにして普遍化した。

 

 私たちは不変のために生きているわけではない。まさにそれぞれの個別性を生きている。そこに普遍を感じとり、「わがこと」として受け止める他者がいることによって、個別性は普遍性に転轍される。ただそれだけのことだ。普遍が優れているわけではない。個別性が、個別性のままに埋もれることがあろうとも、私たちはそのように存在し、そのように生きていっている。それだけのことだ。その事実に目をつぶらなければ、「人と人とのかんけい」を丁寧に生き抜く、それに勝る生き方はない。 


弟65歳の「花の供養」

2015-02-23 14:10:47 | 日記

 ある本を読んでいたら、石牟礼道子の記した水俣病患者の娘をもつ両親の言葉が心に留まった。

 

《(病状が進行して)腰が曲がらん前、桜の咲きました。もうものもいいきらんようになっとりましたけれども、庭にすべり出て、ありゃ、何のつもりじゃったろうか、散り敷いとる花の上に坐って、桜の花びらば、いちまいいちまい、拾いよりましたがな、片っぽの手のくぼに。
 手のふるえてかなわんですけん、ようと、拾えまっせん。拾いこぼし、拾いこぼし、そげんしていつまっでんやりよりました。片っぽのてのくぼに、ためるわけでしょうが、たまらんとですたい。手のふるえますけん。やせこけて、わが頭もかかえきらんとごたる頸しとって。》

 

  両親の目に留まったこの娘(きよ子)の一瞬の所作が、私の胸を衝いた。この「母親から託された、あることにふれる」として(石牟礼道子が)以下のように記している。

 

《何の恨みも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった一枚の桜の花びらば拾うのが、望みでした。それであたなにお願いですが、文(ふみ)ば、チッソの方々に、書いてくださいませんか。いや、世間の方々に、桜の時期に、花びらば一枚、きよ子のかわりに、拾うてやっては下さいませんでしょうか。花の供養に。》

 

 娘の所作が母親の言葉を介して、一挙に、人が生きることのすべてを含む意味へと、転轍されている。常軌を逸した様を「あやしうこそものぐるおしけれ」と古語に表現するけれども、正気でない様において瞬時に切り拓いて見せる地平に、「人が生きることのすべてを含む意味」が読み取れる。《桜の時期に、花びらば一枚、きよ子のかわりに、拾うてやっては下さいませんでしょうか》という母親の願いにこそ、人が連綿と受け継いできた人生への哀惜が(万感)込められる。

 

 今日2/23は、末弟Jの生誕65年の日。昨年4月9日に亡くなったとき、Jの奥さんが涙ながらに聞かせてくれた話を思い出す。Jは術後退院してから体調の回復をことのほか順調と感じていたらしく、この日病院に検査予約が入っている奥さんを「僕は大丈夫だから、行っておいで」と送り出し、帰宅してみると、すでに絶命していたのであった。

 

 寝ても覚めても会社経営のことばかりを考え、前のめりに「次の一歩」を構想していたJは、痛みと衰弱で水も喉を通らないようであった状態が手術によって改善され、「医者は余命半年なんて言うけれども、死ぬ気がしない」と私に話せるようにもなっていた。(たとえ余命半年であっても)その間に何ができるかをイメージしているだけで、Jは幸せであったに違いない。

 

 遺体が検死を受けて帰宅する、受け容れ準備をしていた奥さんが、あとで気づいた。ベランダにはディレクターズ・チェアが引き出され、タバコの吸い殻が落ちていた。陽ざしの暖かい日であった。何棟かあるマンションの敷地の周囲には満開の桜が咲き誇っている。12階の南向きの広いベランダに延べたディレクターズ・チェアに身を委ねたJが、癌の診断以来やめていたタバコを取り出して、煙をくゆらす姿が目に浮かぶ。奥さんは「血流を妨げるからタバコはダメって、いってたのに、もうっ!」と涙目で怒っていたが、一服をすうっと吸い込む瞬間のJの姿が、手のひらに桜の花びらを拾うきよ子さんの所作と重なってくる。さすがに「皆さん一服してやって下さい、タバコの供養に」とは言えないが、「花の供養」と娘さんの死とを重ね合わせて哀惜の思いを、「いや、世間の方々に」と風に乗せたみごとさに、胸を衝かれ、Jの感触が浮かんだ。

 

 私はまだ、Jへの哀惜の思いを風に乗せる言葉を知らない。いつかその言葉が見つかるかどうかも、わからない。だが、《花びらば一枚、きよ子のかわりに、拾うてやっては下さいませんでしょうか》と言葉にすることが「供養」になることを、知った。こうしてJは私に寄り添い、65歳の誕生日を迎えたのだ。このあとも、ともに年を取るに違いない。


疲れを感じない――もう十分老境なのか

2015-02-22 09:38:30 | 日記

 先々週月曜日に鹿沼市の三峰山に行った。朝6時半に家を出て、雪のついた山を歩き12時過ぎに下山、2時には帰宅した。ほとんど疲れを感じなかった。調子がいいのだ、と思った。火曜日、水曜日と日が経つと、また山へ行ってみようかという気になった。そこで金曜日に、足利市の最高峰・仙人が岳に向かった。8時には歩き始め、5時間ほどのコースであったが、12時過ぎには出発点に戻り、やはり2時には帰宅していた。この日も快調、週に2回の山歩きも悪くないとブログには記していた。

 

 ところが、翌日に少し太ももに張りを感じた。翌々日の日曜日に浦和までコーヒーを買いに歩いたとき、腰に少しばかり不安定なしこりを感じた。週に2回山を歩くというのは、ちょっと早計かもしれない。なにより、良く考えてみると、睡眠時間が長くなっている。ほぼ毎晩9時には就寝し朝5時に起きているが、山から帰った日の翌日は6時過ぎとか7時ころまで寝床にいる。一度5時ころに目が覚めるが、うとうとしているとたちまち時間がたってしまっている。9時間から10時間、寝ていることになる。

 

 そうして先週の水曜日木曜日と2日間、雪の奥日光を堪能してきた。やはりその日と次の日の起床は7時前になった。睡眠で疲れをとっているに違いない。脚や腰に疲れを感じないのは、体調が万全というよりも、疲れを感知しなくなっているのじゃないか。身体の感知機能が低下しているのを、疲れてないと思っているだけなのかもしれない。まだ夜中にトイレに行かなくて寝ていられる分だけ、状態がいいと言えるのだろう。その状態が崩れたとき、もう十分老境に入っている自分を発見するということになるのかなあと、自己診断している。まずは週1の山歩きをつづけながら、「状態」を見極めていくことにしようかと、考えるともなく思っている。