mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

秀麗の富士山をみながら、雹の積もる道を歩いてきた

2014-05-31 03:44:29 | 日記

 29日~30日と山へ入った。1日目に目指したのは、富士山の北側の御坂山塊の最高峰、黒岳。車を下山する河口湖畔の大石において、登山口の広瀬まで湖畔を歩く。8時過ぎ。小学生が登校している。湖畔の道路は結構車の通りが多く、歩道もないため、ちょっとひやひやする。小学生は、旗をもったオジサンや警察官のサポートを受けている。天気はいい。河口湖の向こうに富士山が爽やかに立つ姿が見える。中腹から8合目までは雲がかかっている。

 広瀬から黒岳に向かう登山道は、私の持っているむかしのマップには記載されていない。だが、地理院地図をインターネットサイトからとると、登山路の破線がついている。これはいい。野天風呂天水の前の林道らしき跡をたどって、行くと、涸れ沢を渡る。そこから沢沿いに踏み跡をたどると、またもや、道を見失ってしまった。先月末からこれで、3回目だ。

 どうしようと思ったが、引き返さず、地図をみて、ご正道のひと尾根西側の尾根をとりつく。これを上り詰めると、さらに西側から烏帽子岩を経る「難路」標示のあるルートとどこかでぶつかるはずだ、とみる。この読みは(結果としては)当たったが、傾斜はきつい。落ち葉が降り積もって、雨に流れて吹きだまる。それが踏み跡にみえる。ひょっとすると、シカのけもの道だったかもしれない。イノシシが掘り返したあともところどころにあった。あとで子細に地図をみると、登山路は天水の前で沢を渡っている。やっぱり「うかつ」なのだね。

 標高1450m辺りで、渡りをする蝶・アサギマダラが飛んでいる。今年の初見だ。「広瀬→」の標識と出逢う。こちらの道はしっかりしている。下から人が登ってくる。挨拶をして、何時ころ広瀬を出たか尋ねると、私より30分あとだ。そうか、30分のロスか、と思う。登山口のことを訊くと、天水のところから沢を渡ったと、簡単に分かったようにいう。トラロープがあって急な上りでしたね、と。

 そこからの登りは、再び急であった。だが、急傾斜の方が確実に高度を稼げる。2本のストックの四輪駆動も心強い。トウゴクミツバツツジが標高を上げるごとにきれいに咲いている。山頂部ではまだつぼみだったりするのも面白い。1時間ほどでお弁当を広げている人たちにぶつかる。山頂? と尋ねると、山頂はこの先だが展望がよくないよ、と応ずる。振り返ると、富士山が目の前にそびえたつ。気温が上がっているせいであろう、雲が山頂部を覆い隠している。眼下に河口湖が水を湛えて東西に延びているのも目に収まる。展望台だ。11時25分。歩き始めて2時間半。早めのお昼にする。

 そこから5分もいかないところに山頂1973mがある。先ほどあいさつした2人連れがダックスフントを抱えて記念撮影をしている。シャッターを押してあげる。彼らは、私が下山道に使う新道峠に車をおいているという。そうか車が入れるのか。ならば、往復2時間ちょっとで黒岳山頂に来ることができる。

 破風山1874mへ向かう稜線は快適だが、樹林になって見晴らしは良くない。新道峠から登ってくる人たちとすれ違う。車らしく、なるほど軽装だ。30分ほどで新道峠の標示。車が入れるのは、北側、北芦川村からの道だ。河口湖大石へ下る道は、細い九十九折れの斜面を下るルート。ぽつぽつと雨が落ちる。厚い雲が空を覆う。雨具を出してザックごと上からかぶる。雨具のズボンを出すほどではなかろうと思ったが、やはりズボンとスパッツはつけておくべきであったと、後で思った。

 雨は本降りになるが、木々が生い茂っているからそれほど強くは感じない。雷がすごい。ドンゴロゴロではない。パリパリパリッグァラグァラグァラピシッと、すぐ脇の方から脅かしてくる。昔富士山に登った時下の方から雷がなって光るのをみたが、それが丁度ここだったかと思うような気分。

 新道峠1620mから標高で500mを下って林道に出るころには、雨は大降り。それでも風がなく、背の高い樹木が林道をおおっているから、そのまんま早足で下山する。ところが、雹になってきた。それも大粒。頭に当たると、野球帽と雨具をつけていても痛いほど。路面がどんどん白くなる。雪のように積もっていく。

 そのうち路面を雨が流れ下り、雹を含んだ川のようになる。靴が水に浸かってしまうので、流れの浅いところを選んで右に左にと足場を変える。かなり下って民家が見えたところで、とうとう家の軒先に入って雹の直撃を避けることができた。身体はびしょ濡れだが、身体は寒くはない。手が冷えてしびれるようだ。気温が下がっている。あとで聞くと河口湖で10度になっていたという。

 雹がおさまっても雨は降りつづく。やむなく、濡れネズミになりながら、河口湖畔の宿を目指して走るように降る。路面に積もった雹が水に押し流されて道路脇に10センチほどの「積雹」になり、歩きにくいことこの上ない。宿に着くころには雨もおさまったが、宿の人もこんな雹を見たのは初めてと話していた。14時5分。

 すぐ風呂に入って温まる。全部着替えて一息つき、食べ残しのお弁当を開け、ビールを飲みながら下山メールをカミサンに送る。利尻だか礼文から返信が来たのはずうっと後だ。ひと寝入りして目を覚ますと青空になっている。

 外に出ると、富士山の雲がすっかり取れて、姿が際立つ。湖畔に出てみると、オオヨシキリが騒がしい。マガモも何組かいる。ツバメが飛び交う。船の上に立って釣り糸を垂れる人たちがいる。

 夕食は近所の「ビストロ」というイタリアン・レストランで「今日のおすすめ」、ビーフ・ストガロノフを頂戴する。赤ワインと合う。目の前の雪をかぶった富士山が秀麗って感じがする。飛んでいるムクドリにまで風情を感ずる。


 今日も同じような天気だ、山間部は天候の急変にご注意くださいと、朝のTVは繰り返す。昨日の河口湖では雹が降ったと、自動車にあたる映像を見せるが、そんなチョロイもんじゃなかったぜと、思う。

 8時という遅い朝食を済ませ宿を出発したのは8時半。だが、トンネルを抜けるとすぐ山間道に入って林道を登り、「スズラン群生地」の駐車場に車をおいて歩き始めたのは8時50分。150mほど先から釈迦が岳の稜線部に突き上げる道を登る。急な傾斜。私はこういうのが得意なのだと、歩きながら思う。昨日の大雨のせいで枯葉が流され、登山道が水で洗われて筋を引いたように上へとつづく。わずか20分で、ドンベエ峠からくる稜線の道1490mに出る。

 そこからは稜線歩き。15分足らずで府駒山1563m。その先は少しばかりロープがあったりする岩場を登って、30分たらずで釈迦が岳1641mに着いた。先着のご夫婦がお茶を飲んでいる。彼らはドンベエ峠に車をおいて登ってきたらしい。この後黒岳にも往復するという。新道峠からのルートを話すと、ドンベエ峠からの往復よりそちらがいいかな、と笑っている。

 ここは眺望がよい。昨日歩いた稜線の向こうに、富士山が雲もまとわず、秀麗を際立たせている。藤を取り巻く外輪山のように、御坂山塊が一望できる。月初めに歩いた王岳も、突出した山頂部をみせている。振り返ると、奥秩父連峰の山々、瑞牆山や金峰山、甲武信岳からもっと東の大菩薩まで少しばかりかすんではいるが、山の色あいを変えながら、水墨画のように遠方へとつづいている。

 稜線を戻る。一組のお年寄りとすれ違い、先ほどのご夫婦を追い越したが、40分でドンベエ峠。車が2台おいてある。先ほどの二組のものらしい。林道を歩いて出発点に戻る。ほぼ2時間10分で釈迦が岳に行ってきたことになる。駐車場の車は格段に増えている。

 ザックを担いだまま、「スズラン自生地」へ向かう。入口には茶店があり、ベンチを設えている。けっこうな広さの斜面に順回路をつくり、縄張りをして、保護している。かがみこんで、エゾタチツボスミレだと案内をしている人もいる。カメラを構えた若い人が、ここの保護について話を聞かせてくれた。盗掘が止まず、困っている。スズラン以外の、イカリソウやツボリンドウやチゴユリやタツナミソウの仲間などの花が咲いている。それなのに、そのことを喧伝しないのは、盗まれてしまうからだと。先ほどの茶店のご夫婦が保護活動をしているのに任せているだけ、公共的な保護活動は何もないのだという。古い地図にも「スズラン自生地」と記載されているから、よほど昔から保護されているのだと思いがちだが、案外、民有地はその所有者にお任せのような状態にあるようだ。

 さて、来月ここへ人を案内することになる。釈迦が岳は3時間ちょっとで往復してしまう。スズランをご覧くださいでは、つまらないだろうか。富士山をみてスズランと行けばそれも悪くはないが、天気が悪ければ困ったものだと想いながら、帰ってきた。

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地域の自律性って、どうなるんだろう

2014-05-29 05:50:44 | 日記

 私の団地の管理組合の、年1回の総会が先日行われた。私はあまり熱心な組合員ではないのだが、暇があるときはできるだけ顔を出すようにしている。130戸足らずの約4割弱が出席、5割が委任状の提出、1割ほどが応答なし、である。この1割には、借りている人はいるが所有者が近在にいなかったり、海外に長期出張で空き家になっていたりする家もある。もう建築後25年になるから、若い人たちの手に移っていることもあれば、一人暮らしの老人世帯も増えている。

 たいていはこれといった「問題」もなく、承認して終わるのだが、第1号議案から異議が提出された。すでに行われたドアの修繕は、占有者が自ら修理すべきことであって、共有の修繕積立金から出費するのは妥当ではないのではないか、というものだ。

 提起者は、「規約」の条文一つ一つを取り上げて、ドアのかぎ部分の不具合は、占有部分に属するのではないかと、明快である。それに対して理事長は、ドアについている鍵部分ではなく、それを受けるドアの枠組み部分である、施工の不具合以外には原因が考えられない、と応じる。問題提起者は、成功の不具合は、3年目までとか10年目などの瑕疵点検で行うものであって、それを過ぎたことは、管理組合が共同責任をもつものとは考えられない、と応酬する。

 ところが理事長は、「このような(鍵受け部分の)変形は通常の瑕疵点検で分かるものではない。住宅建築の素人である居住者の責任に帰するのは気の毒。」と繰り返す。問題提起者は「専有部分の故障なのだから、規約から逸脱している」と主張するのだが、理事長は「それはその通りなのだが、お願いしますよ」と平身低頭する。

 なんだか論点がかみ合わない。私が手をあげて、「規約のの解釈の違いなのか」と問うと、修繕担当理事が手をあげて「解釈の違い」と返答する。「修繕担当理事の返答通りなら、原案通りに異議ないが、理事長は前言を撤回してくれますか」と発言がある。ところが理事長は、「お願いします」「(このようなケースは)今回限りにします」と繰り返し重ねる。いらだった議長(この役は次期理事長が勤めることになっている)が、「規約を逸脱しているかどうかが問題ですので、撤回でいいですね」と理事長に問いかけるが、なぜかガンとして撤回とは言わず、ぐずぐずと説明を繰り返す。なんだこの人は? 何を護っているんだ? 私は、閣議決定で「解釈改憲」をしようとしている安倍首相のことを思い出して、やりとりを聞いていたんだがね。

 その間に、やはり「規約」の解釈をめぐって何人かの発言があり、なんとこれだけで大半の時間を使ってしまった。発言者の中には、「修繕積立金から支出するということは、その号棟の全部の世帯が負担すること。いずれ来る大規模修繕費用の不足を思うと、軽々に支出するべきではない」と、差し迫る財政ひっ迫にまで思いを及ぼす人もいる、国土交通省関係の仕事についていたのか、規約厳密解釈を披露する方もいる、司法書士をやっていますがと権威づけをして、どう取り扱ったらいいかを解説する人もいる。棲んでいる人の多種多様であることをうかがい知ることとなった。

 じつはこの年度の理事会が構成された去年の今ごろ、「あみだだからね」ということばが聞こえあ。つまり役員になる人たちが、理事長などになるのを嫌がって、結局全部の担当部署をあみだくじで決めたというのであった。私はこれまで3回理事になっているが、一度もあみだくじということはなかった。むろん喜んでというのではなかったかもしれないが、それぞれが手をあげて選んでいった。理事に出る人たちは、団地の階段ごとの10戸が順繰りに担当することにしている。中には、不在所有者もあったりして、順番が必ずしも守られていないところもあるようだが、おおむねやむを得ないときも含めて話し合いで担当してきた。

 だが全部の役職をあみだにしたというのは、初耳であった。そういう事情を聴いているから、理事長が「守り」の姿勢になるのもわからないではないが、「規約」を押し破ってでもコトをすすめるというのは、理解しがたい。それとも彼の頭の中には、「規約」などよりも、故障に困惑する居住者の個別事情に対処することが理事会の役割と思っていて、総会で、そもそも何を問題にしているのかわからなかったのであろうか。私と同じくらいの年齢の方である。生活経験からしても、こういう「問題」に直面しないで仕事を過ごしてきたというのも、不思議な気がするが、ひょっとするとそういう方もいるかもしれない。

 さて後日談。私宛に電話がかかってきた。総会で異議申し立てをした方が、私に感謝していると伝えるためであった。変なの、と思った。私は感謝される筋合いはない。私より若い人だ。厳密に規約を解釈して、正義を貫くというような姿勢である。だが私は、別に正義があるとは思っていない。ただ、理事会という権力機関は、その業務執行に際して「規約」の制約を護ることが倫理的に必要だと考えているだけである。だから、じつはどっちに結論が行ってもかまわないというくらい、いい加減に構えているのに、味方をしてくれたという調子で電話で長話しをする。これも困ったものだ。

 丁重に、筋道だけお話しして電話を切ってもらった。いい加減なヤツめと腹立たしそうな気配を漂わせて、切れた電話をみながら、これから先、年をとっていく人ばかりの団地理事会では、もっともっと困ったことが起こるなあと、気が重くなっているのである。

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ことばに「まこと」が宿るとき

2014-05-28 09:44:22 | 日記

 弟Jの祭壇には、俗名のままの位牌がおいてある。葬儀のときには、親の宗派ということで浄土真宗のお坊さんに読経を頼んだが、自宅の祭壇にはそれを思わせる飾り物はない。傍らの壁には、Jの義母が四国お遍路をした折に手に入れた曼荼羅の掛軸が掛けられている。たぶん真言宗のモノになるのであろう。

 Jの友人であったお坊さんが四十九日ということでやってきた。ごく普通の上着、ネクタイはしていない。あいさつが済むと、別室を借りて着替える。再び現れたときには、着物に薄物のふんわりした掛物をしているような袈裟を着て、すっかり本物のお坊さんになっていた。同道していたJの会社のスタッフに聞くと、身延山久遠寺の、名のあるお坊さんだという。この方の著書をJが編集したことから行き来がはじまったようだ。どこかで、袈裟が位をあらわすと聞いたことがあるが、とりあえず私たちには、どうでもいいことだ。会社のスタッフや昔の同僚もやってきている。それと私たち親族が7人。みな喪服を着用している。

 友人のお坊さんはまず、祭壇の俗名位牌を手に取り、木の台に貼り付けてある紙をビリビリとはがして脇にどけ、自分が書いてきた木製の位牌を祭壇に置く。「泰生山法友日順信士」と戒名を記してある。つづいて、壁にかけてある曼荼羅の掛軸を「これはどなたが(掛けたのか)」と聞きながら、その場にいるJの義母の掛けたものだと分かると「ちょっと外させてもらいます」と口にしながら、すでに手は掛軸を外している。「真言亡国 禅天魔」と、むかしドンツクドンツク叩いて唱えていた「法華の太鼓」を、私は思い出していた。1960年代の初めのころには、仏壇を壊す「事件」が頻発して、新聞でも大騒ぎしていたっけ。

 友人のお坊さんはまず、四十九日というのが、閻魔大王の判決が出される日、つまり今日までこの世にさまよっていた霊は7週のお調べを受けて今日、地獄に落ちるか天国へ行くかきまる。7日ごとにJのために読経してきたが、いよいよ今日の読経をもって天国へと向かっていただくことになる。今日以降Jは、あの世から私たちを見守ってくれることになる、と物語りを話してから、お経をあげる。もう一人の会社のスタッフも僧侶の資格を持っているそうで、唱和している。

 お経のところどころがパッと意味を持って起ちあがるが、皆目何を言っているかわからない。分かったところで、身の裡に浸透してくるとは思えないから、彼の語った物語を人々はどう受け入れてきたのだろうかと思いながら、声の響きに込められた「真摯さ」に耳を傾けていた。

 お経をあげた後、Jの息子がお礼を述べて、食事をしながら話をする。Jが亡くなったことを聞いた高知県の販売元が、言葉を添えて送ってくれた「火振」という上等の栗焼酎の口を開け、友人のお坊さんに注ぎ、「破天荒坊主が行く」という本を近々に刊行すると、同道の編集者が紹介する。Jの手を離れた初めての、彼の4冊目の出版物になるそうだ。

 話しは仏教の、宗派にこだわらない、読み解き方に移っていった。ブッダがじつは「教え」を広範囲にひろげようとしたことはなく、むしろ、言葉の発せられたそのときそのところで受け止めてこそ、「まことが宿る」という考え方をしていたのではないかと想いながら、私は話を聞いていた。宗派などはどうでもいい、人の生きようの「まこと」に思いを致す言葉を交わすことが、お坊さんと話すことの「真実」であるように思った。

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弟Jの49日

2014-05-27 08:44:05 | 日記

 今日は弟Jの49日。もう亡くなって7週間も経ったのだと、過ぎる日の速さを感じている。この日に合わせて私は、「Jのこと、全経過」と表題を付けたプリントをつくった。

 昨年の11月22日、「入院保証人になってほしいんだけれど……」とJから電話があり、「ああ、いいよ」と応じてJと会い、たったいま医師から「食道がんのステージ3」と告げられたことを聞いた。それからJが亡くなる4月9日まで、「兄弟みんなに伝えてほしいけど、あまり大事(おおごと)にはしないでね」というJの頼みもあって、「Jに困ったことが、ご報告」として以降、ことごとにメールで、残る兄弟3人に知らせてきた。4月7日の「ご報告」まで65回に及ぶ。やはり首都圏に住む長兄が「ご報告」をしたこともある。そのときにやりとりしたメールを含めて、まとめたものだ。

 メール特有の多い改行を削除し、フォントを小さくし、2段組みに変えて、A4版で60ページになった。1ページにはJの笑っている写真を入れてカラー印刷にした。それを(メールで)、兄弟と遺族であるJの奥さんと息子さんに送った。Jの奥さんはケイタイ電話のメールしか使えないので、プリントアウトして渡した。

 これをまとめ、校正をしながら目を通していると、Jのことだけでなく、兄弟のことやJが取り交わしてきた仕事上の「かんけい」も浮かび上がってくる。それを介在させて、Jの人となりというか、いまとなってはJの人生が思い浮かぶ。それに対比して私自身のそれも、鏡を見るように見えてしまうこともある。そのようにしてゆるゆると、Jの亡くなったことが自ずから為ることとして腑に落ちるようになっていっている。私の感性に馴染みはじめる、というか。

 じつは24日に「49日」が行われた。池袋のホテルのレストランの一室を借りて「食事会」を行うという案内をもらった。これといった宗教をもっていたわけでもないから、葬儀も近親者だけで、親の宗派のお坊さんを呼んでもらったくらいであった。だから「平服で」というのも(私は何となく喪服でないと収まらないように思っていたのだが)、まあそんなものかと思って、それに応じた。私が「Jのこと、全経過」をつくったのも、自分なりに気持ちの落ち着かせどころを探った結果であった。(でも、レストランで祭壇はどうするのだろうと思ったりしていたが)Jの遺影をおいて、身近なものたちとJの会社のスタッフとで2時間ばかりJの話をしながら、過ごして終わっていた。

 ところが、Jの友人である、ある宗派の「ギャンブル坊主」を自称する方が「お経をあげたい」と会社のスタッフを通じて連絡してきて、今日、「正49日」に自宅に来ることになった。会社の方々も同道する。「一緒に……」と誘われ、「いやじつは、正49日にはお線香をあげようと思っていましたから」と、うちのカミサンも応じた。むろん友人は「押しかけ坊主」であるから、「フォーマルなかたちは取らない、平服で」と言われていた。だが、昨日、「会社の人たちは喪服を着るとのこと、平服でと言ったのに申し訳ない」と、Jの奥さんから電話があった。

 たぶん会社の人たちも、落ち着きの悪さを感じたのではなかったろうか。「49日」という「しきたり」のようなことなのだが、お経もない、平服であるというのでは、コンビニエントではあっても、「水と一緒に赤ん坊を流してしまう」ような気分がしたのではないか。

 「しきたり」というのは、ある意味、頭で考えることよりも、体に染みついている習わしなのだと思う。だから、意味も分からないお経を、喪服を着て謹聴することが、故人のあらためて想いを致し、不在をしみじみと実感して納得する、つまり、腑に落とす「伝統的な振舞い」になっている、と。

 お経は、わからないが「ありがたい」と思っていることで、意味を持つだけ。頭で考えて理知的に「わかる」ことなど、たいしたことではない。いずれも「かんけい」が目に見えないように、生きとし生けるものは、そのようにして命を受け継ぎ、あるいは途絶えてか消えていく。もちろん「あの世」に行くのでもよいが、それは行ってみなければわからない。いまから考えて、思い悩んでも仕方がない。なとなく魂が不滅なような気がするというのなら、それはそれで、悪くない物語だと思っていて、いいのではないか。

 そんなことを思いながら、さて、これから弟Jの家に行く。弟Jの好きであった焼酎を下げて。この焼酎は、鹿児島で仕事をしている姪っ子がつくってくれた。ラベルにはJの笑顔の大写しになった写真、傍らに「やあ しばらく」と今にも聞こえてきそうなセリフが置かれている。背景には大きな本棚、ポスターがつりさげられている。そこにはJが親しかった野田知祐が、これまた笑っている。

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なぜ山歩きをするのか?

2014-05-26 14:05:39 | 日記

★ Nature calls me.  モンクあっか!

 今年の3月に退職した、昔からの山仲間がいる。60歳、私より11も若い。と言っても、ここ20年ばかりは顔を合わす機会がなかった。会ってまず、その風貌に驚いた。

 いっしょに山を歩いていた20年前の彼(背は160cm台の前半)は、小太り、後で聞くと体重は70kgもあったという。その彼が、すっきりした姿で、先日、私の山の会の山行に同行した。体重は55kg。絞りに絞っていて、精悍に見える。

 17年前に父親の死に向き合ってから、体重に気を遣うようになり、ゆっくりと減らしていった。6年前に弟の死に遭遇して一念発起、トレーニングを始めた。週3回のジム通いと、ときどきの山歩きを再開した。

 退職したとはいえ、まだ週に2日半くらい足を運ばねばならないお努めが残っている。だが彼は、嬉々としてこれからのことを考え、すでに踏み出している、という。

 さっそく1,2人用のテントを買った。金曜日の午後に車で出発、登山口近くで幕営したり車の中で寝たりして、土曜日早朝から登り始める。山中で1泊して日曜日に下山。気が向いたらもう1泊して、月曜日に下山。車に戻り、温泉に入って帰宅することを開始した。

 まさに気随気まま。仕事から解放されることを彼は「責任がなくなるってのは、いいもんですね」と顔をほころばせる。むろんまだ年金の上澄み部分は支給されていない。だが、これまでの貯金や退職金を考えれば、この程度の出費は何とかなる。2人の子どもはすでに独立している。奥さんはまだ仕事をつづけているから、余計に、我がことだけを気遣って暮らしていける。願ったり叶ったりの環境である。

 その彼が、先日の山行に同行して、
 「山に入ると、どんどん目的地に向かって歩くことしか考えなかった。花や森の木々や鳥をみたりその声をききわけたりするなんて、そういう歩き方もあるんですね。」
 と、私の歩き方に学びたいという。

 いや、お恥ずかしい。私もまた、退職後にそういう歩き方を身に着け始めたばかり。その分別・吸収も、あまりいい生徒ではない。そこに身を置いて、いつしか身に備わったものをそれとして受け容れる程度の、ナチュラル派、ナルヨウニナル、ケセラセラの類である。意思的に学ぼうとしたこともない。そもそもそういう「努力」というのが自分には合わないと思ってきた。まあ、門前の小僧程度の一知半解を、思うともなくモットーにしているから、褒められるとこそばゆい。

 彼は大学の山岳部で、山歩きをおぼえた。東京農大の山岳部でしごき事件があったのは1960年代の半ばころか。彼がまだ中学生の頃であったろうが、その後も大学山岳部というのは、しごきの印象が強かったのではなかったか。私の書架にある日本山岳会の『登山技術』(2巻、白水社)も1961年発行になっている。やっと大まかな領域が描かれ、全体像が提示されはしたが、まだまだ用具も技術も日進月歩の様相を呈していた。水の補給の仕方なども、いまとは全く違って、いわば「根性もの」の登り方をしていたのであった。

 いまは違う。衣料も用具もぐんとよくなった。携帯する食料も、軽く、うまく、調理しやすい。何よりコース・ガイドがしっかりつくられている。地理院地図は相変わらずだが、ガイドブックは痒い所に手が届くほど、詳細につづられている。つまり、昔の大学山岳部で歩いていたものからすると、隔世の感がある。良くなったのだ。そうして迎えた定年退職後の山歩きであってみれば、一気に開放的に遊べるぞという気分に浸れる。

 そういう彼を祝福し、あと何年歩けるか、どこをどう歩くか、などなど自分なりの物語りにしなければならない。お前は、では何をテーマにして山を歩いているのかと問われると、はてテーマなんぞあったっけかなと、戸惑いを覚える。私は、70歳を超えたときに、毎週のように山を歩くことしか考えなかった。たまたま、植物や鳥に詳しい人が近くにいて、あれこれ教えてくれることがあって、門前の小僧をやってきたにすぎない。

 そうか、そろそろ私も、どういう物語を紡いでいるのか、答えなければならないのかもしれない。いやなに、nature calls me ってだけでも、悪くはない。ウン? 文句あっか。(5/25)

★ 「じねんぼうず」の自慢話なのだ

 昨日「モンクあっか!」などと、おどけて啖呵を切ったことを、後で悔やんでいる。もっと丁寧に説明しないと、山岳に復帰してきた友人に触れて私の思いの中に起ちあがったイメージを伝えることはできていない、と感じたからだ。

 そのとき「nature calls me.」ということばを、「自然に帰る」というような意味合いで使った。初めてこの言葉を覚えたのは高校生のとき。リーディングの授業でイギリス人作家(だったと思うが)の短編を読んでいて、用を足したい時にこのように言う、と記憶した。

 それを50年ほどのちに、パプアニューギニアの山を登っていたときに、ちょっと催したので、現地のガイドに「nature calls me.」と断って、傍らのがれ場を下って大きな岩の陰で用を足したことがあった。戻ってみると、現地ガイドと荷物持ちのサブガイドが、何がcallしていたんだと尋ねる。ウン? こういうふうに使うんじゃないの? と聞いたら、彼らは「知らなかった」と大笑いした。
 以来私は、nature calls me.というのを、文字通り、natureがcallするという意味で、わが身からいえば「自然に帰る」という意味合いで、使ってもいいんだと勝手に了解している。ほんとうのところがどうなのかは、確かめていない。

 山岳復帰の友人は、ひたすら歩くだけの自分の山歩きの仕方に、鳥や植物を愉しむ、いわば自然観察を取り入れたいとお世辞を言ったわけだが、それに対する昨日の私の書き留め方は、なんとも歯切れが悪かった。何を言いたいのかわからない。そう悔やんだわけ。

 考えてみると、私も若いころはひたすら歩くことだけに夢中であった。それは、ピークを踏むこと、険しいルートを凌ぐこと、一般ルートを歩くときには、コースタイムよりどれくらい短縮できたか、通常7日かかるところを4日で歩けるかなど、体力や気力が重い荷物に耐えてどこまでぎりぎり挑めるか、というものであったといまにして思う。そうして歩いている、ある瞬間に、ポンと無想状態に陥って2時間や3時間があったという間に経っている経験をすることがあって、私はそれを「瞑想」と呼んで、愉しむようになった。

 これはたぶん、山と一体になっていた状態、自然に帰っているのだと思う。こういう時、私の感覚からは、まず時間が無くなっている。空間に遊んでいて、手元足元は鮮明に岩角や亀裂や鎖や崩れそうな砂地やガレ場など出逢ったことを、一つ一つくっきりと覚えている。しかし、歩いているときどきに、頭に去来したであろうよしなしごとも、たぶんたくさんあったであろうに、「雑念」すら感じてないほど些末なことのように忘れている。

 若いころ、といっても40歳を超えるころまでは、なかなかそういう境地に入れなかった。単独行をしていても、日ごろのうっぷんが湧き出てきて、歩くことに集中できないような状態だったことを、思い出す。それが50歳近くなると、わりと容易にそういう境地に入り込むことができるようになった。単独行ではなく、ほかの人々と一緒に登山しているのに、はやばやと独りで歩いているような気分になってしまって、悦に入っていたことも何度かある。

 これは思うに、体力や気力の限界点が下がってきたからではないか。身体がどのような状態に置かれたら、「瞑想状態」に入りやすいかはわからないが、身体がぎりぎりの限界点に近づくちょっと手前で無念無想になるような気がする。若いうちはなかなか限界点に到達しない。限界点の手前で(ちょっと休んだりすると)回復点が起ちあがり、なかなか無念無想のところにまで自分を追い込めない。
 限界点の前に「雑念」が湧き起り、あと何時間くらいかかるとか、あとどれくらい歩けばいいんだとか、こんなルートへ連れてきやがってキショウメとか。内省的(というよりも自閉的)に、歩いている自分の歩数を数えはじめたり、目的地までの距離を考えて家から駅までより近いじゃんか、とイメージしたりする。つまり、どこかへ物語りの完結点(わが心の落ち着く先)を求めて思念がさまようのだ。

 それは自分の輪郭にたどり着く以前の「(自分の対峙する)世界」に我が心もちの立脚点が置かれていることでもある。

 年をとるのが悪くないと(私が)いうのは、こういうときだ。世の中のありとあらゆることと、自分とのかかわりがほのかに浮かんで、基本的に自省的になる。このルートも、コースタイムも、険しい道のりも、ことごとく自分が選び取って歩いていること、いやならば引き返せえばいい。引き返すには遠くへ来すぎたというのであれば、ビバークすればいい。その上体力がついていかないから、そもそも無理をしない。プランニングにおいても、歩行時間を少なくとり、おおよそコースタイムで歩ける自分の力量を越える設定をしなくなった。すると、すぐにわが身の自ずからなる在り様「じねん:自然」と歩くペースがの符節が合う。それが「自然と一体化する」ように感じられているのではなかろうか。

 ま、回りくどいことを言っているが、そんなことに、夜中に目が覚めてふと、こだわりを覚え、ここに書きつける。書きつけたことでこだわりは身から離れ、執着のない世界が私の周りに満ち満ちる。

 ふ、ふ、ふ。修行坊主の自慢話のように聞こえるであろう。でも違うのだ。「じねんぼうず」の自慢話なのだ。

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