mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ヤシオツツジが花開き始めた前日光の夕日岳

2015-04-28 06:09:03 | 日記

 快晴。気温も上がってまるで初夏の気分。早朝に家を出て、前日光の山を歩いてきた。

 

 奥日光の山の西側に足尾山地が連なっているが、その足尾と深い渡良瀬渓谷を挟んで東西に関東平野と接するところまで伸びている山塊が、前日光と呼ばれる。ことに、日光と足尾を隔てる稜線を横切る古い峠道は、足尾銅山と日光清滝にある古川鉱業の結びつきもあって、よく使われてきた。今は日足トンネルが抜けて容易に行き来ができるようになったが、標高1200mほどに位置する旧道の細尾峠への道は補修されることもなく、落石や倒木の落ちるがままに捨て置かれているような気配がある。

 

 このコースが紹介されていた雑誌の記事では、「ゴールデンウィークも最後の日で、ヤシオツツジが満開とあって峠の車道には30台以上もの路上駐車」と記載されていた。昨日はゴールデンウィーク前の月曜日とあってか、2台を見かけただけ。ここからは、奥日光の茶ノ木平への縦走路も通じているから、どちらへ行ったかはわからない。

 

 8時前に歩き始める。東へ延びる稜線は細い。大岩を避けて回り込むところなどは、道が削れて危なっかしい。国土地理院の地図では薬師岳の山頂を踏まないで回り込むルートが記載されているが、踏み跡はどんどん山頂へと通じている。雑誌の記事も、「巻き道コース」の分岐が分かりにくいと記してある。すでにヤシオツツジがポツリポツリと花をつけている。山はほぼ葉の落ちた木ばかりだから、余計に目立つ。

 

 35分で薬師岳山頂1420mに着く。北側に女峰山、男体山、白根山と雪をかぶった山並みがスカイラインを縁どる。そこから南へ稜線は曲がる。アカゲラのドラミングがすぐ近くなのに渡良瀬川の渓にこだまするように響く。すぐ目の前で飛び立って、木の幹を換える。足尾の方から、ポポッポポッとツツドリの鳴く声が随伴するように聞こえてくる。コガラが枝を渡って姿を見せる。急斜面に葉を落とした落葉樹をまとった谷は深い。1400m前後の標高を下ったり登ったりしながら歩いていると、やって来た50年配の登山者が破顔一笑「やっとひとに会えた」と、声をあげる。聞くと古峰ヶ原から登って細尾峠に下り、そこからさらに日光清滝へ降りて麓の温泉に浸かろうというコースだ。「それにしても速いですね」というと、朝6時半に歩き始めたという。人に会えてうれしいというのが、人懐っこい表情に表われている。

 

 ほぼコースタイムの1時間で三ツ目1491mに来る。ここから東へ分岐しているのが夕日岳で向かう道。南へつづくのが地蔵岳への道だ。夕日岳へ向かう。標高で言うと50mほど下って80mほど登る。稜線は広く、やはりヤシオツツジがところどころを彩る。夕日岳の山頂1526mは、薬師岳よりももっと広い。北側が開けて白根山がひときわ大きく白い姿を屹立させている。


                                                                    
 三ツ目に戻り地蔵岳へ向かう。また、古峰ヶ原方面からの登山者に出逢う。20代半ば。夕日岳へ行って引き返すという。細尾峠に車で入れるかと聞く。彼は茶の木平の方に関心があるようだ。古峰ヶ原からのルートは、ヤシオツツジが咲き始めている、このあたりは少ないともいう。だが、ツツジの木はずいぶんたくさんある。来週あたりになると、ヤシオツツジのトンネルができるのかもしれない。地蔵岳の山頂1483mは潅木に囲まれた稜線上のちょっとした突起という感じ。すぐに折り返す。

 

 ところが、ここからの折り返しで、体がずいぶん疲れていることに気づいた。今日は標高差もそれほどないし、コースタイムよりちょっと早い程度で歩いているだけなのに、どうしたことだ。5日前の赤城山の疲れが今ごろ出てきているのか。帰りの三ツ目までの脚が重い。そこからさらに薬師岳への1時間のルート上の登りが太ももの疲れに感じられて、歩度が遅くなる。薬師岳山頂の手前で山腹を巻く「巻き道」の標識がある。笹をかき分けるそちらの道をたどる。ちょっと笹がかぶさっているから注意しながら歩く必要はあるが、「わかりにくい」どころか、踏み跡はしっかりついている。すぐに笹を抜けて稜線を降る。こんなに下るのかと思うほど降って渓をひとつ乗越して、登り道と合流するのは標高1285mのところであった。たしかに入口は「わかりにくい」。木の枝を置いてこちらへ入るなと表示しているからだ。下りには使っても登りに使うもんじゃないと思う。

 

 12時に峠に到着。巻き道をとったせいでか、山頂手前の分岐から25分で着いた。出発してからほぼ4時間。まあ、コースタイムで歩くのは、まだまだ大丈夫だとは思った。じつはお昼をとっていない。むろん持参していたのだが、夕日岳の山頂についたとき、この分なら12時ころに峠に着く。ならば、麓・清滝の中華料理屋「香楽」のニラレバ定食を食べようと思って、持参の品に手をつけないでいた。香楽に着いたのは12時半、古川鉱業の社員がまだ昼食をとっていた。少し待って席に割り込み、空揚げにしたレバとニラを炒めたやつを頂戴した。満腹で眠くなったのは困ったが、順調に運転して帰宅したという次第。

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社会的動物の「本性」

2015-04-26 09:35:23 | 日記

 最近、梨木香歩の作品をつづけて読んだから、私のセンサーが植物に向いている。図書館の書架に沢木耕太郎『檀』(新潮社、1995年)があった。「まゆみ」について、沢木が何かドキュメンタリーでも書いたか、と思いながら手に取った。違った。あの「火宅の人」檀一雄について、檀の奥さん・ヨソ子さんが、その思いを語るように構成された取材小説である。

 

 『火宅の人』はずいぶん昔に読んだ覚えはあるが、中身はほとんど忘れてしまった。奥さんがいるのに別の女性に現を抜かす、「human nature」に素直に従って振る舞う身勝手な男の物語りと受け取っていた。沢木耕太郎の視点は、逆の方向から光を当てると、檀一雄という人物がどのように見えるか、ともいえる。むろん私は「human nature」というのを、「動物的本性」という自然性だけでとらえているわけではない。その「本性」が人の社会の規範や制度、つまり「かんけい」とぶつかるところの「人の性(さが)」である。

 

 大野晋の「古典基礎語辞典」では、「さが[性・相]」として、次のような解説をつけている。

 

 《自然のままに備わっている性質や状況で、多くは人の力ではどうにもならないよくないことにいう。……漢字「性」には、生まれながらのはたらきという意味があり、……天から与えられた生まれながらの運命・宿命であるとし、自分で制御できない力によって支配されるものととらえた。》

 

 「天から与えられた……自分で制御できない力」のところで、西欧と南・東アジアの自然観・宗教観が分岐する。

 


 天を唯一絶対神とする西欧の自然観・宗教観は「自分で制御できない」ことを戒律によって統御することによって「人間」が誕生すると考えた。「自分で制御できない力によって支配される」動物はヒトであり、神に帰依し、その戒めを守って生きようとするところに「人間精神」を見出した。

 


 それに対して、南・東アジアでは、人としての存在自体を混沌の自然の中においてとらえた。人であれ他の動物であれ植物であれ、生きとし生けるものがなべて魂を持つとする汎神論は、西欧の自然観からすると神を知らない原始的な呪術的未開とみるであろうが、混沌の海から系統発生を繰り返し、突然変異を遂げ棲み分けながら、その蓄積の中から「合理」を紡ぎ出してきたとする発生展開の自然観の方が、茫洋とした将来を思い描くうえでも、優れた視点を担保している。つまり、唯一絶対神が世界をつくったとする西欧的な視点の固定(デカルト的な座標軸の原点)ではなく、流動的な視点を据えているからだ。視点の流動性は、しかし、不安定である。その不安定性を(思索的に)繋留する地点に生まれたのが「無」や「空」の宇宙観だと、私は考えている。

 

 おっと、遠回りしてしまった。どうしてこういう遠回りをするのか。西欧的な自然観と南・東アジア的な自然観が、現代では混沌と入り組んで、私たち自身の思考をとらえどころのないものにしているからだ。そこを分別しておいて、檀一雄の「human nature」に踏み込まないと、彼の小説は単なる「私小説」として読まれてしまいかねないからである。

 

 沢木耕太郎の『檀』が檀ソヨ子の『檀』であったら、たぶん、檀一雄の『火宅の人』をあらためて私小説に引き戻す「手記」になったであろう。だが沢木は小説のモデルとされた「火宅の人の妻」という「当事者」の立ち位置を外さないようにしながら、なおかつ、檀一雄という人とそれに向き合ってきた「妻」という実存の「かんけい」が、根底でふれあっているところに垂鉛を降ろして、見極めようとしている。そこに、この小説を単なるドキュメンタリーではなく「取材小説」と呼ぶ理由がある。

 

 さてじつは、檀一雄は、私の父と同じ1912年生まれ、1975年に63歳で亡くなった。私の父の方が10年余長生きしている。私の父も檀同様に「火宅の人」であったから、私は母の傍らにいて、母の側からの視点で父を見てきた。だが不思議と私の胸中に、父への「火宅の人」であることへの嫌悪感などはない。むしろ、ときどき手土産を持って、酔って帰ってきては、むかし話をしてはやばやといびきをかいて寝込んでしまう豪放磊落で、それでいて筆をとっては漢詩を条幅に書き認める知的な、人当たりのやさしい父親イメージが思い浮かぶ。もちろん私の五歳上の長兄が味わった嫌悪感や屈辱感などは、知らないままで過ごしてきた。長兄が引き受けてくれたからこそ、私はその領野に目を留めないで来ることができた、とも思う。

 

 だが同時に、古稀を過ぎる齢になって我が身を振り返ってみると、檀一雄の「人の性」との向き合い方に共鳴しているところを感じる。たまたま私は、檀一雄ほど率直でなかったし、何よりわが父の「火宅」をみてきたということもあって、今一歩の踏みだしをしなかったが、胸底に流れている「人とのかんけいへの想い」には、思い当たるところがある。もしその方面に気分を差し向けていたら、私もまた「火宅の人」になっていたに違いない。それくらい、檀一雄の振る舞いは、まことに身勝手極まりないとはいえ、一般性を湛えている。自らの「本性」とそれがもたらす子どもを養育するという「義理・義務」と、とどのつまり、「性」だけで生きているわけではないが、人と触れあっていなければ心もちを安定させることができない「human nature」の根源でせめぎ合う「魂」を、思いを及ぼす。

 

 長い目で見れば、寄り添い支えてきた「妻」というヨソ子さんの立場があってこその檀一雄であるのだが、では、ヨソ子さんの人生とはなんであったかと考えると、母系社会に身を委ねて母の手のひらで踊ってきた男の姿が滑稽に見えてくる。今風に、男女雇用機会均等法的な視点では、たぶん解析できないところに眼をやらねばならないと思う。

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作法――バカは考える

2015-04-23 08:59:30 | 日記

 昨日(4/22)の朝日新聞に北野武が「年寄りよ、不良になれ」と、新作映画のインタビューに応じている。その中で、

 

 《いまは年寄りも駄目だけど、若いヤツも駄目だね。「老人は弱いからいたわってあげましょう」という空気があることだよ。……そうじゃないんだよ。年寄りが目の前に立ったら、率先して席を空けて、「どうぞ」と言うのは、これは礼儀というか作法なのであってね。可哀想とか可哀想じゃないとかいう問題じゃないんだ。》

 

 と、息巻いている。これはとても大切な指摘ではないか。「礼儀とか作法」というのは、理屈じゃないということだ。

 

 デカルトが「我思うゆえに我あり」と言ったころからだろうか、私たちは自分たちの振る舞いの根拠を探り当てようとしてきた。なぜ挨拶をするのか、なぜ家族は一緒に食卓を囲むのか、なぜ年寄りに敬意を払うのか、と。私たちの振る舞いは、人類の系統発生のように、文化の系統発生の所産である。なにがしかの「かんけい」を落ち着かせたり、切り替えたりするときのつかみどころのなさを振る舞いに留める。そうして習俗をつくってきた。それは年月を経るごとに、なぜそうするのかを私たちは忘れ、「そうするものだ」として受け継いできた。それを、「なぜ」と問い直すから、理屈が生まれる。

 

 問い直すということは、すなわち人それぞれに自在勝手にするということでもある。それぞれが自らの得心に基づいて振る舞う。得心の「理屈」も異なるであろうし、得心しなければ、その「振舞い」を捨てる。社会全体の気風で言うと、もっとも受け入れやすい「理屈」が採用される。「老人は弱いからいたわってあげましょう」という「理屈」がもっぱらのところいちばん受け入れやすいのであろう。それが一般化すると、「弱くない」と思う年寄りは、席を譲られて憤然とし、「まだ憐れまれるほど耄碌していない」と断る。席を譲った方は取り付く島がなくて、困ってしまう、ということも起こるようになる。これは煩わしいことである。

 

 そうなると「シルバーシート」をもうける。気遣い無用の縄張りを張るのだ。席を譲ってもらいたいと思う人はそこへ近づく。そうでない人は、そこには近づかない。若い人も、シルバーシートの近くでは、たとえ席が空いていても座らない。そうじゃない席では、たとえ年寄りがいても席を譲る必要はない、と考える。その方が心煩わせなくてよいという合理性を優先する。「習俗」を「法制」がかたちづくる。

 

 ここで、ひとつ気がつく。心煩わせるのが面倒であるのなら、「習俗」としての振る舞いを黙って受け継いでいればいい。だのに、「我思うゆえに我あり」をしてしまうから、「理屈」が起ちあがる。なぜそうするのか? そうすることが近代の人間の理法、つまり知的なやり方だと教えられるからである。教えられたことが習い性になり、それで人生を送るようになると、そのうち内発的に自らがそう考えていることと思うようになる。そうすると、いつしかまったく自分勝手に考え振る舞うようになるか、どこかに判断を預けて気持ちの負担を楽にしたくなる。「法制」がそのひとつである。

 

 つまりデカルトの「我思うゆえに我あり」は、徹底的にそれを貫くことを意味しているが、人生のすべてを背負ってなおかつそれを実践することは、まことに難しい。「人生のすべてを背負う」というのは、暮らしを立てるということ。つまり生計を立て、家庭を持ち、家族を養うことだ。つまりごく平凡な普通の人の暮らしを生きることにすぎない。しかしそれをしながら、「我思うゆえに我あり」をつづけることは、ほぼ至難の業。デカルトだって、生計を立てるというのは、裕福な資産家育ちであったから心配していない。家族のことなど眼中になかった。

 

 現代に知的に生きるというのは、したがって、「我思うゆえに我あり」を生業として生計を立てることのできる人、逆に自分の生業という限られた領域でそれを実践する人ということになる。その人たちも、限られた領域以外のところでは、「習俗」「慣習」に寄りかかって暮らしている。だが、当人は、そうは思わない。あたかも作家や学者やなにかの専門家や達人たちが、世界をすべてをつかんでいるかのようにコトゴトにコメントするのをみていると、「法制」まで自分で考え出したかのように意気軒高である。自律していると、思い込んでいる。

 

 北野武が鋭いのは、そういう社会常識に楯突くような言説を堂々と言えるからだ。むろん初めのうちは、お笑いだから、それで通用した。そのうち名を成してメディアで辣腕をふるうようになって、誰も文句を言わなくなった。もちろん海外の映画賞を受けたということも、彼の「肩書」になっている。そんなこと先刻承知で、自分をも笑い飛ばす。だから、余計面白いことが言える。

 

 これはひょっとすると、バカは考えるな、ということを意味しているのかもしれない。もし考えるのなら、徹頭徹尾、考え抜け。中途半端に「我思うゆえに我あり」をするな。中途半端にやるから、どこかで「法制」や人為的なルールに寄りかかって、習俗的な「振る舞い」のもってきた「大切なこと」を忘却してしまう。作法がもっている美しさも失われる。

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まだ春明けやらぬ赤城山

2015-04-22 20:19:40 | 日記

 赤城山の最高峰、黒檜山1828mに登った。ひょっとしたら「春の花に出逢うか」と期待させたのに、標高1000mほどには桜が咲いていたが、その上はまだ冬枯れの木立が続き、北斜面には雪が残っていた。ウグイスが鳴いている。コツコツコツというキツツキのドラミングが響き渡る。春近しと思う。

 

 新前橋でレンタカーを借用し、2台に分乗して大沼の赤城ビジターセンターへ向かう。広い駐車場に、止まっている車はほんの数台。9時半過ぎ。装備を整え9時45分には歩き始める。登山口までは大沼の東側沿いに20分ほど歩く。赤城神社が大沼に突き出して、自己主張しているようだ。

 

 沼の東側中央辺りで沼田へ抜ける道路と沼沿いの道路が分かれるところに、黒檜山登山口がある。標高は1360m、山頂まで470mの標高差。ひたすらな上りである。小ぶりな岩が登山路に積み重なり、それに足をかけて登るのが、ほぼ山頂付近まで続く。傾斜は急だ。息が切れる。ゆっくりのペースで休まず身体を引き上げる。なにしろ半年以上ぶりという人が、3人も加わっている。

 

 途中の木立が切れたあたりから見下ろす大沼の湖面は、そろそろ春を迎えるという暖かさを溜めこみはじめたように見える。向かいの地蔵岳の、山頂から湖面へ下る堆積する雪のスロープが、それにストップをかけている。さらに上に上がると、登山路に雪が積もる。その上を歩かないとならない。雪は暖かさに足元でシャーベット状に崩れる。滑らないように心して足を置き重心を引き上げる。

 

 こうして、1時間20分ほどで山頂に達した。お昼を食べていると、山頂のさらに先からやってくる人がいる。縦走してきたのかと聞くと、そうじゃない、この先の展望台まで行ってきたのだという。ならば、私たちも行ってみよう。ところが2分ほどのコースに、雪がたっぷり積もっている。それが嫌で、3人ほどがいかなかった。

 

 展望台は、草津白根山、苗場山、谷川岳、武尊山、日光白根山、皇海山、男体山とぐるりと雪をかぶった山々がスカイラインをなしている。さらに西の浅間山や八ヶ岳は雲の中に紛れて分別できない。富士山はこちらにみえるとひょうじがあったが、それも雲に遮られてみることはできなかった。

 

 12時10分に山頂を出発して、稜線沿いに駒ケ岳に向かう。雪の上を歩く。斜面は階段状になっている。標高180mほど下り、70mほど登る。最初の登りに比べれば、快適な縦走路だ。先頭を歩くKhさんも、皆さんの歩調をみながら、ときどき立ち止まって合間を調整している。30分ほどで駒ケ岳に着く。今度は前橋側がよく見える。

 

 駒ケ岳山頂からの下りは、急な鉄製の階段が、幾筋か続く。だが手すりがついているから、危なげがない。アカゲラがキョキョキョと鳴きながら飛び交う。ジージージーとコゲラが鳴きかける。シジュウカラの声が明るくこだまする。

 

 快適に下って、35分で大沼の縁に降りてきた。「もう二度と来ないかもしれないのだから」と誰かが言ったのに励まされて、覚満渕に回り込み、その池の縁を一回り回る。鳥も魚も姿を見せない。花も、緑の木の葉もまだまだ冬ごもりの気配だ。途中でカルガモが2羽ぷかりぷかりと木製歩道の下から顔を出した。

 

 ビジターセンターを一回りみて、そそくさと車で新前橋駅に戻る。車を返して駅舎に入ると、高崎行きの電車が入ってくる。高崎に着くと、8分ほどの待ち合わせで国府津行の電車がスタートする。なんとも順調に連絡していて、快適に送り返してくれた。

 

 そうそう、朝の高崎線に驚かされたこと。混んでいるのだ。朝6時39分に大宮を通過する高崎線は、15両編成で運転されている。満席というよりも経っている人を含めて満員なのだ。それが本庄辺りまで続いた。通勤通学の時間帯ではあるのだろうが、こんなにたくさんの人たちが北向きに移動している。昔は東京へ移動する人たちでいっぱいといわれていたのに、今は、北向きもいっぱいの人を乗せて電車が走っている。何か、首都圏の社会の人の移動が変わってきていると思った。

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「実際にやってみましょう」

2015-04-21 16:23:58 | 日記

 車のディーラーから6ヶ月点検に日取りを決めたいと来た。それはすぐに予定を組むことができた。ほんのことのついでにという風情で「何か気になるところはありますか」と聞く。ふと思いついて、naviの使い方のことを尋ねた。

 


 「目的地」検索をする時、「住所」でやると、都道府県と市町村を聞いてくる。たいていそこまでは五十音順の検索で入り込めるのだが、大字や字を入れる段になると、ア行のあとが長いから、次々と頁を繰らなければならない。ところが、指をあててスーっとやると、画面が行き過ぎてしまう。元に戻そうとすると戻りすぎてしまうか、最初に指をあてたところの画面に入り込んでしまって、意図するページに留まらない。どうやったら、狙い通りに画面をとどめることができるかと、尋ねた。

 

 去年就職したばかりという若いディーラーの担当者は、何を訊いているのかちょっと考えていたようだが、すぐに了解し、指を上へスクロールするように動かして、こうやってもダメですか? という。
 いや、そうやったら行き過ぎたり、指をあてたところに入り込んだりして、スムーズに検索できない。それ以外に、一ページずつ送るようなボタンはないのか、と尋ねる。ない、のだそうだ。しばらく考えた彼は、「では今度、車をお持ちになってください。じっさいにやってみましょう」という。

 

 それを聞いていて、ハッと了解したのだが、スクロールがうまくできないというのは、今の若い人には理解できないほどブキヨウなことなのだろう。まあ、(お客だし)年寄りだから仕方がない、少しばかり習熟するまで面倒見るしかないと、覚悟したように見えた。

 

 そうしたら今日の新聞に、教科書をデジタル版にするかどうかの検討に入ったとニュースが報道されている。その中で、タブレットを児童全員に支給するのか、家庭のインタネット通信の受信機能が整っているのかなどを調べて、結論を出すとしている。つまり幼いころから、タブレットの操作に習熟し、スクロールなどはそろばん玉をはじくように軽々とこなす子どもたちの時代なのだ。年寄りが、そろばん玉がどうしても二つ一緒に動いて困ると、若い人のご教授を願ったようなことなのだろうね。「実際にやってみましょう」という若い人の返事は、それくらい明解で、私の困っていることがなぜ困難なのか「やってみて」みようと思ったようであった。

 

 そこまで私は、時代の辺境に位置するようになっているんだなあと、しみじみ思った次第。

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