mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ハハハ、参ったねえ

2022-03-31 06:59:51 | 日記

 昨日(3/30)のこと。ご近所の年寄りがお花見をした。2週前に満開のカワヅザクを愛でてお花見をした面々。今度はタケノコ公園近くのソメイヨシノが満開になった。前日の曇り空と違って、日差しがある。風もなく温かい。見沼代用水西縁の土手沿いの桜がむせるように花を開き、その下ですでに何組かの花見客がシートを敷いている。その並びに私たちもブルーシートを敷いて持ち寄ったワインを開け、お昼をとる。
 おしゃべりに興じて4時間近く過ごし、ぶらぶらと歩いて帰る途次、同じ方向に向かっていた友人が「コーヒーを飲んでいきませんか」といい、まだ3時半、お店に入ってまたおしゃべりを続けた。こうしてうちに帰ったのが5時半。
 玄関を開けると電話で何か話していたカミサンが「どこへいってたん? 電話に出て、今帰ったってはなしをして」と催促する。電話の相手は警察官。何と私が帰ってこないものだから、なんと、タケノコ公園の近くで何か事故はなかったかと問い合わせをし、捜索願を出していたという。
 いや、コーヒー飲んでたんだよと応えるが、「何度も電話したのに、なんで出ないの」と怒っている。スマホを覗いてみると、なるほどメールも来ているし、電話も何度か鳴っている。マナーモードにしていたから、分からなかったんだね。
 夕食を終えた頃、警察官がやってきた。「いや、確認に来ただけです」というが、何がどうしてこんなことになったのか、この夫婦を見て(確認して)おこうとしたのであろう。お騒がせしました。平身低頭、平謝りに謝った。
 ハハハ、参ったねえ。
 でも、カミサンの過剰反応と決めつけられないわけもある。去年の4月に山で事故に遭って、4月いっぱい入院する羽目になった。お酒に弱くなった。たいして飲まないのに酷く酔っ払う。二日酔いになることはないが、玄関にたどり着くのがやっとということも、2週間前にあった。またときどき「迷い人のお知らせです。緑区の**付近で・・・」と「防災さいたま」が放送をしている。そうか私も、今年八十になる。そろそろそういう心配をされても致し方ない、か。


人民って、誰?(2)異質性に向き合う土台

2022-03-30 08:16:10 | 日記

 共に暮らす社会を「共同体」とよぶ。ヒトの群れが発生した原初の頃は、家族や氏族、つまり血のつながりを基本としていたから、異質な感じ方や考え方が身の裡に潜んでいるとは思わなかったのだろうか。ヒトの感性や考え方は群れの中で育まれるから、自ずと群れの培ってきた感性や考え方と大きくズレない(と思われていた)。だが、他の家族や氏族と触れ合わないではいられない。何より子孫を残すために近親婚は避けなければならないタブーとなっていた。多くの群れは「おんな」を交換したり、奪い取ったりすることによって、タブーを維持していた。
 少ない食料をめぐる取り合いもあったろう。快適な居住地をめぐる争いもが起こったにちがいない。わりと採集する自然食料が豊富であった東日本とそうでなかった西日本とで「農業」の始まる時期が違っていたというのも、必要がそうさせたと考えると納得がいく。農業が始まると、田畑を耕すばかりでなく、治水や灌漑を施す大工事が欠かせない。ヒトの群れは大きくなり、氏族は地域的な結合を(婚姻などを通じて)強めて部族となる。また群れの作業に統率が必要とされ、協業ばかりでなく分業も広まり、計画や作業工程監理なども行われたと思われる。
 ヒトの動きに統治が必要とされ、統率するリーダーが登場する。農業の場合には「場所」も固定されることが多いから、その田畑(灌漑設備)を護る防護・防衛の考えも生まれ、それをもっぱらとする軍事的従事者も必要になる。こうして、ヒトの群れは、大きくなると共に組織的になって、その秩序を保つための知恵と力が育成されていく。つまり、ヒトはその群れの暮らしに必要となって、それに備える(群れとしての)スウィッチが入り、時を掛けて育てられ、強化されてきた。
 それと同時に、スウィッチが入ったことによって、それに人の感性や考え方が縛られてしまうことも起こる。ひと頃豊かな暮らしを楽しむ日本社会を指して「平和惚け」と呼ぶことが流行ったことがあった。だがウクライナ侵攻をするロシアのプーチンをみていると、逆に「戦闘狂い」と呼びたくなるほど、疑心暗鬼に、ロシアが脅かされていると妄想を膨らませているように感じる。しかし、「平和惚け」とか「戦闘狂い」と(個人的性向のように)レッテルを貼って忌み嫌うより、「平和惚け」が育まれた社会とはどんなものであったか、「戦闘狂い」が引き起こされた世界はどのようなものであったかと、社会的な傾きとして見極める「研究」をすることによって、それぞれの特性を持ったヒトの立ち位置や社会・世界の特性を取り出し、人類史的な歩みの現段階と考えてみることが大切だ。
 そうすると、「研究」的に考えている「わたし」が身を置いている「せかい」の現在地が浮き彫りになってくる。わが身を置く現在地とは、「わたし」がどのような視点から「せかい」を見ているかを炙り出す。それは逆に、「戦闘狂い」のヒトがどのような立ち位置で世界のモノゴトをとらえているかも、明らかになってくる。そうして、その世界が「わたし」にとってどういう意味を持つかを、わが身を軸にして見て取ることができる。つまり、ヒトの妄想は、その個体のコトというより、その「せかい」がもたらしているクセと考えることによって、社会的な課題が浮かび上がり、それが「わたし」の感性や考え方の傾き・根拠を鏡に照らすようにしてくれる。「わたし」の裡に「平和惚け」も「戦闘狂い」も同居していることがみえてくる。それらに対する「わたし」の態度決定によって、自己が形づくられる実感も感じ取ることができる。それは、好ましい感触だけでなく、自身が世界においては卑小で猥雑な身なのだという自覚にも通じる体験となる。
 人類史は、日本列島の私たちが肌で感じている以上の戦いを感じてきた。ヒトの住む世界が広がり、その数も密となり、互いの生死を賭けた確執も頻繁となった。長年にわたって由緒由来を引き継いでいるうちに、もはやなぜ争っているかもわからないまま、憎しみ合い、恐れ、疑いを抱く。だが、わが身の裡に似たような感性や考え方の欠片が潜んでいることを感得していれば、他のヒトの異質性に対しても、ある種の共感性をもって向き合うことができる。彼、または彼女は「わたし」とは別だが「わたし」とつながっているという感触。これは、ヒトの理解し合う土台を為している。


思い違いが生まれるとき

2022-03-29 08:15:31 | 日記

 昨日は花曇り。だがウィンドブレーカーを用意していれば、あとは長袖シャツ一枚で十分という陽気であった。週1回のリハビリに行く。
 順番は6番目。肩を温めていると、「今日は先生が二人しかいませんので、ちょっとお時間がかかります」と受付の女の方が断る。温めが終わり本を読んでいると、いつものリハビリ士が私に声を掛けて、施療が始まる。「どうですか?」と問うことからはじまる。今朝ほど起きてから右肩に軽い痛みが走ったと話すと、横向きになるように指示して施療に入る。このリハビリ士は5ヶ月ほど鍼施療もやってくれた方で、以来、私のマッサージもこの方が担当してくれている。何度か、このブログにも書いたが、真に的確。見事にツボを押さえ、施療のあとは間違いなく要所がほぐれ、身が軽くなる。去年の暮れまでは、それでも夕方になると右肩が重くなり、風呂のあと湿布薬を貼っていた。施療のあとどのくらいで痛みを覚えるかが、恢復が順調かどうかの目安になるような気分で、リハビリに通っている。
 そのリハビリ士が昨日の施療のあと、「来月から私は月曜日がお休みになりますから、火曜日に来てくれますか」という。もちろん私は了解なのだが、彼女はそのあと「どういう経過を辿るか、見ていきたいと思ってますから」と付け加えたので、彼女の「ご指名」なのだと思った。
 この医院の担当リハビリ士は、固定していない。最初の3ヶ月は、週に3回か4回通っていたのだが、行く毎に担当者が変わった。6人ほどいる中の二人が女性。たいていは男のリハビリ士だった。20代の若い方の女性リハビリ士が鍼を奨めてくれ、8月から鍼施療を受けたのが、もう一人のアラフォーの女性リハビリ士であった。その後、鍼施療を除いてリハビリに通うのが週に2回になり、ときどき男性リハビリ士にあたったが、たいていは、そのアラフォーのリハビリ士が担当してくれるようになって、私も好ましく思うようになっていた。
 その好ましいと思う感触は、なんだろう。なにより施療の的確さなのだが、同時に余計な口を利かないで施療を進めるのがいい。同時に施療している隣のリハビリの声も聞こえるからそう思うのだが、世間話をしながら施療する人たちがいる。リハビリ士がおしゃべりを誘うのかどうかはわからないが、どこそこのサクラがきれいだとか、今年は開花が遅いだとか、どうでもいいことを喋りながら施療している。それはとっても煩わしい、と私は感じる。必要なことは言葉にするが、あとは黙ってわが身と施療者との間を見守っている。それはそこそこ(触感の感受を)緊張してい聞いているから、余計なおしゃべりが挟まるとうまく聞き取れないように感じているのかもしれない。
 そうして昨日「ご指名」と思ったとき、そうか、これを誤解すると、ストーカーになったり、振り向いてくれないことに憤ってDVとか殺人事件になったりするのだと、イメージが飛躍した。相手は仕事として伝えることを的確に(必要最小限に)言葉にする。しかし受けとる側は、それとは別の次元でその言葉を聞き取っていて、仕事と私的なコトとの区別がつかなくなってくる。リハビリというのが身に直接働きかける施療だからなのだろう。
 つまり身に働きかける施療が、日頃、身が触れ合わないことを基本とする社会規範で育ってきた(ことに若い単身の)人たちは、身体的な接触がもたらす心的な関係的充足による安定に満たされていないために、単純な施療を余計心的な要素を加えて敏感に受け止めると思われる。そうする(誤解に浸る)と、なんであのとき好意的に振る舞っていたのに、今こんなに冷たいんだと恨み辛みを溜めるようになる。それが臨界点に達したとき、事件になる。こうした思い違いは、向き合っている人の内側に堆積した「関係史」がかかわっているから、社会的に理解する(他の人たちに分かって貰う)ことは難しい。非対称的というか、一方的に事件が暴発するように出来する。
 そんなことを考えながら、「ご指名」にたいして「そうします。ありがとうございます」と、彼女の意思を拝受した。


やはり言葉ありき

2022-03-28 11:01:36 | 日記

 一年前(2021-3-27)のブログ記事《「かんけい」の気色》を読んで、気になることがあった。
(1)冒頭の「今月で仕事をリタイアする若い人」というのが誰か、思い出せない。コロナ禍もあって、誰彼と会ってはいるわけではない。電話で言葉を交わしたのだろうか。「大宮第三公園」というのは居住地近くを示している。ごくごく狭い私の人間関係。にもかかわらず思い当たらない。どういうことなのだろうか。惚けが進行しているってコトか。
(2)《座標軸の原点は、「わたし」である。それは認識の原点ということであり、「せかい」の原点でもある。》というのは、論理的な規定。ヒトが成長過程で経験的に取得するのは、日々、関わりを持ち、言葉を交わし、他のヒトの応対を感じ、それに対して応答し、それがまたどうヒトの反応を引き起こすかを遣り取りしながら「せかい」を紡ぎ出していく。かかわっている相手の応対によって、「わたし」も「せかい」も移り変わる。論理的な規定は、あたかもかっちりと「規定」が形成されるとそれが保持され続けるように思えるが、実世界ではそうではなく、日々の応答によって感知される「かんけい」によって「わたし」も「せかい」も変容する。と、一般的に言ってしまうとそりゃあそうだろうと思う。だが、もっと具体的に考えてみると、移り変わるというほどスマートに言えることではなく、「わたし」は混沌の渦中にいる。いったい何のために生きてんだろうとか、「わたし」ってなんやと、暗中模索、五里霧中、つかみ所のない「せかい」に「わたし」が浮遊して落ち着きどころが分からず、自分がいやになることも多い。逆に言うと、「せかい」は日々、つくり直されている。「わたし」も日々つくられている。とすると、一貫性っていうのは、なんだ? 私は「わたし」だという確信の根拠って、なんだ? その問いがいつもつきまとう。自問自答が繰り返され、積み重ね、突き崩されていく。
(3)《「科学的」「客観的」事象はどう捉えることができるのか》という問いに関して、その見解を《(信じている人の数の多さ)というのではなく、(エビデンスとか限定した場での論理的正当性とか説明の簡潔さという)権威(の多数派)が作用している》と、支持するヒトの数という「量」ではなく「質」だと言ってはいるが、「量」の多寡のイメージが張り付いている。これは、ちょっと違う。ここでいう「質」も(2)と同様、事々に「科学的」「客観的」であるかどうかを吟味することによって、移り変わる。そして、行き着くところは、「わたし」は何をもってコレを「科学的」「客観的」と判断しているのかと、自身の判断の確信の根拠を自問自答するところへ行き着く。
(4)つまり、他のヒトがどう「その見解」を支持/反対しているかは、どうでもいいことだと気づく。「質」というのは、結局自分自身の確信の根拠を問うことに行き着く。その自問自答へたどり着く蓋然性をもう少し論理的に組み立てて説明する必要がある。さらに、「確信の根拠」というとき、「情報」をどう受け止め、どのように組み立てて、どのような物語りにしていっているかが、問われているのだと思う。
(5)そうしたときに、物語の「質」は自己完結する(起承転結が明々白々に出来上がっている)ストーリーではなく、読み手、受け取り手、応答する人たちとの相互的な物語り(ナラティヴ)が、「かんけい」的には相応しい。遣り取りが発生するのだ。ということは、相互性を保った物語りか、自己完結する物語(ストーリー)かという話しの見立てが、まず見極めの一つの指標になる。これは、オードリー・タンの「オープン・ガバメント」の考え方にヒントを得ている。政策を立てていく過程そのものが、具体的な問題を組み込み、時間的な処理も含めて優先順位を検討し、実際にかかわる人たちがひとつひとつ解決に近づいていく時期と方法を見立てながら、立案し、予算執行して行くプロセス。それこそが、日々、一つひとつ具体的に民主主義を実行する過程であり、そのやりとり(フィードバックと専門家はいう)が、人々の確信の根拠となり、信頼を築いていくのである。これは民主主義の不可避性をも示すことである。
(6)《はじめに言葉ありき、と語りはじめることの嘘くささと、でもそうだよなあ、はじめに言葉ありきだよなあ、と感じる真実味の実感とが身の裡に溶け合ってひとつになっている》次元で、ヒトとのコミュニケーションが交わされるとき、その遣り取り自体の中に「わが身の存在の社会性」が浮かび上がる。「関係的実存」の繰り返す確認でもある。


定期観測の老人会

2022-03-27 08:16:53 | 日記

 昨日(3/26)、新橋で「36会seminar」をやってきた。一週間前に参加者は連絡をしてくる。予約している会場にはそれに基づいて人数を知らせる。
 常連の一人が「年度末の始末があるので」と欠席連絡があった。数えで80になるというのに、まだ頼りにされて仕事をしているのだ。また別の常連一人も「事情があり」と欠席の報せ。この方は、ご亭主の世話に追われてここ十年くらい落ち着かないが、seminarにはよく足を運んできた。ひょっとしたらご亭主から目が離せないのかも知れない。
 参加連絡をしていた一人が、前日になって「所用ができ欠席することになった。会場には一人分減らしてくれと連絡をした」とメールが来た。なんだろう。まだまだ元気な「世話好きおばちゃん」だから、また身近にコトが起こったのかも知れない。
 そして当日、つまり昨日の朝、メールが舞い込んだ。「体調が悪く、今日は欠席します。ごめんなさい」とある。今でも海外を飛び回って建築を楽しんでみている方なのに、思わぬ故障に襲われる。
 つまり、seminar開催の参加の様子を遣り取りするだけで、面々の身辺の消息が伝わってくる。もちろん私は、子細に踏み込んで尋ねたりはしない。踏み込むと、世間話になる。事情を知ると、それがその方のイメージとして身の裡に刷り込まれる。一つひとつ覚えているわけにはいかないから、応対するときにすっかり忘れていて失礼してしまう。そう感じるから、よほど親しく感じていたい人以外には、ほどほどの距離を取る。そういうのが、「わたし」の関係感覚として定着していた。
 それをカミサンは、ヘンだと思っているらしい。知り合いの誰それが入院していたらしいと話しをすると、「どこが悪かったの?」と聞く。「いや、知らない」と応じると「どうして聞かなかったの?」と矛先が私に向いてくる。つまりカミサンにとっては、そうしたことは聞かれなければ話さないことだけれども、できれば話しておきたいことでもあるのよと、向き合っている相手の心持ちを察して、聞くべきだと思っている。たぶんそれが彼女流のおもてなしなのだろう。
 だが「わたし」は、相手の言葉や立ち居振る舞いが伝えていることはできるだけ受けとるが、相手が発信しないことには、こちらから踏み込まない。それが人を尊重することだと思ってきた。もちろん向き合う相手が私に対してもそう振る舞うことを期待し、それ以上を求めることはなかった。
 だから私は、世間話が苦手。ところが、世間話ほど、話す人の人柄を正直に体現していることはないと思うようになった。世間話は、日常の感性やイメージや思いなどの断片である。そこには不用心に、その人の無意識が表出している。なぜそう感じるのか、どうしてそういう言葉にするのか、それはいつからなのかと聞き手がつなぎ合わせていくことによって断片が物語りに変わってくる。
 そうか、新聞や週刊誌の取材記者というのは、こうやって相手から話を引き出し、脈絡を付け、単なる世間話を社会的な出来事として報道するに値する記事にしているのか。つまり聞く力というのは、まず、できるだけ断片を取り出して素材とすること。ついで、それらの断片がもつ素材の脈絡を探り当て、物語という、より大きな次元の文脈につなぎ合わせる。その次元の転換を図るところに社会性が生まれ、世界を語る視線が埋め込まれていく。その素材である断片の受け渡しをしている間の取材記者は、世の中の好奇心を最大限に動員して、根掘り葉掘り聞き出さなければならない。何しろ相手の無意識に触れて、そこから脈絡を探るのだから。だが、それを記事にするときには、世の中のどういう次元にその素材を置くかによって文脈が変わってくる。病で入院したという時、躰の調子と治療法ということであれば、医療体制の問題となる。病と暮らし方となると、経済状態や働き方が俎上にのぼる。老人の生活実情と医療という次元となると、もっと絞り込んだテーマが浮かぶ。その次元を定めることも、じつは取材しながら探っているに違いない。つまり、取材者の心持ちとしては、断片・素材と文脈・物語との間を行ったり来たりしながら相手から話を聞きだしてゆく手練手管が繰り出されているのであろう。
 だが、市井の人の間で、そういう非対称的な関係を保ち続けるというのは、どういうことであろうか。取材対象のように扱われるのは、何だか、とっても失礼な応対の仕方のように感じる。市井の人が取り交わす世間話というのは、何だろう?
 挨拶であれ、愚痴であれ、出遭った出来事に対するその都度の感想であれ、共感や同意を求めたり、違った意見を聞くことも期待の内にある。それは同時に、向き合っている相手の体調や近況や心持ちの現況を確かめ合っていることでもある。それは、超越的に見れば、相互の関係を確かめ合っている振る舞い。その遣り取り自体を対象化して見ることをしないのが、世間話である。
 当然ながら、取材者と取材対象という関係ではない。そうか、遣り取り自体を「対象」としてみるのを相互的に行うのであれば、それは「当事者研究」なのだ。取材するされるという関係にが非対称的なのは、取材を受ける方は当事者であり、取材する方は超越的傍観者である。取材記者の方はたぶん、「傍観者」という言葉に文句を言うであろう。そうじゃないから取材しているんだと。だが、客観報道とマス・メディアという記者の立場を考えると、「傍観者」という立ち位置がもっても相応しい。これが地域メディアとなると、少しニュアンスが変わる。「同じ街の出来事」を取材しているという「当事者性」がほんのりと浮かぶ。それはまた、記事にも反映される。
 さて横道が面白くて、また大きく逸れてしまった。本題に戻そう。
 昨日のseminarは、文字通り世間話の総まとめであった。「まとめ」であるから、今年数え80歳の同窓生という当事者たちが、70歳代を振り返る「当事者研究」でもあった。二月に1回行ってきたseminarがコロナウィルス禍で、断続するようになった。その間に2年が過ぎ、その分、歳を重ねた。それにナラティヴを付けたのがseminarであった。『うちらぁの人生 わいらぁの時代』と題する「36会seminar私記」が上梓されたのは2020年5月。コロナ禍でやってお2年ほど経ってseminarの「お題」として言葉を交わすことができた。昭和17年4月~18年3月生まれという、戦中生まれ戦後育ちの田舎の高校の同窓生が経てきた「人生」と「時代」という次元で読み取ってみるとどう見えるか。敗戦と戦後の混沌、経済成長と一億総中流という希有な時代、そしてその後の失われた「**十年」という社会の変貌、そしてコロナウィルス禍とウクライナの戦争という世界を共通体験として「当事者研究」する。
 それが世間話的に展開したのが、面白かった。講師を務めた私からすると、やっと世間話の入口にたどり着けたという感じ。seminarという定点観測の老人会を始めて、満九年になる。まあ、まだしばらくは続けられそうだ。