mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

雪深い奥日光を歩く

2017-12-31 17:14:36 | 日記
 
 昨日(12/30)朝の奥日光・湯元は良く晴れて風も弱い。赤沼から小田代ヶ原に向かう。8時45分。すでに先行者がいて、20センチほどに掘れた、人ひとりが歩く幅のトレイルがついている。ミズナラやシラカバの林は静かに雪に身を浸している。
 
 湯川を越える太鼓橋を渡ってすすむと、ミズナラに代わってカラマツの林になる。木の枝に実の残りをつけている。そこに飛び交う小鳥たち。立ち止まって双眼鏡を出す。四、五十羽のマヒワの群れ。「エナガもいる」とカミサン。シジュウカラ、コガラ、ヒガラ、ゴジュウカラ、コゲラと、群れの中の一つひとつ見極める。その声の方向の鳥を双眼鏡に納めようとする私の目に、薄緑の身体の頭頂部に赤い斑をつけたアオゲラが木の幹にとりついて木肌をこつこつと叩いている姿が入る。それを口にするとカミサンが、「えっ、どこ?」という。私は双眼鏡から目を離さずに「今、見ている方向の最上部が枯れたカラマツの先端から2メートルほどのところ」と告げる。朝陽を受けて、アオゲラの緑色が鮮やかだ。別の群れの中にアトリも見た。少し進んだところでは八羽ほどのイカルをみる。カミサンが通りかかったカメラをもった三人連れにそれを告げて指をさすが「???」という様子。ことばがわからなかったのだ。彼らは、街歩きの靴でトレイルを追ってきていたのだ。
 
 高い台地を降って戦場ヶ原展望台のあたりで、一組のペアが道を譲ってくれる。スノーシューを履いて、一脚で一眼レフを支えて何かを写している。「風景?」と聞くと、「いいですね、この雪深い景色は」と返ってきた。その先は急に足跡が凸凹として踏み均らされていない。ストックを使わない二人ほどの壺足が先行しているだけだ。そう思っていると、小田代ヶ原の方から、この土地の何か様子を見に来たのであろうか、公園職員風情の姿をした男が二人、速足でやってくる。軽く会釈をして、道を避けてくれる。後からスノーシューを履いた若い三人連れがどかどかとやってくる。道をあける間もなく、脇の深い雪を踏んで、急ぎ足で先へすすむ。
 
 小田代ヶ原のシカ柵に入ったところで、私たちは小田代ヶ原の裏側へまわる。あのシラカバの貴婦人の姿を、いつもは背景の屏風をなしているカラマツの林越しに見る。こちらは誰も通っていないのか、足跡がない。しかも雪が深い。昨日の、三つ岳の小峠林道ほどではないが、30センチほど沈む。キョキョキョという声に立ち止まる。「アカゲラがいるよ」とカミサン。声の方を見ると飛び立ってすぐ先の幹にとまる。アカゲラだ。先ほどのアオゲラに比べて小さいが、頭の先が赤いのは同じだ。その先で、向こうからやってくるカメラマンに出逢った。「マヒワやアオゲラ、アカゲラもいたよ」と告げると、先刻承知のような顔をして、「紅い奴がいませんかね」という。「???」「ベニマシコとかオオマシコがみたいですね」と応じる。鳥については手練れだって言いたいようだ。その人のやって来たのが、私たちの向かう方向であったようで、踏み歩いた後がトレイルになって続いている。むろんスノーシューを履いていた。
 
 小田代ヶ原の駐車場から来る道と合流するところまで2時間かかっている。一息ついて、再び歩き出す。凹凸のある台地の上を戦場ヶ原に向けて下る。静かなミズナラの林がつづく。鳥影は見えない。30分ほどで泉門池に着く。何脚ものテーブルとベンチに上に高く雪が積もって、休んだ人がいないとわかる。一組のペアが先の木道の上の踏み跡を先行している。ふと見ると、雪から頭を出したササの間に、ピンクのリボンをつけた緑のポールが立っている。先の方につづいているのが見える。そうだここは、夏はブッシュで通れないが雪をかぶると、小滝から湯滝へ行く森の道と合流している。15年程前はブッシュをかき分けて歩けたのだが、いつのまにか、ロープを張って通行禁止にしているから、通れなくなってしまった。でもそれは、いまは雪の下。こちらへ行こうというと、カミサンはすぐに応じる。まだこういう元気が残っているところが頼もしい。
 
 だがそのルートの雪は、さらに深かった。膝辺りまで沈む。ピンクのリボンはしっかりとつけられているから、何の心配もいらない。気がつくと、12時を過ぎている。森の中でビニールシートを敷いてお昼にする。いつのまにか陽ざしは消えている。風がないから、穏やかな森の散策という感じがする。20分ほどで、再度歩きはじめる。小滝からの木道に入ったようで、ササの見当たらない雪の降り積もった道という気配が、踏み跡ではなく、筋を引いたように見える。ところどころ階段があり橋を渡って川を越える。やはりピンクのリボンは案内標識になる。湯滝の展望台がみえ、大きく降って川縁に降り立ち、展望台へと上がる。
 
 湯滝展望台には外国人らしい家族連れやペアの観光客らしい人がやってくる。湯滝の最上部が見える。60mほどあろうか。あそこまで上る私たちのルートの先を、登りはじめたペアがいる。追いつくのもなんだから、しばらくそこで休んで、彼らと十分距離が空くようにする。では行こうかと声をかけて、登りはじめる。先行ペアは壺足のようだ。雪が深いから、滑り止めもついているスノーシューの方が楽。ゆっくりだが休まず上る。最後の20mほどのところで、先行ペアに追いついた。彼らが難儀していたのは、上を走る車道の除雪した雪がかぶさってせり出しているところ。それを避けて通るには、雪が斜めに降り積もっている雪面を踏み固めて進まねばならない。斜めに降り積もる左側は、半ば凍りついた湯滝が滔々と流れ落ちているから、いかにもそこへ吸い込まれそうな恐怖感がある。だが壺足の彼らは、踏み込むと(たぶん)腰まで埋まってしまう。そこを通過するのに、四苦八苦していたようだ。私たちは慎重に傾斜になった雪面を踏み込んで平らにし、通過する。
 
 湯滝の上は強い風が吹いていた。一昨日やって来た時にはまだ凍っていなかった湯の湖が、半分ほど凍りつき、その上の雪が積もっている。湯の湖をぐるりと回る散歩道に入る。壺足の人がこちらにやって来た踏み跡はあるが、それだけ。スノーシューで押さえると柔らかく平になる。脇の車道は、師走の30日とあってやってくる車が多い。湯の湖の水鳥は強い風を避けているのか、姿を見せない。キンクロハジロやオオバンがぽつりぽつりと浮かんでいる。ホシハジロの一団が木陰の水上に屯している。
 
 こうして、雪深い赤沼から小田代ヶ原を抜けて湯元までの散策が終わった。行動時間は5時間。心地よい疲れが、温泉の湯に溶けていくように感じる。ビールとワインが待っていてくれた。

吹雪く奥日光

2017-12-29 17:19:11 | 日記
 
 奥日光、湯元に来ています。戦場ヶ原を抜けるあたりでは地吹雪であったものが、湯の湖畔に上ると雪になり、湯元の駐車場にたどり着いたときには、本格的な雪になっていた。風も強く、吹雪と言ってもよい。これは奥日光の気象条件を、よく現している。奥日光には梅雨がない、と言われる。太平洋側の吹き付ける低気圧は、いろは坂や霧降高原の千メートル級の山によって遮られ、いろは坂の上の中禅寺湖などには梅雨の手が及ばない。冬ともなると、中禅寺湖より標高で200m高い湯本は、日本海側の気象条件の影響を強く受ける。豪雪地帯と言われる尾瀬と奥日光は背中合わせなのだ。
 
 そういうわけで、奥日光はずいぶんな積雪に覆われている。孫たちは大喜び。車の足元に積もる雪を丸め、親にぶつける。雪は塊になることなく、力なく崩れる。湿り気が少ないのだ。一年前の正月は、積雪がなくスキー場も閉鎖されていた。今年は大手を振って開設している。まだ歳末休みには早いためか、人手は多くないから、一日券を買ってリフトに乗ると、くたびれてしまう。
 
 さて今日(12/29)、孫たちは親が一緒になってスキー三昧。爺婆はスノーシューで、新しいルートに挑んだ。いや、挑んだというほど新奇なものではない。あまり歩かれない小峠までの林道を歩いてみた。これが考えていたほど軽くなかった。雪が深い。一歩踏み出すとスノーシューを履いているのに50cmほど沈む。おのせいで、一歩が二歩になる。わかってもらえるだろうか。脚を一歩先へ出す。次いでそれが沈む。そこで次に三歩目が出る。それが沈んで、四歩目となるというわけだ。吹き溜まりに踏み込むと、腰まで沈む。膝で押さえてステップをつくるが、あまり効果はない。倒木が多い。倒木ではないが、雪の重みに押し倒されて道を塞いでいるのもある。越えやすいところを見計らい、脚で押さえて越えたり、枝先の方へ回り込んですすむ。婆は後からついてくるからあまり難儀はしていないが、爺が急き立てられている感じはする。おおよその距離から、2時間と見込んでいたのに、小峠まで3時間もかかってしまった。
 小峠には、刈込湖方面への足跡が一つ、あった。そこでお昼にしていると、金精道路を越えて来た二人組がいる。蓼の湖経由ではなく夏道を来て、刈込湖まで行くという。「気を付けて」と声援を送ったのに、彼らが引き返してくる。

「??」。
「先行していた人が、すぐそこから引き返すっていうので・・・」

 と言い訳をするが、なに、そんな必要はない。人それぞれの見切りってものがあるよと、考えている。と、また一人、引き返してくる。ああ、この人なんだ先行者は。軽く会釈を交わして戻っていく。
 
 小峠から私は、蓼の湖い下るルートを考えていた。だが婆は、急な下りはいやですよ、という。それが面白いのではないかと私は思うが、恐さを抑える薬はない。小峠までの時間オーバーを考慮して、引き返す人たちの足跡をたどることにした。当初考えていた小峠からの1時間半が、50分で終わった。無事に下山し、荷物を車に納め、孫たちのスキーの様子を見に行ったが、リフトに乗って上のゲレンデで滑っているらしく、姿が見当たらない。
 
 風呂に入りビールを飲んで、こうして書いている。

静かな、のんびり歳末

2017-12-27 14:57:39 | 日記
 
 年末のルーティンワークを一つ、昨日片づけた。年賀状だ。じつは古いパソコンに入れて使っていた宛名書きソフトが、去年、作業途中でフリーズしてしまった。あとは手書きでしのいだのだが、その後にプリンタが壊れ、新しいプリンタがWIFI仕様で古いパソコンと回線をつなぐ受け口がない。そのことに気づかないまま師走を迎え、いざ印刷しようという段になって困った。本文はつねに使う文書ソフトで作成していたから、また手書きでもいいのだが、この際思い切って葉書ソフトをあらためて購入した。ノートパソコンに入れて作動させる。住所も全部、あらためて入れ直す。それはそれで、たいした作業ではないが、去年の年賀や喪中はがきをみながら去来する思いを一つひとつ吟味して、私の分とカミサンの分をやり終えた。
 
 誰であったか(たしかゴリラの研究者だったと思う)、人の脳の容量が向き合える知人友人の数は150人と言っていた。入力してみると、年賀の付き合いは二人分でほぼ150人。たいした作業ではないというのは、そういうことだ。もちろん付き合う人数と同じではない。年賀などやりとりしないで、毎週顔を合わせていたりメールのやりとりをしている人もいる。逆に年賀の方は、もう十年以上も会っていない人もいて、儀礼的な挨拶はやめようかと思ったりする。こちらが出すから返事で来るのか、互いに見切りがつけられなくて、ずるずると「ご機嫌伺い」をしているだけなのか、わからない。まあ、どちらでもいいし、ほら、生きてますよと知らせるつもりくらいでもいいかもしれない。そんなことを考えながら、年を越す作業をした。
 
 窓を拭く。南側を拭いたら、西側と北側は後でいいかと放り出してしまった。ツカレタというよりもメンドクサイって感じ。思えば50歳代のころは、窓ふきだけでなく、障子の張替えも、年末仕事のルーティンワーク。いつの間にやら、破れていないからいいか、と手を抜くようになった。車の掃除も、自分でやらずに、ガソリンスタンドの洗車機に任せて済ませている。つまり、体力が及ばなくなるというよりは、気力がなくなって、世間の商業過程に回すようにしているってことですね。むろん年のせいにしている。
 
 そうか、こうやって緩やかに老化が進むってわけだと、何に得心しているのかわからないが、自己批評をする。自己批判はしない。もちろん反省もしない。古希を過ぎてからは、己の欲するに従い矩を超えずだと、いささかも前向きにコトを始末しようとしない。そういうクセがついてしまった。まして今年は、後期高齢者になった。何はばかることがあろうかと、威張るわけではないが、胸を張っている。ばかだねえ、こんなことで、と心中どこかに潜む私がツウィートしているが。
 
 「予約本が来ている」と図書館から報せがあった。取りに行く。歩くのはよして自転車で15分、今日は北風が強い。浦和の駅周辺は人手が多い。駅舎と周辺の改装が済んでにぎわってはいるが、大宮ほどではないってところが、私は好きだ。ちょうど、ブダとペスト、京都と大阪。山の手と下町ってところか。山の手の品の良さが好みというのではなく、喧しいところが苦手。そういう自身の好みも、歳をとるにつれ強く表出するようになったのかもしれない。銀行によってお年玉の「新札」を手に入れる。正月には孫たちに爺婆として振る舞わなければならない。その準備だ。
 
 明日から三日間、奥日光に出向く。雪の中を歩き、本を読み、気が向けば孫とも少しは付き合わねばならない。高齢化のせいにして、いつになく静かな、のんびり歳末である。

司法の独立性を担保する「権威」とは

2017-12-25 11:12:31 | 日記
 
 このブログの一年前の掲載記事が、自動送信されてきます。昨年の12/24には《市民社会の「法」の精神の原型》と題して、フェルディナント・フォン・シーラッハ『テロ』(酒寄進一訳、東京創元社、2016年)に関する追記を記しています。詳細は省きますが、ドイツの市民も参加する「参審制」が、法制自体を疑う精神を持っていることに(私が)感嘆したことを述べています。
 
 法制自体を疑う精神というのは、法が社会的な道徳規範と矛盾なく構成されているわけではないことをも見極め、判決に際して(法制に)批判的に組み込むことをしているという事実です。つまり、司法というのが、そのような視点を持ってこそ、立法や行政から独立した(市民社会に基礎を置く)「権威」をもつことができると思うからです。
 
 ここでいう「権威」とは、法とか法制に対して批判的に対峙する姿勢が尊重されているということです。立法も行政の長も(選挙制度を通じて)市民的な評価にさらされます。だが司法は、たとえば立法府の代議士から「頭がいいだけで裁判官になったものが、代議士のつくった法に違憲を申し立てるなど烏滸の沙汰だ」と非難するのを耳にします。だから(遅ればせながら)裁判員制度を作ったともいえますが、日本のそれは「司法の許容する範囲において」認められています。そうして今の日本の司法は、ほぼ検察(という行政)と一体であるかのように振る舞っています。
 
 今日(12/25)の「水俣病審査見通し漏らす」という朝日新聞のトップ記事も、それを表しています。また、先ごろ最高裁が出した「美濃加茂市長の収賄事件」上告棄却裁決もそうです。検察の訴追に対する有罪判決の割合が97%という高率であるという数字を出して司法が行政に追随しているというのではありません。今月の11日に最高裁が出した美濃加茂市長の収賄事件に関する「上告棄却」の判決は、高裁の有罪判決を支持したものですが、その高裁判決は驚くほど市民の常識を破るものでした。詳しくは、当事案に関する名古屋地裁の判決と名古屋高裁の判決を(較べながら)ご覧いただきたいと思いますが、(別の事件で検察と司法取引をしたと思われる)会社社長の「贈賄供述」だけが「自供」として信用され、贈収賄が行われたという場に立ち会っていた人の(そんな事実はみていないという)「証言」は採用されず、贈った側が第三者にその旨述べていたということが採用されるという(検察側の)一方的な証言だけで構成されたものでした。どうしてそういうことが堂々と進行したかは推測するしかありませんが、検察が起訴したうちの有罪判決は97%という検察―司法の一体化というほかありません。(司法取引をしたと思われる)形跡を隠蔽する統治の一体性を保つために出来した裁決と言えます。つまり「権威」によるのではなく、統治機関としての一体化によるなんとも情けない事態だと思います。
 
 「判決が確定するまでは無罪」とか「疑わしきは罰せず」というのは、単に被疑者の人権保護という趣旨だけではありません。警察や検察という行政や(さらには法制という)立法への批判を担保することによって、司法の独立的「権威」が保障されていると考えるからです。その視点を欠いて、法曹の立法・行政・司法が国家支配をめぐってタッグを組むことは、もはや民主主義とさえ言えないものだと思います。とうとう最高裁も、そこまで腐ったかと私は思います。いや、いまさら何を言うか。昔から最高裁は行政と一体になって統治機関としての一体性を保ってきたではないか、という方もいよう。そうですね。
 
 ドイツの司法がもっている独立的「権威」は、ドイツ市民社会のかたちづくってきた市民的論理の蓄積によるものだと思います。「蓄積」というと、すぐに歴史的重みだけと勘違いをされますが、そうではなく、ナチスも含め、自らの歩んできた(間違えたことも含めて)航跡を一つ一つ丁寧に総括して身につけてきた「蓄積」です。ドイツ市民がカント的哲学を常識としていると一年前に書き記しましたが、そういう「文化的伝統」にこそ、その市民社会の培ってきた誇らしさが宿るのではないでしょうか。
 
 日本には日本の文化的伝統があると思いますし、近代市民社会としての歩み方には、それぞれの道筋があると思いますが、果たして日本のどこに、その誇らしさを見つければいいのか、つい疑問に思ってしまうような、昨今の司法と思え、残念でなりません。

人の昏(く)れ方

2017-12-24 09:46:44 | 日記
 
 中原清一郎『人の昏れ方』(河出書房新社、2017年)を読む。図書館の「新刊書の棚」におかれていたのを手に取った。表題が気にとまったからではあるが、「2017年11月30日初版発行」とある。こんなかたちで読むのを出版社は嫌がるだろうが、そんな機会でもなければ、たぶん手に取ることもなかったと思う。
 
 4編からなる。読みすすめて2章目に読み移ったとき、なんだ短編集かいなと思った。1章とほぼ関係がない。かろうじて写真に身をいれているという共通点があるだけ。主人公の名前が同一ではあるが、その二つの章に必然性も関連性も感じられない。ことに2章の人物像の描き出し方はとても未熟に思われ、途中で読むをのやめようと思ったほどだ。
 
 3章を読みすすめて、1章との関連性が浮かび上がる。そうして、1章から順を追って、写真に志を立て、プロの報道カメラマンとしての鳥羽口に立ちながら会社組織の歯車になることを肯んじえない気質ゆえに干され、機会を見つけて戦場カメラマンとして海外に身を置いてやはり悲哀を味わうという、「連作」の構図が見えてきた。つまり、起承転結の四章立てなのだと気づいた。
 
 4章でやっと、文字通りこの表題に相当するモチーフに出合う。あくまでも「他人の死」にカメラのファインダーを通して向き合ってきた主人公が、はじめて自らと重ね合わせて「人の死」というものをとらえるところに到達するという位置づけ。最後の、この4章が書かれたモチーフには、興味を魅かれる。でも、読んでいるものにとっては、まだこの著者は作者という高みに立って登場人物を差配していて、登場人物がおのずからなる必然性を内包して動き回る地点にまで達していない。ストーリーテラーという作家の顔が消えない。上手い作品というのは、語り部がいつの間にか姿を消して、語られることが独り歩きしているように読者の胸中に飛び込んでくる。下手な作品というのは、語り部がいつまでも姿を現したまんまで、物語りが終わる、とでもいおうか。
 
 たぶんそのせいだ。この本の末尾に「あとがき」が差し込まれていた。この掲載四章のうち、第二章は、他の三つの章と書かれた時期が30年も離れている。その言い訳もあって「あとがき」が挿入された。というか、第二章を活かそうとして、他の三つの章が書き下ろされたともいえる。この作家の、若い頃への執着が、歳をとった今となってふつふつと蘇ってきたような、気色の悪さだ。第四章だけの「人の昏れ方」を詰めていった方が、遥かに作品の完成度は高かったように感じられる。