mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

市井の民は皆「門前の小僧」(1)

2023-06-29 07:15:56 | 日記
 畏友・作家の鈴木正興さんから便りが届き、《(この「無冠」で)最近頻りに「門前の小僧」と称していることについて》違和感があると記されていました。


《今在るこことそれを包む世界を繋ぐ糸、個たる己と他者とを緊結する紐をことある毎に手繰りつつ自分自身をも含めた対象に真摯に正対し、持ち前の腰の強さ、靱やかさでもってずう~と他問自問し,今もその風が現在進行形であってみれば、「門前の小僧」だなんて事象は謙遜のし過ぎではありませんか》


 というワケです。褒めておいて批判するなんて、さすが世間をよく知る作家の熟達した技を感じさせます。でもねコレ、「無冠」に注目してますよって気持ち、こう書くと無冠亭もまた黙ってられなくて,また、あれやこれや書く元気が湧くだろうと,ワタシの健康を気遣った「挑発」です。それを承知で,以下のような返信を認めました3回に分けて掲載します。


★ 挑発に乗ります


 正興さんの,ワタシの健康への気遣い、挑発に乗ります。ひぐらしPCに向かいて心に移りゆくよしなしごとを書きつくるこそ、わが健康の源。
 でもね、ボーッとしてると、ただただパソコンの前に座っているだけ、何にも頭に浮かんでこないってこと、ありません?
 あっ、そうか、正興さんはアナログ一筋の人だからPCは、ないわなあ。でも原稿用紙を前にさて今日は何を書こうかと胸の中を覗いても、何にも触るものが無いってことはあるでしょ。
 といって何かなくては一大事っていうような,頼まれ仕事じゃないし、締め切りがあるわけでもない。ボーッと過ごすのは、それはそれで何の障りもなくて、外の世界ではまだ鳴き始めない蝉が耳の中で始終鳴き声を立てていることに気づく程度。結局矢っ張り、ジブンが起点。
 ワタシが「門前の小僧」というのには二つのわけがあります。


★ 知の土台


 ひとつは学生のころから見聞きし、読んできた本や言葉を交わした人から感じた、ワタシの「知」の浅さ。専門学者にもいろいろとあるから、一概に専門家の皆さんとは言いませんが、私が関心を持ってきた専門家の読書量、読みの深さ、切り取り方の微細さと鮮やかさは、ただただ見事としか言いようがないほどでした。ひたすら打ちのめされていました。
 たとえば私と同い年の早生まれ,つまり学齢は一つ上の柄谷行人という人がいます。この方も宇野経済学を学び、英米文学の文芸評論に転じ、いまは哲学者という肩書きで所論を展開している方です。社会運動的な領域をつねに視界に収めて時代を考察しているスタンスは、市井の民としてこの社会に身を置いているワタシにとっても、刺激的です。
 でも決定的に違うのは、土台においている「知のベース」が雲と泥の差ほどの開きがあることでした。若いころには、近寄ろうと思わないでもありませんでした。だが私が仕事を持つころにはすっかり見極めをつけていました。土台になる身の処し方がそもそも違うと直感したからです。
「知の土台」とは「身のこなしの文化性」です。刈谷剛彦に言わせれば家庭資本の違いというかもしれません。ものごとを何処で切り取り、どういう世界において展開し、なぜそうするのかという次元で考えたとき、大学のころからすでに、壁のような差異が見てとれるのです。学生のころは、若さ故に「勉強が足りない」と思っていました。そうじゃないことに気づいたのが、大学を卒業するころでした。
 気づいたというのは、わが身に関して見切ったことでもあります。つまりワタシが身を置いている世界は、知識人の世界とは違うという見切りです。知識人たちの研究成果や著書に触れることはできます。柄谷行人が目にしている著作物をワタシが手に取って読むことも、できないわけではありません。だが、そこで得た情報を処理する身の裡に揺蕩う処理装置の深さと広がり、それを表出するときの世界の高さ、広さ、奥行きは、彼の知識人には見えているに違いないのに、ワタシには見えないってことが、たびたび感じられます。ワタシは紛う方なく「門前の小僧」なのです。(つづく)


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