mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

海外交易の島々(1)彷彿とさせるその豊かさ

2024-09-30 09:31:18 | 日記
 壱岐と対馬へいってきた。所謂パック旅行。いったことのない初見の土地へ行きたいというカミサンに誘われて、重くもない腰を上げた。初見の土地を見るというのは、私も好きだ。だが自分からそれを探し出して重い腰を上げようという気はない。だが、誘われると腰が軽くなる。根が軽いからだと自認して足を運ぶと、そこで聞いた話しや見たことがわが胸中を経巡り、ワタシの脳作業を刺激して自問がふつふつと湧き起こる。それがタノシイ。
 羽田から福岡空港へ飛び、博多の港から壱岐へ渡る。羽田から6時間くらいで壱岐の郷ノ浦港に着いた。正確無比の日本の交通手段のお陰。それとこの時期いくつもやってくる台風襲来の隙間だったり逸れてくれたりしたせいで、計画通りにコトが運んだ。
 いや、このお天気のことは特筆しておかねばならない。出発の日、駅までの間に雨が落ちてくる予報があったが、ぱらりともなくて。運がいいと思った。それ以降、一度も傘を出さず好天に恵まれた。日本海は太平洋岸と違って波は穏やかなんですと力説して、北前船の交易が発展して越前越後陸奥国までの港町の繁栄と文化を賞賛した東北・秋田のツアーガイドを思い出していた。博多港からの便もジェットフォイル。1時間余で70kmほどを航行したのだから車並みの速さで渡っている。そのほかにフェリーも運航されているようだから、壱岐島との往来は頻繁と言えそう。「離島」に対する私のおもいこみが浮き彫りになる。
 翌日対馬へ向かう途中、海上からこの壱岐島を眺めてよくよくわかったのは、この島が平たいこと。最高点は標高212mの岳ノ辻。では、水はどうしてるんだと不思議。地下水を汲み上げているそうだ。たぶん、周りの海からの風によって絶えず水蒸気が運び込まれている。帰宅後に調べてみると、年間降水量は1700mmほどある。多い方だ。しかも雨の降る日数がほぼ毎月9日ほど。雨量の少ない冬、1月の降水日が10日とあったから、地下水を溜めるには程よい降り方をしている。気温も、冬場が7~8℃、夏場が26~27℃と対馬暖流に恵まれて、落ち着いている。
 なんでも長崎県で二番目に広い平野をもつと聞いた。そうか、長崎は山坂と多島の県だ。広い平野部がなくて当たり前か。その原(はる)の辻と呼ばれる平野部には水田が広がり、すでに刈り取った稲穂にはひこばえが生えて大きくなっている。まだ刈り取り前の田には稲穂が頭を垂れている。豊かな米作地。酒造会社が7つもある。うまい水と、米と麦を1:2の割合で合わせて焼酎を造る。それが壱岐焼酎として名産品になっていた。豊かな島なのだ。
 郷ノ浦港から島西部の猿岩と黒崎砲台跡を案内する。ツアー客は24人ほどだが、バスは大型なので、後の方の座席はガラガラ。バスガイドは地元出身のアラサーの女性。一度島を出て働き戻ってきてこの仕事を手伝っているという話しをしていたか。島のことを伝えお喋りするのがたまらなくタノシイという感じで、生まれ育ったこの島に対する愛着が言葉の端々に染み渡っているようであった。
 宿は「民宿」とあったから「離島の民宿」とおもっていた。予期に反して、料理などは大きなホテル・旅館に見劣りしないくらい豪勢であった。宿のシステムも合理的で清潔感に溢れている。
 翌日半日、島を見て回る。一支国博物館の「魏志倭人伝」に描き込まれた国名などが当てはまる弥生時代の遺跡が発掘されたことで、三大遺蹟といわれていると知り、そういえば青森の三内丸山遺跡も佐賀の吉野ヶ里遺跡も行ったことがあると、三跡マニアのカミサンは喜んでいた。知らなかったなあ。そうか、そういえば邪馬台国論争の発端にいつも措かれているのが、「魏志倭人伝」であった。海上を何日、陸上を何日と経路を辿ると邪馬台国に行けるというが、それは大和なのか九州なのかと五月蠅いほどであったなあ。そのうちの、ここだけが間違いなく記述に合致する一支国というわけだ。環濠集落なども発掘され、それらを展示してあるのがこの博物館。まさしく海外との交易の拠点となった島であった。
 何でも黒川紀章が設計したというこの博物館で、弥生時代の交易などの説明を受け、南西に面したブラインドがするすると上がる。と、眼下、数キロ遠方にその遺跡を発掘し弥生住居を模して建てた集落跡が一望できる。ははは、いや、見事な造りだ。原(はる)の辻と呼ばれる水田の真ん中にある。つまりこの博物館は、原の辻を望む標高百余メートルの高台に建てられている。何でもこれが完成する前に設計者は亡くなったともいうから、ま、謂わば彼の遺作といった風情か。この遺跡の発掘は、水田耕作の合間を縫って発掘場所を移りながら行っているという。この先何年かかるか、何が出て来るか楽しみ満載という響きが、案内人の声からも伝わってきた。一望の中には、海から遡上してこの集落へ訪れた川も含まれ、島南端の最高峰岳ノ辻も見晴らせ、明るい陽ざしに照らされて2千年前の景観もかくやあらんと思われたのであった。(つづく)


ない袖は振れない

2024-09-29 08:54:01 | 日記
 離島への旅から帰ってきました。昨夜、日付が変わる前に家に着き、ホッとするというより、すっかり草臥れていました。そろそろこういう旅もリミットに近づいているのかもしれません。それについては、また後に書こうと思っています。
 忘れないうちに、今朝目が覚める前に見ていた夢のことを記しておきます。いや、起きてから2時間半というのに、もう、おぼろになっています。
 学生なのでしょうか。それとも何かのワークショップでしょうか。私はその中の一員。何か重大な「発見」をして定式化するのですが、それは「(ワタシは)ない」という「定理」のようなことです。ところが、それが周りの人たちからさまざまな非難・批判を受けます。でも私の確信は揺るぎません。
 精確には、「ワタシが」「ない」なのか、もう少し違う「セカイが」「ない」なのか、「実在が」「ない」なのか、その核心部分辺りの記憶がおぼろになってしまっているのです。しかし、夢を見ているときのそれは、間違いなく存在の根幹に関わる「何かが」「ない」という大定理なのでした。「それが」「ない」から存在するというアクロバティックな展開をしています。
 非難・批判を受け、しかし、自信たっぷりに遣り取りをします。デカルトも登場し、「我思う故に我あり」も「ない」のかと思案し、証拠実証主義批判をして、「ない袖は振れない」と返してもいます。
 ぼんやりと目覚めて思うのは、セカイはカンケイばかりで出来上がっていて、実体的には「なにもない」という観念論哲学のスタート地点のセンスのようにも思えますが、それとは違っている感触が、シカとあります。外の実在は「カンケイない」とみている風情ですかね。
「空」とか「無」というと、ちょっと違ってしまう。でもそれに近い、人の実在を核にした空無の感覚。「虚空」「虚数」があることによってカンケイが紡がれ実在が浮かび上がるというような、不思議な世界観がワタシの裡側に出来上がっていました。
 ヒトが存在することによってセカイが紡がれ、浮遊するヒトを軸の原点にして世界の座標軸が定まり、というと、ヒトの数だけ座標軸のあるセカイが錯綜乱立し、うん、そういえばそうだねえ、今のセカイは、と腑に落ちるような世界観の大定理。
 なんでしょうねえ。ワタシの願望なんでしょうか。予兆なんでしょうか。それとも、先月水晶岳を歩いて後に見た夢のように、身体の動きが巻き起こしたワタシの脳作業の一欠片が、垣間見えたのでしょうか。不思議と、オモシロサを感じて、忘れまいと記しおく次第。
 でもね、ない袖は振れないと、オチまでつけてあって、寝ているときに落語会でもやっているみたい。だれであったか、寝ているときの方がヒトの本体であって、起きているときは実在の根拠を支えるエネルギーの生成補填作業。実務作業。寝ているときの夢こそ、生きている証しという所論もあったなあ。それかもしれないと気に留めました。

八十路爺の「自然(じねん)」

2024-09-26 06:12:07 | 日記
 一年前(2023-09-24)のブログ記事は、昨日触れた「八十路爺の境地」を言い当てている作家の言葉を拾っていました。これも、いわれなければ忘れてしまっていましたね。繰り返し、読み返すことで、八十路爺の境地として取り出すことをしなくちゃならないのかもしれません。でもまあ、こうやって、読み返して身に染みこませるのがいい、今はそう思っています。
 これから、遠方の「離島への旅」に行ってきます。さて、どんなワタシに出逢えるのか。ちょっとワクワクしています。
  ***
泡のような「核心」

 メイ・サートン『終盤戦 79歳の日記』(幾島幸子訳 みすず書房 2023年)を読む。書名が目に止まって手に取った。この方は名のある作家らしい。1912年生まれというから私の父と同じ年の生まれ。亡父より十年程長生きをしている。
 78歳から79歳にかけての一年間に書き記した日記を80歳で本にしたもの。八十路を歩く私の、まさしく身にまつわる響きを湛える。400ページほどもある。400字詰め原稿用紙にすると900枚ほどにもなろうか。毎日ではなく、3日4日飛んだりしているのは、憩室炎という病に出逢って、痛みをこらえるのも大変という身体状況とか、階段の上り下りや庭の手入れにでるのさえ覚束なくなる様子があるためのようだ。
 そうなんだ、歳をとるってことは、こういうことなんだとわが身に照らして思いながら読みすすめる。この日記を書くことが彼女の生きるモチベーションになっている。名のある作家だったようで、読者からの手紙や知人の電話、訪問客が結構多くて、とても私と比較にならない。ただそれらの出会いが彼女の心に立てるさざ波がとらえられ、子どものころのことや詩人・作家として登場したころの体感と往き来する思いが書き落とされていたりして、ワタシの日常と響き合うものを感じる。
 ひとつ、そうそうそうだよと思うオモシロい記述があった。メイ・サートンが小学生のころ教師がクラスを落ち着かせるために詩を読み聞かせ、数分静かに耳を澄ますことをしたエピソード。「平和」と題したその詩の書き出し。

求めれば手に入るものではない
たゆまず努力をすれば手に入るものでもない
それはみつかるもの

じっと動かないで耳を澄ましてごらん
じっと動かないで、まわりのものの静けさを
飲みこんでごらん

 このあとに二連紹介されているのだが、冒頭の詩は、まさしく私の「自然(じねん)」、中動態の世界を取り出している。英語を母語をする人たちが「中動態」をどのように受け止めて感じているのかわからないが、自らを自然存在として措定していればこそ、「それはみつかるもの」という表現に突き当たる。
 逆に言うと、今の時代は、自身だけでなく世の中全体が絶え間なく動き回り、非日常的なもの、新奇なこと、驚嘆することに満ち満ち、いやそれに満たされてなければ「退屈」してしまうような感性を育てている。ヒトの感官は絶えず外から送られてくる刺激によって揺さぶられ、そのうち揺さぶられてないと落ち着かなく、寂しくさえ感じるように磨かれてきている。つまり人為の情報化社会が身の裡に染みこんで常態となり、人を作り替えていっている。
 そこへ二連目の「動かないで」と呼びかけて、自らの変わりように心を留めることをすすめる。自分自身は気づかずに変わっていっていることに気を傾け、「耳を澄ます」「静けさを飲み込む」ことによって「みつかる」という。自らの呼気や佇まいを浮き彫りにするのは、こうした振る舞いによって自らを感じ取ることによってでしかないと、この詩は謳っていると思った。
 それと連動しているかどうかをこの作家は記していないが別の所で、25歳のころの自分の言葉の変わりように触れた一節がある。ある公開討論会に招待されたときのこと。会場に早く着いたこの詩人・作家に参加者から声がかけられ、
《……質問に答えたりしているうちに、かなり活発な議論になった。ところがほかの二人の男性パネリストがやってくると、そのとたん、自分の話し方が変わってしまった。無意識のうちに、それまで自信に満ちたきっぱりした話し方だったのが、穏やかで温和しい口調に変わったのだ》
 これはあとで参加者の一人の女性が「どうかなさったんですか?」と心配するほどの変わりようであったとして、
《男性二人が現れたとたん、私は長年かけてつくりあげてきた自分ではなく、女性はこうあるべきと期待されている態度をとってしまったのだ》
 と、述懐する。
 このような自分の無意識が「みつかる」のは、現役のときには難しいかもしれない。日頃、ものを書き、人間考察に深みを持つ作家ですら、79歳の日記に於いてやっと、「動かないで」「耳を澄ます」ことができる。人生の終盤戦は、そういう意味において、自然存在としてのヒトであるわが身を、静かに省察するオモシロい機会なのかもしれない。
 齷齪と働いている現役時代、古代インドの四住期にいう家住期(25~50歳)と林住期(50~75歳)の時期にはなかなか世俗から切り離してわが身を落ち着かせることができない。それが遊行期までくると、まさしく終盤戦。
 動けなくなる/動かなくなることも含めて、静かにわが身を振り返る自己省察の秋を迎える。そのときにこそ「みつかる」ことが、人生を総覧する機会だと、この本は伝えているようだ。みつけるではなくみつかる。その幸運に出逢えるかどうか。
《遊行期は、75歳から死ぬまでの時期で、人生の終わりに向けて準備をする時期です》
 と、生成AI・Bingは表示する。八十路ともなるともうとっくに、そこへ踏み込んでいる。終盤戦の「核心」に遭遇できるかどうか。いや、たぶん、何度も出会しては消え、出遭っては忘れる、沼から浮かび来る泡のような「核心」ではないかと、ワタシの直感は言葉にしている。
 心して、受け止めよ、「みつかる」のを。

八十路爺の境地

2024-09-25 07:12:52 | 日記
「値踏み」を依頼してきた知人へ、まだしばらく時間がかかることを知らせるメールを送りました。現役世代と大きな違いがあることを知らせようという「前菜」の第七弾になりましょうか。
  ***
 昨日やっと「データ修復」をしてくれるところへハードディスクを送ることができました。これから現物を見て診断し、見積もりを出してから修復作業に取りかかりますから、まだしばらく時間はかかります。
 前菜といっては何ですが、ちょっとした遣り取りをお話しします。先日、大学時代の同級生から「令和6年の甲州葡萄を送ります」とメモの入った宅配便が届きました。彼ら夫婦が退職後に実家に帰り、父祖の育てていた葡萄畑を引き継いで世話をしてきました。
 葡萄も歳をとったせいでへたれてきて、手入れに手間がかかる。地元の専門家である幼なじみにいろいろ手伝ってもらい、教わりながら何とかやってきたが、この暑さもあって、毎年、これが最後かなと感じていると記されていました。
 それへの御礼メールを送ったところ、こんなメールが返ってきました。私の送ったそれへの返信と合わせ、八十路爺の境地を、ご笑覧ください。
  ***
Fさま
葡萄を喜んでいただき嬉しいです。
山歩きの労作や小夏を頂き、お礼をどうしようかと思い、昨年は確か白菜や大根などをお送りしましたが、今年は葡萄にしました。お送り出来るのは今年が最後になるかもしれないと思ったからです。本も読まず、こんなことのために時間を浪費している姿をお笑いください。
最近、大菩薩に登った話に驚きました。
勝沼インタ-からほど近い甲州街道に我が畑は面しています。ほぼ同じコースで何度か大菩薩には登りました。最後に登ったのは5年ほど前。でも最近は階段で2階に登るのさえよろよろとヨロケておぼつかなくなりました。山登りなど全く無縁になりました.。運転はしていますが、高速道路は走らないことにしています。甲府から勝沼まで20Kを通うのがマイカ-のメインの仕事です。
足腰だけでなく、最近耳が悪くなりなました。特に家内の言うことが聞き取れず、会話すらできないと嘆かれています。こんな我が身と比べれば、なんと貴兄は元気で文化の香り高い生活をしているかと感嘆しています。
葡萄をお送りしたことで近況が分かり良かったです。益々お元気でご活躍ください。 T
   ***
Tさま
 八十路の人生ですもの、四苦八苦は当たり前です。身体は言うことを利かない。動きはのろい。バランスが悪いから、ストックをつかないと山歩きはできない。四輪駆動です。つまり動物時代に還って、四つ足で歩を進めます。両腕、ひいては両肩に負担がかかり、山を歩いた後は、肩が凝り固まって、いつも湿布を貼っています。でも、動物に還るってのを、心地よく感じているワタシがいます。今日も無事に過ごすことができた。運も良かった。Tさんとこうやってメールの遣り取りもできる。こういう単純なことが、なんともうれしい。ずいぶん、いろいろとラッキーなモノゴトに囲まれているとわかります。
 いろいろと不都合が多くなったっていっても、私たちの世代には生まれたときから、そうした困苦はつきものでした。苦難には強い、貧乏には負けない。これはかけがえのない気質です。あなたは「本を読む」ことを上等なことと思っておいでのようですが、私は「土に親しむ」ことを、最上等の生き方と感じています。自然に還れってことです。
 私は土を耕す、花木を育てるというセンスを、どこかに置いて、育ってきました。四国高松という町に生まれ、商家の子として生い育った経歴もそうです。丹念に土と向き合い植物と親しむという性癖を育てるのに失敗しています。四国のチベットと呼ばれた山奥の農家育ちであったうちのカミサンを見ていて、つくづく自分に欠けているものを感じます。せいぜい私にできることって、擬似的に自然に還ること。そう思って山を歩いています。でもそれだけでは絶対に一つになることはできないとも、思いました。
 人は歳をとってやっと「ふるさと」へ戻ってくるのだなあと、日々、あれやこれやよしなしごとをおもいながら、結論的に強く感じている次第です。「ふるさと」って、身に堆積している無意識の人類史なんですね。
 あなた方ご夫婦の生き方そのものが、人類史の生き続ける希望のようにおもっています。お元気で。 F /追伸:本当に涼しくなりました。「彼岸まで」という自然が、変わらず続くことを祈ります。


画竜点睛を欠く

2024-09-24 09:20:11 | 日記
 先日(2024-09-22)「溶け合わない対立」と題して取り上げた、広井良典『脱「ア」入欧』(NTT出版、2004年)を読み終えて、ああ、これ20年前に書かれたんだとあらためて思った。前回紹介したのは本のさわり。本書のタイトルが示すように、《脱「ア」入欧》を軸にして社会保障論を展開する。
 アメリカとヨーロッパの政治哲学と「福祉(社会保障)ー環境ー生命倫理」に於ける特徴を比較・対照させて(持続可能な福祉社会を「定常型社会」と名付け)、ヨーロッパ流の道を選び取る道を模索する。
 ちょっとその入口を門前の小僧ふうに紹介しておく。
 まず、北欧流を社会民主主義①、アメリカ流を自由主義②、独・仏流を保守主義③、と三タイプを取り出し、それぞれを四つの指標で、こう切り分ける。
「基本理念」①自立した個人+公共性(公的福祉)、②自立した個人(→市場)、③伝統的な家族や共同体、
「A社会保障」①普遍主義モデル(税中心)、②市場型モデル(民間保障中心)、③社会保険モデル(社会保障中心)、
「B環境」①環境主義(ないしエコロジズム)、②開発ないし自然支配(cf.ダーウィニズム)、③自然との共生(伝統的な自然との関わり)、
「C生命倫理」①公共主義的生命倫理(公的規制を重視)、②自己決定主義的生命倫理(当事者の自己決定重視)、③伝統主義的生命倫理("自然の摂理"など)
 途中で一つひとつ概念を明らかにしながら進むのだが、一見してわかるように「自由主義(リベラリズム)」という概念もアメリカとヨーロッパとでは(政治的には)逆に現れている。あるいは「保守主義」は、「伝統的」自体が揺れ動いていて、どこの国でいつの時代のそうであったかを考えて措かないと、一概に扱えない。
 たとえば実際の社会保障を考える場面では、①②③のハイブリッドが、それぞれの政治主権を担う勢力の支持層の混淆によって出来上がっている。知的エリートが率いるヨーロッパは、ある種の哲学的一貫性が垣間見えるが、それ以外の地域では率いる政治家自身が経験的な(利害と文化の混淆の上に)政策提起をしているから、上記三タイプに分けること自体が難しい。
 だが分類するというのは、こうしたてモデルを引き合いに出して、それに照らしてわが身の「しこう(嗜好・思考・志向)」のどこがなんで混沌としているかを見極める思考実験のプロセス。そう考えると、いや、なかなかオモシロイ分け方だとあらためて思う。
 差し詰め日本は、市井の民衆の根っこには「北欧タイプ」の無意識が働いている。自民党政治のアタマの中は「独仏流保守主義」に裾を引かれながら、身の振る舞いは、じつは「アメリカ流自由主義」の市場しか眼中にない。いや政治家ばかりではない。官僚たちも、社会システムとしては伝統的保守主義的な社会保障制度の型を引きずりながら、市場経済の自由主義に翻弄されて制度的なパッチワークを繰り返し、いまやその型は形骸化してしまっている。社会システムに身を合わせていくほかない産業家たちも、そこに雇傭されて暮らしを立てるほかない庶民たちも、市場に於ける個人主義・自己決定・自己責任がキモなんだなと自らに命じ、慎ましくも健気に危機に備えて蓄えておこうとしているのだと。その総集が、バブル崩壊以降の「失われた30年」に現象している。
 広井良典の論展開を読んでいると、アメリカの特異性が浮き彫りになり、ヨーロッパの階級社会センスが日本には薄いと感じ、そうか、ヨーロッパの社会的連帯の底面にはキリスト教的な(普遍的)連帯感が(たぶん今でも)流れていて、その集団的無意識が「社会民主主義的な社会保障」を支えているという気配も伝わってくる。広井もそれに気づいているが、どう手を出していいか本書では明らかにしていない。
 私見ではおそらく、《市井の民衆の根っこには「北欧タイプ」の無意識が働いており》というところに、「社会民主主義的な社会保障」を支える気分の土壌はあると感じる。だが、身の振る舞いの「アメリカ流自由主義」に長く慣れ親しんだ身体が、もはや社会的連帯を支える心持ちを揮発させつつあるようにもおもう。
 ただ、COVID-19のような災厄、近年の、地震・大雨・洪水・台風などの被害が激烈になってくると、次はわが身と庶民は構えるから、それが社会的連帯の再生の機運へつながるかもしれない。もちろん無意識の列島住民という連帯の範囲も(日本語という母語同様)自然に形成されている。
 ま、こうして広井良典の本を読み進めたのはいいが、画竜点睛を欠くことに出喰わした。
 広井は、社会保障や環境・生命倫理にも言及してながら、日米のつながりから日本が自律する道筋をイメージしようとして、ヨーロッパに加わろうとしているロシアとの関係に注目し、また、軌道に乗りかけたばかりの資本主義勃興期の中国との文化的な共通性を意識して、東アジアの国家的な連携を視野に入れる必要があると展開している。
 本書が出版された2004年といえば、ロシアの暴虐も、中国がアメリカと覇権を競うという状況も、いやそればかりか日本自体のこれほどの落ち込みも、予想されてはいなかったろう。世界情勢が現状のように変わってきたことを予測できなかったのは致し方ないとしても、でもその読み誤りについては(地政学的な視線の欠如もふくめて)広井自身も(読者である私も)、それらは言わずもがなであったと反省しないではいられない。そう強く感じた。
 画竜点睛を欠くというのはこういうことかと、読み始めと読み終わってからとの落差に、ワタシは臍を噛んだ。