家族との団欒で過ごす正月休みは、小生にとっては、通常の生活とは趣を異にする、言わば『非日常』の世界である。
そして、そんな非日常の世界から、日常の生活に戻ったら真っ先にしたかったのが音楽を聴くこと。
理由は二つ。
第一は、昨年の暮れに新生児のNちゃんと孫のKちゃんを連れて娘が我が家に来てから、Nちゃんに子守歌代わりにバッハの音楽を小さな音で聴かせる以外は、全く音楽に縁のない生活が続いていて、音楽への『禁断症状』状態にあったこと。
第二は、昨年暮れにKさん邸のタンノイオートグラフで聴いた『天使の歌声~アヴィニョンからの聖歌』の天上から舞い降りて来るような美しい声、いつまでも、いつまでも聴いていたい『心地よい』音楽、この音の体験が頭から離れず、我が家のオーディオ装置で聴いて、タンノイとの違いを確かめてみたい、という強い思いがあったこと。
そして、日常生活が戻って来た一昨日、久々にオーディオ装置のスイッチを入れた。
今年の『聴き始め』となった『天使の歌声~アヴィニョンからの聖歌』
ノートル・ダム・ド・ラノンシアション大聖堂付属女子修道院聖歌隊
真っ先に聴いた『天使の歌声~アヴィニョンからの聖歌』の清澄な歌声は、あたかも渇いた大地が水を吸い込むように心に沁み渡った。
Kさん邸のタンノイオートグラフのあの天から音が降って来るようなスケール感は、小生の装置では望むべくもないが、いささか箱庭的な美しさながら、音の透明感においては我がスピーカーのLo-D HS-500も決して引けをとらないと大いに満足した次第である。
これから春までには、少し間がある。
その間は、弟から借り受けたフェレンツ・フリッチャイ、カルロマリア・ジュリーニ、ラファエル・クーベリックと言った指揮者のCDをじっくりと聴いて見たいと思っている。
ブログ投稿600回(ブログ開設から1,647日)
今回の投稿で600回(ブログ開設から1,647日)である。
500回目の時に、これからも、一歩、一歩という山歩きの精神で、次なる新たな『頂(いただき)』を目指したいと思っている、と感想を書いたが、あの日から207日かけて600回というさらなる頂きに到達したことになる。
以前にも書いたことだが、ブログの世界は、一歩、一歩を積み重ねていく『足し算の世界』であり、これからも次なる『頂(いただき)』を目指して一歩の歩みを続けて行きたいと思っている。
そして、そんな非日常の世界から、日常の生活に戻ったら真っ先にしたかったのが音楽を聴くこと。
理由は二つ。
第一は、昨年の暮れに新生児のNちゃんと孫のKちゃんを連れて娘が我が家に来てから、Nちゃんに子守歌代わりにバッハの音楽を小さな音で聴かせる以外は、全く音楽に縁のない生活が続いていて、音楽への『禁断症状』状態にあったこと。
第二は、昨年暮れにKさん邸のタンノイオートグラフで聴いた『天使の歌声~アヴィニョンからの聖歌』の天上から舞い降りて来るような美しい声、いつまでも、いつまでも聴いていたい『心地よい』音楽、この音の体験が頭から離れず、我が家のオーディオ装置で聴いて、タンノイとの違いを確かめてみたい、という強い思いがあったこと。
そして、日常生活が戻って来た一昨日、久々にオーディオ装置のスイッチを入れた。
今年の『聴き始め』となった『天使の歌声~アヴィニョンからの聖歌』
ノートル・ダム・ド・ラノンシアション大聖堂付属女子修道院聖歌隊
真っ先に聴いた『天使の歌声~アヴィニョンからの聖歌』の清澄な歌声は、あたかも渇いた大地が水を吸い込むように心に沁み渡った。
Kさん邸のタンノイオートグラフのあの天から音が降って来るようなスケール感は、小生の装置では望むべくもないが、いささか箱庭的な美しさながら、音の透明感においては我がスピーカーのLo-D HS-500も決して引けをとらないと大いに満足した次第である。
これから春までには、少し間がある。
その間は、弟から借り受けたフェレンツ・フリッチャイ、カルロマリア・ジュリーニ、ラファエル・クーベリックと言った指揮者のCDをじっくりと聴いて見たいと思っている。
ブログ投稿600回(ブログ開設から1,647日)
今回の投稿で600回(ブログ開設から1,647日)である。
500回目の時に、これからも、一歩、一歩という山歩きの精神で、次なる新たな『頂(いただき)』を目指したいと思っている、と感想を書いたが、あの日から207日かけて600回というさらなる頂きに到達したことになる。
以前にも書いたことだが、ブログの世界は、一歩、一歩を積み重ねていく『足し算の世界』であり、これからも次なる『頂(いただき)』を目指して一歩の歩みを続けて行きたいと思っている。