折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

映画は原作を越えられる?~PARTⅡ『ミッドナイトイーグル』

2007-12-02 | 映画・テレビ
以前<映画は原作を越えられるか?>というタイトルで『東京タワー、オカンと、ボクと、時々オトン』(07・5・25付ブログ『映画は原作を越えられる?』)を取り上げたが、今回は現在上映中の『ミッドナイトイーグル』である。


ミッドナイトイーグルを最初に読んだのは、4年前である。
その年の5月から8月にかけて図書館から「メルトダウン」、「イントゥルーダー」、「スピカ~原発占拠」、「都庁爆破」、「M8」等の高嶋作品を次々に借り出して読み漁ったが、一連の作品群の中で最も印象に残り、ベスト1だと思ったのが「ミッドナイトイーグル」であった。(その時、映画化されたら面白いだろうな、と思った。)


今回映画化されると言うので、もう一度読み直した。(読んでから4年もたっているので、「面白かった」というのは覚えているが、内容はほとんど忘れてしまっていた。)


「ミッドナイトイーグル」高嶋哲夫著 文芸春秋


物語は冬の北アルプスに墜落した『火球』の謎を追う、報道カメラマン・西崎と
横田基地に侵入した北朝鮮の工作員に接触する、記者で西崎の妻・慶子が主人公。

この二人が別々に追いかけていた『謎』が一つに収斂された時、明らかになる驚愕の事実。

墜落したステルス爆撃機に搭載された『核爆弾』の争奪をめぐって、猛吹雪の中、どこからの助けも受けられない、陸の孤島と化した雪山で繰り広げられる、侵略者と『国』をそして自らの『家族』を守るべく立ち向かう、男たちの壮絶な戦い。

事件に巻き込まれ運命に翻弄される主人公たち。

日本滅亡のカウントダウンが始まる・・・・・・。

そして、別離の『デッド・ライン』が刻々と迫る中、当事者である夫妻の間で交わされる短いが、心を揺さぶる会話。

涙なくして読めない感動のエンディング。


原作を読んで涙した読者の一人として、あの感動がどのように映像化されるのかと、大いなる期待を胸に映画館に足を運んだ。


ただ、これまで小説を映像化して、期待通りになった試しがないという経験則に照らせば、今回も一抹の不安があったのも事実で、原作者の高嶋哲夫さんが公開前の映画関係者のインタビューで『原作を越えて欲しい、でないと映画化する意味がない』(劇場用プログラム)と語っているが、その思いもむなしく今回もまた、映画はやはり原作を越えることができなかった、というのが小生の映画を見終わっての正直な感想である。


劇場用『プログラム』


映画は、原作に比較的忠実に作られていて、冬の北アルプスの雄大な景色、出動して行く自衛隊の車両、救出に向かうヘリコプターなどのリアルさは、映像ならではの効果満点であるが、【違和感】を感じて素直に肯けないところがいくつか見受けられた。

例えば、ステルス爆撃機『ミッドナイトイーグル』が墜落した北アルプスの現場と国家安全保障会議が開かれている官邸とを結ぶやりとり、これはこの物語のクライマックスの場面なのだが、映画では、ミッドナイトイーグルの機内に設置されているCCDカメラを使って主人公の西崎をスクリーンに登場させているのであるが、ここは『顔』ではなく原作のように、見えぬ姿を思い描いて、『魂の叫び』を思いを込めて語るには、無線を通して話しかける『声』の方が、リアリティにおいてよりすぐれていたのではなかろうか。

また、物語において重要な役割を果たす編集長の性格付けについても、それぞれ意見があると思うが、小生が、どうしても承服し難かったのは、原作ではヒロイン役の慶子は主人公西崎の妻であったが、映画では亡妻の妹になっている点である。

『何で』、『どうして』とその意図に疑問を呈さざるを得ない。

この作品のテーマは【家族愛】であると作者自らが語っている(前掲インタビュー)とおり、原作では、ある事情が原因でお互いの心が通わなくなり、別居中の主人公・西崎とヒロイン・慶子が『国家の滅亡』と言う極限状態に遭遇し、その危機に立ち向かう中で、壊れた愛を修復、再生していく、それが物語の一つの大きな柱になっているのであるが、映画ではヒロイン役を妻から妻の妹に変えることによって新たな愛の形を描こうとしたようだが、その狙いは今ひとつ説得力に欠け、成功したとは言い難い。




『俺は悪い夫だった』

『そうよ、悪い夫。悪い父親。でも世界中に自慢するわ。私も優もあなたのことを誇りに思う。日本を救った人なんだって。日本ばかりじゃないわ。世界を救ったのよ』

『俺を許してくれ。そして忘れないでくれ』

『とっくに許してるわ。決して忘れない』

(高嶋哲夫著 『ミッドナイトイーグル』文芸春秋社より引用)

これは、原作のクライマックスの場面に出てくるやりとりである。

ちょっと見には、いかにもセンチで陳腐でクサイ表現だが、作者はこのセンチで、陳腐でクサイ表現に血を通わせ、命を吹き込むためにこの物語を書いてきたのだということが読者にはよく理解でき、感動に涙するのである。

では、映画ではこの場面、妻を義妹に変えたことによってどうなったか、ここではあえて触れないでおきたい。

これから映画を見ようと思われる皆さん、どうか想像して見てください。
多分、どなたも的中される人はいないと思います。

小説は小説、映画は映画。それぞれ独立した別個のものなのだから比較すること自体意味がないと言われれば、それまでであるが、それを承知であえて両者を比較し、感想をまとめてみた次第である。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿