今日12月20日は、小生の37年間の会社生活の中で、入社以来15年間にわたりお仕えし、偉大な経営者として、また、滋味溢れる一人の人間として、心から尊敬し、お慕いしてやまなかった創業者高山萬司さんの命日である。
お亡くなりになられたのが昭和62年だったので、20年の歳月が過ぎたことになる。
昭和31年に46歳で脱サラして、Sシヤッター工業(現Sホールディングス)を一流企業に育て上げた立志伝中の人である。
そして、多くの従業員から神様のように敬われ、親のように慕われた人である。
15年間、お側近くにお仕えして受けた薫陶は、いまだに小生にとって大きな無形の『財産』である。
その偉大な経営者との間に小生にとって忘れ得ぬ一つの思い出がある。
それは入社して5年目、28歳の時のことである。
昭和46年8月15日に突如、全世界を震撼させた『ドル・ショック』が当社の前途にも容易ならざる状況をもたらそうとしている時であった。
ある日のこと。
『Kさん、ちょっと』(社長は従業員をみんな「さん」付けで呼んでいた。)
と社長に呼ばれ、社長室に入るなり
『Kさん、君に一つ宿題だ』
と、いきなり言われた。
『10月の株主総会で役員が新しく選任されるのは君も知ってのとおりだが、その後の取締役会で【役員の誓い】をみんなで申し合わせたいと考えている。その草稿を君に作ってもらいたい』
『私のような若輩者が』と言いかける小生の言葉をさえぎって社長が、
『いいかね、Kさん。今度のドル・ショックで時代は間違いなくこれから、大きく動いていく。世の中が様変わりして行く。この流れに対抗していくにはもう、われわれのような古くて、頭の硬い連中ではだめだ。君たちのような若くて、恐れを知らない、頭の柔らかな人の発想が必要なんだ』
『あんまり大仰に考えないで、日頃、君たち若い人が考えていることをまとめてくれればいいんだ』
『何を書いてもいいが、頭の硬い年寄りみたいなものだけは勘弁だ。条件はその一つだけだ』
そこまで言われては、引き受けざるを得ない。
『わかりました。やらせていただきます』
『ああ、それから、できた原稿は総務部長に見せる必要はないから。あの人は、古い、頭の硬い人の代表格だから、アッハッハ。』と社長は小生の方を見て、にやっとウインクして見せた。
自席に戻り、余りの事の重大さに、しばし途方にくれる。
しかし、やらざるをえない、と臍を固めて、早速作業に取りかかる。
せっかちな社長の気性からすれば、迅速な対応が必要だ。時間との勝負である。
全ての仕事を取りやめて、この作業に没頭する。勿論、やりがいを全身で感じながら。
内容的には、わかりやすい言葉で簡潔明瞭にを念頭に、先ずは、手当たり次第に資料を集め、読み込んでいくうちに全体の輪郭がおぼろげながら見えてきた。
そして、3日後の社長室。
社長は無言で小生の原稿を読んでいる。
身も縮む思いで控える小生。
『オーケー。Kさん、ベリーグッドよ』
こういう、くだけた、ざっくばらんの物言いが出る時は、社長がすこぶる上機嫌の時である。
それだけに、社長が発した短いその一言は、小生にとっては何ものにも代えがたい最高のねぎらいであった。(勿論、全くの無修正だったのも意外であり、とてもうれしいことではあったが・・・・・。)
数日後の取締役会。
議題の審議が進んで、いよいよ『役員の誓い』の議題になり、社長が提案趣旨を説明する。
小生は、事務局としてその場に控えていた。
すると社長から、事務局のKさん、この『役員の誓い』をみなさんに朗読して、と指示が出た。
予想外のことで緊張してしまい、足が震えてしまったのを今でも良く覚えている。
あの時書いた小生の一文は、取締役会議事録の添付資料として、他の取締役会議事録と一緒に、書庫の中に今も保存されている。
『オーケー、Kさん。ベリーグッドよ』
とひょうきんな仕草で、社長なりのねぎらいの言葉をかけて下さったあの時の一言は、今も小生にとって終生忘れられない思い出である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/fc/ce7297b405c00da877e2be2f073a5579.jpg)
我が家の新築祝いに頂戴した置時計
我が家の『宝物』である
お亡くなりになられたのが昭和62年だったので、20年の歳月が過ぎたことになる。
昭和31年に46歳で脱サラして、Sシヤッター工業(現Sホールディングス)を一流企業に育て上げた立志伝中の人である。
そして、多くの従業員から神様のように敬われ、親のように慕われた人である。
15年間、お側近くにお仕えして受けた薫陶は、いまだに小生にとって大きな無形の『財産』である。
その偉大な経営者との間に小生にとって忘れ得ぬ一つの思い出がある。
それは入社して5年目、28歳の時のことである。
昭和46年8月15日に突如、全世界を震撼させた『ドル・ショック』が当社の前途にも容易ならざる状況をもたらそうとしている時であった。
ある日のこと。
『Kさん、ちょっと』(社長は従業員をみんな「さん」付けで呼んでいた。)
と社長に呼ばれ、社長室に入るなり
『Kさん、君に一つ宿題だ』
と、いきなり言われた。
『10月の株主総会で役員が新しく選任されるのは君も知ってのとおりだが、その後の取締役会で【役員の誓い】をみんなで申し合わせたいと考えている。その草稿を君に作ってもらいたい』
『私のような若輩者が』と言いかける小生の言葉をさえぎって社長が、
『いいかね、Kさん。今度のドル・ショックで時代は間違いなくこれから、大きく動いていく。世の中が様変わりして行く。この流れに対抗していくにはもう、われわれのような古くて、頭の硬い連中ではだめだ。君たちのような若くて、恐れを知らない、頭の柔らかな人の発想が必要なんだ』
『あんまり大仰に考えないで、日頃、君たち若い人が考えていることをまとめてくれればいいんだ』
『何を書いてもいいが、頭の硬い年寄りみたいなものだけは勘弁だ。条件はその一つだけだ』
そこまで言われては、引き受けざるを得ない。
『わかりました。やらせていただきます』
『ああ、それから、できた原稿は総務部長に見せる必要はないから。あの人は、古い、頭の硬い人の代表格だから、アッハッハ。』と社長は小生の方を見て、にやっとウインクして見せた。
自席に戻り、余りの事の重大さに、しばし途方にくれる。
しかし、やらざるをえない、と臍を固めて、早速作業に取りかかる。
せっかちな社長の気性からすれば、迅速な対応が必要だ。時間との勝負である。
全ての仕事を取りやめて、この作業に没頭する。勿論、やりがいを全身で感じながら。
内容的には、わかりやすい言葉で簡潔明瞭にを念頭に、先ずは、手当たり次第に資料を集め、読み込んでいくうちに全体の輪郭がおぼろげながら見えてきた。
そして、3日後の社長室。
社長は無言で小生の原稿を読んでいる。
身も縮む思いで控える小生。
『オーケー。Kさん、ベリーグッドよ』
こういう、くだけた、ざっくばらんの物言いが出る時は、社長がすこぶる上機嫌の時である。
それだけに、社長が発した短いその一言は、小生にとっては何ものにも代えがたい最高のねぎらいであった。(勿論、全くの無修正だったのも意外であり、とてもうれしいことではあったが・・・・・。)
数日後の取締役会。
議題の審議が進んで、いよいよ『役員の誓い』の議題になり、社長が提案趣旨を説明する。
小生は、事務局としてその場に控えていた。
すると社長から、事務局のKさん、この『役員の誓い』をみなさんに朗読して、と指示が出た。
予想外のことで緊張してしまい、足が震えてしまったのを今でも良く覚えている。
あの時書いた小生の一文は、取締役会議事録の添付資料として、他の取締役会議事録と一緒に、書庫の中に今も保存されている。
『オーケー、Kさん。ベリーグッドよ』
とひょうきんな仕草で、社長なりのねぎらいの言葉をかけて下さったあの時の一言は、今も小生にとって終生忘れられない思い出である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/fc/ce7297b405c00da877e2be2f073a5579.jpg)
我が家の新築祝いに頂戴した置時計
我が家の『宝物』である
何十年か前、高山萬司社長の追悼集のようなものを
拝見したことがあります。いいことしか書かないと思いつつも そのなかの エピソードはすばらしいものでした。こんな人がいたんだと 感動したことを覚えています。20年経ったいまでも 「心から尊敬し、お慕いしてやまない」という言葉をみて、あの時の 感動を おもいだしました。社長のことを もっと しりたいです。たぶん 知っている人も 少なくなっていますよね。
創業社長のことをご存知の方からコメントを頂、びっくりすると同時に大変うれしく思っています。
当時は、日本と当社との発展期が重なり、伸びる勢いを肌身で感じることのできる「良き時代」だったと思います。
もう、あのようなタイプの経営者は出ないのではないでしょうか。
おっしゃるとおり、知っている人も年々少なくなっています。
これからも思い出せる限り、エピソードを書けたらと思っています。