折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

めっぽう面白い活劇、恋愛小説~小説『親鸞』を読む

2010-03-10 | 読書
山歩きのリーダーである幼なじみのKくんは、何にでも興味があり、色々なことをよく知っているので、我々が付けたニックネームが『雑学王』。

その雑学の源泉が読書である。
とにかく、色々な分野の本を手当たり次第よく読んでいる。

そんなKくんからメールで五木寛之の『親鸞』を買ったよと連絡が入る。
すかさず『読み終わったら貸して』と返信。

先日の同窓会の時、『2日間で読んじゃったよ』と手渡してくれた。

よし、それではこっちは1日半で読んでしまおうと頑張ったのだが、読了までにはやはり2日を要した。

               
               五木寛之著『親鸞』(上・下)(講談社刊)


物語は親鸞の幼少期から比叡山に入り、比叡山から出て法然のもとに弟子入りし、その後の弾圧によって越後の国へ流されるところまでを描いている。

親鸞については、これまでほとんど関心がなかったので、予備知識は皆無である。

最初は宗教を扱った本だから、堅苦しい内容なのかなと恐る恐る読み始めたのだが、あにはからんや文章は平易で、ストーリーもページをめくるのももどかしいくらいテンポも良く、起伏に富んでいて、まさに『めっぽう面白い活劇であり、恋愛小説だ』(小説現代3月号 重松 清)なのだ。

それにしても、この本を読んで親鸞が生きた時代と今我々が生きている時代とが何と似通っていることかと思った。

本書を読み終わった後、本書に関する情報をネットで色々と検索していると、作者の五木寛之さんが、

今、なぜ親鸞か、について次のように書いているのを見つけた。

今、なぜ親鸞か。                  
それは私たちの時代がいままさに「疑(ぎ)」と「迷(めい)」の闇のまっただなかに滑りこんでいこうとしているからである。「貧(ひん)」と「老(ろう)」が切りすてられる時代がはじまったからだ。親鸞はまさにそのような時代に呼ばれた人物だった。彼の天才は知識ではない。論理でもない。人間が生きるために悪たらざるをえない状況において、その悪を深く知覚する天才だった。そして悩み多き時代に、人びとの何百倍も深く悩みぬく「悩みの天才」だったと私は思う。だからいまなのだ。
【五木寛之・27紙への「親鸞」連載にあたってより】

親鸞が生きた時代は、親が子を捨てる、子が親を殺す末法の世であった。

そして、今の世も、親が子供を、子供が親を殺す時代である。

親鸞の時代は、その救いを宗教=【南無阿弥陀仏】に求めた。

今の時代、何に救いを求めるのか、求める救いはあるのだろうか。       

ワクワク、ドキドキしながら物語の展開を楽しむ一方、読み終って、そんなことを考えさせられた本であった。