折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

二人の老母~「世話を焼いてきた」立場から「世話を焼かれる」立場に

2009-01-13 | 家族・母・兄弟
3連休の初日。
午前11時頃、電話が鳴る。

かみさんの母親からである。

正月に行けなかったので、3連休に泊りがけで行くよ、と連絡しておいたのだ。
だから、義母とすれば、何をおいても朝一番でやって来るものと早呑み込みし、それがいつまでたっても来ないので、来る途中で何かあったのでは、と心配性の虫が騒ぎ出し、いてもたってもいられなくて確認の電話に及んだらしい。

「何だ、まだ、家を出てないの」とがっかりしたような声。
「待ってるから」と言って電話は切れた。


わが母もそうだが、幾つになっても親は子供のことを心配するものなのだ。

「早く行かなくちゃ」

とかみさんと顔を見合わせる。


愛犬のパールの世話があるので、実家にはかみさんだけが行くことが多く、夫婦で泊りがけで出かけるのは久しぶりである。

だから、義母に会い、その暮らし振りを見るのは久しぶりである。

そして、今年86歳になる義母は、しばらく見ないうちに随分と年を取ったな、と瞬間そう思った。

耳が遠くなり、ひざが痛んで歩行がままならないとのこと。
必然的に「会話」が疎くなり、行動範囲も狭くなる。

わが母と全く同じ状況であり、同じ環境である。

さらに言うなら、これまでずっと子供たちの「世話を焼いてきた」立場が、わが子の「代」になり、逆にわが子に「世話を焼かれる」立場に変ってしまっているのも、わが母と同じである。

わが母も義母も、他で暮らしている子供たちが帰ってくると、いそいそと座布団を出してきたり、お茶菓子をすすめたりと、それは、実に嬉しそうにかいがいしく世話を焼く。

そんな様子を見ていると、親とはいつまでたっても子の世話を焼いていたいのだな、世話を焼くことが心の「はり」につながっているのだろうな、とつくづく思ってしまう。

しかし、普段の生活では「世話を焼かれる」立場にいるのが現実である。
それは、言って見ればそれまで自分を支えてきた心の「はり」を実現する「場」が失われてしまっていることを意味する。

そして、親が子供たちが来るのを一日千秋の思いで待っているのは、帰ってきた子供たちの「世話を焼く」楽しみ、喜び、心の「はり」を自分の手に取り戻す機会がほんの一時ではあるが、めぐって来るからではないだろうか。

夕食が済み、家族団らんの一時、耳の遠い義母がいち早く席を離れ、一人テレビを見ている一回り小さくなった義母の後姿を見ながら、「世話を焼く」、「世話を焼かれる」と言うことについて、そんな思いをめぐらした次第である。