折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

映画「誰も守ってくれない」~容疑者家族を守るとは

2009-01-31 | 映画・テレビ
映画を見終わって、君塚良一監督が用意したラスト10分間の「エンディング」について、あの場面こそが監督が、この映画を通して観客に訴えたかったこと、知ってもらいたかったことなのだろう、とよく理解でき、だから映画のエンディングとしては、あれしかないのだろうと思ったのだが、きっと現実は映画の「エンディング」のようにはいかないのだろうな、と考え込んでしまった。


今年最初に見た映画「誰も守ってくれない」のことである。


この映画は、容疑者の家族が、マスコミやネットの掲示板の書き込みに追い込まれていく・・・・・。現実の事件の背後で起きてもおかしくないテーマを描いている。



学校の体育館で、そして教室ではじけるように無邪気にクラスメートと談笑する15歳の少女。(志田未来)

その少女がある日突然、殺人犯の妹になってしまう。
平穏だった家族の日常が事件を境に一瞬にして崩れ、どん底に突き落とされ、ばらばらにされていく家族。

そんな中、自分のおかれた立場、状況など理解するまもなく少女は、マスコミやネットからのバッシングを受け心身ともに極限状態に追い込まれていく。
その執拗さには、思わず目を背けたくなるほどである。

その彼女を守ることを命じられる刑事(佐藤浩市)。
その刑事も、過去のある事件によって心に深い傷を抱えている。

誰も守ってくれない状況の中、刑事はその年齢では受け止め切れないほどの心の傷を負った少女を必死に守ろうと逃避行を続ける。

そして、この逃避行中のさまざまな出来事を経験して、最後の場面で反発し合っていた二人が心を通わせ、それぞれが新しい道を歩き出す。これが冒頭の「エンディング」の中身なのだが・・・・・。(「加害者の家族」と言うレッテルを背負って生きていく人生に「救い」はあるのか、ズシリと重いテーマだけに、エンディングのようにあって欲しいと思いつつ、待ち受ける現実の厳しさを思うと、思わず考え込んでしまった次第である)


最近は「殺人」を始めとして凶悪な事件が、マスコミを賑わしているのは周知のとおりである。

そして、加害者側のコメントを聞こうとマスコミが殺到しているのも映画のとおりである。

そんな報道を見ると、当然ながら被害者側には「同情」を、加害者側には「非難」をしたくなるのが人情と言うものである。

加害者の家族には何の罪も無い。
理屈はそのとおりだが、感情的には世間はそうは見ない。

小生もこれまでは、そういう目で新聞やテレビの報道を見てきた。

だから、加害者側にマスコミが取材に殺到する場面をテレビなどで見てもどこか「他人事」として傍観者の立場で見ていた。(ただ、あそこまでしなくても、と思っていたのも事実であるが。)

しかし、この映画を見て、加害者の家族であるということで、あれほど苦しめられなくてはならないのか、家族を失い(映画では、母親が自殺してしまう)、心に傷を負い、それでもなお、容赦ない、執拗きわまるバッシングにあい、苦しめられているという現実を目の当たりにして、怖気をふるったのは小生一人ではあるまい。

一瞬にして家族がばらばらに崩壊してしまう、と言う意味においては、加害者の家族も被害者とその家族も同じなのだと改めて思い知らされた。

そして、一歩間違えば、いつ、何時自分が同じような立場に巻き込まれ、このような理不尽さ、非情さを味合わされることにもなりかねないという恐怖を肌身で感じた次第である。


『人を守るってことは、人の痛みを理解するってことだ』

この映画のエンディングの場面で刑事役の佐藤浩市が15歳の少女志田未来に言うセリフである。

マスメデアも、ネット社会も、つづめてみれば、それらを構成しているのは、触れれば血の出る、痛みのわかる一人の生身の人間である。

その人間が「個」でなく「組織」や「集団」になった途端、「他人の不幸は蜜の味」の存在になって、他人の「痛み」を自分の「痛み」と感じられなくなってしまう。

まさに、人間とは不可思議な生き物である。


君塚良一監督が映画のメッセージの冒頭でこう言っている。


いつから人間は、他者の痛みを感じないようになってしまったのでしょうか。

人の痛みを自分のことのように感じられなくて、

人が人を信じたり、愛したり、守ることができるでしょうか。


「容疑者の家族を守る」、『事件報道・ネットの在り方を問う」などこれまで正面から取り上げなかった重いテーマに勇気を持って立ち向かった監督とスタッフに心からの敬意を表する次第である。