折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

新聞小説『宿神』最終回に寄せて

2008-01-25 | 読書
夢枕 獏さんが朝日新聞朝刊に1年余にわたって書いてきた小説『宿神』(しゅくじん)が1月19日に完結した。

それまで新聞小説など読んだことがなかったが、この連載小説は作者の夢枕 獏さんに興味、関心があったこととタイトルに惹かれて読み出した。
読んでいるうちにすっかりその魅力の虜になり、毎日新聞が来るのを楽しみに待って、真っ先に目を通すのが一日の始まりとなった。

夢枕さんの名前は知っていたが、実際に文章を読むのは始めてであった。

『ツボ』にはまった時の語り口の巧みさと物語の展開の面白さは群を抜いて素晴らしい。

また、タイトルの『宿神』と言う文字、挿入されている『挿絵』のいずれも最近の新聞小説の中では秀逸である。



岡本光平さんの『宿神』と言う題字は実にユニーク
(1月19日付朝日新聞朝刊 『宿神』より)


物語は、『漂白の歌人』西行が若かりし頃、まだ佐藤義清(のりきよ)と名乗っていた頃の平清盛との友情、鳥羽天皇の御后待賢門院との激しくも切ない恋等をタテ軸に、古来よりわが国に土着する『宿神』の話しをヨコ軸にして、佐藤義清が西行へと生まれ変わっていく様を克明に描いている。

『宿神』の話しの方は、今一つ釈然としない所があったが、義清と彼を取り巻く人間群像、人間模様の話しは断然面白く、かつ興味深かった。

そして、いつの間にか熱心に毎回、毎回新聞を切り抜いて保存するようになっていた。
言って見れば、新聞小説にすっかり『ハマッテ』しまったわけで、新聞紙上に『宿神』が1月19日で終わる旨のお知らせが掲載された時、小生はこの長編小説のエンディングにどんなラストが用意されているのか非常に興味があり、その日を心待ちにしていた。


そして迎えた最終回

それは、西行が子供の頃『蹴鞠』をしていて、中天高く蹴り上げた鞠がそのまま戻って来ないということがあったが、その消えうせた『鞠』が中空から落ちて来る場面から始まる。

浄土の旅にまさに赴かんとしている西行、生れ落ちた場所に再び戻って行こうとしている西行に、あたかも歩調を合わすが如く、戻って来た『鞠』。

この暗示的な場面を、夢枕さんは実に簡潔に表現している。

「おう・・・・・・・」

西行は、その鞠を見て、思わず声を上げていた。

間違いない。

あの鞠であった。(中略)

「そうか、おまえだったのか・・・・・・」

西行は嬉しそうに眼を細め、

「やっとかえってきたのだね・・・・」

そうつぶやいた。

(1月19日付朝日新聞朝刊 『宿神』より抜粋)
 
『死』とは、もとに戻ることなのだという『悟り』の境地を、戻ってきた『鞠』になぞらえた、短いが秀逸な文章である。



飯野和好さんの挿絵は大人気を博した。
最終回は、西行のもとへ戻ってきた『鞠』の絵であった。
(1月19日付朝日新聞朝刊 『宿神』より)


そして、ラスト20行

「西行様、これに用意ができました」

言いながら、桶を西行の枕元に置き、桜の枝を

桶の水に差した。

そこで、申(さる)は、ようやく、西行の枕元に転がっ

ている鞠に気がついた。

美しい、夢のような鞠だ。

いったい、誰がこの鞠を持ってきたのか。

「西行様、この鞠はどなたが・・・・」

申は問うたが、返事はなかった。

「西行様・・・・・」

もう一度声をかけた。

やはり、返事はない。

申が眼をやると、西行は仰向けになったまま眼

を閉じていた。

西行様・・・・・

と、申は声をかけようとして、それをやめた。

眠っているのだと思った。

眠っているのなら、起す必要はない。

西行は、眼を閉じたまま、その唇に微笑を浮か

べていた。                 (完)

(1月19日付朝日新聞朝刊 『宿神』より抜粋)


思い残すことなく西方浄土へと旅立って行った西行の最期の様子が活写されていて、何とも素晴らしいラストシーンである。


このラストシーンを読んで思わず17年前に逝った親父の最期と重ね合わせていた。

おやじは、夕食前のひと時おふくろとテレビで大相撲を見ていた。
そして、おふくろがちょっと台所へとたって行ったわずかな間に、相撲中継を見ながら眠るように逝った。

西行がその唇に微笑を浮かべていたように、おやじもまた穏やかな表情であったそうである。(勿論、小生は臨終には立ち会えなかったのだが・・)

その瞬間も大好きな大相撲を楽しんでいるかのように。


安らかな『死』、それは誰しもが渇望していることの一つであろう。
しかし、現実にはどんなにそれを望んでも叶えられない望みであることもまた事実であろう。


ねかはくば 花のしたにて春しなん そのきさらぎのもちつきのころ(山家集)

この歌のとおりに天寿を全うできた西行は、その叶わぬ望みを叶えることができた稀な人である。

そして、また、小生のおやじも。


安らかな最期を迎えられるか否かを分かつものがあるのかどうか、もし、あるとしてもそれは単なる『偶然』なのか、それとも『必然』=『運命(さだめ)』なのか、小生にはわからない。

しかし、おやじの最期、それは人生を限りなく自分に忠実に、精一杯生きたことへの神様のやさしい思いやり=ご褒美だった、と信じて疑わない。