折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

ある述懐

2007-03-27 | 家族・母・兄弟
実家に帰った時の長兄との会話

その日は、いつになく長兄は饒舌であった。

『お前、幾つになったんだっけ?』

『64歳になったばかりだよ』

『それじゃあ、まだ、体の衰えは感じないだろう?』

『うん、まあ、そうだね』

『65歳を過ぎると、衰えを自覚するようになるよ』

『そうなんだ、そんなもんかね』

『お前は、まだ元気だし、介護するような者と一緒に住んでいないから、余り<ピン>とこないかもしれないけど、俺のように70歳になり、しかも91歳の親の面倒を看る立場にいると<高齢化社会>の大変さを身にしみて感じるよ』

『そうだろうね・・・・・』

『おふくろは91歳でも、まだまだ元気で、自分のことは、何でも自分でするから、今はいいけど、歳を考えれば、いつ、どうなるか、こればかりはわからないから、もし、介護と言うことになれば、こっちもこの歳だから、みんなが<共倒れ>になりかねない。それだけじゃない、俺だってこの歳になれば、おふくろよりも先に<ポックリ>と逝ってしまうことだって、ありえない話ではないだろう。そんなことを考えると、不安になるぜ』

『そうだね』

『おふくろは、あのように<気位>の高い人だから、病気にでもなって俺達に情けない姿をさらすのが、何よりも耐え難いことだと思っているから、健康にはそれはそれは、注意しているよ。特に、ボケて痴呆症にでもなったら大変だとばかりに、新聞を読んだり、お前が持ってくるビデオを見たりと、あの歳になって、良くあれだけの努力ができると感心するよ』

『ほんとだね』

『お前なんか、おふくろと一緒に生活をしているわけではないから、おふくろの<いいイメージ>しかないかもしれないけど、毎日生活を共にしていれば、嫌でもお互いの欠点や我慢できない所が出てきちゃって、きれいごとでは済まされないことが多いんだぜ』

『・・・・・・・・』(この頃、段々わかってきたよ。)

『そりゃあ、俺だって、親子の情愛を大事にしたいし、親に対する良いイメージもずっと持っていたいよ。だけども、一緒に暮らしていれば、<見なくていいもの>、<見たくないもの>まで見えてしまうんだ。それは辛いもんだぜ、残酷なもんだぜ』

『お前も、頭では分かってくれているかもしれないが、本当のところは、一緒に暮らしてみなければ分からないよ』

『・・・・・・・』(確かに・・・)

『ブログでおやじや、おふくろのことを色々と書いてるけど、俺から見れば、多分、お前の中にはおやじや、おふくろの美しい思い出、いいところしかないだろうけど、そうしたいいイメージだけで、現実の姿を知らずに済んでいるお前は、恵まれているし、幸せ者だってことだよ』

『・・・・・・・・』(本当にそう思うよ。)


その席には、その時どういう訳か長兄と小生の二人っきりであった。

そして、それが、今回の述懐に繋がったのだろう。

とにかく、この日の長兄は何時になく饒舌であった。