今日でブログの投稿が100回目となる。
そして、100回目は、『おやじ』のことを是非書きたいと思っていた。
<おやじの死>
その知らせを聞いた時は、、「この間までは元気にしていたのに、一体何があったのだ」、「ウソだろう」、「どうして」と言う思いばかりが堂々巡りして、おやじの死をすぐには受け入れられず、何も考えられなかった。
大急ぎで実家に駆けつけると、おやじの枕元に座っていたおふくろが、そっと白布を取って、『顔を見てやっておくれ』と言った。
そして、おやじの顔を見た刹那、『ああ、おやじは死んでしまったのだ』と言う実感が見る見る湧き上がって、堰を切ったように涙がどっと溢れて、あたりかまわず号泣していた。(これまでの人生で、この時ほど泣いた時はなかった)
『おやじさんも、お前にそれだけ泣いてもらえば、きっと喜んでいるよ、もう泣くな』とおふくろが言った。
『涙が涸れる』と言う言葉があるが、あの一瞬できっと泣きつくしたのだろう、その後は通夜、告別式でも一滴の涙も出なかった。
心筋梗塞であった。
<おやじとの思い出>
子供の頃のおやじとの思い出は、何と言っても『百人一首』と『チャンバラ映画』である。
おやじと遊んでもらえるのは、お正月である。特に、百人一首は家族みんなが楽しみにしている遊びの一つで、おやじはその『読み手』として欠かせない存在であった。
どんな時でも、せがまれると「もう、いっちょか」とにこにこしながら相手になってくれた。(ブログ 07・1・19「百人一首」)
もう一つの楽しみは、お正月には必ず近くの町の映画館に片岡知恵蔵や市川右太衛門が主演する東映の「チャンバラ映画」を見に連れて行ってもらうことであった。
それこそ、冬の凍て付くような寒風が吹きすさぶ中を、おやじは約1時間の道のりを一生懸命自転車のペダルを踏み、荷台で小生はおやじにしがみついて寒さに震えていたのを、今でも良く覚えている。
当時は映画の全盛期で、特にお正月は超満員、座って見られることは稀で、いつも立ち見であった。
おやじは、小さな小生が少しでも画面が見られるように渾身の力で持ち上げてくれていた。
帰り道、自転車を漕ぎながら『どうだ、面白かったか』と話しかけるおやじの姿を懐かしく思い出す。
<おやじへの感謝>
おやじは、そのほとんどを小学校の教師として過ごした。
教育一筋、その誠実な生き様を小生はこの上なく誇りに思っている。
我が家は、戦後の『農地解放』で所有していた田畑をことごとく取り上げられて没落、耐乏生活を余儀なくされた。
そんな中、おやじは子供たち全員に大学までの高等教育を受けさせてくれたのである。(大学にいける人はほんの一握りに過ぎなかった時代であった)
我々4人兄弟のうち、特に小生を含む3人は年が3歳ずつ離れていたため、長兄が大学4年生、次兄が大学1年生そして小生が高校1年生と重複した時があった。
多分、この時ほど家計が苦しかった時はなかったはずである、それこそ想像を絶するものがあったに違いないのに、『愚痴』一つこぼすことなく援助し続けてくれた両親には、ただ、ただ感謝の言葉しかない。(以下、次回へ)
そして、100回目は、『おやじ』のことを是非書きたいと思っていた。
<おやじの死>
その知らせを聞いた時は、、「この間までは元気にしていたのに、一体何があったのだ」、「ウソだろう」、「どうして」と言う思いばかりが堂々巡りして、おやじの死をすぐには受け入れられず、何も考えられなかった。
大急ぎで実家に駆けつけると、おやじの枕元に座っていたおふくろが、そっと白布を取って、『顔を見てやっておくれ』と言った。
そして、おやじの顔を見た刹那、『ああ、おやじは死んでしまったのだ』と言う実感が見る見る湧き上がって、堰を切ったように涙がどっと溢れて、あたりかまわず号泣していた。(これまでの人生で、この時ほど泣いた時はなかった)
『おやじさんも、お前にそれだけ泣いてもらえば、きっと喜んでいるよ、もう泣くな』とおふくろが言った。
『涙が涸れる』と言う言葉があるが、あの一瞬できっと泣きつくしたのだろう、その後は通夜、告別式でも一滴の涙も出なかった。
心筋梗塞であった。
<おやじとの思い出>
子供の頃のおやじとの思い出は、何と言っても『百人一首』と『チャンバラ映画』である。
おやじと遊んでもらえるのは、お正月である。特に、百人一首は家族みんなが楽しみにしている遊びの一つで、おやじはその『読み手』として欠かせない存在であった。
どんな時でも、せがまれると「もう、いっちょか」とにこにこしながら相手になってくれた。(ブログ 07・1・19「百人一首」)
もう一つの楽しみは、お正月には必ず近くの町の映画館に片岡知恵蔵や市川右太衛門が主演する東映の「チャンバラ映画」を見に連れて行ってもらうことであった。
それこそ、冬の凍て付くような寒風が吹きすさぶ中を、おやじは約1時間の道のりを一生懸命自転車のペダルを踏み、荷台で小生はおやじにしがみついて寒さに震えていたのを、今でも良く覚えている。
当時は映画の全盛期で、特にお正月は超満員、座って見られることは稀で、いつも立ち見であった。
おやじは、小さな小生が少しでも画面が見られるように渾身の力で持ち上げてくれていた。
帰り道、自転車を漕ぎながら『どうだ、面白かったか』と話しかけるおやじの姿を懐かしく思い出す。
<おやじへの感謝>
おやじは、そのほとんどを小学校の教師として過ごした。
教育一筋、その誠実な生き様を小生はこの上なく誇りに思っている。
我が家は、戦後の『農地解放』で所有していた田畑をことごとく取り上げられて没落、耐乏生活を余儀なくされた。
そんな中、おやじは子供たち全員に大学までの高等教育を受けさせてくれたのである。(大学にいける人はほんの一握りに過ぎなかった時代であった)
我々4人兄弟のうち、特に小生を含む3人は年が3歳ずつ離れていたため、長兄が大学4年生、次兄が大学1年生そして小生が高校1年生と重複した時があった。
多分、この時ほど家計が苦しかった時はなかったはずである、それこそ想像を絶するものがあったに違いないのに、『愚痴』一つこぼすことなく援助し続けてくれた両親には、ただ、ただ感謝の言葉しかない。(以下、次回へ)