折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

映画『武士の一分』雑感

2007-01-16 | 映画・テレビ
今回も映画『武士の一分』の感想である。

本作品は、移ろいゆく四季の表情を美しく捉えた自然描写、下級武士の慎ましやかな生活ぶりや、庄内弁を交えたほのぼのとした日常会話、そして、工夫を凝らした迫真の立ち回り場面と印象的なシーンが数多く見られるが、一つだけショッキングな場面に出食わして思わずぎょっとした。しかも、このエピソードは原作では全く書かれていなかったのである。

そのシーンとは、



木村拓哉扮する毒見役が、藩主の昼食に供する貝の毒に当る。
一時は藩主暗殺を狙った謀略か?とお家を揺るがした事件も、料理人の不始末とわかって一件落着となるが、その責めを負って「昼行灯」のように惚けてしまっている小林念侍扮する広式番が切腹を命じられて、仏間で一人で腹を切る。家族が隣の部屋で、涙ながらにそれを見守る、

と言う場面である。


原作に書かれていないこの場面をあえて設定した山田監督の意図はどこにあるのか?


『責任を取る』と言う行為は、昔も今も変わらない。問題はその責任のとり方である。

昔は、最も重い責任の取り方は、自らの『命』を差し出すこと、即ち、自らの命と「引き換え」にその責めを果たすのが、武士の世界での決まりであった。

たとえ惚けてしまっているような者でさえ、武士であれば自らの出処進退は、自らつけると言う責任の取り方、「武士の一分」として映画は強調している。


責任を取ると言うことが今も昔もその本質において変わらないとすれば、今の時代にあって、「命」は差し出せないから、少なくとも「命」と『同等』の何かを差し出すべきではないか。特に、国や企業を動かすような責任ある人たちには、「命に代えても」という「覚悟」が求められているのではないか。


国会議員や高級官僚、企業経営者の相次ぐ不祥事と体たらくな責任の取り方を見ていると、今の世の中に自らの命と「同等」の何かを差し出せるような器量のある人物がいないことに対する、山田監督の「怒り」と「やるせなさ」があえて原作にない「切腹」の場面を演出したように思えてならない。