折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

映画と小説に見る「愛情表現」

2007-01-13 | 映画・テレビ
今年は毎月最低1回は映画を見たいと思っている。

そこで、新年早々話題の映画「武士の一分」を観に行く。

「たそがれ清兵衛」、「隠し剣鬼の爪」に続く、山田洋次監督の時代劇3部作のフィナーレとなる作品である。前2作も見ているが、本作品がベストではないかと思わせるほどのできである。木村拓哉の武士とその妻である檀 れいが匂うように美しく、思わず見とれてしまう。

原作は読んだのだが、もう昔のことゆえほとんど覚えていない。映画を見て、原作を読み返してみたいと言う強い欲求にかられて、映画を見た帰りに図書館に借りに行っていた。

映画は原作をほぼ忠実に再現していたが、映画のクライマックスである毒に当って失明した木村拓哉扮する「毒見役」の武士が、「家」の存続を餌に妻をだました上司を果し合いで討ち果たして「武士の一分」を立てた後、離縁した妻を赦し、夫婦の愛情の「絆」を確かめ合う場面、この場面は本当に感動的で、思わず「目頭」を押さえてしまったのであるが、この場面の描き方が映画と原作で違っていたことを原作を再読して知ることになった。

先ず、その場面を少々長くなるが、原作から引用させてもらうと


ふむ、徳平め!
その夜、床についてから、新之丞は苦笑した。ちよと言う名で、いま台所脇の小屋に寝ているはずの女が、離縁した加世だということはわかっていた。汁の味、おかずの味つけ、飯の炊き上がりぐあいなどが、ことごとく舌になじんだ味だったのである。(中略)「今夜は、蕨たたきか」と新之丞は言った。「去年の蕨もうまかった。食い物はやはりそなたの作るものに限る。徳平の手料理はかなわん」
加世が石になった気配がした。
『どうした?しばらく家を留守にしている間に、舌をなくしたか?」
不意に加世が逃げた。台所の戸が閉まったと思うと間もなく、ふりしぼるような泣き声が聞こえた。
(藤沢周平 隠し剣秋風抄「盲目剣こだま返し」より引用)


さりげない言い回しの中に深い愛情と暖かい思いやりが込められて、作者の人柄がにじみ出てくるような文章で、特に『不意に加世が逃げた。」以下、「ふりしぼるような泣き声が聞こえた」と言う表現は、何ともつつましくも、激しい愛情のほとばしりを見事に言い表していて秀逸である。


一方、映画は夫の傍らで必死に「嗚咽」をこらえる妻を目の見えない夫が、手探りでやさしく肩を引き寄せると言う設定にした。原作の持つ激しい愛情のほとばしりこそ見られないものの、ほのぼのと暖かく観客を幸福感に誘い、思わず「涙腺」を緩めずにはおかない感動的なラスト・シーンであり、小説も映画もそれぞれの特徴を余す所なく発揮した、出色の愛情表現であると深く感銘した。