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折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

投書「1円玉を交番へ」を読んで~さて、あなたなら、どうする!?

2013-02-05 | 雑感
朝日新聞の生活面に「ひととき」という女性専用の投稿欄がある。

どのくらい前だったか定かに覚えていないが、ここを男性にも開放し、土曜日だけ「男のひといき」として、男性の投稿が載るようになった。

「ひととき」も目を通しているが、この「男のひといき」も、なかなか興味深く、いつも楽しみに読んでいる。

前回(2月2日)の「男のひといき」は、「さて、自分ならどうするだろうか」と色々と考えさせられた内容だった。

投稿者は76歳の愛知県の男性。

正月休みに帰省していたお嬢さんと小学3年のお孫さんにまつわる話である。

散歩中に落ちていた1円玉を見つたお孫さんが、交番に届けたいと言い、2人で近くの交番に届けた。
申し出を受けたお巡りさんは、すぐ拾得物届けの書類を作成し、預かってくれた。

そして、

1円玉を届けた孫はもちろん、一緒になって交番まで連れていった娘、いやな顔ひとつせずに真面目に対応してくれたお巡りさん、それぞれにいいことをしてくれたと思う。「本当にいいことをしたね」と娘と孫を褒めた、

と書いている。

投稿者は、そのような娘と孫を褒め、誇りに思いつつ、こう続けている。

もし、娘ではなく私だったら、孫に対してどのような対応をとっただろうか、と。

そして、「私はおそらく、たったの1円を届けるのは恥ずかしいし、お巡りさんも困ってしまうと勝手な判断をして、孫に届けることをやめさせたのではなかろうか」と。



小生も孫がいるので、このような場面に遭遇する機会がないとも限らない。

その際、どう対応すべきか、大事なのは、(拾ったものを届け出ようと思う)子どもの「純な心」であり、その心を大人の打算で汚してしまってはならないと思う。

その伝で言えば、子どもの純な心にそって、いやな顔ひとつせず真面目に届け出に対応したお巡りさんの態度は、何よりも「立派だった」と、誉めても、誉めすぎることにはならない、そう思った次第である。

手書きのすすめ

2013-02-01 | 雑感
昨日に続いて「天声人語」の話である。

と言っても、今回は天声人語「書き写しノート」のことである。

今日から2月。

書き写しノートもまっさらなものに変わった。

書き始めたのが一昨年の8月だから1月を終えた時点で18冊、丁度1年半になる。

書き終わったばかりの18冊目の書き写しノート


時々サボって何日分か貯め込んでしまい、その遅れを取り戻すのに苦労したこともあるが、何とか今日まで続いている。

当初こそ「集中力」、「注意力」を養うとか、時事に疎くならないためとか欲張って色々と目標を決めて始めたが、今、この時点での唯一最大の目的は、「字を書く」ということに尽きる。

考えて見れば、日常生活において字を書くという行為がほとんど行われていない。

先日も幼なじみたちに会った時、

「『字』を書くチャンスがあるか」

と聞いたところ、

「字など全く書いてはいないよ」

という答えであった。

そうなのだ、他の誰に聞いても毎日の生活の中で、自分で鉛筆やペンを持って字を書くことをほとんどの人がしていないのだ。

「字を書く必要性、必然性がない」というのが、ほとんどの人の答えである。

それほど日常生活において字を書く機会がなくなっているのである。

小生とて、天声人語を書き写すことをしなかったら、やはり字を手書きする機会は、ほとんどないと言っても過言でない。

果たしてこれでいいのだろうか、どこかおかしくないか。

そう考えると、603字という大量の文字を毎日書き写すことが、俄然大きな意味を持ってくるように思える。

やろうと思えば、その気さえあれば、今日からでもできる。

何も天声人語に限らない。そして、書き写しノートといった特別なものもいらない。

各新聞のコラムを一般のノートに書き写すだけで良いのだ。

「毎日、定期的に書く」このことが大事だと思う。

是非ともお勧めしたい。

「もてなしの心」や「たしなみ」といった日本文化の行方は?

2013-01-31 | 雑感
1月28日付天声人語


数日前の天声人語が「お茶」を取り上げ、このお茶をめぐる簡便化の行方にちょっとした文明批判に及んでいて面白かった。

長くなるので、前半の部分を要約すると

▼「母親がお茶を作っているところを見たことがなく、いつもペットボルのお茶を飲んでいて、お茶を『いれる』という言い方を知らない幼稚園の若い母親」

▼「急須を見て『これは何ですか』と聞く料理教室の受講生」

▼「家庭科の授業で急須を直接火にかけようとした生徒」

などの実例が、実は驚くにあたらないのだと書いて来て

▼おそらくは「粗茶ですが」や「茶柱が立つ」といった言葉も知らないだろう。市販の飲料は手軽でいいが、文化や歴史をまとう「お茶」と無縁な子らが育つのは寂しいと書いている。

この手の話で思い出すことがある。

それは昨年の暮れの忘年会での大学時代の先輩であるNさんの話である。

Nさんによると、子どもたちがいっぱい集まった席でのこと。

部屋に入るほとんどの子どもたちが、履いてきた履物を脱っ放しする中で、一人だけ作法に則って、きちっと履物を揃えている子どもがいたというのである。「あれを見た時、『あぁ、なんて美しい所作だろう。こんな小さな子でも、きちんと履物を揃えて上がる子がいるんだ』と無茶苦茶感銘を受けたんだ」という。

「それまで、おれは『履物を脱ぐ時のたしなみ』は常識としては知っていたが、現実には全然できていなかった。この子を見ておれは『恥ずかしかった』」、「おれはこの子に教えられた。よし、これからはおれも絶対そうしよう、と誓ったんだ」と話しに力を込めた。

そして、こう続けた。

ほとんどの子どもが「家にお邪魔する時のたしなみ」を教えてもらっていないんだと思うんだ。だから、脱ぎ散らかした子どもが悪いわけではない。教えていない親が悪いんだ。(知らない親も多いと思うが。)

それだけに、この子をここまで躾けた「親」が素晴らしい、と。

小生も履物に関しては、かつて居合の先生から

「皆さんが、道場に入る時に履いてきた履物が、脱ぎっぱなしで実に見苦しい。あなた方は、居合の礼法は恭しく、それらしくやっているが、実際の生活では履き物の脱ぎ方一つまともにできなくて、何が礼儀作法か。そんなことで、本当に居合の精神が身についていると言えるのか。稽古の中でできていても、それが実生活の中で活かされなければ、本当に居合をやっているということにはならない」、と大喝された、恥ずかしい思い出があり、以来、履物はきっと揃えることを励行してきたので、その旨Nさんに話すと、一緒にいたHさんが、二人から「いい話を聞かせてもらった。自分もこれまでできていなかったので、これを機会に実行しようと思う」と賛意を示し、3人でその励行を誓い合ったのだった。


天声人語は、最後のくだりを

▼「客の心になりて亭主せよ。亭主の心になりて客いたせ」と言ったのは大名茶人の松平不昧だった。庶民もお茶でもてなし、もてなされる。入れてもらったお茶は、粗茶でも心が和むものだ。コンビニエンス(便利)と引き換えに大事なものをこぼして歩いているようで、立ち止まりたい時がある、と結んでいる。

これからは、お茶は『ペットボトル』で飲むことになるのが「常識」になってくるのだろうか。
そして、お茶を「いれる」という言葉は『死語』になってしまうのだろうか。

お茶をはじめとする「もてなしの心」や「たしなみ」といった日本が誇る文化がコンビニエンス=『便利』と引き換えにされてしまっても、それを「文明の進歩」と呼べるのだろうか。

この流れを押しとどめる術はないのかもしれないが、せめて我々の世代がたとえ時代錯誤と言われようが、少しでも後世に伝えれられるよう、一踏ん張りすべきではないだろうか。

天声人語を読んでそんな感を深くした次第である。

衆院選の投票率低調~「シラケ」気分、尾を引く

2012-12-16 | 雑感
今日は衆院選挙の日である。

前回(2009年)の時は、ひょっとするとこの1票で日本の政治状況が大きく変わるかも知れない、と言う期待感が充満していて、勇んで出かけた記憶が今も鮮明に残っているが、今回はそんな熱気は微塵も感じられず、選択肢としては再び元の政治体制に戻るしかないのかと思う時、足が重く、投票所までの距離をやけに遠く感じた次第である。

そして、午後8時。

息をつめてこの時間を待っていたマスメディアが一斉に各党の獲得議席の予測数を競って出した。

結果は、事前の予想通り自民党の大勝。

今回の自民大勝の原因は、あげて民主党の体たらくにあるのだが、ここまで自民党が大勝してしまうと、どこかシラケた気分になるのは小生だけだろうか。

小生のそんな気分を代弁するように、衆院選の投票率は59・21%と現行の選挙制度が実施されてからの最低の数値になるとメディアが報じている。前回の69・96%を10%以上も大幅に下回るこの投票率の数字が、しらけ気分を実証しているのではあるまいか。

前回の選挙の時は、夜遅くまであちこちチャンネルを回してテレビを見ていたが、今回の昂揚感なき選挙結果を見て早々と寝ることにした次第である。

これぞ「応援演説」のお手本~生・小泉進次郎議員のスピーチ

2012-12-10 | 雑感


野田総理が駅前のロータリーに遊説に来たのが衆院選挙公示日の前日の12月3日、そして、今度は自民党の若手代議士のホープと目されている小泉進次郎議員が選挙応援で来ると言うので、昨日の夕方ちょっと会場をのぞいてみた。

野田総理の時は、単にブログに載せる写真が欲しかっただけなので、演説の途中で失礼した。

今回の小泉進次郎議員の場合は、写真もさることながら彼が応援演説でどんなことを話すのかに興味があったので、写真はそこそこにして、話の内容、話す表情などをじっくりと観察させてもらった。

夕方6時、小泉進次郎議員が登壇。

会場から大きな拍手が沸き起こり、あちこちから声がかかる。

エンターテナーさながらの雰囲気である。

だが、話の中身はそのような派手さはない。

先ずは、幾つかのエピソードとともに自分の政治信条を披歴し、聴衆の関心を引きつけた所で、応援する候補者のエピソードなどを交えて、候補者の人となりを紹介し、支持をアピールするなど思いやりのこもった応援演説を繰り広げる。

自党の宣伝は一切せずに、個人としての政治への思いと候補者への応援メッセージのみ、しかも、長々としゃべるのでなく、歯切れよく、簡潔に10分程度で話を切り上げる。

聞き終って、爽やかさが余韻として強く心に残る、これぞ「応援演説」のお手本だと思わせるに十分な話ぶりに舌を巻いた次第である。

それにしても、生で見た小泉進次郎議員の姿・形、話ぶり、そして声、などなど、何から何まで何と父君純一郎氏に生き写しなのかと驚愕した次第である。

願わくば、このまま順調に政界のステップを上って、父君が座った「総理の座」を目指してほしいものだと祈念した次第である。