相手が誰であろうと、楽しむことができる人がいる。これは、すごいことである。相性とか、好悪をこえて、楽しむことができるということは、多くの悩み、苦しみから解放されていることを意味する。
概ね、理不尽な人というのは、自分のことばかりで、他人を思いやることは少ないのであるが、それでも溺愛の対象があれば、様子がかわる。その「思いやり」は、真の思いやりではなく、受けた側にとっても、その副作用はおよび、結局のところその人に害を与えることになるのだろうが。
それは、人に限らない。国家もそうだろう。周囲の国家に理不尽な要求を突きつけて、勝手に線引きをする。過去に、散々他国に蹂躙されたものだから、まるで意趣返しのように、居丈高になってきている国がある。
そもそも国家なんてものは、必要かどうかは議論があるところであるが、現在、国家が、ある以上は、無視できないし、それは、機能も有している。といって、変えようのない普遍のものでもないから、国家同士が工夫しあって、その関係をよりよきものにすべきだが、自己本位の立場を主張するのみの国家については、いずれ、協調できないのだから、制裁を受けるしかないこととなる。
そこで、個々人がどうするかであるが、日本のように、戦争しないと宣言し、武力をもたないとし、紛争解決のためには、話し合いしか手段のない聖職者のような国家にとっては、どこの国とも楽しめなければならないから、個人としても、そういう考えかたでいくのが正解だろう。
相手国の理不尽さに、怒り心頭で臨めば、やることは、戦争しかない。だができない、しない、と選択した以上は、やるべきことは、何だろう。相手を軟化させる技量が必要であって、失敗すれば、相手方の奴隷になるほかないのだが、そうなれば、戦争でない戦争をやるか、奴隷になるかである。
頭を使って、方策を考えなければならないが、相手によらず楽しめる価値観がもてれば、解決可能であるかもしれない。
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