それは小生には解らない。いるようで、いないようで、どちらともいえない。キリスト教などは、イスラムもそうだが、神がいるとして、信仰するとは、神の存在を、確信しているということだろう。あるいは、信仰している人も、いるかいないかわからないが、いる方に賭けているのかもしれない。
小生は、その賭けもできない。賭けるものではない、と思っているフシもある。従って、道理の根幹がどこにあるかといえば、自分の価値観なのだが、これとて、プロセスの段階であって、その都度迷いながら、ウロウロと選択を繰り返しているにすぎない。
絶対の自信なんてない。信仰している人からみれば、それでも神をも恐れぬ者として、不遜な者になるのかもしれない。こういうことにならないように、子供時代から、しつけることによって、洗礼してしまえば、いやでも神との付き合いが始まる。逃れられないが、それでも決まってしまえば、案外それでいいのかもしれないが、どこか違うという気もする。
神さんのおかげで、悲劇もたくさん生じているのだ。