空をみながら

 地球規模、宇宙規模で考える。死角のない視野の獲得。憲法9条を守ろう。平和のための最高の武器だと思う。

原発事故の情報は正確か

2011年10月02日 07時57分00秒 | 思考試行

原発問題で、国民がパニックになっていないことは、事実を知らないからだろうか。それとも知っているけれども如何ともし難く、どうしてもということだけを、やるより他なしということだろうか。

何か、事があれば、敏感に大騒ぎをする者、落ち着いている者、さまざまに人は、反応するけれども、危険がせまっているにも関わらず、おちついてそのままにしているのはおかしいといっても、人は、往々にしてそういう傾向がある。

徐々にせまる危険に対して、まだ大丈夫とする傾向がある。行動をためらうのである。これは、各種の実験でも明らかである。

北海道のトンネル事故で、煙がひどくなってきているのに、大多数は落ち着き払っていたという。一人が行動を開始したので、みんなもそれに続き、人命だけは助かったのである。その一人の行動がなければ、大惨事は必至であった。

責任を問われる社長が、自殺してしまったが、事故報告を求められて、どうしようもなかったのだろうか。経営が困難で、安全対策が全然できていなかったから、そうするより仕方がなかったのか。安全第一では、食ってはいけない実態があるのだろうか。

チェルノブイリの教訓は、充分に生かされているのだろうか。安全神話を徹底してきた日本では、原発事故というのは、まったく想定しておらず、従って、対策を云々するだけで、その人は、原子力村では、「村八分」になったという。相手にしてもらえないのである。

実際に、事故が起きて、混乱したことだろう。それを、菅さんのせいにしたり、自分達の責任を転化する動きもあった。どうしていいかわからなかった場面があったようにもみえる。

いざ事故が起きて、西日本にいる小生からみれば、どこか対岸の火事的な感覚がどこかにある。放射能汚染で、いますぐどうのこうのと思っていない。しかし、真実はどうだろうか。現実対応について、選択の検討は行なわれているのだろうが、マスコミの積極的なアクションはみられない。

マスコミにも、オピニオンリーダーはいないのだろうか。系統的な取材、体制がとれないようだ。上からの指示待ちであったり、基礎力の不足、が言われている。

マップがでている。では、それでどうするのか。なんとか健康被害がでないままで、行けるのだろうか。現実対応を間違えないためには、正確な情報が不可欠である。

贅沢なんてしたいとは思わない。事態が変われば、その条件下で行動の選択をしなければならない。原発問題は、生き方の問題でもある。原発をやめるにしても技術の継続は不可欠であり、悩ましい問題がつきまとうが、ここは、脱原発しかないように思う。コントロールできない技術は、使い続けるわけにはいかない。