どうやら自民党が政権に戻りそうな勢いである。だが、自民党がどうして下野しなければならなかったのか、国民不在の富裕層のための政治、官僚の設計通りに動くしかない政治、動きの悪い政権。格差は持ち込む、公開しない、決められた官僚の勢力分配のなかでの、政争。政治家の実際の力なんて必要ではなく、少しこころざしがあるような政治家は、切歯扼腕していたのである。
石原慎太郎東京都知事も、今度新党結成にあたって、そのことに触れている。邪魔されたといいつのっている。
では、民主党はどうか。政権当初から、「公開」を実行してきた。会議の中身を公開する。これには驚いた。官僚出身の議員もいるから、対官僚に対しても、奮闘して、新機軸をうちだしてきた。アメリカとの関係も、大胆な試行錯誤もやってみせた。たしかに、老獪というわけにはいかないが、あたらしい方向を模索し、事実かなり機能しかけた側面があった。
政権交代の意味があったのである。一時は、野党勢力も、共同の課題で手をむすんだこともあった。新しい息吹が生れたのである。ところが、菅内閣のときに、消費税増税を持ち出し、参議院選挙で大敗を喫し、ついにねじれ状態となった。決められない政治のスタートである。決める政治という自民党のキャッチフレーズの逆をいく、決めさせない自民党。
一切の話し合いは事実上なくなった。すべては、きめられなくなった。話し合いをしようとしな相手では、言いたい放題の悪口雑言を浴びせるばかりである。民主はたえるしかない。こんな国会では、と誰もが思うようになったのである。それでも、民主はガマンにガマンを重ねて、努力をしてきた。
そこへ、東北大震災と原発事故である。ここで、とりわけ原発事故については、自民党の責任は、絶対まぬがれないにもかかわらず、人まかせの政権についていただけの自民党にとっては、さほどの責任感もない。単なる悪態は続く。よく言うなあと思ったことである。
いろいろ見せてくれる政治の世界だが、ここで、逆戻りして、誰が展望をもち、リーダーとなっていくのか、戦争をできる国にし、居丈高になっていくのだろうか。中国の様子をみれば、相手が弱いとみれば、どこまでも威圧を加えてくる。国民の民度も問題がある。まあ、それも選択である。平和を守ることの難しさを痛感する。