(原題:Song for Marion)
「さて、
今日はチャチャッと喋っちゃうかな」
----えっ。あのテレンス・マリック監督の映画でしょ。
そんなことしちゃっていいの。
第一、理解しているかどうかだって怪しいのに…。
「(汗)
そう言われると、
返す言葉もないじゃないか。
でも確かにフォーンが言うように、
ぼくがこの映画を理解しているとは到底思えない。
とは言え、じゃあつまらなかったのかと問われると、
いや、自分なりに見どころはあった…と、
そう答えたくなる映画なんだ」
----それって
ストーリーとかじゃないよね。
「もちろん。
チラシにもプレスにも
ストーリーは簡単にしか載っていない。
というのも、これってあまりにもありふれたお話なんだ。
簡単に言えばこうなる。
映画は、フランスのモンサンミシェルで幕を開ける。
アメリカからやってきたニール(ベン・アフレック)は、
そこでバツイチで一人娘を抱えるマリーナ(オルガ・キュリレンコ)と出会い、深く愛し合う。
しかし、アメリカに渡りオクラホマで新生活を始めた彼らの幸せな時間は長く続かない。
やがて、マリーナへの情熱を失ったニールは
幼なじみのジェーン(レイチェル・マクアダムス)に再会し、
心奪われてゆく。
このプロットに、これまたよくある
信仰の前に葛藤するクインターナ神父(ハビエル・バルデム)の物語が
タペストリーのように絡み合っていく」
----確かによく聞くような話。
ということは映像が素晴らしいの?
「もちろん映像は、
非の付けようがない美しさ。
自然光にこだわるテレンス・マリックらしく、
かのマジックアワーを始めとして、
夕陽の前後を中心に、
手持ちカメラで捉えた息を飲むように美しい映像が間断なく続いていく。
かつて、
フランスの映画批評家
アレクサンドル・アストリュックは
こんなことを言っている。
『映画は目に見えるもの、映像のための映像、
物語の直接的で具体的な要求から次第に解放され、
ちょうど書き言葉と同じくらい柔軟で繊細な書くための手段となるだろう』
(Wikipediaより)
これはカメラ=万年筆論と呼ばれる、
ちょっと映画をかじった人なら必ず目にする一文
この映画を観ながら、ぼくはこの懐かしい言葉を思い出したね」
----つまり、何十年も前に予言された
映画理論がいま実践されているということだね?
「そういうことだね。
もちろん、カメラを自在に扱う監督は他にもいないワケじゃない。
でも、やはりこのテレンス・マリックは特別。
ぼくはこの映画についてツイッターで
このように呟いた。
『テレンス・マリックという人、
まったく別の惑星に住み、映画が独自の発展を遂げた中で作っているのではないか?
新作『トゥ・ザ・ワンダー』。
感情の流れを追ってその上に物語を構築するのでなく、
ある瞬間を写し取ることで映画の中には描かれなかった時間における感情を掬い取る』。
この映画はこの姿勢で一貫しているんだ。
主人公ふたりの関係性のターニングポイント、
もっともドラマチックとなるはずのそれには
マリックは興味を示さず、
逆に、その後何度か繰り返されたであろう諍いの方をフィルムに焼きつける。
それによって、
二人の間に、ある<事件>があったのだな、
いや、次第に関係性が<悪化)したのかも…と観る側に推測させる。
いわゆる<結果>ばかりが表面に描かれているんだ。
しかも映画を構築する<音>としては
過剰なほどの音楽、
主人公たちのモノローグ、
そして『ニュー・ワールド』のエンドクレジットを思わせる鳥の鳴き声…」
----それは、演じる俳優もかなり難しそう。
なんでそんなことやるの?。
「思うに、
物語、いわゆる言葉として描かれるものは
映画ではもう全て描きつくされたという思いがテレンス・マリックの中に
あるんじゃないかと。
それよりも彼としては
映画の新たな表現の可能性、
それに映画の生き残る道を模索しようとしている、
ぼくはそう考えたけどね。
まあ、違うだろうな」
「それにしてもオルガ・キュリレンコ、よく映画に出るニャあ」
※なんかぼくには真木よう子が被った度
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☆「CINEMA INDEX」☆「ラムの大通り」タイトル索引
(他のタイトルはこちらをクリック→)
こちらのお花屋さんもよろしく。
こちらは噂のtwitter。
「ラムの大通り」のツイッター
※画像はオフィシャル・tumblrより。
「さて、
今日はチャチャッと喋っちゃうかな」
----えっ。あのテレンス・マリック監督の映画でしょ。
そんなことしちゃっていいの。
第一、理解しているかどうかだって怪しいのに…。
「(汗)
そう言われると、
返す言葉もないじゃないか。
でも確かにフォーンが言うように、
ぼくがこの映画を理解しているとは到底思えない。
とは言え、じゃあつまらなかったのかと問われると、
いや、自分なりに見どころはあった…と、
そう答えたくなる映画なんだ」
----それって
ストーリーとかじゃないよね。
「もちろん。
チラシにもプレスにも
ストーリーは簡単にしか載っていない。
というのも、これってあまりにもありふれたお話なんだ。
簡単に言えばこうなる。
映画は、フランスのモンサンミシェルで幕を開ける。
アメリカからやってきたニール(ベン・アフレック)は、
そこでバツイチで一人娘を抱えるマリーナ(オルガ・キュリレンコ)と出会い、深く愛し合う。
しかし、アメリカに渡りオクラホマで新生活を始めた彼らの幸せな時間は長く続かない。
やがて、マリーナへの情熱を失ったニールは
幼なじみのジェーン(レイチェル・マクアダムス)に再会し、
心奪われてゆく。
このプロットに、これまたよくある
信仰の前に葛藤するクインターナ神父(ハビエル・バルデム)の物語が
タペストリーのように絡み合っていく」
----確かによく聞くような話。
ということは映像が素晴らしいの?
「もちろん映像は、
非の付けようがない美しさ。
自然光にこだわるテレンス・マリックらしく、
かのマジックアワーを始めとして、
夕陽の前後を中心に、
手持ちカメラで捉えた息を飲むように美しい映像が間断なく続いていく。
かつて、
フランスの映画批評家
アレクサンドル・アストリュックは
こんなことを言っている。
『映画は目に見えるもの、映像のための映像、
物語の直接的で具体的な要求から次第に解放され、
ちょうど書き言葉と同じくらい柔軟で繊細な書くための手段となるだろう』
(Wikipediaより)
これはカメラ=万年筆論と呼ばれる、
ちょっと映画をかじった人なら必ず目にする一文
この映画を観ながら、ぼくはこの懐かしい言葉を思い出したね」
----つまり、何十年も前に予言された
映画理論がいま実践されているということだね?
「そういうことだね。
もちろん、カメラを自在に扱う監督は他にもいないワケじゃない。
でも、やはりこのテレンス・マリックは特別。
ぼくはこの映画についてツイッターで
このように呟いた。
『テレンス・マリックという人、
まったく別の惑星に住み、映画が独自の発展を遂げた中で作っているのではないか?
新作『トゥ・ザ・ワンダー』。
感情の流れを追ってその上に物語を構築するのでなく、
ある瞬間を写し取ることで映画の中には描かれなかった時間における感情を掬い取る』。
この映画はこの姿勢で一貫しているんだ。
主人公ふたりの関係性のターニングポイント、
もっともドラマチックとなるはずのそれには
マリックは興味を示さず、
逆に、その後何度か繰り返されたであろう諍いの方をフィルムに焼きつける。
それによって、
二人の間に、ある<事件>があったのだな、
いや、次第に関係性が<悪化)したのかも…と観る側に推測させる。
いわゆる<結果>ばかりが表面に描かれているんだ。
しかも映画を構築する<音>としては
過剰なほどの音楽、
主人公たちのモノローグ、
そして『ニュー・ワールド』のエンドクレジットを思わせる鳥の鳴き声…」
----それは、演じる俳優もかなり難しそう。
なんでそんなことやるの?。
「思うに、
物語、いわゆる言葉として描かれるものは
映画ではもう全て描きつくされたという思いがテレンス・マリックの中に
あるんじゃないかと。
それよりも彼としては
映画の新たな表現の可能性、
それに映画の生き残る道を模索しようとしている、
ぼくはそう考えたけどね。
まあ、違うだろうな」
「それにしてもオルガ・キュリレンコ、よく映画に出るニャあ」
※なんかぼくには真木よう子が被った度
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