doironが生息しているのが
泉O津市
今年、市制施行70周年を迎える。
70年前と言えば
昭和17年である。
どんな年であったのか
ネットで探ってみると
その頃はミッドウェー海戦などもあり
なかなかキナ臭い年であった。
そんな年に、市制が施行された
我が市が、今年
めでたく70周年を迎えました。
こういう場合、行政としては
10年単位、あるいは5年単位で
様々なイベントごとを
開催したがる傾向にある。
それに要する経費が
国や都道府県の交付金かなんかの
対象となっているのかどうか
よく知らないが、
たいていの自治体は
何らかのイベントをいろいろと
開催したがる。
ま、言ってみれば、この機会に
市民に市政への関心を高めていただく
といった効果を期待しているのだろうかね。
我が市も、70周年ということで
今年いろんなイベントが予定されている。
主に、集客力に期待して
芸能人を活用したイベントの計画が
広報などで報じられているが
市民自らがイベントを企画して
周年を祝おうというのもある。
そのうちの一つが
市内に20台あるだんじりのパレードだ。
厳密にいうと市内にある
だんじりは19台なのだが
神社ごとの氏子の祭りだから
隣接する市のだんじりも
1台混じっているのだ。
太古の昔からの
人々の営みと
あとから覆い被せた行政区の
枠組みに、少々誤差ができるのは
仕方ないのかもね。
で、今日はそのだんじりパレードに関する
2回目の実行委員会が開催され
doironは
8町地区の年番長として参加してきた。
泉O津市には大きく分けて
2種類のだんじりがある。
一つは、岸和田と同じ
前梃子のある「下だんじり」で
曲がり角を高速で曲がる
「やりまわし」
を売りとしている。
そしてもう一つは
だんじり同士をぶつけ合う
「カチアテ」を売りとする
「上だんじり」である。
そもそも祭りの形態の異なる
2種類のだんじりが
一堂に会して
合いまみえるわけであるから
それぞれの思惑が、
会議の端々でちょっとした
見解の相違を生じさせる。
それを、遺恨のないように
進めていかねばならないから
実行委員会はちょっとぶつかったり
譲り合ったりしながら
けんけんがくがく
ではなく
うだうだと進んで行くわけだ。
祭りに対する基本的な考え方が
まったく異なるので
ひとつひとつ、根本的なところからの
議論になるため
会議は遅々として進まない。
セレモニー場所や開始時間など
4~5項目ぐらいを
決定するのに2時間もかかってしまったわん。
会議の最後には
今後の予定として
9月末の開催イベントというのに
5月にはもう2回の会議の予定が
入れられた。
今年の祭りは、何かと大変で
えらい時に年番長になったものだと
つくづく思う今日この頃だ。
最近、よく物を落とす。
といっても、信用を落としたり
財布を無くしたり
鍵を無くしたりと
そういうことではない。
したがって、doironの後ろを
ついて歩いても
お得なことは何もないですよ。
信用は落ちているのか
その辺は本人としてはよくわからないけどね。
ここでは、そういうことではなくて、
手に持ったものを落としたり
テーブルの上のモノをとろうとして
何かを落としたり、と
そんな具合に
手でものを握る仕組みに
問題があるのかもしれない
ということを言いたいのだ。
突き詰めていえば
手の動きをつかさどる
脳の動きに問題があるのかも。
もしそうだとしたら
それこそ老化現象であろうて。
ミセスdoironに言わせたら
スカイツリーの建築に携わる
仕事じゃなくてよかったなあ、だって。
そうさなあ、もしそんな仕事だったら
スパナやトンカチなどの工具を
一日ひとつは落としていたかもしれない。
下で働く者はたまったもんじゃない。
老化を感じるのは、ほかにも
生活の様々な場面で出くわす。
例えば
針に糸を通せないというのはもちろん
携帯にストラップをつけるのに苦戦する。
小銭できっちり支払いをしようと
財布を探るも、なかなか的確に
金種をつかめない。
スーパーの袋が新しいものは
なかなか開けられない。
ウォークマンのイヤホンコードが
こんがらがっている場合に
なかなかほどけなくてイライラする。
等々である。
そうそう、そういえば、
最近新しいウォークマンを買った。
これ
え?それはウォークマンではなく
iPodなのじゃないかって?
そうなんですよ。
iPodをついついウォークマン
と言ってしまう時点で
すでに老化が始まっているのかもね。
最近、いろいろと問題となっている
「大飯原発」
言わずと知れた福井県大飯町
若狭湾に面したところにある
関西電力の原発の一つである。
東北の旅では、あの今問題となっている
福島第一原発には、立ち入り禁止措置も
講じられているだろうから行けなかった。
もうこの歳になって
少々のセシウムも
消化する能力も備わっているだろう。
(ないない)
ま、少々はいいんではないかとも思ったが
あきらめることにした。
代わりと言っちゃなんだが
東北の旅から帰って
息つく暇もなく
若狭に出かけた。
実は、若狭湾には
くだんの「大飯」をはじめ
敦賀、もんじゅ、美浜、高浜と
合計5カ所の原発があるのだ。
若狭湾は、いわゆる「原発湾」といっても
過言ではない。
まず、最初に行ったのが「敦賀原発」
国内では珍しい「加圧水型原子炉」と
現在主流の「沸騰水型原子炉」を
1基ずつ持つ原子力発電所で
関西電力の所有でも北陸電力の所有でもなく
日本原子力発電株式会社
通称、日本原電が持つ炉である。
四角いのが沸騰型原子炉
丸いのが加圧水型原子炉である。
違いはというと、やはり新しい
加圧水型は、圧力をかけた水を
300℃まで熱して、蒸気を発生させ
その蒸気でタービンを回すというもので
一次冷却、二次冷却を必要となるため
構造は複雑だが、熱効率がいいといわれている。
それに対して、沸騰水型は
構造が単純なので制御がたやすく
日本のほとんどの原発がこれである。
福島第一原発も四角い箱状でしたね。
しかし、関電の場合は
加圧水型を基本としており
美浜発電所
高浜発電所
そして今話題の大飯発電所
の三つとも、加圧水型である。
写真はいずれも、doiron撮であります。
撮影は少なからず、苦労しました。
敦賀、高浜は公道からなんなく
撮影できたのですが
大飯は正面玄関で車を降りて撮ろうとしたら
ものものしい警備の人が近寄ってきて
「そこは私有地だから、許可なく撮影しないように」と
言われちゃいました。
原発の警備は本当にスゴかったです。
仕方ないので
蘇洞門めぐりの遊覧船から
撮影しました。
美浜も、専用の長い橋が架けられ
その先にあるため、
一般の人は橋をわたれないので
手前の海水浴場の岩場から
撮影したものです。
これらの原発はいずれも定期点検中で
稼働していません。
それでも、あの厳重な警備ですから
稼働時はもっとすごいんでしょうね。
原発は、熱交換の冷却に
海水を使うため、どうしても海に近いところに
建設されます。
少し前にあの津波の惨状を目の当たりに
した後ですから不安はぬぐえません。
多分これらの原発も
浸水するでしょう。
いや津波だけではなく
地震、竜巻などの自然災害に襲われたとき
いかに電力を確保し
制御棒を投入した後、
燃料棒を冷やし続ける体制ができているかが
最終の稼働可否の判断基準になるんでしょうね。
構造の複雑な大飯が再稼働を始めたら
シンプルで制御しやすい
日本中の原発が動き出すプロパガンダとなるだろうな。
しっかりと、判断してほしいものじゃ。
そうそう、もう一つ
今回の旅で
見たかった原子炉が
使用済み核燃料を使って
消費した量より多くの燃料を生み出すという
夢のような高速増殖炉である
「もんじゅ」
敦賀発電所の近くにあった
普賢はすでに解体作業に入っており
現在日本にある高速増殖炉は
1号機である、茨城の「常陽」と
そこで得られたデータをもとに
建設された「もんじゅ」だけです。
いずれも「日本原子力研究開発機構」
いわゆる、ニュースでよく耳にする
「JAEA」が開発した原子炉です。
もんじゅは、山が間近に迫る
小さな漁村を圧倒的な迫力で
見下ろすように、鎮座していました。
ま、これはかなり高台にあるので
津波の心配はなさそうに見えるが、
あの火災事故の後
再開を4度も延期し
ようやく動いたかと思えば
炉内の中継装置の落下事故で
またもや停止を余儀なくされている。
これらの多彩な原子炉を
たった一日で見て回れるほど
若狭湾には原発が林立しており
まさに、原発湾ともいうような状況なのである。
毎日、大飯の再稼働が
ニュースになっている。
その大飯を取り巻く原発が
このような状況であることを
知っているだけで、
ニュースを見る目も変わるし
関心も深まるでしょ。
(自画自賛)
それにしても、若狭湾、
海の幸が最高でしたあ。
中国語の勉強が始まっている。
毎朝8時15分からの
ラジオ講座はさすがに聴くことが難しいが、
日曜日に、1週間分をまとめて
再放送されるので、
それを受講することができる。
でもでも、さらにそれも聞き逃すこともあると、
もう聞けなくなるかというとそれでも安心。
インターネットで先週分はいつでも受講できるのである。
こういう講座の場合は、
順を追って聴いていかないといけない。
なので、最初の週は旅行やら何やらで聴けなかったし、
日曜日も地元自治会の掃除などで聴けず、
もっぱらネットで受講をしている。
中国語について、
まず第一印象はというと、
文字は簡略化されているもののなんとなくわかるし、
文法もまだ勉強はしていないが、
さほど難しくはなさそうだ。
といえば、
だれでもすぐにマスターできそうだが、
ところがどっこい。
一番難しく、そして肝心なのが発音なのだ。
だから、講座も単語の発音から取りかかる。
例えば、第1回の講座は「あ」の発音だ。
日本語ではほとんど意識することはないが、
中国語では「あ」の発音にも4種類がある。
「あ」だけではない、
母音全てにこの4種類の発音が適用されるのだ。
この単母音の発音に次いで、
二重母音が出てくる。
例えば「あお」や「いお」などだ。
発音に加えて、
こんどは強弱型や弱強型といった抑揚も絡んでくるので、
徐々に複雑になってくる。
この後、子音も加わると
一気に中国語らしくなるのだが、
先ずは母音の発音だということで、
繰り返しテキストを見ながら
「あ~お~」
や
「い~う~」
などと、一人でやっている。
先日も、2階でネットを見ながら
「あ~お~」とか「あ~う~」などとやっていた時だ、
階下からミセスdoironが
血相を変えて上がってきた。
テキストを持って、
勉強しているdoironを見て
「2階に猫がいると思ったやん」
だって。
たしかに、発音だけ聞いていると、
猫のサカリの声、
つまりラブソング
に似ているのは間違いない。
猫語翻訳機、ニャンリンガル
でもあれば面白いかもね。
「あ~お~」は
「君、きゃわういねえ」だったり、
「え~お~」は
「あげポヨ~」だったりして。
おっと、いけない。
猫語の勉強じゃない、中国語だった。
こうして、発音の勉強をしていて気が付くのは、
猫だけではなく自然界にも
中国語に良く似た声が
散在しているということだ。
たとえば、カラスの鳴き声もそうだ。
あの声は、発音記号で書くとこうだなみたいなね。
他にカエルの鳴き声もそうだし、
また、子音が入ってくると、
すずめの鳴き声も中国語に聞こえてきたりする。
最初は何でこんなに発音しにくい言葉になっているんだ
と思っていたけど、
よくよく考えれば人間だって自然界の動物の仲間なんだ。
日本語の文字表記で
表現できない発音があっても
何の不思議もないわけだ。
ま、どこまで自分のものになるかわからないけど、
とにかくできるとこまでがんばってみようと思っている。
それでは、再見。
退職ライフをきちんと
築いていくために
お金の流れをしっかり管理することは
大切なことだ。
てなわけで、新しく通帳を作りに行った。
銀行に行ってまず驚いたのが
窓口に座っているのが
年配の女性が大半だったということだった。
昔は、銀行レディというと
嫁入りするまでの
お嬢さん修行の場であり
また、よき縁談のための絶好の職場の
ような印象があった。
しかし、今は嘱託のおばさんが
多くを占めるという状況なんですね。
おまけに、フロアー案内の人も
いかにも退職銀行員の再雇用と
いった感じの年配のおじさんでした。
そういう状況は
多分、doironが行った銀行だけに
限ったことではなく
どこもそうなんでしょう。
たいていの用事は機械で
済ませられるので
窓口業務が
残った複雑な業務が多くなってきて
やはりベテランを配置しておくのが
安心であり、利用者にとっても
利便性が高いというわけでもあるんだと
にらんでいるのだが、どうだろうか。
呼ばれて窓口に進み
要件を告げると、
まず必要なのが
申請用紙に必要事項を
記入することでした。
先日の、ガソリンカードを
作るときと同じような書類に
名前、住所などを書いていく。
それを見ながら、ベテランと
見られる女性が、機械に入力していく。
そして
カウンターにiPadのような
ディスプレイが置かれ
これでよろしいでしょうかと
画面タッチでいろいろと
確認をさせられる。
電話番号などを若干訂正しただけで
彼女はこんなことを言った。
「では、これより生体認証を行います。」
え~、どこを生体認証?
思わず、「じゃあ服、脱ぎましょか?」というと
「そんな必要はありません!」ときっぱり断られた。
さすがにベテランの窓口女性である。
そんな冗談も通用しないようです。
「この機械にどれかの指を、二本決めて
置いてくださるだけで結構です」
ふ~ん、二本かあ。
でもなあ、小指は詰めることも
たまにはあるかもしれないから
避けた方がよいだろう。
右手と左手ということも
まあ、右手が利き手なので
大事にするだろうから
結局、一番損傷の少ないと
思われる右手のひとさし指と
中指を登録することにしました。
暗証番号も、その場で申告すると
すぐにその場で、
キャッシュカードを作ってくれるという。
ICカード化にしただけのことはありますねえ。
そして、新規に作る通帳なので
いくらかは預けねばと
お金を用意していると
「0円でも通帳が作れますよ」ときたもんだ。
昔は、そんなことはできなかった(多分)のになあ。
久しぶりに通帳をこしらえて
銀行の手続きも、いろいろ進化しているんやなと
感心させられた、銀行での一コマでした。
今日は若狭原発の旅を書こうと思いましたが、
旅のブログが続くので
ちょっとひと息ついて、
今日は退職後の暮らしのひとコマを紹介しましょう。
退職ということですから、
このままでは収入がありません。
なので、暮らしは質素倹約を心がけ、
つつましく暮らす必要があるわけです。
先日、車の給油に行った時のこと。
セルフスタンドで、カードを入れ、
給油していたところ、
店員がにじり寄ってくるではないですか。
どうせウォッシャー液やバッテリー液を見ましょうか
というプチ点検のお誘いだろうと思っていたのですが、
どうやらそうではなく、
doironが先ほど給油機に投入した
カードのことについて聞いてきたのであった。
若いけど、しっかりした物言いの青年だったので、
給油しながら聞いてやった。
ていうか、給油中なので
「じゃ、また」
といって立ち去るわけにはいかないんだけどね。
「今、使われたカードなんですけど、
それは年間手数料が1000円以上かかるカードです。
今なら、年間手数料一切無用で、
ガソリン代もさらに2円安くなるカードに
変更キャンペーン中なんですが」と話しかけてきた。
おおっ、質素倹約の退職ライフには
ピッタシのお話ではないか。
幸い、詳しいお話を聞く時間は山ほどある。
とはいえ、露骨にニカッとするのも
見透かされそうなので、
「あっ、そう。めんどくさいから今のままでいいけど、
まあちょっと話を聞きましょう」と返事をし、
給油を終えてから車を移動し、
事務所に入ることにした。
カウンターに座って、開口一番、
「手続きは簡単?銀行口座は今わからんけど」
というと
「それは家に帰ってから記入してもらって結構です」という。
そして
「今はこの用紙だけ記入してください」
と言って出された用紙を記入することにした。
名前、生年月日、住所、家族構成と書き進み、
最後に職業欄が残った。
う~ん、今は退職して無職だから、
空欄にしておこうと思い、そのまま
「できたよ」
と言って渡すと青年はそれを見て、
「あの~、職業欄もお願いします」というので
「いやこの春に退職したので・・」というと
「じゃ、年金生活ですね」ときた。
「いや、それも違うんやけど」
「じゃ、無職?」
といいながら、困ったような顔をするではないですか。
そうかあ、無職で収入がないと
カードが作れないのか。
これは初めて経験することである。
とはいえ、ここであきらめるわけにはいかない。
ここまで費やした時間を無駄にしたくない。
それに手数料はもったいないし、
リッター2円安は捨てがたいものがある。
なにより
こんなに早く、質素倹約の誓いを
破たんさせるわけにはいかない。
グルグルと頭を素早く回転させ、
doironが導き出した結論は、
「自営業ということで」
というと、青年は一気に表情を崩し、
ほっとしたような顔で、
「そうですね。そういうことですね」
といいながら、手続きを進めてくれた。
ま、この手のカードは、
受付時に厳密な確認をするわけではなく、
審査は金融機関がするんだろう。
ということで
手続きは滞りなく完了し、
あとはここに必要事項を書いて
同封の封筒で送っておいてください
といって、正式の申込用紙と、
初回50リッターまで10円引きのカードをいただいた。
いいね、いいね。
さっそくの質素倹約グッズのゲットである。
というわけで
余裕のある時間を活用し
退職ライフは順調に滑り出しました。
タイトルに「その1」とつけたのも
これからこういうことがたびたびあるだろう。
いやあるようにしなければという、
決意のあらわれなんです
(たいそうかな?)
話は、東北に行ったり
九州に行ったり
ちょっと北朝鮮にも寄ってみたり
と、あちこち彷徨いますが
頑張ってついてきてくださいね~
さて、みちのくの旅は、
出発点だった仙台空港周辺に
帰ってきました。
実はカメラを片手に
被災地を歩くことに抵抗がないわけではなかったんです。
好奇心丸出しの物見遊山と思われるのではないか
という、そんな気持ちがあったからです。
船が打ち上げられている、
奇跡の松が生き延びている、
といった写真を撮ってるうちはまだ、
そんな後ろめたい気持ちはなかったが、
被災地の最後に行った
名取市閖上(ゆりあげ)地区では、
その状況の中でカメラを構えるには
かなり強い意志が必要とする景色が広がっていた。
家々を跡形もなく流し去った津波でも、
流せなかったものはある。
目の当たりにした光景は、
見渡す限り残った
それぞれの家の形を示す
コンクリートの基礎部分と、
ところどころに残る門柱(門柱は結構頑丈なんだな)、
そしてこの地方の特徴なんだろう
真っ黒な御影石の墓石の山だった。
そんな光景を前に、言葉を失った我々は、
この景色をカメラではなく
自分の目に焼き付けておこうと
カメラを置きました。
かろうじて、撮影したのが、
供養塔がある被災地の中にしつらえられた
丘の上での祈りの姿だけでした。
そうです、
もうここでは祈るほかはありませんでした。
そこから見える青い空と青い海
そして降り注ぐ優しい陽光
暖かい春風
それらが無神経に思えるほど
この地は悲しみに沈んでいました。
そこに立ってるだけで、
心が震えるような光景でした。
この日まで訪ねてきた
各地がおおむね復興に向かいつつある中で、
まだそこには、深い鎮魂の思いがあふれる地でありました。
合掌
今回訪ねた各地が、
早く復興することを祈ってはおりますが、
まだまだたくさんの時間が必要でしょう。
もう僕らが手助けできるような
ボランティアは数少ない状況です。
もしかしたら、
もうそこに人が住むことはありえないかもしれません。
それほど強い悲しみに覆われた景色でした。
あとは、長い長い時間が
人を、海を、空気を、樹々を、そして土地を
癒していくほかはないのかもしれません。
同行した友達と、
10年後にもう一度来ようと約束しています。
そのときはどうかこの慰霊碑のそばで、
笑顔で記念撮影をしたいものです。
=============
被災地の旅は終わりましたが
地震の後、津波が押し寄せ、
そして三次災害ともいえる
原発事故が今もまだ終わっていません。
我が関西でも
今は点検で止まっていますが
原発が日本海沿いにあります。
旅の延長で、この後、若狭を
旅し、原発を訪ねたdoiron。
この旅についても
近日ご紹介しまあす
東北の旅から帰り、
余韻の冷めやらぬうちに
今度はミセスdoironの
長年の勤務の慰労にと
九州新幹線に乗って
天草を旅してきた。
退職を機に「どこ行く?」と聞くと
ミセスdの希望は
ずっと前から言ってた
イルカウォッチング
あわよくば、ホエールウォッチングも
ネットで調べたら、
天草に島々を巡るクルージングで
98%の確率でイルカが見れる
ツアーがあるらしいので
相談した結果、1泊2日で
出かけることにしたわけです。
やはり、老親のことや
グーのことを考えると
長期間2人とも家を空けるのは
やはり無理なもんでね。
出発した日は、大阪も
穏やかな天気の絶好の
イルカ日和でした。
同じく穏やかな天候の中、
熊本駅で新幹線をおりて
少しでも早いクルージングに
参加すべく、レンタカー「ヴィッツ」を
飛ばしたdoironでありました。
運転すること2時間弱。
天草と九州本土が橋でつながっているなんて
初めて知りました。
天草の島々を眺めながら、
順調にマリーナに着くと
出航一時間前で
10人程度の客が待っていました。
午後1時の出航です。
朝に家を出て、陸路だけで
九州でも西の端に近い天草の
1時のクルージングに参加できるのだから
交通の発達はすごいもんですねえ。
少し風はあるものの、天気は上々。
軽く食事を済ませて
満を持してクルーザーに乗り込んだ。
向かって左の小さい方です
最初は内海を進みますので、
波もなく快適でした。
座席にはこんなお客さんも座っており
船は和やかに進んで行きます。
ご存じクマモンですね
やがて、穏やかな内海を出て、外洋に近づくにつれ
クルーザーは、上に下に、右に左にと
ガンガン、ドヨドヨ、激しく揺れ始めました。
そこで、小さいお子さんを連れたお母さんが
まずダウンした模様です。
一方、ミセスdは逆に外洋に進むにつれ
目がランランとしてきました。
キュートなイントラに
「何頭くらいいるの?」
「イルカの種類は?」
「朝のウォッチングではイルカを見れた?」
と質問の嵐です。
でも彼女はとても丁寧に答えてくれました。
結局イルカたちは
先行してウォッチングしていた
他の船を目印に近づいていくと
いました、いました。
全部で10頭くらいかな
船のすぐそばまで寄ってきます。
イルカの動きに合わせて
船は右に左に大きく動きます。
危うく落ちそうになったことも・・・
ちなみに、イントラに
「落ちた人はいない?」と聞くと
「そんな人はいない」とのことでした。
でしょうねえ
今回の旅も、このイルカウォッチングの他
温泉三昧
海の幸
いつも見えていた黄砂にかすむ普賢岳
大好きなイカではないけど・・・
翌日のあいにくの雨にけぶる干潟
そして熊本市内に入って、名園「水前寺公園」
勇壮!熊本城
そして、写真はないけど
夜の星がとてもきれいで
ミセスdはしし座の方向に流れ星を二つも見たと
言うほどの盛りだくさんさ。
思っていたテポドンも
日にちはピッタリでしたが
やはり失敗でしたねえ。
1泊2日ですが中身の濃い
天草の旅でした。
花巻周辺の思い出に浸った後は、
いよいよ太平洋側へ移動だ。
移動の途中、各地にある道の駅に何度か立ち寄った。
東北には道の駅が結構多く、
キャンピングカーとまではいかなくても、
ちょっとしたワンボックスでもあれば、
道の駅づたいにどこまでも旅をできるような気がするなあ。
そんな道の駅の一つで、
レジに並んでいるときにこんな会話を聞いた。
レジ係は、そうさなあ60歳くらいの女性で、
客は70台も後半くらいの老女である。
その老女が、手に野菜を持ち、
レジの人にこう言った。
「しいたけはまだ出てないの?
〇〇さん(たぶん生産者)のしいたけ、
うまいんだわ~」
と言った後、
「あ、セシウム?」
と気づいたように言った。
するとレジの人も
「そうなのよ、セシウムなのよ」
「じゃ仕方ないわね」と会話が続いた。
こんなことがなければ、
多分年配の女性にとって、
この原子番号55の元素名は、
一生口にすることないだろうな
と想いながら聞いていた。
その日の夜のおつまみのイカフライを手に、
レジに並んでいたときの出来事でした。
そんな道の駅を出て、
マーチを転がして
最初に向かったのが陸前高田市である。
山を越えていく途中、
仮設の市役所の前を通った。
市役所の人も大変だろうなと思うのも束の間、
目に飛び込んできたのは、
がれきが各所に積み上げられ、
ポツンポツンと巨大な建物の残骸が残る
広大な空き地でした。
初めて目の当たりにする、被災地だ。
道は幹線以外はどこが通れるのかわからない。
行けると思っていくと、
がれき置き場に突き当たったりする。
呆然としながら走っているせいもある。
途中、地図上の線路を横切ったけど、
そこには細長い空き地が残るのみで、
線路は途切れたままである。
病院やスーパーの残がいを見ながら、
海のほうへ向かうと、ありました。
今回ぜひとも見ておきたかった奇跡の一本松です。
まさにその松は津波の生き証人。
車を降りて、がれきを縫うようにして
近くまで行き
思わず掌を合わせました。
途中の道の駅にあった写真を紹介しましょう。
これが震災前の景色。
そしてこれが震災後。
震災前の写真があるってことが、
この木が現地の人に親しまれていたことがよくわかりますね。
今は、枯れかかっているらしいのですが
ぜひとも何とか生き延びてほしいものです。
ここから、津波が襲った海岸線を南下しました。
この時に絶大な威力を発揮したのがこれ。
道はまあまあナビでもわかるのですが、
通行止めになってる橋なんかが記載されているのと、
津波が襲った区域が色分けされているのです。
この地図とナビを駆使して、
次に向かったのが南三陸町です。
岬をめぐる道は、とてもあの牙をむいたとは思えない、
青い青い海沿いを走ります。
途中の入り江ごとにある
集落ももちろん被災地ですが、
南三陸に着いてまたまた衝撃の景色が
広がりました。
がれきや建物もさることながら、
港の雰囲気も異様でした。
もちろん釣りをしている人などいるはずもありません。
それに巨大な船がかなり内陸部まで流され
放置されたままという状況は、
まだまだ復興が進んでいないことを示しています。
しかし、気が付くと山すそには
「仮設マルシェ」と銘打った
急ごしらえの店の集まりもあります。
残った人々の生活をたくましく支える大切な市場です。
そうそう、たくましいといえば、
被災地のあちこちにあったのが、
コンビニです。
さすがにdoironの大好きなコンビニだけのことありますなあ。
プレハブのローソンやファミマは、
復興作業に携わる作業員でとても賑わっていました。
コンビニはたくましい。
きっと夜は、暗い被災地で
オアシスのように輝いているんでしょうねえ。
復興に向かう人々の力強さを感じさせる景色でもあり、
少し気持ちが和らぎました。
しかし、しかし、被災状況はこんなものではなかったのです。
この翌日に行った、
名取市閖上(ゆりあげ)地区で
doironは一生忘れることのない
衝撃の景色を目の当たりにするのです。
===============
みちのく二人旅は、ここでいったん中断します。
というのも、明日からはミセスdoironと
九州へ旅立つのです。
雲仙周辺に桜はまだ咲いているのか、
テポドンは飛んでくるのか、
また現地からリポートしまあす。