ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

鶴鳴き渡る和歌の浦3

2019年02月21日 21時19分19秒 | ウォーキング

山に登っていくと、



上から年配のおっさんが
一人で降りてきた。



変なおっさんやなと思ったが、
それはお互いさんである。
もしかしたらdoironより
若いおっさんだったかも
しれないなあ。

まあ世の中こういう同好の士が
ウロウロしてるんですねえ。

走れなくはなったけど
歩けてさえいればこういう
楽しみにはまっていく人も
多いのでしょう。

最近doironの周りにもこういう人が
増えてきたしねえ。
皆さん健康は大事ですよ~。

さらに坂道をてくてくと
登っていくとすぐに山頂にでます。
うわ~これはすごい景色だ。
玉津島と片男波を結ぶ砂嘴と
周辺一帯ならびに紀三井寺と
名草山もしっかり見えているし、
遠くには熊野に通じる
古道の山々もみえてるなあ。

あ、あそこはジャズマラソンの
ランニングコースだ。
せっかくなので、携帯のパノラマ撮影を
しておきましたよ。
こんな感じ。



歌川広重もこの辺の山に登って
こんな絵を描いたんでしょうねえ。



ほんとにすごい景色でした。
満足して山を下りていくと
この和歌浦の説明も書かれてありました。
もともとこの辺りには紀ノ川が注いでおり、
6つの島を作っていたそうです。

ひとつが唯一小島として残っている
さっきの妹背山、
そしても一つがここの鏡山だったそうです。

また続日本記ではこの辺りは
「弱浜(わかのはま)」と
呼ばれていましたが、
聖武天皇が「明光浦(あかのうら)」
と言いなおしたそうです。

それが「若の浦」となり、
平安時代には「和歌の浦」になった
といういわれがあります。

以来、和歌の浦は代表的な枕言葉となり、
ここでたくさんの歌が作られましたね。

そして「和歌の浦」はやがて
ここから先の雑賀崎までを
そうしてそう呼ぶようになりました。
風光明媚な地域を総合して
そういうようになったんですねえ。

ああ、今日のこれからの歩きが
とても楽しみです。

さあそれでは玉津島神社に
お参りしておきましょう。



「曽根神社の氏子代表のdoironです。
旅の安全を~」と言っておきました。

さあでは、この市町川に沿った
「あしべ通り」を進んでいきましょう。
道の横には結構立派な枝ぶりの松が
街路樹のように植えられています。



こんな松やこんな松。



あ、松の下にボートが沈んでますよ

中には、枝先が川の方に垂れ下がっていて、
先っぽが水の中に使っている木もあったよ。



そして川沿いには堤防が設けられ、
そこにこんな和歌のボードが張られています。
この中の二つ目が山部赤人のあの
「かたおなみ」の歌でした。



ほかにも豊臣秀吉などの和歌が
掲載されているものもありました。



それとなく見ていくだけで、
だいたい10枚くらいあったかなあ。
そんな市町川の道を進んでいきますと
終点あたりの右側に商店街が見えてきます。



「明光商店街」と名前が書いてあります。
あれ?ちょっと聞いたことのある
名前ですねえ。

そうあの聖武天皇がこの辺りを
「明光浦」と呼んでいたところから
生まれた名前なんだそうです。

商店街の入り口あたりにあった
お寿司屋さんが街頭販売をしていて
にぎわってますねえ。

さすがに海に近いこの辺りですから、
とれたて魚のお寿司かもしれませんねえ。
ちょっとまだ朝が早いので、
こういうお寿司を持ち歩くのは
無理がありますねえ。
遠慮しておきましょう。

あ、前に徳川家の家紋が見えてきましたよ。
下には「紀州東照宮」の文字が
書かれています。



江戸幕府初代将軍徳川家康を神格化した
東照大権現と
紀州藩初代藩主徳川頼宣を神格化した
南龍大神を祀る神社である。

かつては様々な祭事でにぎわったそうだが、
最近またいろんな祭事が
復活し始めているという。

若い女性なんかも多いのは、
そんな歴史の好きな寺社子が
流行っているのかもしれません。

続く