ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

大和田街道歩き4

2017年08月17日 21時17分04秒 | ウォーキング

ここがその八坂神社です。



静かな村の中にでんと
社殿が座っています。

資料ではこの境内に道標があるはず。
探してみたら、いろんな石が
境内にあった。



これは遥拝所の案内石、



これはなんか「春はあけぼの」
みたいな石だ。

そしてこれがどうも道標の
一部かもしれませんが、
資料に書かれた道標とは
文字が違います。



どうもほかにはないのかなあ、
と思っていたところに、
おお~こんな石があったよ。



「西成大橋」と刻まれている。

うひょー、これは最近どこかで
見たのと同じものやねえ。

そう、淀川をこえたところにある
「鼻川神社」にも同じものがありましたねえ。



昔この辺りにかかっていた
「西成大橋」の橋柱は
今も橋の近くにある
神社内に残されている
ということなんだな。

う~ん、これは思いも
よらなかった出会いだった。

さらに静かな海老江の街中を
進んでいくと、こんな古い
建物のところに出てきました。



入り口の看板を見ますと
「日本暦法協会 羽間文庫」
と書かれてあります。



調べてみますと、
かつて海老江の羽間平三郎氏が、
江戸時代の町人天文学者
間重富(はざましげとみ)らゆかりの
天文関係資料を中心に、
近世大阪の郷土資料や
近江の蒲生氏に関する資料などを
生涯かけて収集保存したところで、
羽間(はざま)文庫と
名づけられたそうだ。

いまは天文関係の書類は
大阪歴史博物館に
寄贈されているそうですが、
この文庫には今も住人が
住んでいるそうで、
見学はできないそうだ。

で、その文庫の前には立派な道標がある。



「右 藤名所 ふなつばし ざこば 
左 なかやま あまがさき」

と刻まれています。

また別の面には先ほど訪ねた
了徳院や梅田と書かれたりもしている。



そんな道標を写真にとりながら、
さあ、ではぼつぼつ淀川をこえる
橋に向かっていきましょう。



街中から階段を上がって
橋につながる道路である
国道2号に上がっていくと、
すぐに淀川小橋をわたります。



この辺り、淀川の構造は
ちょっと複雑になっていますねえ。
本川に沿って並行して
小さな水路が通っています。

これはもう今はない長柄運河で、



新淀川開削時に重要な水運を
果たした運河だったそうだ。

で、それをこえてから
淀川そのものを渡る

「淀川大橋」にかかっていく。

橋の入り口には、ここもおおきな
水門がつけられていますねえ。



でっかい川ですから、
防災に関して様々な取り組みが
あるんですね。

この辺りは川幅とその水の流れが広くて、
淀川は一杯の水を流しているって
感じがしたな。



昔の人はこの淀川大橋を



“都会と田舎をつなぐ橋”

といってたそうだ。
確かに橋を渡っていって、
ふと振り向くと、そこには
大阪市内のビル群が
たくさんそびえていたなあ。



昔は西淀大橋を渡っていたこの街道も、
今は少しずれてこの橋を
渡っていかねばならない。

街道はこの先で少し右に曲がっていく。
そこで以前は大和田街道の道標を
見たのだが。



ここでどうも気になりだしたのが、
この日の歯医者の予約時間。
ああ、もうこれは帰らねばならないか
と思い、ここから大和田を経て
佃の方へ入りあまがさきへと続く部分は、
また別の機会に
第二弾として行くことにした。

てくてくとこんな道路交通情報
なんかでもよく出てくる
「野里」とか通り、



近所の駅まで歩くことにした。

結局阪神電車の姫島駅まで歩いて、
この日の歩行は終了。

地図で見ると、歩いた距離は
大体12キロ。



ちょっと持っていた地図が
おおざっぱなので
意外にウロウロと歩いたようやね。

あついあつい夏の初め、
距離はそこそこ稼げた、
大和田街道第1弾、

これにて終了です。