学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

四月初めの中間整理(その16)

2021-04-17 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月17日(土)10時43分9秒

ここまで準備して、やっと歌人としての足利尊氏の検討に入りました。
一般的に入手可能な文献の中で、私にとってもっとも参考になったのは石川泰水氏(故人、元群馬県立女子大学教授)の「歌人足利尊氏粗描」(『群馬県立女子大学紀要』32号、2011)という論文ですが、石川論文を検討する前に、予備的知識の確認を兼ねて小川剛生氏の見解(『武士はなぜ歌を詠むか』、角川叢書、2008)を少し見ておきました。

「かれの生涯は悪のパワーがいかにも不足している」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7fcfa9ec73c0ad9ffb8b8e32b3321baa
「このような謙遜は、いっぱしの歌人にこそ許されるであろうから」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e21bf79c1dfb7500af3033d3120fb18d

小川著の関東歌壇関係の記述は省略して、石川論文の検討に入りました。
とにかく尊氏の場合、歌人としてあまりに早熟であることがその一番の特徴ですね。
普通の武家歌人の場合、歌は清水克行氏の言われるところの「心の慰め」程度の存在ですが、尊氏は明らかに異質です。

石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95d43d153e815377a9b8dfaaa338d686

石川氏は「この時代、既に東国にも和歌に代表される都の文化が十分に浸透していた事は言うを俟たないが、それにしても十代半ばにして都の勅撰集撰者のもとに詠草を送る早熟さには驚きを禁じ難い」とされています。
尊氏が「十代半ばにして単に抒情の発露として和歌という手段を選んでいたに留まら」ず、「十代半ばにして勅撰集歌人となる栄誉を欲していた」「そういう野心を東国の地で育んでいた」ことは重要ですね。
もちろん、この「野心」を政治的野心に直結させることはできませんが、尊氏の視野が若年から極めて広かったことは注目してよいと考えます。
上杉家からは京都の最新情報が頻繁に寄せられたでしょうし、赤橋登子の姉妹、正親町公蔭の正室・赤橋種子からも京都情報が到来したはずです。
また、登子の兄・鎮西探題の赤橋英時と「平守時朝臣女」からは九州、そして海外情報ももたらされたはずですね。
尊氏のみならず、登子も視野の広い、極めて知的な女性だったと私は想像します。

(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83edabc3dd73379e3c1ff52f775a36ad

『臨永集』の尊氏の三首は紹介済みですが、『松花集』の尊氏詠二首も紹介しておきました。
『松花集』は、『新編国歌大観 第6巻 私撰集編 2』(角川書店、1988)の福田秀一・今西祐一郎氏の解題によれば、「撰者は未詳だが、おそらく浄弁(当時九州在住か)が関与しているであろう。作者の官位表記から、元徳三年(一三三一)夏秋頃、臨永和歌集と同時期の成立と推定されている」という歌集です。
しかし、全く同時期に浄弁が『臨永集』と『松花集』という「鎮西探題歌壇」を中心とする私撰集を二つ編むというのも少し変な話で、別人の方が自然です。
『松花集』では「同じ心を」という詞書のある歌がなかなか興味深く、私は『松花集』は赤橋英時が編者の可能性も大きいのではなかろうかと思っています。

(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04da7d29ffd4b8217df1b98e5b6ebbc4
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