投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月13日(土)22時29分0秒
この後、大友貞宗の周辺について少し細かい話をする予定でしたが、先に「松岩寺冬三老僧」についての中間報告をしておきます。
私が歌人としての尊氏に拘る理由の一つは、清水克行氏の『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)によって矮小化されてしまった尊氏像を修正することにあります。
清水氏が尊氏に関する新史料を発掘された功績は大変なものですが、それと清水氏が導き出した「お調子者でありながらもナイーブ」「八方美人で投げ出し屋」といった尊氏像が正しいかは別問題です。
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『足利尊氏と関東』
周囲の敵と闘い続け、京都に新たな武家政権を築いた足利尊氏。青春の日々を過ごした関東を中心に生涯を辿り、お調子者でありながらもナイーブなその内面に迫る。尊氏ゆかりの足利や鎌倉を訪ね、等身大の実像を探る。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b122516.html
私は清水氏の尊氏理解は基本的な部分で誤っていると思っていますが、清水氏の誤解の相当部分は『臥雲日件録抜尤』の「松岩寺冬三老僧」エピソードに由来すると思われます。
即ち、『臥雲日件録抜尤』享徳四年(1455)正月十九日条に、
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十九日、──松岩寺冬三老僧来款話、問其年七十五也、因話、尊氏毎歳々首吉書曰、天下政道、不可有私、次生死根源、早可截断云々、又或時在戦場、飛矢如雨、近臣咨曰、可少避之、尊氏咲曰、戦畏矢則可乎云々、──
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea0333130fe14c47391316eb21ce5401
とありますが、清水氏は「生死根源、早可截断」から、尊氏は「生死に対する執着が希薄」「自身の命への執着が薄い」と判断されます。
しかし、私にはそのような、一種の自殺願望を抱えた人物が、毎年毎年、律儀にも「天下政道、不可有私」といった自己の信念の表明を行うとは思えません。
そこで、そもそもこのエピソードが信頼できるのか、「松岩寺冬三老僧」が誰で、尊氏とどのような関係にあるのかを検討する必要を感じたのですが、清水著には手掛かりはありません。
暫く暗中模索状態が続きましたが、『南北朝遺文 関東編』の編者である角田朋彦氏から、「松岩寺」は現在は天龍寺の塔頭となっている「松厳院」の前身「松厳寺」ではないか、との助言を得ました。
https://kyotofukoh.jp/report1525.html
「松厳院」は四辻善成ゆかりの寺とのことなので、小川剛生氏の「四辻善成の生涯」(『二条良基研究』、笠間書院、2005)を見たところ、善成が応永九年(1402)に七十七歳で死去したことを記した後、
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嵯峨の別業には一子松蔭常宗が住して禅院とした。これが松岩寺である。松蔭も十四年三月一日に寂し、善成の血統は絶えたが、その後「四辻宮之候人」という禅僧が住持となって数代相承し、宮家の記憶をしばらく伝えた如くである(蔭涼軒日録長享三年二月二十日条)。
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とありました。(p563)
そこで、『蔭涼軒日録』の長享三年(1489)二月二十日条(増補続史料大成『蔭涼軒日録 巻三』、臨川書院、p338)を見たところ、
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【前略】及帰自先和尚以※首座 〔※石+易〕
云。松岩寺事為鹿苑院末寺。可相計之由有之。無謂
子細也。彼在所事者四辻宮之離宮也。然為寺其御子松
蔭和尚為開基。被資薦彼御菩提。由是集龍一派代々
相続而為住持者也。寺領五箇所被預置于鹿苑院。自
院年中諸下行被弁之。松蔭和尚次冬雅僧為住持。四
辻宮之候人也。晩出家也。其次冬三僧為住持。是亦四辻
宮候人也。与冬雅旁輩也。是亦晩出家也。冬三雖譲与
演西堂。冬三俗姪昌貞出家之故破先判譲之。昌貞亦
晩出家也。然間演西堂与昌貞僧有相論之儀。鹿苑并蔭
涼有批判。其理被付昌貞僧。為坊主也。然間松蔭法眷
之西堂。弟子眞壽喝食。自昌貞僧譲得之譲状有之。為
披見案文進上云々。愚云。以支證能被達鹿苑可為簡
要。自此方亦可白鹿苑云々。勧盃。自勝智院虎蔵主以
参和尚南禅座公文事督之。愚云。自鹿苑則南禅座公文
事御停止也。然書立可進之事如何。自其方賜置書立。
自鹿苑被返之尤也。尚々能被白鹿苑可然云々。勧盃。
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とありました。
まあ、細かいところはよく理解できませんが、松岩寺は「鹿苑院末寺」であって、その地は元々「四辻宮之離宮」であり、開基は四辻善成の子の「松蔭和尚」ですね。
そして「集龍一派」が「代々相続」して住持となっており、「寺領五箇所」とそれなりに裕福そうです。
そして住持は、
松蔭和尚→冬雅→冬三
と続きますが、冬雅・冬三はいずれも「四辻宮之候人」とのことですね。
冬三の後に面倒な相続争いが起きたようですが、それはとりあえず私の関心の対象外です。
結局、享徳四年(1455)正月十九日に瑞渓周鳳を訪問した「松岩寺冬三老僧」は松岩寺の第三代住持で、この時七十五歳だそうですから永徳二年(1381)生まれであり、「四辻宮之候人」だった人ですね。
住持といっても特に禅の修業を積んでいる訳ではなく、純度100%の俗人が生活のために僧衣をまとっているだけ、という感じですね。
しかもそれが数代にわたって続いているようです。
しかし、そういう人たちだけに、尊氏のエピソードを独自の解釈で改変するようなことはせず、そっくりそのまま冷凍保存してくれているような感じがします。
ということで、四辻善成は足利義満の大叔父ですから、そのゆかりの寺に尊氏のエピソードが伝えられていることは不自然ではなく、『臥雲日件録抜尤』の「松岩寺冬三老僧」の記事は信頼してよさそうです。
四辻善成(1326-1402)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%BE%BB%E5%96%84%E6%88%90
この後、大友貞宗の周辺について少し細かい話をする予定でしたが、先に「松岩寺冬三老僧」についての中間報告をしておきます。
私が歌人としての尊氏に拘る理由の一つは、清水克行氏の『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)によって矮小化されてしまった尊氏像を修正することにあります。
清水氏が尊氏に関する新史料を発掘された功績は大変なものですが、それと清水氏が導き出した「お調子者でありながらもナイーブ」「八方美人で投げ出し屋」といった尊氏像が正しいかは別問題です。
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『足利尊氏と関東』
周囲の敵と闘い続け、京都に新たな武家政権を築いた足利尊氏。青春の日々を過ごした関東を中心に生涯を辿り、お調子者でありながらもナイーブなその内面に迫る。尊氏ゆかりの足利や鎌倉を訪ね、等身大の実像を探る。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b122516.html
私は清水氏の尊氏理解は基本的な部分で誤っていると思っていますが、清水氏の誤解の相当部分は『臥雲日件録抜尤』の「松岩寺冬三老僧」エピソードに由来すると思われます。
即ち、『臥雲日件録抜尤』享徳四年(1455)正月十九日条に、
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十九日、──松岩寺冬三老僧来款話、問其年七十五也、因話、尊氏毎歳々首吉書曰、天下政道、不可有私、次生死根源、早可截断云々、又或時在戦場、飛矢如雨、近臣咨曰、可少避之、尊氏咲曰、戦畏矢則可乎云々、──
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea0333130fe14c47391316eb21ce5401
とありますが、清水氏は「生死根源、早可截断」から、尊氏は「生死に対する執着が希薄」「自身の命への執着が薄い」と判断されます。
しかし、私にはそのような、一種の自殺願望を抱えた人物が、毎年毎年、律儀にも「天下政道、不可有私」といった自己の信念の表明を行うとは思えません。
そこで、そもそもこのエピソードが信頼できるのか、「松岩寺冬三老僧」が誰で、尊氏とどのような関係にあるのかを検討する必要を感じたのですが、清水著には手掛かりはありません。
暫く暗中模索状態が続きましたが、『南北朝遺文 関東編』の編者である角田朋彦氏から、「松岩寺」は現在は天龍寺の塔頭となっている「松厳院」の前身「松厳寺」ではないか、との助言を得ました。
https://kyotofukoh.jp/report1525.html
「松厳院」は四辻善成ゆかりの寺とのことなので、小川剛生氏の「四辻善成の生涯」(『二条良基研究』、笠間書院、2005)を見たところ、善成が応永九年(1402)に七十七歳で死去したことを記した後、
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嵯峨の別業には一子松蔭常宗が住して禅院とした。これが松岩寺である。松蔭も十四年三月一日に寂し、善成の血統は絶えたが、その後「四辻宮之候人」という禅僧が住持となって数代相承し、宮家の記憶をしばらく伝えた如くである(蔭涼軒日録長享三年二月二十日条)。
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とありました。(p563)
そこで、『蔭涼軒日録』の長享三年(1489)二月二十日条(増補続史料大成『蔭涼軒日録 巻三』、臨川書院、p338)を見たところ、
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【前略】及帰自先和尚以※首座 〔※石+易〕
云。松岩寺事為鹿苑院末寺。可相計之由有之。無謂
子細也。彼在所事者四辻宮之離宮也。然為寺其御子松
蔭和尚為開基。被資薦彼御菩提。由是集龍一派代々
相続而為住持者也。寺領五箇所被預置于鹿苑院。自
院年中諸下行被弁之。松蔭和尚次冬雅僧為住持。四
辻宮之候人也。晩出家也。其次冬三僧為住持。是亦四辻
宮候人也。与冬雅旁輩也。是亦晩出家也。冬三雖譲与
演西堂。冬三俗姪昌貞出家之故破先判譲之。昌貞亦
晩出家也。然間演西堂与昌貞僧有相論之儀。鹿苑并蔭
涼有批判。其理被付昌貞僧。為坊主也。然間松蔭法眷
之西堂。弟子眞壽喝食。自昌貞僧譲得之譲状有之。為
披見案文進上云々。愚云。以支證能被達鹿苑可為簡
要。自此方亦可白鹿苑云々。勧盃。自勝智院虎蔵主以
参和尚南禅座公文事督之。愚云。自鹿苑則南禅座公文
事御停止也。然書立可進之事如何。自其方賜置書立。
自鹿苑被返之尤也。尚々能被白鹿苑可然云々。勧盃。
-------
とありました。
まあ、細かいところはよく理解できませんが、松岩寺は「鹿苑院末寺」であって、その地は元々「四辻宮之離宮」であり、開基は四辻善成の子の「松蔭和尚」ですね。
そして「集龍一派」が「代々相続」して住持となっており、「寺領五箇所」とそれなりに裕福そうです。
そして住持は、
松蔭和尚→冬雅→冬三
と続きますが、冬雅・冬三はいずれも「四辻宮之候人」とのことですね。
冬三の後に面倒な相続争いが起きたようですが、それはとりあえず私の関心の対象外です。
結局、享徳四年(1455)正月十九日に瑞渓周鳳を訪問した「松岩寺冬三老僧」は松岩寺の第三代住持で、この時七十五歳だそうですから永徳二年(1381)生まれであり、「四辻宮之候人」だった人ですね。
住持といっても特に禅の修業を積んでいる訳ではなく、純度100%の俗人が生活のために僧衣をまとっているだけ、という感じですね。
しかもそれが数代にわたって続いているようです。
しかし、そういう人たちだけに、尊氏のエピソードを独自の解釈で改変するようなことはせず、そっくりそのまま冷凍保存してくれているような感じがします。
ということで、四辻善成は足利義満の大叔父ですから、そのゆかりの寺に尊氏のエピソードが伝えられていることは不自然ではなく、『臥雲日件録抜尤』の「松岩寺冬三老僧」の記事は信頼してよさそうです。
四辻善成(1326-1402)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%BE%BB%E5%96%84%E6%88%90