学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「松岩寺冬三老僧」について

2021-02-13 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月13日(土)22時29分0秒

この後、大友貞宗の周辺について少し細かい話をする予定でしたが、先に「松岩寺冬三老僧」についての中間報告をしておきます。
私が歌人としての尊氏に拘る理由の一つは、清水克行氏の『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)によって矮小化されてしまった尊氏像を修正することにあります。
清水氏が尊氏に関する新史料を発掘された功績は大変なものですが、それと清水氏が導き出した「お調子者でありながらもナイーブ」「八方美人で投げ出し屋」といった尊氏像が正しいかは別問題です。

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『足利尊氏と関東』
周囲の敵と闘い続け、京都に新たな武家政権を築いた足利尊氏。青春の日々を過ごした関東を中心に生涯を辿り、お調子者でありながらもナイーブなその内面に迫る。尊氏ゆかりの足利や鎌倉を訪ね、等身大の実像を探る。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b122516.html

私は清水氏の尊氏理解は基本的な部分で誤っていると思っていますが、清水氏の誤解の相当部分は『臥雲日件録抜尤』の「松岩寺冬三老僧」エピソードに由来すると思われます。
即ち、『臥雲日件録抜尤』享徳四年(1455)正月十九日条に、

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十九日、──松岩寺冬三老僧来款話、問其年七十五也、因話、尊氏毎歳々首吉書曰、天下政道、不可有私、次生死根源、早可截断云々、又或時在戦場、飛矢如雨、近臣咨曰、可少避之、尊氏咲曰、戦畏矢則可乎云々、──

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea0333130fe14c47391316eb21ce5401

とありますが、清水氏は「生死根源、早可截断」から、尊氏は「生死に対する執着が希薄」「自身の命への執着が薄い」と判断されます。
しかし、私にはそのような、一種の自殺願望を抱えた人物が、毎年毎年、律儀にも「天下政道、不可有私」といった自己の信念の表明を行うとは思えません。
そこで、そもそもこのエピソードが信頼できるのか、「松岩寺冬三老僧」が誰で、尊氏とどのような関係にあるのかを検討する必要を感じたのですが、清水著には手掛かりはありません。
暫く暗中模索状態が続きましたが、『南北朝遺文 関東編』の編者である角田朋彦氏から、「松岩寺」は現在は天龍寺の塔頭となっている「松厳院」の前身「松厳寺」ではないか、との助言を得ました。

https://kyotofukoh.jp/report1525.html

「松厳院」は四辻善成ゆかりの寺とのことなので、小川剛生氏の「四辻善成の生涯」(『二条良基研究』、笠間書院、2005)を見たところ、善成が応永九年(1402)に七十七歳で死去したことを記した後、

-------
 嵯峨の別業には一子松蔭常宗が住して禅院とした。これが松岩寺である。松蔭も十四年三月一日に寂し、善成の血統は絶えたが、その後「四辻宮之候人」という禅僧が住持となって数代相承し、宮家の記憶をしばらく伝えた如くである(蔭涼軒日録長享三年二月二十日条)。
-------

とありました。(p563)
そこで、『蔭涼軒日録』の長享三年(1489)二月二十日条(増補続史料大成『蔭涼軒日録 巻三』、臨川書院、p338)を見たところ、

-------
【前略】及帰自先和尚以※首座 〔※石+易〕
云。松岩寺事為鹿苑院末寺。可相計之由有之。無謂
子細也。彼在所事者四辻宮之離宮也。然為寺其御子松
蔭和尚為開基。被資薦彼御菩提。由是集龍一派代々
相続而為住持者也。寺領五箇所被預置于鹿苑院。自
院年中諸下行被弁之。松蔭和尚次冬雅僧為住持。四
辻宮之候人也。晩出家也。其次冬三僧為住持。是亦四辻
宮候人也。与冬雅旁輩也。是亦晩出家也。冬三雖譲与
演西堂。冬三俗姪昌貞出家之故破先判譲之。昌貞亦
晩出家也。然間演西堂与昌貞僧有相論之儀。鹿苑并蔭
涼有批判。其理被付昌貞僧。為坊主也。然間松蔭法眷
之西堂。弟子眞壽喝食。自昌貞僧譲得之譲状有之。為
披見案文進上云々。愚云。以支證能被達鹿苑可為簡
要。自此方亦可白鹿苑云々。勧盃。自勝智院虎蔵主以
参和尚南禅座公文事督之。愚云。自鹿苑則南禅座公文
事御停止也。然書立可進之事如何。自其方賜置書立。
自鹿苑被返之尤也。尚々能被白鹿苑可然云々。勧盃。
-------

とありました。
まあ、細かいところはよく理解できませんが、松岩寺は「鹿苑院末寺」であって、その地は元々「四辻宮之離宮」であり、開基は四辻善成の子の「松蔭和尚」ですね。
そして「集龍一派」が「代々相続」して住持となっており、「寺領五箇所」とそれなりに裕福そうです。
そして住持は、

 松蔭和尚→冬雅→冬三

と続きますが、冬雅・冬三はいずれも「四辻宮之候人」とのことですね。
冬三の後に面倒な相続争いが起きたようですが、それはとりあえず私の関心の対象外です。
結局、享徳四年(1455)正月十九日に瑞渓周鳳を訪問した「松岩寺冬三老僧」は松岩寺の第三代住持で、この時七十五歳だそうですから永徳二年(1381)生まれであり、「四辻宮之候人」だった人ですね。
住持といっても特に禅の修業を積んでいる訳ではなく、純度100%の俗人が生活のために僧衣をまとっているだけ、という感じですね。
しかもそれが数代にわたって続いているようです。
しかし、そういう人たちだけに、尊氏のエピソードを独自の解釈で改変するようなことはせず、そっくりそのまま冷凍保存してくれているような感じがします。
ということで、四辻善成は足利義満の大叔父ですから、そのゆかりの寺に尊氏のエピソードが伝えられていることは不自然ではなく、『臥雲日件録抜尤』の「松岩寺冬三老僧」の記事は信頼してよさそうです。

四辻善成(1326-1402)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%BE%BB%E5%96%84%E6%88%90
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川添昭二氏「鎮西探題歌壇の形成」(その2)

2021-02-13 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月13日(土)10時12分24秒

2月6日の投稿で書いた「松岩寺冬三老僧」については若干の進展があったので、川添氏の見解を紹介した後でまとめるつもりです。
「松岩寺」は現在は天龍寺の塔頭となっている「松厳院」の前身で、尊氏伝承の信頼性はかなり高いことが分かりました。

緩募:『臥雲日件録抜尤』の尊氏評について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea0333130fe14c47391316eb21ce5401

さて、川添著の続きです。(p45以下)

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 京都歌人の九州下向が九州の文芸に意味をもったことが確かに知られるのは、鎌倉末期の浄弁の場合である。浄弁の九州下向については、『続草庵集』巻三雑(イ)と『兼好法師歌集』(ロ)に次のように見える。

(イ)  法印浄弁、老後につくしへ下侍し時、名残惜て人々歌読侍しに、祝の心を
  末とをくいきの松原ありてへばけふ別とも又ぞあひみん
(ロ)  浄弁法師つくしへまかり侍しに火うちつかはすとて
  うちすてゝわかるゝみちのはるけきにしたふおもひをたぐへてぞやる

 浄弁は前述のように、二条為世門四天王の一人で鎌倉末─南北朝期の代表的歌人である。尊経閣所蔵の浄弁筆『後撰和歌集』、『拾遺和歌集』奥書によると、浄弁は嘉暦二年(一三二七)四・五月は京都にいて両集を書写し、その後九州に下って鎮西探題匠作(北条英時)と大伴江州禅門(貞宗)に三代集を相伝している。この、九州での事績を伝える尊経閣所蔵浄弁筆『拾遺和歌集』奥書は次のとおりである。

  嘉暦二年五月三日申出師之御本、於河東霊山藤本庵拭七十有余老眼終数十ケ日書写功
                                権律師浄弁(花押)
  此集於宗匠御流者当世委細相伝之人稀者歟、傍若無人之由所存也、世間又無其隠乎、茲云稽古云機根
  抜群間、不残一事所伝授運尋也、何況乎鎮西探題匠作并大友江州禅門三代集伝授之時、読手度々勤仕、
  諸人不可貽疑之状如件
    正慶二年正月十五日                   浄弁(花押)

 北条(赤橋)英時は最後の鎮西探題として鎌倉幕府滅亡とともに博多で誅滅された。武家歌人として相当に高く評価されていたらしく、勅撰集への入集は、『続後拾遺和歌集』二、『風雅和歌集』一、『新拾遺和歌集』一、『新後拾遺和歌集』二という数である。私撰集では『続現葉和歌集』一、『臨永和歌集』七、『松花和歌集』四(内閣文庫賜蘆拾葉」巻一、国文学研究資料館、福岡市住吉神社、久曾神昇氏など所蔵)が知られる。
-------

いったん、ここで切ります。
井上宗雄氏は浄弁を康元元年(1256)頃の生まれとされているので、嘉暦二年(1327)には七十二歳、正慶二年(元弘三、1333)には七十八歳くらいですね。
なお、ついでに「和歌四天王」について基礎的な点を押さえておくと、井上氏は、

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 さて再び和歌四天王であるが、正徹はこれに何の限定も与えていないが、了俊ははっきり「為世卿門弟等の中には、四天王とか云て」と限定していることに注意すべきである。為世門の俊秀たる四歌人を指すのであって、宗匠一門を含めた歌壇全体の四名人の如き意でない事は自明である。更に浄弁が康永三年以後まもなく九十二歳前後の高齢で没し、即ちその活躍期が鎌倉末であることを思い合わせると、その四天王の時代というのも鎌倉最末期が中心になり、ついで南北朝初頭に及んでいたと見るべきであろう。
 しかし、為世門の高足ということは当時の歌壇全体においてもやはり高い地位であったには違いなく、この内、兼・頓は後宇多院から詠草を召され(各家集)、また浄弁も提出せしめられる程の存在であったらしい(第六章参照)。
 而して浄弁は一二五六年(康元)頃、兼好は一二八三年(弘安六)頃、頓阿は一二八九年(正応二)、慶運は一二九六年(永仁四)頃、能誉は一二六〇~八〇年(文永~弘安)代ころの生まれである事が推測され、この内、能誉は既に新後撰に隠名入集、能・頓・浄・兼は続千載に入集した。現存本続現葉には能4、頓2、浄2、兼3、慶運は1である。右によると、慶運は出生が遅い事といい、その若さの故か歌壇に認められた事(詠作は既に正和四年に残るが)の遅い事といい、能誉を四天王とする事が鎌倉最末期の歌壇情勢からいえば妥当であろう。結局、能誉が九州に下り最も早く没したらしい事、逆に浄弁が長命し、また慶運は父に引き立てられてか次第々々に歌壇においてその存在を知られてくる事によって、南北朝初頭には一応その名声も顕著になり、いつの頃にか能誉に代わって慶運が四天王に加えられたのであろう。
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とされています。(『中世歌壇史の研究 南北朝期』、p307)
浄弁は七十歳を超えて九州に下っていますが、別に能誉のように九州で死んだ訳ではなく、京都に戻って「康永三年以後まもなく九十二歳前後の高齢で没し」たとのことなので、ずいぶん元気な老人ですね。

浄弁(水垣久氏『やまとうた』サイト内)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jouben.html
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川添昭二氏「鎮西探題歌壇の形成」(その1)

2021-02-12 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月12日(金)08時33分59秒

尊氏が歌壇の人間関係を政治的に利用した、との発想は森茂暁氏と同じではないか、と言われるかもしれないので、念のために書いておくと、私は歌壇での交流が結果的に尊氏の軍事・政治活動に役立った、と考えているだけです。
『臨永集』が編まれた元徳三年(元弘元、1331)の段階では、後醍醐の不穏な動きはあったにせよ、まだまだ幕府は強大な存在で、その本格的な動揺はこの後の護良親王・楠木正成の活躍によってもたらされた訳ですから、この時点で尊氏に歌壇での人間関係を将来、軍事・政治活動に利用しようという下心があったとは思えません。
森茂暁氏の場合、正中三年(1326)、『続後拾遺和歌集』が編纂されて尊氏が二十二歳で勅撰歌人になった時点で、後醍醐は「あらゆる手段をつかって討幕のための兵力を集めようと」しており、他方、尊氏も「まだ本格的な討幕の意志は形成されていなかったせよ」「後醍醐に接近したいという意図」は「あったであろうことは容易に推測され」るとされます。
そして、この互いに野心と下心を持った「尊氏と後醍醐双方の利害がおよそ一致したところに、尊氏詠草が後醍醐撰の『続後拾遺和歌集』に入集する必然性が生まれた」とされますが、単なる妄想ですね。
誰を勅撰集の撰者にするかについては政治的判断が作用しますが、いったん撰者を決めた後は、誰のどの歌を選んでどのように配列するかは専門歌人の仕事です。
後鳥羽院のように自ら撰集に関わった天皇(治天)もいることはいますが、それは後鳥羽院が定家もその天才を認めざるをえない特別な存在だったからで、後醍醐はそこまでの歌人ではありません。

勅撰集入集の政治的意味
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ccedc9b7d94a1dc0492371c975c00daf

さて、『中世歌壇史の研究 南北朝期』での『臨永集』の説明はもう少し続きますが、細かい話になるので省略し、井上氏も参照されている川添昭二氏の「北九州歌壇」(川添氏の用語では「鎮西探題歌壇」)に関する研究を見て行きます。
川添氏は九州の中世文芸に関する論文を『中世文芸の地方史』(平凡社、1982)にまとめておられましたが、後にこれに若干の論文を追加して『中世九州の政治・文化史』(海鳥社、2003)という著書を出されているので、引用は後者から行います。

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『中世九州の政治・文化史』
政治・宗教・文芸が一体であった中世社会。平安期から江戸前期まで、大宰府天満宮安楽寺、鎮西探題、九州探題、大内・大友・島津氏などを主題に捉え政治史の展開に即し九州文化史を体系的に叙述した川添史学の決定版。
http://kaichosha-f.co.jp/books/history-and-folk/846.html


同書の「第二章 神祇文芸と鎮西探題歌壇」は、

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一 法楽連歌と託宣連歌
二 菅公説話と大江匡房
三 天満宮安楽寺と蒙古襲来
四 鎮西探題歌壇の形成
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と構成されていますが、第四節から少し引用します。(p44以下)

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  四 鎮西探題歌壇の形成

 次に中央(京都)の有名文(歌)人・実力ある文(歌)人の九州下向を軸とした京都文芸の九州文芸への影響を見てみよう。
 京都の貴顕・文人の下向にはさまざまな場合がある。藤原(葉室)光俊(一二〇三-七六)のような配流の例もある。父光親は後鳥羽院無双の寵臣で、承久の乱において京方謀議の中心と見られて斬罪され、光俊は連座して流刑となった。【中略】
 京都の著名な歌人で九州に下向していることが知られるのは鎌倉最末期における能誉・浄弁の場合である。
 『了俊歌学書』によると、二条為世門の四天王として浄弁・頓阿・能与(誉)・兼好をあげている。『正徹物語』では能与に代って慶運が入っているが、鎌倉最末期の段階では能誉はいわゆる和歌四天王の一人として当代を代表する歌人と目されていた。『井蛙抄』に「能誉は故宗匠〔二条為世〕の被執し歌よみなり、故香隆寺僧正〔守誉〕の愛弟の児なり」とある。仁和寺の僧で二条為世が嘱目した地下の法体歌人である。井上宗雄氏は「高雅な数寄者で、何物をも残さぬ、純粋な気持の法体歌人であったと見える」と評している。同じく『井蛙抄』によれば、鎌倉末、頓阿が東山にいたころ、能誉は頓阿を訪ね、物語などして筑紫へ下っている。九州下向の目的も理由も、下向後の状況も一切分からない。和歌数寄者の懇請によるものかもしれないし、仁和寺系の寺院や庄園を縁として下ったのかもしれない。いずれにせよ、能誉の九州下向は九州数寄者の文芸愛好と無関係であったとは思われない。九州における二条系歌風の伝播に一役買ったことと思われる。
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いったん、ここで切ります。
「和歌四天王」については、稲田利徳氏(岡山大学名誉教授)に『和歌四天王の研究』(笠間書院、1999)という1174頁、28,000円(税別)のとんでもない大著があって、私は最初の方を少し読んだだけです。

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『和歌四天王の研究』
南北朝期の二条為世門の歌人である頓阿・兼好・浄弁・慶運の、歌歴・家集・後世への影響・和歌資料及び歌風を総合的に研究し体系化。二十余年をかけて、各人ゆかりの伝本を博捜し調査した成果の集大成。
鎌倉末期から南北朝期を代表する、頓阿、兼好、浄弁、慶運という四人の和歌と生涯を考察。遁世した僧侶という立場で、厳しい動乱の時代を歌の道でもって生き抜いた、その生きざまと和歌の特質を究明する。
http://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305103291/

「和歌四天王」の四人(プラス能誉で五人)の中で、現在は兼好法師が一番有名ですが、中世人の評価では兼好はちょっと劣るとされていて、歌人として一番優れているとされたのは頓阿ですね。
頓阿は上記引用にも出てくる『井蛙抄』の著者です。
ただ、九州に特別に縁があったのは能誉と浄弁ですね。
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井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その9)

2021-02-10 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月10日(水)11時11分29秒

南北朝期を調べていると、戦争では敵味方がクルクルと入れ替わるなど変化のスピード感がすごくて、何だか奇妙に現代的な社会だなあ、と思うことが多いのですが、歌壇の人間関係など、今のネット社会の先取りみたいなところも感じます。
討幕の時点まで、尊氏と大友貞宗は直接の面識はなかったでしょうが、「北九州歌壇」で催された歌会では大友貞宗は赤橋英時とその妹と直接の交流があったでしょうし、そういう場では義理の弟で有望な歌人である尊氏(高氏)の名前が出ても不思議ではない、というか出るのが当たり前ですね。
あるいは尊氏が先輩歌人である大友貞宗に、書状で作歌の指導を請うような関係があったかもしれません。
ま、そこまで言うと小説の世界に入ってしまいますが、二人はともに『臨永集』の写本で相手の名前ばかりか歌風まで知っていたはずで、そうした結びつきが討幕および戦後統治において、二人の特別な関係を作った可能性は十分にありますね。
尊氏が元弘三年四月二十九日に篠村から「大友近江入道」宛てに出した有名な「髻文書」も、森茂暁氏の解釈だとまるで二人が後醍醐を介して初めて接触したかのように読めますが、これも二人が旧知の間柄だったとすると見方が相当に違ってきますね。
それは少弐や島津などとの関係でも同様だと思います。
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」では、歌壇での人間関係についての言及は一切なく、歴史研究者にとってそうした関係はなかなか視野に入ってこないのかもしれませんが、少なくとも川添昭二氏は「北九州歌壇」(川添氏の用語では「鎮西探題歌壇」)を相当深く研究されているので、その学識が九大系の研究者に継承されていないのは残念に感じます。

「ポイントとなるのは「遮御同心」である」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bdd807a1977d7e651e4fb6a56a81f192

さて、井上著の続きです。(p318以下)

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 しかも注意すべきは次のような歌である。

    安楽寺にたてまつりける百首歌中に
                             詠み人しらず
  跡たれし北野の宮のひとよ松ちもとは君がよろづ代のかず  (巻五)

    平英時よませ侍りし百首うたに遠鹿
                             詠み人しらず
  秋風の吹きこす空にきこゆなり山のあなたのさをしかのこゑ (巻三)

なお「詠み人しらず」の歌と英時の返歌が巻八にみえるが、これらは何れも北九州を場としたものではなかろうか。
 川添氏も想定しているように、そして私も同じ頃それを考えてみたのであるが(「鎌倉末・南北朝初頭歌壇における一動向」<立教大学>日本文学11=昭和三八11)、鎮西探題府を中心として北九州歌壇といったものが形成されていたものと思われる。探題府引付衆の出自は、川添氏によると、探題被官・中央幕政機関職員・少弐大友一族被官・守護級有力御家人・在地御家人など、様々な人々がいた。また既に島津氏の如きは六波羅に参候し、忠景─忠宗(正中二年十一月没、新後撰以下)の如く鎌倉中期から勅撰歌人であり(忠秀は忠宗男)、往古の大宰府を考えれば九州とてもとより歌に縁のない地ではなかったが、特に鎮西探題府の成立・充実に伴って、中央の職員が赴任して来て和歌が一層普及したであろう事は容易に推察できる。まして文化的な家柄である赤橋家の英時のような人が探題になった場合は尚更であろう。
-------

川添昭二氏の見解は後で紹介します。
この先は「和歌四天王」についてのある程度の知識がないと分かりにくいかもしれませんが、とりあえず引用しておき、後で必要に応じて検討したいと思います。(p319)

-------
 能誉が九州に下った事は前に述べたが、こういう九州の情勢を考えると、或は鎮西探題府か、島津・大友・少弐というような豪族の数寄者から招かれたものではなかろうか。浄弁とて同様であろう。恐らく能誉と浄弁は九州で遭ったに違いないし、或は浄弁の下向は能誉が関与したのかもしれない。そして浄弁は英時と貞宗に三代集を相伝するのである。ところで浄弁は元徳二年二月古今集の相伝の説を貞千に伝えた。日大図書館蔵南北朝写二冊本(昭和三七全国大学国語国文学会に展示)奥書、貞応奥に続いて

  元徳二年二月廿二日以相傳説所傳授大蔵丞藤原貞千如件
                            権律師浄弁 在判
  延文弐年正月廿六日以浄弁法印自筆本書写終功畢

とある。なお久曽神昇氏『古今和歌集成立論研究篇』一四四頁にも掲出されている(但し「藤原負子」となっている)。これはどうも臨永集の作者藤原貞千らしいが、貞千か貞于か、或は似たような別字かよく分らない。が、恐らく同一人物と見做してよかろう。或は九州の武士(少弐の一族か被官か)であろうか。
 為実・為相、或は飛鳥井家など、異端や他家の人々が蟠踞する関東は、正に反二条派の巣窟であった。その点、九州は二条派にとって誠に清潔な土地である。といって、老体の為世は勿論、現任廷臣である為定や為明らが自ら赴いて指導する事は出来ない。豪族の招きに応じて浄弁が下向、懇切な指導を行なった事は当然である。
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井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その8)

2021-02-09 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 9日(火)12時00分37秒

尊氏の勅撰初入集の歌はまた後で検討するとして、『臨永集』に移ります。
「第四章 文保~元弘期(鎌倉最末期)の歌壇」の第十一節「臨永集と松花集」の冒頭から少し引用します。(p316以下)

-------
 臨永・松花ともに鎌倉最末期に、二条派の人の手によって撰ばれた私撰集である。

臨永集  類従所収。穂久邇本(鎌倉末写?)・書陵部本(三本)・東大研究室本・神宮本・三手本・彰考館本・松平本等伝本は多い。類従本は善本でなく、脱落などがあるが、福田秀一氏が『群書解題』<第七>でそれらを補っている。【中略】
 既に冨倉二郎氏が「続現葉和歌集と臨永和歌集」(国語国文、昭一一9)で、最近また福田氏も指摘するように、成立は元徳三年<八月元弘と改元>三月尽の詞書がみえるのでこれ以後、集中作者の官位記載(春宮大夫公宗など)によって同年九月以前であろう。
 十巻七百七十首、作者は百八十名。長舜のように物故者が少数入っている外、後宇多・為藤・公雄らがみえず、生存者中心の集である。入集歌数の多い人は、為世25、今上(後醍醐)22、覚助18、院(後伏見)17、実教14、為定・今出川院近衛12、公宗母11、為明・為実・雅孝・隆教・永福門院10、新院(花園)・万秋門院9。
 大覚寺統・二条派の人が優遇されているのは勿論で、為親8、邦省7、尊良・忠房・為冬・為道女6、為忠・為嗣3。法体歌人は、長舜8、浄弁・能誉・頓阿6、公順・実性・隆淵5、慶運・運尋2、の如く多く採られている。
 持明院統の皇族や飛鳥井・九条家などの歌道家の人々もかなり多く採られている。為兼が入っていないのは、配流の身だからであろうし、為相・為守が零なのは物故者だからである。
 以上の外、道平(前関白左大臣)7、公賢(前内大臣)・定房・師賢・親房6、冬教(関白前左大臣)・行房・実仁・具行・忠守・光吉・有忠5、清忠4など、権門や大覚寺統系廷臣の歌はそつなく採られている。
 冨倉氏は前掲論文で、後宇多院・邦省親王の歌が入っていないから、臨永は後醍醐側の集であろう、といっているが、それは恐らく誤りで、物故者だから入っていないのである。有忠や邦省親王の歌が決して少ないとはいえぬ程度に入っているのも、その誤りが裏がきされるであろう。
-------

「成立は元徳三年<八月元弘と改元>三月尽の詞書がみえるのでこれ以後、集中作者の官位記載(春宮大夫公宗など)によって同年九月以前」とのことなので、西暦だと1331年、本当に鎌倉最末期ですね。
八月九日の元弘改元の直後、二十四日に後醍醐が三種の神器を携えて密かに京都を出奔し、笠置に移って挙兵する訳ですから、『臨永集』は本当に嵐の前の静けさの中で編まれた歌集です。
とはいっても、ここまでは歴史研究者にとっては退屈な話でしょうが、『臨永集』が極めて興味深いのは武家歌人の入集が多い点です。(p317以下)

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 次に注意すべきは武家歌人の入集状況である。北条英時・同守時女<英時妹>・大友貞宗6、東氏村5、斎藤基明・二階堂行友・島津忠秀・安東重綱・斎藤基夏・足利高氏3、の如くで、中でも英時兄妹の歌がずばぬけて多い事は注目に価し、しかもその英時は元亨元年末~同三年九月、正中二、三年~元弘三年まで鎮西探題であり、この臨永集が成立した時もその任にあり、かつ英時の姉妹も新拾遺一八七七によって伴われて九州に下向していた事がわかる。〔補注〕
 川添昭二氏「九州探題今川了俊の文学活動」(九州大学九州文化史研究所紀要10=昭三八10)によると、臨永作者の内(アラビア数字は臨永入集数、私注)、藤原貞経2は少弐、平重棟2は渋谷(なお重棟女1)、共に鎮西探題引付で、特に少弐氏は二番引付頭人である。更に平貞宗6・同貞直3も、大友貞宗・同庶流戸次貞直ではないか、と推定している。大友氏は藤氏といわれているが、川添氏によると平姓を称した確かな支証がある由で、貞宗が大友であろう事、即ち浄弁から古今を伝授した江州入道(具簡)であろう事は間違いあるまい。続千載以降の作者でもある。貞直の場合は、或は続千載・続後拾遺に入集した大仏貞直の可能性もある。宗像氏長2は筑前宗像大宮司家で、川添氏によると「九州における二条派歌風のひろがりを考える上に若干の示唆を与えるようである。その際、宗像氏の鎌倉幕府御家人化を考慮に入れるべき事」である。川添氏に「鎮西評定衆、同引付衆について」という論文があるが(歴史教育、昭和三八7)、これによって臨永を見ると、更に平重雄1が渋谷下総権頭、藤原利尚2が斎藤二郎左衛門尉、藤原光兼が飯河縫殿允、平久義2が下広田新左衛門尉、藤原光政1が弾正二郎兵衛尉、に比定してよいのではないか、とも思われる。
 もとより惟宗忠秀4は島津氏であり、多々良貞弘2・同重貞1は大内氏であろう。この外にも多分九州関係の人々は多いと思う。なお田部・宇治を名乗る人々も九州の人ではなかろうか。以上九州関係の内、勅撰作者は英時・守時女・忠秀・貞宗位で、名門・大豪族の人々で、他の多くの一、二首組はこの集にしか名がみえない(なお続千載に一首入集した道義法師も作者部類によると島津氏である)。
-------

いったん、ここで切ります。
「英時兄妹の歌がずばぬけて多い事は注目に価し」とありますが、北条(赤橋)英時は鎌倉幕府最後の執権・守時の弟で、英時の妹には尊氏の正室・登子もいますね。

北条英時(?-1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%8B%B1%E6%99%82

『臨永集』成立の僅か二年後、元弘三年(1333)三月に菊池武時が後醍醐側として挙兵すると、少弐貞経・大友貞宗は鎮西探題・英時側に立って菊池武時を敗死させますが、その二ヶ月後、今度は少弐貞経・大友貞宗が鎮西探題を滅ぼします。
そして、その際に尊氏は大友貞宗と緊密な連絡を取っています。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d1dd5123eeb460e1b8701cd9cfe6b08a
「ポイントとなるのは「遮御同心」である」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bdd807a1977d7e651e4fb6a56a81f192
「大友貞宗の腹は元弘三年三月二〇日の段階ではまだ固まっていなかった」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d5dfc5df2b095e05c6da24a62ee1e33
「このわずか一か月有余の大友貞宗の変貌奇怪な行動」(by 小松茂美氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe5560701dd33e1fefa4d23a6ebf9f42

さて、「九州関係の内、勅撰作者は英時・守時女・忠秀・貞宗位で、名門・大豪族の人々で、他の多くの一、二首組はこの集にしか名がみえない」とのことですが、大友貞宗は単に勅撰歌人であるだけでなく、「貞宗が大友であろう事、即ち浄弁から古今を伝授した江州入道(具簡)であろう事は間違いあるまい」との事で、武家としては最高レベルの歌人ですね。
そして、『臨永集』には尊氏の正室である赤橋登子の兄と姉妹の「英時兄妹の歌がずばぬけて多い事」と、尊氏も三首入集していることを考え併せると、自ずとひとつの疑問が浮かんできます。
それは、足利尊氏は元弘三年になって初めて大友貞宗と接触したのではなく、鎮西探題を中心とする「北九州歌壇」の中で、既に交流があったのではないか、という疑問です。

大友貞宗(?-1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E8%B2%9E%E5%AE%97
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井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その7)

2021-02-08 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 8日(月)12時15分55秒

井上氏は前回投降で引用した部分の次に為定の撰集を補佐した二条派関係者、そして撰集の史料として諸臣に下命された「正中百首」について検討されますが、細かな話になるので省略します。
次いで、京極派との関係で興味深い指摘があります。(p269)

-------
 為定も一応資料は集めたらしい。後伏見・花園方へも詠を請い、中宮(禧子)を通じてその姉永福門院にも詠を請うた。しかし女院は続千載の時、「天未通女」の歌を改悪した事を責めて遣わさず、また女院の夢想に、今度の勅撰は不可説の事で、歌を一首たりとも遣わしたら嘲弄の基である、という伏見院の告があったので上皇らも全く遣わさなかった(花園院記)。為定としては予想していた事でもあろう。
-------

これだけでは何のことか分かりませんが、これは『続拾遺和歌集』のひとつ前、大覚寺統の後宇多院の下命を受けて二条為世が元応二年(1320)に撰進した『続千載和歌集』の編纂過程で起きた次のようなエピソードですね。(p233以下)

-------
 大覚寺統の人々が増加しているのはいうまでもない。玉葉に比べてそのプラスの数は、後宇多44、後醍醐20、後二条13、亀山13の如くであり、一方、持明院統の人々は伏見75、永福門院38、花園8、後伏見5をそれぞれ減じている。もっとも為兼や為子の零に比べると、尊貴に対しては幾らか為世も遠慮し、手心を加えているのであろうが、しかし撰入した歌は「うつろふも心づからの花ならばさそふ嵐をいかゞ恨みむ」(伏見院)の如く二条風のものが多い。花園院記正中二年十二月十八日裏書によると、永福門院の「天未通女〔あまをとめ〕袖翻〔そでひるがへす〕夜名々々能〔よなよなの〕月乎雲居丹〔つきをくもゐに〕思遣哉〔おもひやるかな〕」という歌を、為世は「袖振る夜半之風寒ミ」と改作して採った。女院は怒って父実兼を通じて為世に切出すべく申し入れたが為世は承知しなかった(一七九五に改作の形でみえる)。後に花園院はそれを咎めた処、為世は「意趣」を改めず改作入集した由を答えたが、院は既に意趣が変わっているとして怒っている。
-------

為世も伏見院崩御、為兼の二度目の配流の後、京極派の中心となっていた永福門院に正面から喧嘩を売った訳で、現代ならば著作者人格権(同一性保持権)の侵害として訴訟になりかねない無茶苦茶な話ですね。
この時期の二条派と京極派の対立は本当に厳しくて、伏見院など『玉葉和歌集』では93首も入っていたのに、『続千載和歌集』では18首となってマイナス75首ですが、まあ、京極派も為兼が『玉葉和歌集』でやりすぎた、という面が多分にありますね。

『玉葉和歌集』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E8%91%89%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86
『続千載和歌集』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E5%8D%83%E8%BC%89%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86

さて、『続後拾遺和歌集』に戻ると、井上氏は入集歌数を「大覚寺統の天皇」「二条家の人々」「持明院統関係」「京極派の人」「御子左庶流及び御子左以外の歌道家」「その他、権門や武家」に分けて論じられていますが、細かな話なので省略し、まとめの部分のみ引用します。
ここに尊氏が登場します。(p271以下)

-------
 以上、通観して際だった特色というものをとらえる事が難かしい。勿論、大覚寺統や二条家が優遇され、京極派が冷遇されているが、続千載ほど顕著な派閥意識は見られない。強いていえば物故者や長老よりも、現在活躍している中堅層を優遇しているという傾向が濃い。
 さて、成立した続後拾遺に対して、天皇は「いみじきよし」を仰せ下し(増鏡)、「集のさま昔にはぢぬ」という言葉を為定に賜わった(新千載一九七五・一九七六)。なお増鏡は、為定の姉妹中宮宣旨が帝の寵妃であり、法仁親王の母であることを記し、為定も信寵厚かった由を記している。ともあれ、勅撰集の完成は、天皇の政治理念である諸儀復興の一環が成就した事であり、嬉しかったに違いない。
 続後拾遺には、初めの撰者であった為藤の仕事がどれ位生かされているのか明らかでない。為藤は二条派のマンネリズムを何とか打破しようとしたといい、為定もその精神を受け継ごうとしたというが、歌風のきわだった特徴といったものも目につかない。

  久堅の雲居に月の澄みぬれば照さぬ方もあらじとぞ思ふ  (為藤・三二七)
  足引の山の高嶺は晴やらでたなびく雲に降れるしら雪   (為定・四八五)

 一〇七四から一〇八六までは為藤・経継・貞直・高氏・範秀・高広・隆教・定資・行済・源承・長遠・忠守・隆淵・慶融ら、廷臣・歌道家・法体・武家、各々の境遇で和歌にたずさわる感懐を吐露したもので、当時の人々がどのような気持で和歌の道に対していたか、という心境を窺いえて興味深い。その中にみえる高氏の「かきすつるもくずなりとも此度は帰らでとまれ和歌の浦波」(一〇七六)によると、その詠草が二条家にもたらされていたのである。高氏は正中二年二十一歳である。そして「此度」という句を文字通り解すると、前回すなわち続千載の時にも詠草を送ったが帰ってきてしまった、今回はそちらに止まってくれ、という意になるが、続千載(元応二年=十六歳)の折にも詠草を為世の許へか送ったらしい。歌道熱心な青年武人である。後に尊氏が歌壇に対して大きな力を持つようになるが、既に青少年時代から和歌に深い関心を持っていた事がここに知られるのである。
-------

「6 正中百首と続後拾遺集」はこれで終わりです。
ここに登場する尊氏の和歌について、かつて私は、ずいぶん年寄り臭い歌のように感じて、もしかしたらこれは家庭教師の代作ではなかろうか、などと尊氏に失礼な想像をしたことがあるのですが、現在では全くの間違いであったなと反省しています。
尊氏は知的な面で極めて早熟な人間であった、と素直に考えるべきですね。

「釈迦堂殿」VS.上杉清子、女の闘い
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91b1aecdbf8e51163dbf3e675bda3a57
「世間では」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b705e279862fd8c9f0070d6920a4e39f

なお、森茂暁氏は、尊氏のこの勅撰集初入集の歌について、

-------
 先にこの尊氏の和歌を当時の政治史のうえに置くと興味深いと述べたのは、この歌が当時の両統(持明院統・大覚寺統)迭立期のまっただ中にあって、政治的に後醍醐天皇の大覚寺統に近い二条家に対して尊氏から送られた(しかも一度といわず二度までも)という事実に着目すると、和歌文芸を通して尊氏はすでに後醍醐天皇の目にとまっていたのではないかと推測することが可能となる。当時の後醍醐天皇の周辺に目を転じると、前年の正中元年(一三二四)には初度の討幕クーデターの失敗、いわゆる正中の変を引き起こしていたし、この時期に後醍醐があらゆる手段をつかって討幕のための兵力を集めようとしたと考えて、一向に不自然ではない。
 個々の詠草がどのようにして勅撰和歌集に選定されるか、その方法は具体的には明瞭ではないが、『平家物語巻七』「忠度都落の事」にみる、平忠度詠草の『千載和歌集』(文治四年<一一八八>完成)への入集のされ方からみても、撰者側の思惑や配慮によって採用されるケースがあったはずで、右にみた尊氏の和歌は後醍醐の意志によって選びとられた可能性は十分にある。むろん後醍醐に接近したいという意図は、まだ本格的な討幕の意志は形成されていなかったせよ【ママ】、尊氏にもあったであろうことは容易に推測される。従って、尊氏と後醍醐双方の利害がおよそ一致したところに、尊氏詠草が後醍醐撰の『続後拾遺和歌集』に入集する必然性が生まれたのではないか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ccedc9b7d94a1dc0492371c975c00daf

と言われていますが、森氏の「和歌文芸」への極端な無理解が伺われて、言葉もありません。
まあ、強いて言えば、「阿呆だな」といったところですね。
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井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その6)

2021-02-07 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 7日(日)12時50分28秒

それでは1月26日の投稿以来、久しぶりに井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』(明治書院、1987、初版1965)の検討を行います。
下記リンクのうち、一番上が事実上の(その1)で、ここに同書の全体の構成が分かるように目次を引用しておきました。

「聞わびぬ八月長月ながき夜の月の夜さむに衣うつ声」(by 後醍醐天皇)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cc6c2dccd1195ee9ba285085019fc05a
「中宮が皇子を産んだとなれば、それも覆る可能性がある」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcdc635cb066767fab95c29432fd9c41
「先に光厳天皇が康仁を東宮とし、後に光明天皇が成良を東宮とした公平な措置」(by 井上宗雄氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d36788a856c4f606023cc810573c542c
井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(事実上の「その4」)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7033564fcc0b9a7ae425378f77af987e
井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7df6a7439420b2aabfe07eef58997dbe

(その5)で「第二編 南北朝初期の歌壇」「第五章 建武新政期の歌壇」の途中(p370)まで進みましたが、そこに「既に続千載の時に、尊氏の詠草が為世の許に送られていた形跡のある事」と鎮西探題を中心とする「北九州歌壇」の歌集とされる『臨永集』への言及があったので、関連個所に遡ることにします。
ということで、まずは「第一編 鎌倉末期の歌壇」「第四章 文保~元弘期(鎌倉最末期)の歌壇」「6 正中百首と続後拾遺集」の冒頭を引用します。(p267)

-------
   6 正中百首と続後拾遺集

 元亨三年三月為藤は後醍醐天皇から勅撰集を撰進すべき命を受けた。受名の日には両説あって、拾芥抄・尊卑分脈は二日とし、代々勅撰部立などは廿二日とする。八月四日事始。続千載が完成した元応二年から僅か三年であるが、しかし天皇としては初度である。和歌好尚の、そして諸儀復興をその政治理念とする天皇としては、矢も楯もたまらず命を下したのであろう。初め為世に下命したが、為世が為藤に譲ったという(増鏡春の別れ)。拾藻鈔<第十>に「入道前大納言〔為世〕、代々の古風をまもりてしきしまのみちふたゝびむかしにたちかへり、ためしなき三たびの撰者をさへうけ給はりたまふ事、神明の御しるべもいまさらに覚侍よしなど申侍し……」として公順と為藤の贈答歌がある。一度は為世に命が下った事は確かである。増鏡に「故為道の中将の二郎為定といふを、故中納言<為藤>とりわき子にしてなにごともいひつけしかば」とあるから、為定も撰集の業には最初から深く関係していたのであろう。或る程度業は進捗したと思われる四年七月十七日為藤が急逝し、当然為定があとを承けると見られていたが、為世は末子為冬を挙げるという噂が飛び、為定が山伏になって身をくらますとかいう悶着があって為定に落ち着き、「十一月一日直蒙綸言相続」(尊卑分脈)、「十一月一日直蒙 勅定、其間事〔十日事始〕師賢卿奉行之<于時中宮大夫>」(代々勅撰部立)という事であった。
-------

元亨三年(1323)、二条為世(1250-1338)が後醍醐天皇から勅撰集撰進の命をいったん受けたものの、異例の三度目の撰者ということも考慮してか、為世は二男の為藤(1275-1324)に撰者を譲り、為藤が準備を進めていたところ、翌四年七月に五十歳で急死してしまいます。
為藤は兄為道(1271-99)の二男・為定(1293-1360)を養子にしており、為定が撰集を引き継ぐのが当然と思われていたのに、為世は鍾愛する末子の為冬を後醍醐に推薦するとの噂が飛んだので、為定は抗議のために山伏となるつもりらしい、といったひと騒動があって、結局は為定に落ち着いたのだそうです。
この点、井上宗雄氏の『増鏡(下)全訳注』(講談社学術文庫、1983)によれば、

-------
【前略】為世が為冬を挙用し、為定が反抗したことは『増鏡』にしかみえないが、ありそうなことである。為世としてみれば、為冬は老年で出来た子で可愛いうえ、年少といえども為定の叔父である。しかし二十余歳の若年の為冬は衆望もなく、心ある歌壇人は三十二歳の為定を推して、あるいは為世を諫めることもあったのであろうが、為定の示威行動(実際行なったかどうかはわからないが)が最終的には為世を翻意せしめたことになる。十一月一日正式に為定は撰集の命を受けた(『尊卑分脈』『代々勅撰部立』)。
-------

とのことですが(p134)、山伏云々は面白すぎる話なので、『増鏡』の創作の可能性もありそうですね。
さて、二条為冬は建武二年(1335)十二月、新田義貞と足利尊氏が激突した箱根竹の下の戦いで戦死しており、歴史研究者にはこちらの話の方が有名ですね。
『太平記』第十四巻第九節「竹下軍の事」では、新田義貞側の敗色が濃くなった状況で、

-------
ここにて、中書王の股肱の臣下に憑み思し召されたりける二条中将為冬討たれ給ひければ、右衛門佐の兵ども、返し合はせ返し合はせ、三百余騎所々にて討死す。これをも顧みず、引き立つたる官軍ども、われ前にと落ち行きける程に、佐野原にも滞り得ず、伊豆の府にも支へずして、搦手の寄手三万余騎は、海道を西へ落ちて行く。
-------

とあります。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p386)
「中書王」は中務卿尊良親王、「右衛門佐」は脇屋義助で、二条為冬は「中書王の股肱の臣下」ですね。
『梅松論』にも、「二条中将為冬をはじめとして京方の大勢討たれぬ。この為冬朝臣は将軍の御朋友なりしかば、彼頭を召し寄せ御覧ありて御愁傷の色深かりき」という具合いに、為冬は「将軍の御朋友」として登場します。
「将軍」とは、もちろん尊氏のことですね。

現代語訳『梅松論』(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou24.html

実は為冬は『太平記』ではもう一箇所、第十八巻第十一節「一宮御息所の事」にも登場します。
金ヶ崎城で自害した尊良親王の頸が京都にもたらされた話の後、「今出川右大臣公顕公の女にて候ふなるを、徳大寺右大将に申し名付けながら、未だ高太后宮の御匣殿にて候ふなる」、即ち西園寺実兼の息子・今出川公顕の娘で、徳大寺公清(?)のいいなづけでありながら、未だに後京極院禧子(西園寺実兼の晩年の娘)に「御匣殿」として仕えていた女性と尊良親王のなれそめ、そして尊良親王が土佐に流された後の御息所の嘆きを描く長大なエピソードが続きます。
兵藤裕己校注『太平記(三)』で実に三十三ページにわたって延々と続く、このうんざりするほど長いエピソードが何故書かれたのか、という問題は後で検討する必要がありそうですが、この尊良親王を在原業平のように描く王朝風物語において、「二条中将為冬」は、尊良親王と御息所との仲をとりもつ「媒〔なかだち〕の左中将」という極めて良い役で登場します。
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緩募:『臥雲日件録抜尤』の尊氏評について

2021-02-06 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 6日(土)10時46分56秒

清水克行氏は『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)において、次のように書かれています。(p40以下)

-------
尊氏の人間的魅力

 足利尊氏が篤く帰依した禅僧、夢窓疎石は、尊氏の人間的な魅力を次の三点から説明している(『梅松論』)。以下、意訳して紹介すると、
(一)お心が強くて、合戦のときに命の危険に遭うことがたびたびであっても、逆にそのお顔は笑みを含んで、まったく死を怖れる様子がない。
【中略】
(一)の戦場での振る舞いについても、たしかに尊氏は生涯に何度となく戦場で生死の危機に直面している。そうしたとき尊氏の顔は「笑み」を含んでいた、と夢窓疎石は語るが、危機に陥ったとき、なぜか笑いはじめてしまうというのが、尊氏の不思議な癖だったようだ。ある戦場では、矢が雨のように尊氏の頭上に降り注ぐのを、近臣が危ないからと自重を促したところ、やはり尊氏は笑ってとりあわなかったという(『臥雲日件録抜尤』享徳四年正月十九日条)。【後略】
-------

また、すぐ後で、

-------
八方美人で投げ出し屋

 ところが、こうした尊氏の個性は、時と場合によっては彼の政治家としての欠点をも秘めていた。【中略】
 しかし、より深刻なのは、(一)の死を恐れない不思議な性分であった。戦場で危機に陥っても笑っているうちはいいのだが、いよいよ事態が深刻になると、彼はあっさり自害しようとして、その生涯で何度となく周囲を慌てさせている。尊氏は、正月の吉書(書き初め)に毎年「天下の政道、私あるべからず。生死の根源、早く切断すべし」と書いていたと伝えられている(『臥雲日件録抜尤』享徳四年正月十九日条)。どうも勇気があるというよりは、元来、彼には生死に対する執着が希薄だったようだ。
 また、尊氏は自身の命への執着が薄いというだけではなく、親族や腹臣であっても状況次第では意外に冷たく突き放すところがある。実子である竹若や直冬への対応はすでにみたとおりであるし、この後、弟直義や執事の高師直との関係がこじれたときも、苦楽をともにしてきたわりには、面倒になると案外あっさりとこのふたりを切り捨ててしまっている。ふだんは相手によらず無類の愛着を示しておきながら、状況次第では簡単に見切ってしまう、やや無節操ともいうべき傾向が、尊氏の対人関係にはままみられる。
-------

とも書かれています。(p43以下)
このように清水氏は二箇所に分けて『臥雲日件録抜尤』を引用されていますが、実はこれらは一連の短い文章です。
即ち、東京大学史料編纂所編『大日本古記録 臥雲日件録抜尤』(岩波書店、1961)の享徳四年(1455)正月十九日条に、

-------
十九日、──松岩寺冬三老僧来款話、問其年七十五也、因話、尊氏毎歳々首吉書曰、天下政道、不可有私、次生死根源、早可截断云々、又或時在戦場、飛矢如雨、近臣咨曰、可少避之、尊氏咲曰、戦畏矢則可乎云々、──
-------

とあります。(p88)
清水氏は「天下政道、不可有私、次生死根源、早可截断」から「元来、彼には生死に対する執着が希薄だったようだ」と推測し、それが「八方美人で投げ出し屋」という尊氏評に多大な影響を与えているようですが、私には律儀にも毎年毎年、吉書にこうした決意を記す人が「生死に対する執着が希薄」だとは思えません。
ただ、私も本当に禅宗に関する知識・教養が乏しくて、『臥雲日件録抜尤』を手にしたのは今回が生まれて初めてです。
素人なりに同書を斜め読みしてみたところ、利根川に女面魚身の化け物が出た、北条政子が百二十歳で死んだ、みたいな変な噂話もけっこう多くて、『臥雲日件録抜尤』の全体的な信頼性はどの程度なのか、この尊氏評を信頼してよいのか、そもそも「松岩寺冬三老僧」とは誰なのか、といった基本的なところが全く分かりません。
そこで、『臥雲日件録抜尤』の尊氏評について論じている文献をご存じの方がいらっしゃれば、御教示願いたく。
今のところ清水氏以外にこの記事に言及されている研究者を知らないほどの暗中模索状態なので、ひと言触れている程度の文献でも結構ですから、宜しくお願いします。

-------
「臥雲日件録」(『コトバンク』内、日本大百科全書(ニッポニカ))

室町時代の五山僧瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の日記。日件録とは「其(そ)ノ行イヲ録スル事、日ニ百八件」という永明延寿(ようめいえんじゅ)伝に拠(よ)る瑞渓自身の命名。もとは、1446年(文安3)から73年(文明5)の彼の死の直前まで書かれた74冊があり、彼の寮舎にちなんで「北禅(ほくぜん)日件録」「寿星(じゅせい)日件録」などとよばれていたが、この原日記は散逸し、1562年(永禄5)に惟高妙安(いこうみょうあん)が抄出した『臥雲日件録抜尤(ばつゆう)』1冊としてのみ伝わる。瑞渓の別号「臥雲山人」に基づく呼称である。瑞渓は鹿苑僧録(ろくおんそうろく)として公武の要人と交渉が多く、『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』中断期の史実を伝え、政治史、禅林史の史料としても貴重であるが、『抜尤』は五山の往時をしのぶ名僧・文筆僧の逸話や、当時の文芸活動に関する記事に焦点をあてている。ことに原日記表紙裏に瑞渓が記しておいた諸典籍からの章句の抜き書きは『抜尤』にも載せられ、五山学芸史上好個の史料を提供する。『大日本古記録』、『続史籍集覧』3に所収される。


※追記
「松岩寺冬三老僧」については一応解決済みです。

四月初めの中間整理(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a1051df1b192c3b72790a7e12ff1f223
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全然すべてではない櫻井彦・樋口州男・錦昭江編『足利尊氏のすべて』

2021-02-05 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 5日(金)12時25分10秒

井上宗雄著『中世歌壇史の研究 南北朝期』に戻るべきか、それとも奥州将軍府・鎌倉将軍府をめぐる「逆手取り」論の検討に進むべきか、ちょっと迷っていたのですが、歌人としての尊氏を検討することが、いささか遠回りではあっても『太平記』や『梅松論』などの二次史料によって歪められていない尊氏に近づく最適なルートだろうと思うので、前者の道を進むことにします。
歌人としての尊氏の分析は、国文学の方でも井上氏の古典的業績以降はそれほどの進展が見られなかったのですが、石川泰水氏(故人・元群馬県立女子大学教授)の「歌人足利尊氏粗描」(『群馬県立女子大学紀要』第32号、2011年)という優れた論文が現時点での到達点と思われるので、井上著の次にこの論文を検討します。
ところで、歴史学の方では歌人としての尊氏は全くといってよいほど研究されていなくて、例えば佐藤和彦門下の早稲田大学出身者が中心となって編まれた『足利尊氏のすべて』(新人物往来社、2008)は、二十五人もの分担執筆者がいながら、誰一人として歌人としての尊氏について論じておらず、全然「すべて」ではありません。

櫻井彦・樋口州男・錦昭江編『足利尊氏のすべて』
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009684491-00

同書の「あとがき」は「編集者を代表して」櫻井彦氏が書かれていますが、これによると、同書の趣旨は、

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 本書にかかわったすべての方々が敬愛する師といえる佐藤和彦先生は、二〇〇六年五月十三日に急逝される直前、『日本歴史』六九六号の「はがき通信」欄に次のような一文を寄せられている。
  定年も間近というのに、勉学は一向にはかどらず、尊氏と正成、内乱と悪党、惣村と一揆など未
  脱稿のままです。研究史の整理、史料の蒐集など、まだまだやらねばならないことが多く、「知
  足」には、日暮れて道遠しです。
 同号は二〇〇六年五月一日に刊行されているので、まさに先生が残された最後の文章といえる。先生はここで、今後成すべき研究課題を列挙されているが、その最初の課題として、「足利尊氏論」を意識されていたのであった。本書は、先生がもっとも思いを残されながら成し得なかった「足利尊氏論」を、ご縁に繋がる皆様とともに一書にしたい、という願いから企画されたものである。
-------

というものです。
では、佐藤和彦氏自身が構想されていた「足利尊氏論」はどのようなものかというと、櫻井彦氏から見れば、

-------
 こうした企画の主旨に沿って、巻頭には「佐藤和彦の足利尊氏論」として、先生が折々に発表された尊氏にかかわるご論考のうち、四本を厳選して収載した。【中略】
 四論考をあらためて読み直してみると、先生が描こうとされた「尊氏像」を伺い知ることができるように思う。すなわち、「内乱期社会の特質を明らかにするという観点を貫きつつ、尊氏像を具体的に追求していく」(「研究の視座と課題」)という基本的立場のもと、「鎌倉末期における足利氏の所領のあり方と、支配方式」と「南北朝内乱の過程における所領の拡大とそれにともなう足利氏の支配組織」(「"足利尊氏論"を検証する」)の解明という課題を設定された。そして、本拠地である下野国足利荘の特質(「内乱期社会における情報伝達」)と、いったん敗走した尊氏が九州から見事に復活するという事実の分析(「尊氏は九州を知らなかったのか」)を手掛かりとして、足利氏がもつ情報ネットワークの視点から、設定した課題に迫ろうとされていたと思われる。それぞれの局面における尊氏の行動にきちんとした理由付けをすることで、彼が活躍した内乱期社会を見通そうとされたにちがいない。
-------

とのことです。
私も佐藤和彦氏が書かれた巻頭の四論文を読んでみましたが、尊氏の精神生活に関するものとして「この世は、夢のごとくにて候」という有名な自筆願文などには触れておられていても、歌人尊氏についての言及は全くありません。
また、佐藤氏以外の二十四人の論稿を見ても、歌人尊氏への言及は極めて乏しいですね。
もちろん、執筆者には尊氏の和歌について関心を持っていた人がいるかもしれませんが、少なくとも櫻井彦氏を含む三人の編者は歌人としての尊氏などにあまり興味がなく、それを抜きにしても「足利尊氏のすべて」を論ずることは充分可能と考えておられたであろうことは明らかです。
このように、歌人尊氏は歴史研究者の共通の盲点となっている、というのが私の認識であり、ここを深めることによって新たな尊氏像を提示できるのではないか、と考えています。
例えば、『臨永集』という鎮西探題を中心とした「北九州歌壇」の歌集があるのですが、これに入集している尊氏を含む武家歌人を分析すると、佐藤和彦氏やその周辺の人々には見えなかった「足利氏がもつ情報ネットワーク」の一端が見えてくるのではないか、などと思っています。
なお、『南北朝遺文 関東編第一巻』の巻頭には「二〇〇六年五月十日」付の佐藤和彦氏の「序」があるので、「二〇〇六年五月一日に刊行」された『日本歴史』696号の「はがき通信」よりは、こちらの方が「まさに先生が残された最後の文章」といえそうですね。

人生初の『南北朝遺文 関東編』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ced125efdf3f4899555a8fca605944b
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「発給文書1500点から見えてくる新しい尊氏像」(by 角川書店)

2021-02-04 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 4日(木)18時13分42秒

2月2日の投稿で、

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吉原説は後続の研究者たちによって基本的に支持され、現在では中先代の乱までは後醍醐と尊氏は決して対立関係にあった訳ではないことが多くの研究者の共通認識となっていると思われます。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/786499f16170be4f041762c180b82c23

と書いてしまいましたが、九大系の大御所・森茂暁氏は未だに頑固な佐藤進一派ですね。
森氏の近著『足利尊氏』(角川選書、2017)を見ると、「第二章 足利尊氏と後醍醐天皇」の第二節「建武政権下の対人関係」では、「尊氏への破格の厚遇」を縷々述べた後、

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 いっぽう後醍醐も尊氏に対する牽制を怠っていない。『梅松論』にみえる、公家たちが好んで口ずさんでいたという「尊氏なし」の詞〔ことば〕は、後醍醐が尊氏を政権の中枢から意図的にはずしていた様子を示唆するものである。
-------

としていて(p93)、「後醍醐が尊氏を政権の中枢から意図的にはずしていた」との立場は佐藤氏と共通です。
そして、

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 こうした尊氏と後醍醐の関係は、武門の統括を企図しつつ後醍醐との間にも摩擦を生じた護良親王の問題を除けば、当初さしたる波瀾もなく維持されたにちがいない。しかし政権担当者たる後醍醐にとって第二の武家政権樹立の可能性を秘めた尊氏の存在は看過できるものではなかった。
 足利側の立場から書かれた『梅松論』によると以下のとおり。建武元年六月七日、護良は尊氏を討つべく大将として尊氏の屋敷に押し寄せたが、首尾よくゆかず計画は失敗。背後から糸を引いていた後醍醐はすばやく責任転嫁したので、罪は護良一身に負わされることになった。かくして一件の張本人とされた護良は建武元年一〇月二二日の夜、参内のついでをもって武者所の手の者によって逮捕された。こうして護良の失脚への道が開かれる。同一一月護良の身柄は足利直義の腹心細川顕氏に請け取られ、鎌倉へと移される。
 ここに尊氏は武門の支配権を奪取しようとする強力な政敵護良を排除することに成功した。しかし後醍醐にとっては依然として問題は解決されない。後醍醐と尊氏がともに政治・軍事の主導権を握ろうと競合するかぎり、政権内部での内紛の火種は絶えなった。
 尊氏と後醍醐との政治路線の食い違いが、翌建武二年七月に関東でおこった中先代の乱を契機に表面化したことはまちがいない。その食い違いは、前述したように、尊氏による恩賞地あてがいの袖判下文の本格的発給によっていっそう明確になる。
-------

と続きます。
森氏によれば、尊氏は「後醍醐にとって第二の武家政権樹立の可能性を秘めた」存在であり、尊氏にとって護良は「武門の支配権を奪取しようとする強力な政敵」であり、「後醍醐と尊氏がともに政治・軍事の主導権を握ろうと競合するかぎり、政権内部での内紛の火種は絶えなった」のだそうです。
つまり建武新政発足の当初から後醍醐・護良・尊氏の三つ巴の緊張状態がずっと続いていて、護良が失脚しても「後醍醐にとっては依然として問題は解決され」ず、「中先代の乱を契機に」、「尊氏と後醍醐との政治路線の食い違い」が「表面化したことはまちがいない」のだそうです。
このあたりも、森氏は佐藤説を頑固に維持されています。
ただ、森氏のこのような認識が『梅松論』に大きく依存している点は、私にとって「看過できるものでは」ありません。
森氏は護良による尊氏襲撃ばかりか、それを後醍醐が「背後から糸を引いていた」ことまで事実だとするのですが、「足利側の立場から書かれた『梅松論』」にしか記されていないこの話を、何故に森氏は信頼するのか。

現代語訳『梅松論』(「芝蘭堂」サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou19.html

森氏が一次史料の取り扱いには極めて厳格なのに、『太平記』や『梅松論』のような二次史料に対しては極めて甘いことが私にはどうにも不思議なのですが、この点でも森氏は佐藤氏の正統な後継者ですね。
角川書店サイトには、『足利尊氏』について、

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これが尊氏研究の最前線!発給文書1500点から見えてくる新しい尊氏像。

足利尊氏は、室町幕府政治体制の基礎を固め、武家政治の隆盛へと道筋をつけた人物である。その評価はこれまで時代の影響を色濃く受けて定まらず、「英雄」と「逆賊」のあいだを揺れ動いた。近年、南北朝時代を再評価するムーブメントのなかで、足利尊氏への関心は飛躍的に高まった。新出史料を含めた発給文書1500点を徹底解析しながら、これまでになく新しいトータルな尊氏像を描き出す。

https://www.kadokawa.co.jp/product/321603000854/

とありますが、古文書の「徹底解析」は認めるとしても、ここに描き描き出されているのが「これまでになく新しいトータルな尊氏像」かというと、そんなことは全然なくて、むしろ佐藤進一氏が半世紀以上前に描いた古色蒼然たる尊氏像と瓜二つですね。
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美川圭氏『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(その2)

2021-02-04 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 4日(木)11時30分13秒

前回投稿で言及した赤松俊秀氏は1907年生まれなので、佐藤進一氏(1916-2017)より九歳、黒田俊雄氏(1926-93)より十九歳上ですね。
以前、京都大学名誉教授・大山喬平氏が黒田俊雄氏から「君らは赤松先生の弟子や」と言われたというエピソードを紹介したことがありますが、このエピソードはいろんな読み方がありそうで、ちょっと面白いですね。

「君らは赤松先生の弟子や」(by 黒田俊雄)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c8d2c693994475579755825f793c1bb0

ところで、美川氏が紹介する市沢哲氏の見解については、今は自分の意見を挟まないと言ったばかりで恐縮ですが、「天皇帰京後も内乱状態が続いており」という表現は気になりますね。
五月七日に六波羅、二十二日に鎌倉、そして二十五日に鎮西探題が陥落し、幕府の主要な拠点が全て潰滅した上、金剛山を包囲していた大軍も殆ど抵抗せずに投降した訳ですから、六月四日の後醍醐帰京時には「内乱状態」は終息していた、と考えるのが常識的ではないかと思います。
従って、この後は「軍勢催促」ではなく、戦闘に参加しなかった武士に対して、新政権に忠誠を誓うか、それとも未だに旧秩序に未練を残して反抗するかを確認する、いわば「踏み絵」の段階ではないかと思います。
「京都に殺到」した連中は北条家のミツウロコの「踏み絵」を踏んで新政権に忠誠を誓った訳で、その「踏み絵」が一応終わったのが「後醍醐が帰京した六月五日から二ヶ月ほどたった、七月下旬の段階」ということですね。
さて、美川著の続きです。(p214以下)

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 ここで問題となってくるのが、上洛してきた武士が所有していると主張する土地が、事実本人のものかどうかである。当初の軍勢催促が目的であった段階では、味方になったものの所有する(あるいは所有すると当事者が主張する)土地は、そのまま所有をみとめるよといっているだけなので、それが事実かどうかの精査は必要なかったのである。ところが戦闘がほぼ終息すると、敵対する勢力がほとんどいなくなるから、後醍醐の味方になった勢力のあいだで、どれが自分の土地かという争いがおきてくる。これをうまく裁かなければ、政権は再び分裂することになる。
 そのために、後醍醐のもとで証拠文書の審議などを行う雑訴決断所ができる。しかし、繰り返すが、この組織は鎌倉後期の雑訴沙汰(雑訴評定・雑訴議定)を継承するものであって、画期的なものとはいえない。ただし、鎌倉時代には幕府と朝廷でそれぞれ所領裁判の審査が行われていたのに、後醍醐政権は公武統一政権となったため、普通に考えても従来の鎌倉後期の朝廷よりも、はるかに多くの訴訟が集中してくるのである。
 雑訴決断所が設置された正確な時期はわからないが、一応元弘三年(一三三三)九月と森茂暁は推定している。設置当時は四番編成だったが、ほぼ一年を経過した建武元年(一三三四)八月頃八番編成に改組された。全国からの訴訟文書の審査には相当の手間がかかったと思われ、それがこの編成拡大の要因であったことは間違いない。
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「建武政権の代表的な訴訟機関である雑訴決断所の成立時期について、森茂暁は元弘三年(一三三三)九月十日と推定している」(p212)訳ですが、これは佐藤氏や森氏が推定する護良親王の征夷大将軍「解任」時期とピッタリ重なりますね。

森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2cfa778a3d9a8aa4b68f8e3fbcb5185d

そして、佐藤氏はこうした所領関係の法令が後醍醐・護良・尊氏間の厳しい対立と密接に関係しており、結局、その対立が護良の征夷大将軍「解任」で一応の決着を見たとされています。

佐藤進一氏が描く濃密スケジュール(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61ce17b3011e58911b01615de3e15c31
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/77c04b04be9f0c36d0f780efee94d1e3

しかし、市沢説に従うと、「旧領回復令」・「朝敵所領没収令」などの所領関係の法令は、とりあえず後醍醐・護良・尊氏の三者間の問題とは直接にはリンクしない、ということになりそうですね。
もちろん市沢氏も三者間の対立の存在を否定する訳ではありませんが、それと所領関係の法令は問題のレベルが違う、ということになるかと思います。
従って、雑訴決断所の設置時期を除き、その構成や運営方法は私の当面の関心からは外れますが、参考までに美川著の続きを載せておきます。(p215以下)

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 雑訴決断所での審査の結果は、雑訴決断所牒という文書で発布されるが、だからといって独自の裁決権をもっていたわけではない。その判決は後醍醐天皇に奏聞ののち、国司・守護に下されたのである。鎌倉後期に公家訴訟制度は雑訴裁決の能力を高めるため、雑訴沙汰(雑訴評定・雑訴議定)を分離独立させたが、それは上皇や天皇の権力の後退に結びつくものではなかった。後醍醐の公武統一政権においても、発足当初の綸旨万能主義が制約されたのではなく、軍勢催促から裁判という流れにおいて、訴訟文書の審査が必要となった。それに対応して雑訴決断所という訴訟文書審査のための組織が必要になったのである。
 その構成は、大中納言・参議などの上中流貴族(公卿層)、弁官級廷臣、朝廷の法曹官僚に加えて、従来の幕府に仕えていた実務官人層によってなされた。従来の幕府管轄の訴訟を審査する関係上、彼らの取り込みが必要となったのである。森茂暁によると、当初は旧六波羅系の官人が主体となっていたが、八番編成となった時期以降は、鎌倉から流入してきた旧関東系の官人を編入した。これに、楠木正成、結城親光、名和長年、佐々木氏などの守護級在地武士、上杉憲房、高師直・師泰兄弟などの足利尊氏の被官層(家臣たち)が加わった。
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美川圭氏『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(その1)

2021-02-03 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 3日(水)11時23分28秒

『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)に即して佐藤説を長々と紹介してきましたが、なにせ半世紀以上も前の書物ですから、全体的に古くなってしまっているのは仕方ないことです。
後醍醐・護良・尊氏の三者が三つ巴になって厳しく対立していた、という佐藤説の基本構図は既に崩れ去っており、後醍醐・尊氏の間はけっこう良好な関係だったことは明らかです。
ただ、護良の位置づけはまだ確定しておらず、呉座勇一氏あたりも「後醍醐天皇と護良親王の対立の核心」を熱く語っておられたりしますね。

「後醍醐にとって、幕府を開こうとする護良親王は、そのようなそぶりを見せない尊氏よりも脅威だった」(by 呉座勇一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bcd536895cd87d1f5a532065d002158

私自身は、少なくとも元弘三年(1333)の間は、後醍醐と護良の間にも特に緊張関係はなかったのではないかと考えていて、これからその点を論じて行くつもりですが、三者間の人間関係に直接関係しない事項についても、現在の学説の到達点を一応確認しておかないと、次の議論が分かりにくくなりそうです。
そんなことを漠然と考えていたところ、たまたま昨日、美川圭氏の『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(中公新書、2018)を読んで、美川氏が建武政権の組織・法令について、近時の学説を簡潔に整理されているのを知りました。
これが非常に分かりやすいものだったので、少し引用させてもらうことにします。
なお、美川氏が引用されている市沢哲氏の見解については、私も多少の意見を持っているのですが、その点は後日、改めて検討するつもりです。

『公卿会議―論戦する宮廷貴族たち』/美川圭インタビュー
http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/110604.html

ということで、まずは佐藤・黒田論争等の少し古い議論です。(p212以下)

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 建武政権の代表的な訴訟機関である雑訴決断所の成立時期について、森茂暁は元弘三年(一三三三)九月十日と推定している。後醍醐天皇が帰京したのがこの年の六月五日とされているから、新政権樹立から三ヶ月後ということになる。一方記録所のほうは、六月頃に設置されたらしいから、かなり早い時期である。しかも越訴と庭中のシステムは整えられていたと考えられる。
 実はこの三ヶ月をめぐって、佐藤進一と黒田俊雄の有名な論争がある。佐藤は、当初内乱の混乱を収束するために、後醍醐が幕府によって所領を奪われた者の旧領の回復を、綸旨を下して認めたとした。これは後醍醐の綸旨至上主義のあらわれであると指摘した。ところが、綸旨を求める訴人が京都に殺到するなどのさらなる混乱をまねいたため、朝敵以外の人々の所領の当知行を認める方針に転換したという。それに対し、黒田は佐藤とは異なり、政権の方針は当知行を認める方針で一貫していたとする。そのうえで、慣習にもとづき当初は綸旨で当知行を認めていたが、事務的な能力の限界から、いちいち綸旨を下すことをやめ、問題があれば国ごとに解決させることになったとする。
 以上、二人はこのように見解を異にしているが、ともに途中で綸旨の個別発給は停止されたとしている。それに対し、小川信は国司の発給する国宣よりも綸旨は大量に発給され続けているとし、途中で申請者の希望で国衙からも安堵がなされるような綸旨万能主義の現実的な修正が行われただけなのだとした。いずれにせよ、三者ともに綸旨万能の体制が修正されていくという点では一致している。そのうえで、佐藤は雑訴決断所が独自の裁決権をもつ機関であり、その設置によって後醍醐の勅裁は後退したと論じた。また小川も、建武元年(一三三四)のあいだに濫妨停止、当知行安堵の綸旨が消滅し、雑訴決断所牒がこれに代わることから、勅断主義に修正が加えられたと考えた。すなわち、佐藤も小川も、綸旨万能主義による後醍醐の専制主義は、しだいに後退したとする。そして、そのことが雑訴決断所の設置にみられるとしたのである。
-------

巻末の「主要参考文献」によれば黒田俊雄説の出典は「建武政権の所領安堵政策─一同の法および徳政令の解釈を中心に─」(『黒田俊雄著作集』第七巻、法蔵館、一九九五所収)となっていますが、初出は『赤松俊秀教授退官記念国史論集』(赤松俊秀教授退官記念事業会、1972)ですね。

赤松俊秀教授退官記念事業会編『赤松俊秀教授退官記念国史論集』
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001222175-00

また、小川信説の出典は「南北朝内乱」(『岩波講座日本歴史 中世二』、1975)で、結局、これらは1970年代の議論です。
さて、では最近の議論はどうかというと、次のような状況です。(p213以下)

-------
 しかし、雑訴決断所が、鎌倉後期の雑訴沙汰(雑訴評定と雑訴議定)と共通点が多いとすると、別の評価のしかたができるのである。市沢哲の説によると次のようになる。まず天皇帰京後も内乱状態が続いており、そこでは武士たちに味方につくよう要請する軍勢催促が行われ、味方になる限りは彼らの所領を認め、その防衛がなされるが、そうでなければ攻撃の対象にするとされた。そのような純然たる軍事行為としての命令が、後醍醐綸旨の発給によってなされたのである。
 しかし、次の段階で、後醍醐の勝利が確定していくと、多くの訴人が京都に殺到する。これはかつていわれたような新政の混乱によるのものではなく、天皇の権力求心性が急速に高まった結果なのである。それらの訴人は、多くが軍勢催促に応じた武士なのだが、彼らが何を目的に京都に殺到するかといえば、幕府滅亡によって新たな主人となった後醍醐天皇、あるいは新たな武家の棟梁となりつつあった足利尊氏のもとに馳せ参じ、新たな主人との間に主従の関係を築くためであった。後醍醐の側は、朝敵と認定している者を除外し、それらの武士が実際に所有している土地の権利を認めることになった。これは後醍醐が帰京した六月五日から二ヶ月ほどたった、七月下旬の段階である。
-------

いったん、ここで切ります。
市沢説の出典は『中世日本公家政治史の研究』(校倉書房、2011)です。
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佐藤進一氏が描く濃密スケジュール(その3)

2021-02-02 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 2日(火)21時35分47秒

前回投稿で「旧領回復令」について私が書いたのは、後醍醐と護良の人間関係に着目した場合、佐藤進一説には何とも不自然な感じが漂うという印象論ですが、「旧領回復令」そのものの法的性格については、古くは佐藤氏と黒田俊雄氏の間に論争があり、最近も相当に議論が進んでいます。
その検討は現在の私には若干荷が重いのですが、今日、美川圭氏の『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(中公新書、2018)を読んでみたところ、最後の方に「旧領回復令」や「朝敵所領没収令」、そして「綸旨万能主義」や雑訴決断所の機能などに関する近時の学説が簡潔に整理されていたので、後で少し紹介したいと思います。

『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/10/102510.html

さて、佐藤氏が根拠となる史料の不存在を自認しつ行なった「推定」によれば、「新政初期の所領対策をめぐって、護良勢力と高氏勢力は鋭い対立関係を示」しており、「後醍醐が両者にたいしていっそう微妙な関係をもつ第三の立場に立」って、三つ巴の緊張状態が続いたのだそうです。
そして、これが結局、佐藤氏が九月ごろと推定する護良の征夷大将軍「解任」で一応の決着を見る、という極めて慌ただしい展開となる訳ですが、佐藤氏のこのような「推定」の前提としては、尊氏が既に六波羅陥落直後から、自身の野望のために着々と旧御家人勢力を自己の勢力下に組み込んで行った、という認識があります。
この佐藤氏の認識は既に紹介済みですが、参照の便宜のために再掲すると、

-------
 だが、このころ京都とその周辺では、後醍醐にとって意外な情勢が展開していた。一ヵ月前に潰え去ったはずの六波羅探題に代わって、京都奪取の殊勲者である足利高氏が新探題いな新将軍であるかのごとく京都の支配をかためつつあったからである。高氏は、すでに鎌倉幕府に反旗をひるがえした直後から、主として西国方面の守護やそれにつぐ有力な地頭らに密書を送って、討幕への参加をよびかけてきたのであったが、護良親王軍と連合して京都に進入し、六波羅軍を撃破すると、いち早く六波羅に陣を構えた。そして、旧探題配下の職員はじめ多数の御家人を吸収して、京都支配のリーダーシップを握り、さらに地方から続々と上洛する武士の多くを麾下に収めて、完全に護良の軍勢を圧倒し駆逐した。かれはまた楠木の千早城を攻囲していた幕府の大軍に六波羅の滅亡を告げて、帰属を呼びかけたので、多数の武士が囲みを解いてかれの下におもむいたと『太平記』は伝えている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1452c8580aad085b8670d8d367eb7813

といった具合です。
そして、この基本認識がかつては不動の通説をなしていた訳ですが、吉原弘道氏は「建武政権における足利尊氏の立場」(『史学雑誌』第111編第7号、2002)において、「後醍醐と尊氏は、緊密な連絡を取り合って全国規模での軍勢催促を行なっていた」こと、「尊氏による着到状の受理は、尊氏の個人的な野望のためではなく、後醍醐への仲介者の立場で行われていた」こと等を明らかにされました。
そして、「従来の通説的理解」、即ち佐藤説では「尊氏が政権の中枢から排除されていたと考えられてきた」ものの、尊氏は「鎮守府将軍として全国規模での軍事的権限」を有していて、「建武政権下において後醍醐は、尊氏を鎮守府将軍に任じて軍事的権限を付与し、自身が行なうべき軍事的な実務を代行させて」おり、「このような尊氏の立場は、尊氏が個人的に勢力拡大を計った結果というよりも、鎮守府将軍への補任によって公的に付与された権限に由来していた」と結論付けられました。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bf1d4692a37b7682187aecdf832d5e5e
(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1452c8580aad085b8670d8d367eb7813
(その10)(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d786a1c9c3f6ca793b91645bf32f9e1c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2f21d785a86111fa26b5cd3e4f374ec
(その15)(その16)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/989850646f5823b76c039003fdb62205
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b332242463f314bc38b81ff3df51460

このような吉原説は後続の研究者たちによって基本的に支持され、現在では中先代の乱までは後醍醐と尊氏は決して対立関係にあった訳ではないことが多くの研究者の共通認識となっていると思われます。
例えば清水克行氏は『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)において、

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 だとすれば、この間の経緯から浮かび上がる尊氏像は、"武家の棟梁"としてのプライドのもと、新たな幕府を開くために野心をむき出しにした人物というよりは、あくまで後醍醐の"侍大将"として忠勤に励む実直な命令代行者のひとりといったところだろうか。不屈の闘志を抱き、理想実現のためには手段を選ばない後醍醐とは、およそ対照的な人物といえるだろう。当初の尊氏は、あくまで後醍醐の政権に寄り添い、それを支える役割に徹していたといえる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61b3c1e6855c84111ec08862a7c0327b

と言われており、細川重男氏も清水氏のこの見方に賛成されています。
また、呉座勇一氏も、尊氏と護良を比較して、

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 だが鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は天皇親政を志向し、摂関政治・院政・幕府政治を否定した。そんな後醍醐にとって、幕府を開こうとする護良親王は、そのようなそぶりを見せない尊氏よりも脅威だった。また倒幕戦闘中、護良が勝手に令旨をばらまいたことも後醍醐は問題視した。この点でも後醍醐から綸旨を獲得し、綸旨に基づいて軍事行動を起こした尊氏の方が後醍醐の眼鏡にかなっていた。そこで後醍醐は尊氏を鎮守府将軍に任命し、建武政権の軍事警察部門の最高責任者にした。
 建武政権において鎮守府将軍となった尊氏は「後醍醐の"侍大将"として忠勤に励む実直な命令代行者」(清水克行氏)だった。後醍醐から見れば、護良より尊氏の方が自分に忠実で信頼できる存在だったのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bcd536895cd87d1f5a532065d002158

と言われています。
こうして、現在では建武新政期に後醍醐と尊氏が対立関係にあったという佐藤氏の基本認識が否定されているので、「朝敵所領没収令」に関する佐藤氏の「推論」も、その基礎が揺らいでいることになります。
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佐藤進一氏が描く濃密スケジュール(その2)

2021-02-01 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 1日(月)11時23分53秒

続きです。(p22以下)

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 それでは、この法令は護良の要求にこたえたものかというと、かならずしもそうではない。というのは、当時護良は独断で、すなわちかれ自身の指令で、配下の武士に旧領を取り返させ、また旧領回復に名をかりてかってに他人の所領を奪うことを許して、問題をおこしていたのであって、六月十五日の旧領回復令が旧領を回復するには綸旨をもらわなければならぬと規定したのは、そのような護良の濫発する指令を制限する意図を含んでいた。
 けっきょく、旧領回復令は護良勢力の要望にこたえる反面、護良の独走をおさえ、護良のつくり上げた軍事支配を後醍醐の直接支配に移すことをねらったものと見るべきだろう。この法令が、護良の入京と征夷大将軍就任について、後醍醐・護良間に交渉がおこなわれたその時点に発布されていることは、両者の関係の微妙さをいっそうよく物語るものだろう。
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「旧領回復令は護良勢力の要望にこたえる反面、護良の独走をおさえ、護良のつくり上げた軍事支配を後醍醐の直接支配に移すことをねらったもの」という、根拠となる史料の不存在を佐藤氏が自認する「推定」は、その複雑さが例の「東北と関東の地に生まれた二つの小幕府」(p44)に関する「尊氏の逆手どり」論(p43)を連想させますね。
さて、「二者択一パターン」エピソードと『太平記』流布本に基づく護良入京六月二十三日説を前提とすると、六月十五日付旧領回復令についてのこのような「推定」も、一応の論理としては理解できない訳ではありません。
しかし、佐藤説によれば六月十五日時点では信貴山に立て籠もっていたはずの護良が、旧領回復令がこのような狙いを持っていることを知っていたら、果たして山を降りたのか。
逆に後醍醐が護良に隠れてこの法令を出していたなら、下山して直ぐに後醍醐の狙いを知ったであろう護良は、その時点で「俺を騙したな」と激怒して、後醍醐との関係が決裂することにならなかったのか。
「尊氏の逆手どり」論とも共通する佐藤氏特有の複雑かつアクロバティックな論理は、どうにも人間の自然な感情に反しているように思われます。
また、私自身は、征夷大将軍を「解任」されたらスパッと「将軍家」・「将軍宮」の使用を止めた護良はかなり律儀な人間だと思っていて、護良は、少なくとも主観的には後醍醐に与えられた権限の範囲内で行動していたのではないかと想像しますが、仮に護良が「独断」で指令を「濫発」していたとしても、それは恩賞なくしては動かない連中を動員して戦争に勝つための手段だったのだから、仕方ないといえば仕方ない話ですね。
しかも、佐藤氏が「旧領回復令の直接の対象は、護良に組織された畿南の反幕兵士だったといってよい」(p22)とされているように、護良が引き起こした「問題」は決して全国規模ではなく、実際上は護良の活動範囲であった南畿に限られる訳ですから、量的にもたいした話ではありません。
戦時に護良が「独断」で与えた恩賞を、平和の到来後に後醍醐の新政権が追認しなかったために不満を抱いた「畿南の反幕兵士」がいたとしても、別の恩賞を与えるとかの代替措置を取れば済んでしまう程度のことです。
総じて護良が引き起こしたという「問題」は後醍醐・護良間に直ちに深刻な対立をもたらすようなレベルのものではなかった、と考えるべきであり、それは護良が征夷大将軍を「解任」された後も一年以上ブラブラしていたことからも明らかだと思います。
両者間に本当に深刻な対立があったのなら、白根靖大氏が誤解したように、護良は征夷大将軍を「解任」された直後に逮捕・監禁されたはずですね。

護良親王は征夷大将軍を望んだのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9fec18d6e38102c64a29557b42765002
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5725c255cb83939edd326ee6250fe7a
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e32b9b964de6516b696bbe7fc40bd7ad
森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cbde7787a86b6133c16f9b56acb161ba

さて、この後、「朝敵所領没収令」についての説明がありますが、今では佐藤氏の議論の前提そのものが否定されていて、検討する意味も実際にはあまりない古い議論です。
ただ、かつての通説ではあったので、一応紹介しておこうと思います。(p23)

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 これにたいして、朝敵所領没収令のほうはどうか。この法令で朝敵の範囲を広く規定したのは、恩賞の財源を財源を大量に確保する点に大きなねらいがあったわけだが、「朝敵」と「官軍」の区別を明確にしないかぎり、朝敵の範囲は解釈しだいでほとんど限りなく拡大できることは、三年の戦乱が最後の最後で高氏・義貞の寝返りで大勢逆転して終結した事情を考えただけでも明らかだろう。げんに高氏・義貞にしても元弘三年(一三三三)四月までは朝敵だったではないか。
 まして大勢が逆転したのちに討幕側に加わった武士、高氏の勧告によって幕府軍の陣列をはなれた武士ともなれば、これを朝敵と認定して、所領を没収するかどうかは裁量しだいである。この点、源平の争乱が平氏の滅亡で幕をとじた際に、所領没収の対象を平氏の一族と家人の所領にとどめ、承久の乱後、京都方の所領を没収した際にも、貴族の首謀者と京都軍に積極的に参加した一部の武士に限定して、いずれも貴族と武士の動揺をおさえた先例に学ぼうとはしなかったわけである。
 ともあれ、朝敵所領没収令が旧幕府系の武士に与えた不安と不満は測りがたいものがあった。もしかれらの不安と不満を代弁できる人物を求めるとすれば、それはかれらの多くを配下に入れて、六波羅探題の後継者と自任する足利高氏をおいてほかにはないだろう。
 こうして新政初期の所領対策をめぐって、護良勢力と高氏勢力は鋭い対立関係を示す。そして後醍醐が両者にたいしていっそう微妙な関係をもつ第三の立場に立つのである。
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検討は次の投稿で行います。
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