投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月 4日(木)11時30分13秒
前回投稿で言及した赤松俊秀氏は1907年生まれなので、佐藤進一氏(1916-2017)より九歳、黒田俊雄氏(1926-93)より十九歳上ですね。
以前、京都大学名誉教授・大山喬平氏が黒田俊雄氏から「君らは赤松先生の弟子や」と言われたというエピソードを紹介したことがありますが、このエピソードはいろんな読み方がありそうで、ちょっと面白いですね。
「君らは赤松先生の弟子や」(by 黒田俊雄)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c8d2c693994475579755825f793c1bb0
ところで、美川氏が紹介する市沢哲氏の見解については、今は自分の意見を挟まないと言ったばかりで恐縮ですが、「天皇帰京後も内乱状態が続いており」という表現は気になりますね。
五月七日に六波羅、二十二日に鎌倉、そして二十五日に鎮西探題が陥落し、幕府の主要な拠点が全て潰滅した上、金剛山を包囲していた大軍も殆ど抵抗せずに投降した訳ですから、六月四日の後醍醐帰京時には「内乱状態」は終息していた、と考えるのが常識的ではないかと思います。
従って、この後は「軍勢催促」ではなく、戦闘に参加しなかった武士に対して、新政権に忠誠を誓うか、それとも未だに旧秩序に未練を残して反抗するかを確認する、いわば「踏み絵」の段階ではないかと思います。
「京都に殺到」した連中は北条家のミツウロコの「踏み絵」を踏んで新政権に忠誠を誓った訳で、その「踏み絵」が一応終わったのが「後醍醐が帰京した六月五日から二ヶ月ほどたった、七月下旬の段階」ということですね。
さて、美川著の続きです。(p214以下)
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ここで問題となってくるのが、上洛してきた武士が所有していると主張する土地が、事実本人のものかどうかである。当初の軍勢催促が目的であった段階では、味方になったものの所有する(あるいは所有すると当事者が主張する)土地は、そのまま所有をみとめるよといっているだけなので、それが事実かどうかの精査は必要なかったのである。ところが戦闘がほぼ終息すると、敵対する勢力がほとんどいなくなるから、後醍醐の味方になった勢力のあいだで、どれが自分の土地かという争いがおきてくる。これをうまく裁かなければ、政権は再び分裂することになる。
そのために、後醍醐のもとで証拠文書の審議などを行う雑訴決断所ができる。しかし、繰り返すが、この組織は鎌倉後期の雑訴沙汰(雑訴評定・雑訴議定)を継承するものであって、画期的なものとはいえない。ただし、鎌倉時代には幕府と朝廷でそれぞれ所領裁判の審査が行われていたのに、後醍醐政権は公武統一政権となったため、普通に考えても従来の鎌倉後期の朝廷よりも、はるかに多くの訴訟が集中してくるのである。
雑訴決断所が設置された正確な時期はわからないが、一応元弘三年(一三三三)九月と森茂暁は推定している。設置当時は四番編成だったが、ほぼ一年を経過した建武元年(一三三四)八月頃八番編成に改組された。全国からの訴訟文書の審査には相当の手間がかかったと思われ、それがこの編成拡大の要因であったことは間違いない。
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「建武政権の代表的な訴訟機関である雑訴決断所の成立時期について、森茂暁は元弘三年(一三三三)九月十日と推定している」(p212)訳ですが、これは佐藤氏や森氏が推定する護良親王の征夷大将軍「解任」時期とピッタリ重なりますね。
森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2cfa778a3d9a8aa4b68f8e3fbcb5185d
そして、佐藤氏はこうした所領関係の法令が後醍醐・護良・尊氏間の厳しい対立と密接に関係しており、結局、その対立が護良の征夷大将軍「解任」で一応の決着を見たとされています。
佐藤進一氏が描く濃密スケジュール(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61ce17b3011e58911b01615de3e15c31
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/77c04b04be9f0c36d0f780efee94d1e3
しかし、市沢説に従うと、「旧領回復令」・「朝敵所領没収令」などの所領関係の法令は、とりあえず後醍醐・護良・尊氏の三者間の問題とは直接にはリンクしない、ということになりそうですね。
もちろん市沢氏も三者間の対立の存在を否定する訳ではありませんが、それと所領関係の法令は問題のレベルが違う、ということになるかと思います。
従って、雑訴決断所の設置時期を除き、その構成や運営方法は私の当面の関心からは外れますが、参考までに美川著の続きを載せておきます。(p215以下)
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雑訴決断所での審査の結果は、雑訴決断所牒という文書で発布されるが、だからといって独自の裁決権をもっていたわけではない。その判決は後醍醐天皇に奏聞ののち、国司・守護に下されたのである。鎌倉後期に公家訴訟制度は雑訴裁決の能力を高めるため、雑訴沙汰(雑訴評定・雑訴議定)を分離独立させたが、それは上皇や天皇の権力の後退に結びつくものではなかった。後醍醐の公武統一政権においても、発足当初の綸旨万能主義が制約されたのではなく、軍勢催促から裁判という流れにおいて、訴訟文書の審査が必要となった。それに対応して雑訴決断所という訴訟文書審査のための組織が必要になったのである。
その構成は、大中納言・参議などの上中流貴族(公卿層)、弁官級廷臣、朝廷の法曹官僚に加えて、従来の幕府に仕えていた実務官人層によってなされた。従来の幕府管轄の訴訟を審査する関係上、彼らの取り込みが必要となったのである。森茂暁によると、当初は旧六波羅系の官人が主体となっていたが、八番編成となった時期以降は、鎌倉から流入してきた旧関東系の官人を編入した。これに、楠木正成、結城親光、名和長年、佐々木氏などの守護級在地武士、上杉憲房、高師直・師泰兄弟などの足利尊氏の被官層(家臣たち)が加わった。
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前回投稿で言及した赤松俊秀氏は1907年生まれなので、佐藤進一氏(1916-2017)より九歳、黒田俊雄氏(1926-93)より十九歳上ですね。
以前、京都大学名誉教授・大山喬平氏が黒田俊雄氏から「君らは赤松先生の弟子や」と言われたというエピソードを紹介したことがありますが、このエピソードはいろんな読み方がありそうで、ちょっと面白いですね。
「君らは赤松先生の弟子や」(by 黒田俊雄)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c8d2c693994475579755825f793c1bb0
ところで、美川氏が紹介する市沢哲氏の見解については、今は自分の意見を挟まないと言ったばかりで恐縮ですが、「天皇帰京後も内乱状態が続いており」という表現は気になりますね。
五月七日に六波羅、二十二日に鎌倉、そして二十五日に鎮西探題が陥落し、幕府の主要な拠点が全て潰滅した上、金剛山を包囲していた大軍も殆ど抵抗せずに投降した訳ですから、六月四日の後醍醐帰京時には「内乱状態」は終息していた、と考えるのが常識的ではないかと思います。
従って、この後は「軍勢催促」ではなく、戦闘に参加しなかった武士に対して、新政権に忠誠を誓うか、それとも未だに旧秩序に未練を残して反抗するかを確認する、いわば「踏み絵」の段階ではないかと思います。
「京都に殺到」した連中は北条家のミツウロコの「踏み絵」を踏んで新政権に忠誠を誓った訳で、その「踏み絵」が一応終わったのが「後醍醐が帰京した六月五日から二ヶ月ほどたった、七月下旬の段階」ということですね。
さて、美川著の続きです。(p214以下)
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ここで問題となってくるのが、上洛してきた武士が所有していると主張する土地が、事実本人のものかどうかである。当初の軍勢催促が目的であった段階では、味方になったものの所有する(あるいは所有すると当事者が主張する)土地は、そのまま所有をみとめるよといっているだけなので、それが事実かどうかの精査は必要なかったのである。ところが戦闘がほぼ終息すると、敵対する勢力がほとんどいなくなるから、後醍醐の味方になった勢力のあいだで、どれが自分の土地かという争いがおきてくる。これをうまく裁かなければ、政権は再び分裂することになる。
そのために、後醍醐のもとで証拠文書の審議などを行う雑訴決断所ができる。しかし、繰り返すが、この組織は鎌倉後期の雑訴沙汰(雑訴評定・雑訴議定)を継承するものであって、画期的なものとはいえない。ただし、鎌倉時代には幕府と朝廷でそれぞれ所領裁判の審査が行われていたのに、後醍醐政権は公武統一政権となったため、普通に考えても従来の鎌倉後期の朝廷よりも、はるかに多くの訴訟が集中してくるのである。
雑訴決断所が設置された正確な時期はわからないが、一応元弘三年(一三三三)九月と森茂暁は推定している。設置当時は四番編成だったが、ほぼ一年を経過した建武元年(一三三四)八月頃八番編成に改組された。全国からの訴訟文書の審査には相当の手間がかかったと思われ、それがこの編成拡大の要因であったことは間違いない。
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「建武政権の代表的な訴訟機関である雑訴決断所の成立時期について、森茂暁は元弘三年(一三三三)九月十日と推定している」(p212)訳ですが、これは佐藤氏や森氏が推定する護良親王の征夷大将軍「解任」時期とピッタリ重なりますね。
森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2cfa778a3d9a8aa4b68f8e3fbcb5185d
そして、佐藤氏はこうした所領関係の法令が後醍醐・護良・尊氏間の厳しい対立と密接に関係しており、結局、その対立が護良の征夷大将軍「解任」で一応の決着を見たとされています。
佐藤進一氏が描く濃密スケジュール(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61ce17b3011e58911b01615de3e15c31
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/77c04b04be9f0c36d0f780efee94d1e3
しかし、市沢説に従うと、「旧領回復令」・「朝敵所領没収令」などの所領関係の法令は、とりあえず後醍醐・護良・尊氏の三者間の問題とは直接にはリンクしない、ということになりそうですね。
もちろん市沢氏も三者間の対立の存在を否定する訳ではありませんが、それと所領関係の法令は問題のレベルが違う、ということになるかと思います。
従って、雑訴決断所の設置時期を除き、その構成や運営方法は私の当面の関心からは外れますが、参考までに美川著の続きを載せておきます。(p215以下)
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雑訴決断所での審査の結果は、雑訴決断所牒という文書で発布されるが、だからといって独自の裁決権をもっていたわけではない。その判決は後醍醐天皇に奏聞ののち、国司・守護に下されたのである。鎌倉後期に公家訴訟制度は雑訴裁決の能力を高めるため、雑訴沙汰(雑訴評定・雑訴議定)を分離独立させたが、それは上皇や天皇の権力の後退に結びつくものではなかった。後醍醐の公武統一政権においても、発足当初の綸旨万能主義が制約されたのではなく、軍勢催促から裁判という流れにおいて、訴訟文書の審査が必要となった。それに対応して雑訴決断所という訴訟文書審査のための組織が必要になったのである。
その構成は、大中納言・参議などの上中流貴族(公卿層)、弁官級廷臣、朝廷の法曹官僚に加えて、従来の幕府に仕えていた実務官人層によってなされた。従来の幕府管轄の訴訟を審査する関係上、彼らの取り込みが必要となったのである。森茂暁によると、当初は旧六波羅系の官人が主体となっていたが、八番編成となった時期以降は、鎌倉から流入してきた旧関東系の官人を編入した。これに、楠木正成、結城親光、名和長年、佐々木氏などの守護級在地武士、上杉憲房、高師直・師泰兄弟などの足利尊氏の被官層(家臣たち)が加わった。
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