学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「八方美人で投げ出し屋」考(その2)

2021-02-17 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 2月17日(水)10時06分27秒

清水克行氏の描く尊氏は「病める貴公子」、即ち精神的に複雑に屈折した血統エリートですが、私は恵まれた環境で結構のびのびと育った教育エリートではないかと思っています。
『人をあるく 足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)の構成は、観光案内のような第Ⅲ部を除くと、

-------
 転換する尊氏像―「天下の逆賊」から「病める貴公子」へ

Ⅰ 足利尊氏の履歴書
 一 薄明のなかの青春
 二 尊氏と後醍醐
 三 室町幕府の成立
 四 果てしなき戦い

Ⅱ 歴代足利一族をめぐる伝説と史実
 一 異常な血統?
 二 義兼の遺言
 三 泰氏の「自由出家」事件
 四 祖父家時の切腹
 五 父貞氏の発狂

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b122516.html

となっていますが、特に第Ⅱ部はドロドロの血の世界ですね。
ただ、例えば「父貞氏の発狂」については、本当に「発狂」といえるような状態だったのかについて、私は極めて懐疑的です。
清水氏は『門葉記』という仏教関係の史料に「物狂所労」との表現があることから、これを「精神錯乱の病気」とし、貞氏は「明らかに発狂の徴証のある人物」、「彼については精神疾患の事実を認めるほかない」と断じる訳ですが、祈禱の効果を強調したい側の一方的記録に基づいてここまで言うのは軽率ではなかろうか、と私は思います。
そもそも「精神錯乱の病気」の人が、いったん「隠居」した後、「再び足利家の家督の座に復帰し、家政をとりしきっている」状態を十五年続けることができるのか。
私も精神医学の専門的知識など全くありませんが、素直に考えれば貞氏の「物狂所労」は憂鬱で無気力な状態が長く続いた程度の話ではないかと思います。

「尊氏の運命、ひいては大袈裟ではなく日本の歴史を大きく変える不測の事態」(by 清水克行氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/71b81690120a880e7c1589183c634df0

さて、第Ⅱ部の「異常な血統?」以下の話はひとまず置いて、尊氏個人に関する第Ⅰ部をもう少し具体的に見て行くと、「一 薄明のなかの青春」は「妾腹の子」という陰気な小見出しで始まります。(p20以下)

-------
妾腹の子
 【中略】
 ただ、尊氏の場合、出生地すら不明であるというのには、わけがあった。あまり一般には知られていないことだが、じつは彼にはひとりの兄がおり、尊氏は誕生の時点では足利家の後継者になる予定ではなかったのだ。
 尊氏の兄、高義は、尊氏より八歳年長で、永仁五年(一二九七)に誕生していた(『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」)。母は、北条一族中の名族である金沢顕時の娘で、のちに釈迦堂殿と称せられる女性だった。足利氏の当主は代々北条一族の女性を正室に迎えていたが、貞氏もその例外ではなく、金沢北条氏の娘を正室とし、そのあいだに生まれた高義を当初は嫡男としていたのである。
 これに対し、尊氏の母、上杉清子は、後世の文献には足利貞氏の「室」(正室)と記されているもの(「稲荷山浄妙禅寺略記」)もあるが、実際には上杉家は足利家の家臣筋で、彼女は貞氏の「家女房」(『尊卑分脈』)とも称される側室であった(おそらく彼女の生んだ尊氏がのちに足利家の当主になるにおよんで、後世、彼女が貞氏の正室と認識されるようになってしまったのだろう)。貞氏と清子のあいだには尊氏出生の二年後に、のちに尊氏の片腕として活躍する直義(初名は「高国」とも「忠義」ともされるが、本書では「直義」で統一する)も生まれているが、あくまでふたりは側室の子であり、また二男・三男であることから、当初は足利家の家督とは何の縁もない立場におかれていたのである。また、尊氏を生んだとき、父貞氏は三十三歳、母清子は三十六歳という、当時としては十分な壮年に達していたが、それもすでに足利家には高義という立派な跡取りがいたことを思えば、さほど不思議でなことではない。尊氏・直義兄弟は、両親がすでにもう若くない年齢になって生まれた妾腹の二男・三男坊であり、そのまま何事もなければ、彼らが歴史に名をとどめることも決してなかったはずの存在なのであった。
-------

清水氏は高義が「尊氏より八歳年長で、永仁五年(一二九七)に誕生していた」ことを発見され、尊氏と直義が二歳違いであることも確定されていますが、自身の最新の業績を誇示せずに実にさりげなく記す点、いかにも立教のシティボーイらしいお洒落な感覚が伺えますね。
ただ、清水氏の描く「妾腹の子」「側室の子」「妾腹の二男・三男坊」への否定的なイメージはかなり現代的な感覚であって、血統を維持するために複数の妻が存在するのが当たり前だった中世人の感覚とはかなりズレがあるように思われます。
特に上杉家の場合、家祖・重房が宗尊親王に伴って東下してきた勧修寺流の中級貴族の家柄であり、その文化的水準は極めて高く、親戚を通じて京都情勢にも詳しくて、「足利家の家臣筋」の中でも別格の存在です。
従って、清子を系図に記す場合には「家女房」とならざるを得ないとしても、足利家の中で、清子は決して軽んじられていた存在ではなかったはずですね。

「釈迦堂殿」VS.上杉清子、女の闘い
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91b1aecdbf8e51163dbf3e675bda3a57
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする