投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月31日(日)12時12分21秒
白根靖大氏は1965年生まれで、学部も院も東北大だそうですから、中央大学という現在の職場が佐藤進一氏の最後の勤務先と一緒であっても、たまたま、ということなのでしょうね。
白根氏が佐藤氏の直接の薫陶を受けていたら、いくら何でも建武の新政の三年間、中先代の乱までの平穏な時期に限れば僅か二年ちょっとの中、一年間を存在しないものとしてしまうという荒技は使わないでしょうからね。
ただまあ、佐藤氏の見解も相当変で、佐藤氏は『太平記』の「二者択一パターン」エピソードを信じ、かつ『太平記』流布本に従って護良の帰京は六月二十三日とするので、征夷大将軍任官も二十三日となります。
とすると、せっかく征夷大将軍に任官した護良が「解任」されるまでは実質僅か二か月であって、その僅か二か月の間に後醍醐・護良・尊氏間でものすごい政治的闘争があって、結局護良が敗退した、という極めて忙しいスケジュールになります。
『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)に即して、佐藤氏が描く濃密スケジュールを確認してみると、出発点は六月十五日ですね。(p17以下)
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綸旨万能
後醍醐は帰京して十一日目の六月十五日、今次の戦乱で奪われた所領を旧主に還付し、今後の土地所有権の変更は一々後醍醐自身の裁断を経なければならないという旧領回復令を発布した。つづいて広い範囲に及ぶ朝敵所領没収令、鎌倉幕府の裁判の誤りを正し、敗訴人を救済することを目的とする誤判再審令、鎌倉幕府の建立した寺院の寺領没収令などをつぎつぎに発布した。
かれはこれらの法令でしばしば訴訟・申請の裁断は綸旨によるべきことを強調した。綸旨は、天皇の側近に仕える蔵人が天皇の意向を取り次ぐ形式の文書であって、文書の諸形式中、天皇の意志をもっとも直接的に下達するものである。かれが律令制での最高機関である太政官はもちろん、後三条天皇以来、天皇親政の拠点となった記録所の文書すら用いずに、綸旨を絶対・万能の効力をもつ文書としたことは、新政の本質が天皇専制であることを示すものであった。かれの綸旨絶対の主張は異常なまでに強固であって、従来は綸旨を与えられる資格のなかったような下級の武士まで綸旨を交付したり、本来蔵人の書くべき綸旨を、全文(蔵人の署名まで)自分で書いたりするほどであった。
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「旧領回復令」発布の六月十五日はなかなか微妙な時期で、『増鏡』や『太平記』の古態本に従えば既に十三日に護良は帰京していますが、佐藤氏が依拠する流布本では二十三日帰京ですから、護良はまだ信貴山で頑張っていたことになります。
「本来蔵人の書くべき綸旨を、全文(蔵人の署名まで)自分で書いたりするほどであった」は有名な話ですが、ちょっと滑稽感も漂いますね。
さて、この後、「だが、後醍醐の熱意にもかかわらず、新政策の結果は惨澹たるものであった」として混乱の具体的様相が語られますが、長いので省略し、混乱の原因についての佐藤説を見てみます。(p20)
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旧慣無視の新政
後醍醐がたいへんな意気込みでスタートさせた新政もみるみる足ぶみし始めた事情は以上のようである。何がこのような停滞をもたらしたか。その原因の一つが司法制度の欠陥であること、しかもそれが、万事天皇の直接裁決という専制的な執務方式から生まれたものであることは以上述べたところから明らかであろう。
しかし新政停滞の原因はそれだけではない。むしろ、より重大な原因として、わたくしは新政に対する積極的な抵抗を挙げるべきだと思う。それは、(1)武士の社会で定着していた法的慣習を新政政府が無視したことから引きおこされる武士一般の不満と抵抗、(2)大はばな所領没収方針にたいする旧幕府系武士の抵抗、以上の二点である。
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ということで、(1)は御成敗式目の第八条「当知行(所領の事実的支配)二十ヵ年を経過すれば理非を論ぜず沙汰に及ばず」という、「現行の民法一六二条」の「所有権の取得時効の規定の源をなす」法慣習が建武政権に無視された、という話です。
ついで(2)は、
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高氏勢力の抵抗
新政を停滞させるもう一つの原因は旧幕府系武士の抵抗である。前に挙げた新政初期の法令がどのような勢力なり集団なりの要望によって発布されたか。それを一々はっきりと説明した史料はもちろんないけれども、おおよそのことは推定することができる。いまいちばん影響の大きい旧領回復令と、朝敵所領没収令を取り上げてみよう。
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ということで(p21)、佐藤氏は「それを一々はっきりと説明した史料はもちろんないけれども」と認めた上で、次のような「推定」を述べます。
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まず旧領回復令は前記のように大はばに拡大適用されて数々の悲喜劇を生んだが、もともとは元弘元年(一三三一)以来足かけ三年の戦乱で所領を失った人々、つまり反幕軍に加わったかどで幕府に所領を没収されたものや、幕府方の武士に所領を奪われたものの救済を目的とした法令である。しかし三年の戦乱といっても、それが全国的な規模に展開したのはせいぜい末期の数ヵ月であって、それ以前は主として畿内周辺、とくに大和・紀伊・河内・和泉の地方がおもな戦乱地であった。そしてこれら畿南の地域で反幕軍を組織して、優勢な幕府軍にたいして執拗なゲリラ戦をつづけたのがほかならぬ護良であった。つまり旧領回復令の直接の対象は、護良に組織された畿南の反幕兵士だったといってよい。
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ここまでは素直に理解できるのですが、この後に「それでは、この法令は護良の要求にこたえたものかというと、かならずしもそうではない」と続く部分は少し難しいですね。
長くなったので、その部分は次の投稿で紹介します。
>筆綾丸さん
歴史学界で佐藤進一説が本格的に見直されるひとつのきっかけとなったのは2002年の吉原弘道氏の論文だと思いますが、吉原氏を含む複数の研究者の佐藤説批判も、専門研究者の間ではともかく、一般に知られるようになったのはおそらく亀田俊和氏の『南朝の真実』(吉川弘文館、2014)以降で、本当につい最近ですね。
佐藤説の影響が半世紀も続いたということは、決して皮肉な意味ではなく、それなりにたいしたものですね。
白根靖大氏は1965年生まれで、学部も院も東北大だそうですから、中央大学という現在の職場が佐藤進一氏の最後の勤務先と一緒であっても、たまたま、ということなのでしょうね。
白根氏が佐藤氏の直接の薫陶を受けていたら、いくら何でも建武の新政の三年間、中先代の乱までの平穏な時期に限れば僅か二年ちょっとの中、一年間を存在しないものとしてしまうという荒技は使わないでしょうからね。
ただまあ、佐藤氏の見解も相当変で、佐藤氏は『太平記』の「二者択一パターン」エピソードを信じ、かつ『太平記』流布本に従って護良の帰京は六月二十三日とするので、征夷大将軍任官も二十三日となります。
とすると、せっかく征夷大将軍に任官した護良が「解任」されるまでは実質僅か二か月であって、その僅か二か月の間に後醍醐・護良・尊氏間でものすごい政治的闘争があって、結局護良が敗退した、という極めて忙しいスケジュールになります。
『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)に即して、佐藤氏が描く濃密スケジュールを確認してみると、出発点は六月十五日ですね。(p17以下)
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綸旨万能
後醍醐は帰京して十一日目の六月十五日、今次の戦乱で奪われた所領を旧主に還付し、今後の土地所有権の変更は一々後醍醐自身の裁断を経なければならないという旧領回復令を発布した。つづいて広い範囲に及ぶ朝敵所領没収令、鎌倉幕府の裁判の誤りを正し、敗訴人を救済することを目的とする誤判再審令、鎌倉幕府の建立した寺院の寺領没収令などをつぎつぎに発布した。
かれはこれらの法令でしばしば訴訟・申請の裁断は綸旨によるべきことを強調した。綸旨は、天皇の側近に仕える蔵人が天皇の意向を取り次ぐ形式の文書であって、文書の諸形式中、天皇の意志をもっとも直接的に下達するものである。かれが律令制での最高機関である太政官はもちろん、後三条天皇以来、天皇親政の拠点となった記録所の文書すら用いずに、綸旨を絶対・万能の効力をもつ文書としたことは、新政の本質が天皇専制であることを示すものであった。かれの綸旨絶対の主張は異常なまでに強固であって、従来は綸旨を与えられる資格のなかったような下級の武士まで綸旨を交付したり、本来蔵人の書くべき綸旨を、全文(蔵人の署名まで)自分で書いたりするほどであった。
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「旧領回復令」発布の六月十五日はなかなか微妙な時期で、『増鏡』や『太平記』の古態本に従えば既に十三日に護良は帰京していますが、佐藤氏が依拠する流布本では二十三日帰京ですから、護良はまだ信貴山で頑張っていたことになります。
「本来蔵人の書くべき綸旨を、全文(蔵人の署名まで)自分で書いたりするほどであった」は有名な話ですが、ちょっと滑稽感も漂いますね。
さて、この後、「だが、後醍醐の熱意にもかかわらず、新政策の結果は惨澹たるものであった」として混乱の具体的様相が語られますが、長いので省略し、混乱の原因についての佐藤説を見てみます。(p20)
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旧慣無視の新政
後醍醐がたいへんな意気込みでスタートさせた新政もみるみる足ぶみし始めた事情は以上のようである。何がこのような停滞をもたらしたか。その原因の一つが司法制度の欠陥であること、しかもそれが、万事天皇の直接裁決という専制的な執務方式から生まれたものであることは以上述べたところから明らかであろう。
しかし新政停滞の原因はそれだけではない。むしろ、より重大な原因として、わたくしは新政に対する積極的な抵抗を挙げるべきだと思う。それは、(1)武士の社会で定着していた法的慣習を新政政府が無視したことから引きおこされる武士一般の不満と抵抗、(2)大はばな所領没収方針にたいする旧幕府系武士の抵抗、以上の二点である。
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ということで、(1)は御成敗式目の第八条「当知行(所領の事実的支配)二十ヵ年を経過すれば理非を論ぜず沙汰に及ばず」という、「現行の民法一六二条」の「所有権の取得時効の規定の源をなす」法慣習が建武政権に無視された、という話です。
ついで(2)は、
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高氏勢力の抵抗
新政を停滞させるもう一つの原因は旧幕府系武士の抵抗である。前に挙げた新政初期の法令がどのような勢力なり集団なりの要望によって発布されたか。それを一々はっきりと説明した史料はもちろんないけれども、おおよそのことは推定することができる。いまいちばん影響の大きい旧領回復令と、朝敵所領没収令を取り上げてみよう。
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ということで(p21)、佐藤氏は「それを一々はっきりと説明した史料はもちろんないけれども」と認めた上で、次のような「推定」を述べます。
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まず旧領回復令は前記のように大はばに拡大適用されて数々の悲喜劇を生んだが、もともとは元弘元年(一三三一)以来足かけ三年の戦乱で所領を失った人々、つまり反幕軍に加わったかどで幕府に所領を没収されたものや、幕府方の武士に所領を奪われたものの救済を目的とした法令である。しかし三年の戦乱といっても、それが全国的な規模に展開したのはせいぜい末期の数ヵ月であって、それ以前は主として畿内周辺、とくに大和・紀伊・河内・和泉の地方がおもな戦乱地であった。そしてこれら畿南の地域で反幕軍を組織して、優勢な幕府軍にたいして執拗なゲリラ戦をつづけたのがほかならぬ護良であった。つまり旧領回復令の直接の対象は、護良に組織された畿南の反幕兵士だったといってよい。
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ここまでは素直に理解できるのですが、この後に「それでは、この法令は護良の要求にこたえたものかというと、かならずしもそうではない」と続く部分は少し難しいですね。
長くなったので、その部分は次の投稿で紹介します。
>筆綾丸さん
歴史学界で佐藤進一説が本格的に見直されるひとつのきっかけとなったのは2002年の吉原弘道氏の論文だと思いますが、吉原氏を含む複数の研究者の佐藤説批判も、専門研究者の間ではともかく、一般に知られるようになったのはおそらく亀田俊和氏の『南朝の真実』(吉川弘文館、2014)以降で、本当につい最近ですね。
佐藤説の影響が半世紀も続いたということは、決して皮肉な意味ではなく、それなりにたいしたものですね。
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