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「建武政権が安泰であれば、尊氏は後醍醐の「侍大将」に満足していたのではなかろうか」(by 細川重男氏)

2021-01-22 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月22日(金)13時17分42秒

細川重男氏は尊氏を「支離滅裂」と評されますが、別に佐藤進一氏のように、尊氏が精神的な疾患を患っていた、などと断じている訳ではないですね。
細川氏は清水克行氏の「八方美人で投げ出し屋」という評価に同意された上で、「こうなると、尊氏の離反は、尊氏自身の決断なのか、はなはだ疑わしい」との結論を出されているので、尊氏を「主体性のない男」と想定されているようです。
「主体性のない男」などと言っても若い人には何のことか分からないでしょうが、青島幸男が作ってクレージーキャッツの植木等や谷啓が演じたコントシリーズですね。

「青島だあ。・・・・・青島幸男さん」(『gary 夢見人のお絵描きコラム』)
http://brick861.blog.fc2.com/blog-entry-214.html

ま、私には尊氏が「主体性のない男」とは思えないのですが、細川氏の論考の後半に入ると、細川氏の想定する尊氏像と私の考える尊氏像とは意外と近いのではないか、という感じも受けました。
小見出しで後ろから三番目の「建武政権で尊氏は、冷遇されたのか?」を少し引用します。(p102以下)

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 元弘三年(一三三六)六月に後醍醐天皇は帰京し、建武政権が始動した。
 尊氏は同年中に従三位に叙し、鎮守府将軍・左兵衛督・武蔵守に任官。翌建武元年には正三位・参議となる。つまり尊氏は公卿(従三位以上の上級貴族)となったのであり、鎌倉時代には夢想もできなかった立身を遂げた。
 では権限はどうか。従来は『梅松論』の「尊氏なし」という記述などから、足利尊氏はその抜きんでた実力ゆえに後醍醐から警戒され、多くの恩賞を与えられながらも政権から疎外されたと考えられてきた。
 この冷遇を尊氏離反の原因と考える説もあった。だが近年の研究により、尊氏は全国武士に対する軍事指揮権を与えられ、後醍醐の「侍大将」ともいうべき地位にあったことが明らかにされた(本書収録の花田論考を参照)。
 後醍醐は武士たちを卑しい「戎夷」(獣のような野蛮人。後醍醐はかつて鎌倉幕府をこの言葉で呼び、「天下管領しかるべからず」〈天下を支配するなど、とんでもない〉と言ってのけている。『花園天皇日記』正中元年〈一三二四〉十一月十四日条)と見なしており、後醍醐にとって尊氏は、いわば駒の一つであった。けれども、後醍醐が武士たちの中で尊氏を最も厚遇したことは確かであり、尊氏からすれば皇恩は身に余るほどだった。
 建武政権が安泰であれば、尊氏は後醍醐の「侍大将」に満足していたのではなかろうか。だが、周知のごとく後醍醐は失政を重ね、世は混乱に陥る。約三年の建武政権期(一三三三~三六年)に北条与党の乱を含めた反乱が二十五件に及ぶことは、混乱の深刻さを示して余りある。
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「『梅松論』の「尊氏なし」という記述」は建武の新政が始まったばかりの元弘三年(1333)の話として出て来ます。

現代語訳『梅松論』(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou18.html

また、細川氏の言われる「近年の研究」とは、主として吉原弘道氏の「建武政権における足利尊氏の立場─元弘の乱での動向と戦後処理を中心として」(『史学雑誌』第111編第7号、2002)ですね。
さて、私は細川氏の「建武政権が安泰であれば、尊氏は後醍醐の「侍大将」に満足していたのではなかろうか」との見方に同意できるように感じたのですが、ただ、「侍大将」という表現はあまりに曖昧です。
吉原論文を改めて確認してみたところ、吉原氏は、「鎮守府将軍としての全国規模での軍事的権限」、「軍事部門の責任者として政権内に位置づけられた」、「尊氏を鎮守府将軍に任じて軍事的権限を付与し、自身が行うべき軍事的な実務を代行させていた」などと言われていますが、「侍大将」という表現は使われていません。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その15)(その16)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/989850646f5823b76c039003fdb62205
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b332242463f314bc38b81ff3df51460

「侍大将」がどこから来たのかというと、これは清水克行氏の用語ですね。
清水氏は『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)において、「尊氏なし」を検討された後、

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 だとすれば、この間の経緯から浮かび上がる尊氏像は、"武家の棟梁"としてのプライドのもと、新たな幕府を開くために野心をむき出しにした人物というよりは、あくまで後醍醐の"侍大将"として忠勤に励む実直な命令代行者のひとりといったところだろうか。不屈の闘志を抱き、理想実現のためには手段を選ばない後醍醐とは、およそ対照的な人物といえるだろう。当初の尊氏は、あくまで後醍醐の政権に寄り添い、それを支える役割に徹していたといえる。
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と書かれています。(p50)
ま、これでもあまり学問的とはいえない表現であることに変わりはありませんが、細川氏が清水氏と同じ意味で「侍大将」を用いて、尊氏を「あくまで後醍醐の"侍大将"として忠勤に励む実直な命令代行者のひとり」と把握されているのであれば、私とは相当に見方が異なることになります。
ただ、「侍大将」はあくまでも比喩的表現であり、あまりこだわっても仕方のない話なので、後で清水著に即して、清水氏の見解そのものの問題点を検討することにしたいと思います。
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